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99.ティルパティへ

インドの結婚式に行ってきた
煌びやかなこと ゆるやかな進行
二人を祝福する 幸福の雰囲気に
心が動いた
そして この機会を利用して
数年あたためてきた
ティルパティ詣でを実行する
天上のヴェンカテーシュヴァラ寺院における
信仰の姿 そしてさまざまの消費を
また ヴィジャヤナガル王国の末路を 思った
慌ただしく 心が騒ぎ 切なく 
愚かな失敗もあった
駆け足の旅であった


    四月、インドの知人から結婚式の招待状が舞い込んだ。今の、インドの、結婚式を見たいと思った。インドの小説は結婚式と葬儀を好んで描く。しかし、実際に肌身に感じる結婚式は、小説とは違うはずだ。バンガロールに飛んだ。

    実際の式に参列してみると、私の気持ちに変化が起こった。式への興味は萎(しぼ)み、式への、結婚する二人への祝福へと変化していった。式に参列している人々の幸福感が貴重に思えたのだ。


はじまりccc

    ヒジュラ(半陰陽)の闖入があった。人々はそのヒジュラを排斥するでもなく、見て見ぬふりをしているようだった。じきにそのヒジュラはいなくなった。……ヒジュラを、異物として排除しない、疎ましく思いながらも彼らの生存権を認めているように見えるインドを私は正しいと思う。

    二日にわたる式は緩やかに進む。型にはまらない穏やかな秩序がいい。受付もなければ、頃合いをみて式を抜け、また戻る人もいる。三々五々、供された食事をとりにゆく。豪奢なサリーを着飾る者もいれば、ほとんど普段着の者もいる。ラッパやヴァイオリンによる賑々しい音曲は、厳かというより、エネルギ―に充ち、力強い。この音楽は、旋律であるよりも音である。

    二人への贈物を何にするか迷った。一日目のリセプションと呼んでいる式では、二人に贈物を渡す場面が設定されていて、多くの人が贈物を渡していた。なかに封筒を渡している者が少数いる。お金なのか。一昔前は、お金を包むのが一般的だったが、今は流行らないのだ、とあとで聞く。

    緩やかに進行する式。それには物語があるようだ。両家による新郎・新婦の受け入れ、初めて新郎と新婦が対面する場面、両親たちが一時、神々に昇華する、その神々の前で新郎・新婦は人間としての契りを結ぶ、そして二人は、社会的な存在として認知される、その間、何度も米や穀類が参列者の方から、二人に投げられる。

    式を司るパンディットも時に冗談を言いながら、サンスクリットの経典を朗誦し、サンダルウッドを燃やす。

    ふたりの結婚は、家と家との関係の上に成り立つ。つまり恋愛結婚ではない。ただし、強制的では無論ない。いろいろ面倒をみてくれたM君にしても、恋愛結婚は考えられない、と言う(ついでに言うと彼はジャイナ教徒、しかしそれほど厳格な菜食主義ではないと言う)。

きらきらbbb

    小説家R. K. ナーラーヤンの恋愛結婚を想う。1930年代におけるは、恋愛結婚は(幸い家柄は同じであった)、相当に過激な、言ってみれば反社会的な行為であったのだろう。……そのナーラーヤンが、美しい見合いのための旅を書いた。列車と牛車を乗り継いで、南インドの農村地帯を父と息子は旅する。父は、自分のことを回想しているのだ。だが『菓子屋』The Vendor of Sweets (1967)という小説は、父親が息子に裏切られる小説である。アメリカに留学した息子は、アメリカ人と朝鮮人のハーフの恋人を連れて故郷に戻ってくる。物語作成マシーンなる珍妙なものを商売にしようとし(AIの時代、その珍妙なアイディアが現実化しつつある)、ウィスキーの不法所持で逮捕されるのだ。若いナーラーヤンは反逆を試みた。しかしそのナーラーヤンが反逆は見苦しい、と悔恨を語っているのだろうか。美は、伝統と秩序の側にあると言っているのだろうか。

煙のなかbbb

舞台の二人bbb

    フォーレンスィックと叫ぶおそらく新郎の仲間(これが年貢の納め時、というように聞こえる)、二人の結婚の役所への登記で式は締められる。

                                                                ***

    翌日、冷房ききすぎのヴォルヴォのバスで、ティルパティへ、向かう。
バンガロールの街から出ると、南インドの、煉瓦色の土地が帰ってくる。懐かしい、と思う。二年ぶりのインドは、優しさとは違う表情で私を迎えてくれる。通り過ぎる、小さな街のただ住まい、人々の姿に眼を凝らす。命、命、命が通り過ぎる。

ブルカbbb

    前回、2015年11月にハンピにビジャヤナガル王国の遺跡・廃墟を訪ねてからティルパティのことが気になりだしていた。ティルパティパは、ビジャヤナガル王国にとって特別なところだからだ。ティルパティは、王国にとって、わが国でいうところの菩提寺である。そしてまた、王国は、この地に落ち延びた。(実際の王国滅亡は身を寄せていたタンジャーヴールの陥落1649年)

    ティルパティパ寺院群は、ティルヴェンガダムの岩山の上にある。

岩山の上bbb

    ティルパティの、ティルヴェンガダムの丘への道行が素晴らしい。岩山を、つつじの類、夾竹桃、しゃくなげの類の花々が覆う。花々と光とその影に魂が浄化されてゆくようだ。神々への道と呼ぶのにふさわしい。

bbbバスから

    ティルパティの麓から歩いている人は見受けられない。ほとんどの人々が、バスや乗り合いタクシーを利用しているように見えた。バスの運行は壮絶なものがある。深夜も、夜明けもバスがひっきりなしに走る。……帰路バスの車上より気付いたのだが、丘の上部に参道があり、日除けの並木がつづく。その石の道を多くの人が歩いていた。再訪する機会があればあの道を歩きたい。

    ティルパティの人気は凄まじい。より正確にはティルパティより十数キロ離れたティルマラにあるヴェンカテーシュヴァラ寺院には、毎年数百万人の参拝者が訪れるという。ティルパティ・ティルマラは、歴史遺産を誇る観光地ではなく、現に生きる人々の信仰の山・寺院なのだ。近代は観光と巡礼を引き裂いた。ティルパティは人々のそれとない信仰の上にたつ。

丘の上の街bbb
△丘の上の街ティルマラのたたずまい

    丘の上の門前町は、避暑の別荘地の趣だ。多くのコッテージがあって、参詣の人々に宿を提供しているようだった。それらの多くがコンクリート製で、清潔そうだがあまり風情がない。数百年まえのその姿を想像してみなければならない。

  「わたしはトリピティ(ティルパティ)の町に二日滞在した。無数の売春婦や踊り子が、見たこともないくらいふしだらに、偶像の前で休むことなく踊るが、その目的はすべて享楽にあった」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    信仰は、そしてとりわけ巡礼は享楽と結びつく。

    ガイドブックによると、外国人専用の窓口にいって“許可書”を取得すべきだとある。そうでないと、神像をひと目見るためにとても長い時間待たされる、と。郵便局の職員は丁寧に道を教えてくれた。が、土地勘がないので迷う。それでも剃髪のための散髪屋の並ぶ道を過ぎ(敬虔なヒンドゥーの人々は、男も女も子供も乳飲み子も剃髪して「頭をひりひりさせながら」参詣する、ちなみにその数は、5,6人に一人ぐらいの割合か)、何度か道を尋ね、Joint Executive Officeに辿りつく。土曜日だからなのか門は閉じられている。何かのレターを手にしたインドの人々が数人、何かを待っている。守衛に外国人用の“許可書”をここで発行していると聞いたのだけどと掛けあうが、まるで相手にされず、それでも食い下がると「入り口でパスポートを見せれば通れる」と躱される。“許可書”取得は諦め、外国人特権を潔く放棄し、参詣の人々の流れに紛れ込む。それからは、説明するのもバカバカしいドタバタ劇。それでも寺院付きの親切なヴォランティアに助けられ(「チケットを失くしたと言え」というアドヴァイスまでもらう)、待機室に辿りつく。

    ヴィジャヤナガルの王たちは、自らの正当性をヴェンカテーシュヴァラ寺院に求めた。即位灌頂(パッタービシェーカ)の儀礼をここで行ったのだ。簒奪によって王となったサールヴァ・ナラスィンハ(在位1486-91)は寺院に対してとりわけ気前が良かった。王の側近、カンダーダイ・ラーマーヌジャ・アイヤンガールは、ヴィシュヌ信仰の教派指導者だった。そして、王国の最盛期、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509-29)は、先例以上にティルパティに入れ込む。一面にヴェンカテーシュヴァラ像を、もう一面に自らの名前をデザインした金貨を発行した。

    主神像を拝顔するために長い時間を(数時間)、鉄格子の入った部厚いコンクリートの部屋で待機しなければならなかった。写真撮影の禁止は厳格そうだ。寺院の境内に対し、段差がついている大部屋は、監獄というイメージではない。寺院の大宿坊に近い。多くの人が、横になって居眠りしながら待つ。
その間、丘とはいえ(標高は700mぐらいか)、湿度は低いが37度近い気温、ペットボトルの水も取り上げられ、喉がかわきそれが辛い。うまそうな水が蛇口から飲めるのだが、生水は避けた。大きなビデオモニターが置かれていて、寺院の様子やある種の儀礼を繰り返し流していた。

    前方で人々がざわめき、いよいよ入場かと思っていると、食事の供与だった。紙皿に盛られて炊き込みご飯が配られる。塩と香料で味付けされ、具は入っていない。この食事は、待っているあいだ二度供された。少しだけ食べた。

    その人は、タミルナードゥ州のティルプルという街からやってきた。夜行列車で朝到着しそのまま来たのだと言う。驚くべきことに、毎月来るのだと言う。「どうしてそんなにここに来るのがいいのですか」と聞くと、ただにっこり微笑むだけ。ここにお参りするのが生きる喜びなのだ、と。奥さんとは、年に一回一緒にくるけれども、いつもはひとりなのだ、そうだ。職業は、300人働く縫製工場のエンジニアだという。だが、その風貌は現場監督だった。

    ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、王のための寺院であったとともに庶民のための寺院だったのだ。ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、13世紀のヴィシュヌ派の改革者ラーマヌージャに深く結びつく一方で、ヴァクチの信仰とも、当然のこととして結びつく。祝祭のなか、山車の車輪の下に我が身を投じる者、寺院の前で自殺するもの、鉤吊り自殺(「木につけた鉄鉤に肋骨をかけ、短剣で肉を裂いて、矢の先端につけてから矢を放ち、…自らの命を絶つ」)、見物人は犠牲者の肉片を持ち帰り、遺物として保存したのだと言う(無名のポルトガル人画家による記録、16世紀中ごろ)。

  「ゴーヴィンダ」と主神の別名を斉唱しながら、人々は、幼子から年老いたものまでが折り重なるようにして、狭い通路や階段を少しずつ進む。やたらと待たされるが、事故防止のためにやむを得ない。これもまた、ティルパティ繁栄の理由なのだろう。……寺院の回廊に入るところでまた長いこと待たされる。「ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ」という斉唱が繰り返される。

    人をかき分け、再度セキュリティチェックがあり、それからようやく、暗い寺院の奥深いとろろにシュリー・ヴェンカテーシュヴァラ神を、ほんの十数秒、望見する。奥行6~7mの闇のなかに、微かな光と輝くものが認められた。

    主神がどのようなものなのか、古い記録・記述をみてみよう。

  「そこで崇拝されている偶像は、高さ約七フィート[二m]の石の立像で腕が四本ある。それはヴィシュヌを擬人化したものであり、その二本の腕にはヴィシュヌの象徴が握られている。右手のひとつにあるチャクラ、つまり戦闘用棍棒と、左手のひとつにあるシャンカ、つまり聖なる法螺貝である。もうひとつの右手は、偶像が立つ丘の聖なる起源を明示して大地を指し、もうひとつの左手は、蓮をもつ」(ジョージ・ストラットンの記述、1803年)

  「その建物[寺院]の中には金属製の偶像があった。その両目は銀でできていて、その内側部分は鏡のように反射するある種のガラスであった。多くの宝石で豪華に飾られており、ダイヤモンドとルビーを取り付けた腰帯をまとっていた。また像の胴体部分には高価なダイヤモンドがあり、バラモンたちによればその価格は一二万パゴダだという」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    主神像を拝顔して、そのあとに賽銭所があった。開いた傘をひっくり返したような形の白い布の受けに、人々は気前よく布施をしている。なかには、二センチもあるような紙幣の紙包みを、大切そうに置く者もいた。

    ティルパティ寺院群の最大の特長は、その豊かな財力である。その巨万の財力にはたくさんの物語がついてまわる。その膨大な物語をかいつまんで書いてみよう。①長いこと寺院は、一大地主組織であるとともに定期市や縁日による税収を得ていた、②寺院は(先にも述べたように)歴代のビジャヤナガル王から莫大な寄進を得ていた、③インドに進出した西欧人たちは、ティルパティを「異教徒(ジェンダイル)のローマ」と呼び、その寺院の豊かな財宝をよく知っていた。彼らはティルパティを東洋の黄金郷(エルドラド)であると考え、さらに寺院の財宝略奪を目的とした遠征も企てた(未遂)、④寺院は、勢いの衰えた後期ヴィジャヤナガルの諸王に融資を行った、⑤この豊かさの伝統は現在までひきつがれている、寺院は豊かな財源をもとにコテージ、結婚式場、団地、学校も経営している、と言う。
    ティルパティの豊かな財力は、独特な集金システムと、ある種の消費・蕩尽の姿を、ゆるやかに演じているように見える。これを経済活動とは、呼びたくない気がする。

    翌日、チャンドラギリに向かう。

    ガイドブックには、ティルパティの列車駅からバスが出ているとあるが、列車駅にいってみるとバス・ターミナルからだと車掌達はいう(二人に確認)、バス・ターミナルに行ってみると、ターミナルではなく、メイン・ロードに止まるという(二人に確認)、それらしきところで待っているが一向にチャンドラギリ行きのバスはこない、しかたなくオートリクソウを拾う。ローカルバスに揺られて、村々をめぐるツアーを思っていたが、インドの旅はそう簡単には思うようにならない。

夜bbb
△ティルパティの夜

    ビジャヤナガル王国は、その誕生のときから(1336年)から滅亡まで、周囲のムスリム諸王国との緊張・対立・戦争のなかにあった。一時も戦時体制を解くことができなかった。ビジャヤナガル王国は、強大なヒンドゥー軍事国家なのだ(がその精鋭部隊はムスリムだった、という歴史弁証法が興味深い)王国の最盛期を統治したクリシュナデーヴァラーヤが没すると、王国は内紛を繰り返し不安定な時代が続いた。1550年代と1560年代前半、ヴィジャヤナガル王国は、アーラヴィードゥー家(簒奪による第四王朝)に繋がるラーマ・ラージャのもとで軍事大国として息を吹き返す。
    ラーマ・ラージャはポルトガル人を脅し、ビージャープルへの軍馬の供給を停止させ、ビージャープルを打ち破る。そして今度は、ビージャープルと同盟しゴールコンダとアフマドナガルを攻撃し打ち破る。が、これら三ムスリム王国は連合し、1565年クリシュナー川北岸のラークシャシ・タンガティ(ターリーコータ)でヴィジャヤナガルに決定的な勝利をおさめる。ラーマ・ラージャは包囲され、捕われ、即座に処刑された。王都ヴィジャヤナガルは、徹底的に破壊される(その破壊は六か月、あるいは一年を要した、と言われる)。

    壊滅的な敗北を喫したヴィジャヤナガルは、それでもあと百年生きながらえる。ラーマ・ラージャの弟、ティルマラはサダーシヴァを擁して南のペヌコンダ(バンガロールの北100km)に落ち延びる。

    幹線道路から、入り組んだ細道にはいり村やらスラムやらを通り過ぎてゆくと、花崗岩の岩山を背にしたチャンドラギリ城址に辿りつく。城址は、今は、博物館を擁する公園になっていて、恋人たちや、近隣の家族の人たちが散策を楽しんでいる。博物館になっているかっての屋敷は、そのごく一部がオリジナルで、あとは近年再建されたものだ。花崗岩の岩山が見事に聳え、城壁の残骸が残る。池の水は、藻の繁殖で緑色に変色していた。そこで侘しい貸ボートが営業していた。

池と岩bbb
△チャンドラギリ城址の岩山

    アーラヴィンド・ヴェンカタパティ・ラーヤ(在位1586-1614)が、1594年首都をペヌゴンダからチャンドラギリに移した。ハンピのヒンドゥーの楽園を失ってから三十年、ヴィジャヤナガルが、ビージャープルやゴールコンダの軍事圧力につねに晒されなら過ごした日々はどのようなものであったのか、と思う。一時勢力を盛り返すこともあった。しかし、王国の弱体化はあきらかであり、諸侯・ナーヤカの反乱・独立があいつぎ、また北には、ムスリム諸国があった……というような旅の感傷に耽っていると、公園の柵をよじ登ってさきほどのリキソウ・ワラが何かを叫んでいる。早く戻ってこいと言っているようだった。チャンドラギリについて二時間が経過していたのだ。滞在時間を制約されたくないのでバスで来たかったのだと思いだす。

公園と屋敷bbb
△チャンドラギリの城址・遺跡博物館

    帰りは、チェンナイ (何故かチェンナイだけは、マドラスでなくナショナリズムの新地名が自然にでてくる)からの便をとった。

クーム川bbb

    チェンナイの市街を流れるクーム川のほとりを歩く。メタンガスの悪臭が漂うこのスラムもまたインドの今。悲しみというような感傷をこばむ迫力がある。ティルパティの天上の聖なる楽園をこの汚辱が支えている。わたしは、その両方が気にかかるのだ。

<参照した本>
S. スブラフマニヤム『接続されて歴史 インドとヨーロッパ』(三田昌彦・太田信宏訳、名古屋大学出版会、原著2001年、2005年刊)
辛島昇編『世界歴史大系 南アジア3 南インド』(山川出版社2007年刊)
サティーシュ・チャンドラ『中世インドの歴史』(小名康之・長島弘訳、山川出版社、原著1978年刊)


81.ヴィジャヤナガルの旅  2015年11月

   駆け足で、ヴィジャヤナガルの遺跡(ハンピ)を訪ねてきた。
   今年(2015年)の南インドは雨が多く、アンドラプラデシュ州の街は水にあふれ、タミルナドゥ州では堤防が決壊し、チェンナイはサイクロンに直撃された、と人々は話していた。少なくない犠牲者が出て、農民は天を仰ぐ、十一月半ばだというのに、いまだモンスーンが明けない、と。
   ホスペット(遺跡から北へ12km、列車駅がある)に着いた朝も曇りだった。
   列車を降りた人々は、家路を急いでいるようだった。観光客は多くない、と思った。
   迎えの車は遅れてやってきた。渋滞なのだと運転手は言い訳を言う、いつもは渋滞しないのか、そうは思えない、と言い返した。
   道は砂埃をもうもうと上げる、道端にはゴミが散乱し、動物たちは交通を阻害する、補修の進まない凸凹道(もしくはバンピング)に車が大揺れする、インドにやってきたのだなー、と思った。

   ガイドブックや書物の写真で見るヴィジャヤナガルは、日差しの強い青い空と褐色の石塊と乾いた大地であるのだが、初日から四日間、天気は曇りがちだった。ぽつりぽつりと雨も降ったのだ。

   ふと思う、ヴィジャヤナガルへの興味は奇妙なものだ、と。ヒンドゥーの楽園を幻視したい気持ちがあり、それに、イスラム勢力によるヒンドゥー中世都市の徹底した破壊への感傷が入り混じる。ヴィジャヤナガル(勝利の国)は、私にとって、ヒンドゥーの繁栄の記念碑である以上に、ヒンドゥーの敗北の記念碑である。ヴィジャヤナガルの繁栄は敗北によって彩られている。

   せせらぎのある細い道を通って、グロテスクに変形し肉塊となった物乞いを傍らにやり過ごし(直視できない)、ナラシンハ像(ヴィシュヌの化身)を眺める。ひとつの巨石から彫像されたという像の、その幼児的な愛らしい表情を楽しむ。像の顔は、子供の描く怪獣の絵のようだ。この無垢で大らかな姿がヒンドゥー美術の愛おしいところなのだ、と思う。しかし、ここでも、すぐさまその破壊の傷跡を認めなければならない。膝に乗っていたラクシュミー像は、今はない。なぜ、どのようにして無くなったのかを考えてみなくては。

   この楽園の破壊の歴史について思い起こしてみる。
   簒奪などにより四つの王朝が入れ替わる。その第三王朝において摂政ラーマラージャは、名目的な王サダーシヴァを擁し、敵対するムスリム五王国の反目・抗争を煽る外交を進める。しかし、それが裏目にでるのだ。1565年のターリーコータの戦い。1月、クリシュナー川北岸で、ヴィジャヤナガル王国軍はムスリム五王国による連合軍に大敗北を喫する。摂政ラーマラージャは落命し、名目の王サダーシヴァは、南に遁れる。そして楽園の略奪と破壊が始まる。
   ヴィジャヤナガルの破壊は執拗なものだった。デカン高原のムスリム勢力によるこの中世都市の破壊は、五か月、あるいは一年を要した。これはV. S. ナイポールが強調するところだ。ナイポールは、ムスリム勢力の破壊の執拗さと、ヒンドゥーのヴァルネラビリティ(攻撃を待ち受ける性格)という絵を描こうとする(ついでに言えば、そのムスリム勢力も、やがてムガール帝国に滅ぼされる)。
   南インドには、北インドに比較してより純粋なヒンドゥー文化がある。北インドはあまりにイスラムに浸潤されすぎた、と。さらにイスラムの影響・圧力を嫌った北インドのバラモンが、本来はドラヴィダの土地である南インドに数多く移住した歴史がある。そしてヒンドゥー文化を洗練させてゆくのだ。しかし、南インドのヒンドゥーもイスラムと無縁ではありえなかった。南インドのヒンドゥー遺跡を訪ねるたびに、ムスリムによるイコノクラスムの傷跡に直面することになるからだ。レリーフにある神々の顔が削ぎ落とされている。そしていつも感じるのは、その破壊のエネルギーのことだ。

   都の大通りハンピ・バザールを歩いてゆく。ここは、嘗て金持ちたちの邸宅のあったところのはずだ。そして、祭では、ダンサー=遊女を乗せた山車が引かれたのだ。この通りの端には、ナンディ像があり、アチュタラーヤ寺院につづく見事な石段(まるで映画のセットのようだ)がある。

   ヴィジャヤナガルへの興味は、私の場合、ナイポールから始まった。ナイポールは書いている、中世都市ヴィジャヤナガルの繁栄を特長付けるのは奴隷市場であり、寺院付きの娼婦(遊女)、そして人身供犠(サティ=寡婦殉死も含む)であったのだ、と。歴史の本で読むサティ=寡婦殉死はまことに壮絶(凄惨というべきか)なもので、焚死のみならず生き埋めも行われた、とある。死んだ者が高位高官の場合、何十人、何百人もの女(性)が殉死した(サティについてはバラモンの古典にその起源はなく、逆にその猖獗は、イスラム勢力との緊張のなかにあったとする興味深い説もある)。・・・・・・ナイポールは、繁栄の底に澱む退廃・堕落を暗示する。ゆきすぎた文明における自傷行為のようなものを感じる。ただ、往時の奴隷、娼婦(遊女)、生贄は、現代人の感覚では容易には捉えきれない気もまたする。

   アチュタラーヤ寺院への丘の道にある祠で西洋人のカップルが、背筋を伸ばし座禅のような姿勢で瞑想していた。それをインド人家族の幼い娘が、何か奇妙な動物でも見るように凝視していた。岩山の上の展望の良さそうな祠からは、屈託のない若者が何かを叫んでいた。ヴィジャヤナガルの観光は長閑な時間のなかにあった。

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   その日も、ヴィッタラ寺院への川添いの道を一人歩いて行った。まるでパゾリーニの映画にでてくる古代の道を歩むような感覚に酔いながら。そこで二人組の少年に声を懸けられる。何か要領を得ない物言いがつづく。年端のゆかない男娼なのだった。中世の遺跡の陰で、男色に耽ることを望む者がいるのか。男娼は生活のためなのか、それとも蛇の道は蛇というべきなのか。
       インドでは、ホモセクシュアルは今もって違法である。だが、他方で、同性のカップルにおける遺産相続をめぐる裁判が争われもする。
   インドの名もない街をめぐるパンカジ・ミシュラの旅行記『ルディヤーナのバターチキン』Pankaj Mishra, Butter Chiken in Ludhiana (1995)にも、欧米人を相手にする少年達が登場する。彼らが客からプレゼントされたジーンズや海水パンツをミシュラは複雑な気持ちで眺める。今もインドは、西欧に犯し続けられている、という痛みを告げているかのように。・・・・・・そう、私に声をかけじっと私の眼を見つめてくるハンサムな少年も、身なりが良かった。ただ、靴を履いていたかどうかが思い出せない。どうも裸足であったような気がする。

   ヴィッタラ寺院への花崗岩のスラブの道で、インド人の観光客が、大岩の間の奥へ吸い込まれていくのを目撃した。何なんだろう、その時は分からなかった。今から考えてみると、あれは一種のグロットー(聖化された洞窟)なのだ。・・・・・・伝説は語る、ラーマ王子は、魔王ラーヴァナに誘拐された愛妻シータを救出に向かう途中、この地に留まった、とされる。そして、シータが落としていった装身具が隠されている洞窟が今も存在するのだ。きっと、大岩の、奥の、暗いところにシータから王子への徴(サイン)が隠されているのだ。

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   長い時間をヴィッタラ寺院で過ごした。
   ヴィッタラ寺院の石造の山車を見ていると、その愛らしくおどけた表情と踊るような生が、見えてくるようだ。       
   しかし、その生の横溢には血の匂いがする。中世のヒンドゥー的な流血の祭りが見えてくるのだ。
   この石造の山車と同じ木製の山車が、当時の寺院にはあって、それが祭礼では使われたのだと言う。そして、その重い山車の車輪の下に身を投げ出す者がいたのだ。また、身体を山車に縄で結わえもした、つまり流血の生贄を山車は引いて回ったのだ。・・・・・・何のために、自らを生贄として寺院に捧げるためだ。もしそれがバクティの信仰(中世の南インドで隆盛した下層民をも巻き込むヒンドゥー教の潮流)に根ざすものであるなら、身を投げ出す者は下層民に決まっている。それらの人々は、神への絶対帰依によってのみその身は浄化されると信じるからだ。そして祭は、流血によってその興奮を最高度に増幅したのだ。
   ヴィッタラ寺院の叩くと音を奏でる石柱は、血の興奮とは逆の、極度の静謐を求めている。血の興奮と静謐の両方が、ヴィッタラ寺院にはある。・・・・・・ここに見学に来ている修学旅行生たちは(すべて英語でやりとりしている、いわゆる良家の子弟が通うイングリッシュ・メディアム・スクールの生徒たちなのだろう)、どのようなことを教えられて帰って行くのだろう。

   ヴィジャヤナガルが素晴らしいのは、道だ。ヴィッタラ寺院から王宮区への長い道を歩く。傍らには石の回廊が続く。ヒンドゥー寺院や会堂、貯水槽などの遺跡が散見される。見るべきものは無限だ。ただ、それらをひとつづつ見てゆくと一向に距離が伸びないのでやり過ごす。歩き疲れ、オートリクソウに乗り、王宮区に向かう。遺跡めぐりは疲労する、精神を集中するためか、この遺跡というものが、何か特別に高い密度をもった空間であるためか。遺跡ではなくヴィジャヤナガルの、あたり一面に転がる巨岩とそれを数多く頂いた丘をいつまでも眺めていたい、とも思う。

   王宮区は、もっとも観光客に人気のあるところなのだろうが、人はまばらだ。王妃の浴場からマハーナヴァミー基壇への道は、荒れている。世界的な遺跡遺産・一大観光資源のであるにもかかわらず道の補修は進んでおらず、車やオートリクソウは、慎重に道の穴凹を避けて通らなければならない。この無頓着・商買っ気のなさは、無責任な旅人には嬉しい気がする。そんなことを考えながら歩いてゆくと砂塵の中から、巨大な石の台座、マハーナヴァミー基壇が姿を現してくるのだ。

   この石の巨大な基礎構築物を一見すれば、王とバラモン司祭による宗教的な儀礼の場所を想像したくなる。天空・宇宙に開かれたこの石の高台で、占星師が、トランス状態の呪術師が、戦い(侵略戦争もしくは防衛戦争)の勝利を祈った、というように。
   しかし、マハーナヴァミー基壇について語る往時のポルトガル人の説明は少し違うことを伝えてくる。
      今はない館は、宝石をちりばめられていた。日の暮れとともに松明がともされるとそこは昼間のように明るかった。そこで賓客に対する饗応のダンスが、豪奢な食事が供されたのだ。マハーナヴァミー基壇は、王の祭礼の場であるとともに、交易を促進するための外国人賓客の饗応の館でもあったのだ。宗教儀礼のみに没頭する王の姿よりも、国を富ますための実利的な交易の発展に勤しむ王の姿も見過ごすべきではない。



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   ヴィジャヤナガルは、ヒンドゥーの古の都の雰囲気を醸し出しながらも、大航海時代における国際的な都市の貌ももつ。王国の最盛期には数百人ものポルトガル人傭兵を抱えていたというし、また、まことに驚くべきことに、当時のポルトガル王マヌエルⅠ(1945-1521)   は、ヴィジャヤナガル王との両家における婚姻関係の構築を模索していたのだとも言う。異教徒との婚姻という障害をものともしないポルトガルの王、交易の発展により国を富まそうとするヴィジャヤナガルの王、ともに宗教におおいに深く拘束されながらも(一方においてレコンキスタの記憶が新しく、また他方はヴィシュヌ派信仰の聖地ティルパティを篤く保護していた)、来るべき世俗的近世の実利の世界の到来を予知するような感覚につき動かされていた。


   マハーナヴァミー基壇の周辺では石の導水管を見ることができる。それは、実利的な施設というよりは、現代美術におけるオブジェのように逞しく美しい。それらの導水管は、トンガバトゥラー川をせき止め、都市とその周縁部に水を引き込む、大掛かりな灌漑施設の一部なのだ。退嬰的な王のなせる事業ではない、と思う。ナイポールは、中世都市ヴィジャヤナガルにおけるこの水利施設の完備についても言及しない。

   ロータス・マハルや像の厩舎のある後宮地区に向かって歩いてゆく。途中のハザーラ・ラーマ寺院に寄る。ここには、『ラーマーヤナ』の物語に因んだ壁画があることで有名な寺院なのだ。ただ、これも極めて奇妙なことなのだが(美術史家ヴィディア・デヘージアの指摘による)物語は入口から始まらず、建物の背後に進まなければならない。物語はひっくりかえって始まる。この物語のズレを確認したくてしばらくレリーフを見て回るが、残念ながら、ハヌマーンの姿の他には物語の筋を追うことはできなかった。

   ロータス・マハルに辿り着く。本で読み知っていた以上の強い衝撃を受ける。イスラム風のアーチの上にドラヴィダ風の屋根・塔が乗っているのだ。ヒンドゥーとイスラムとの文化的融合といえば何かが了解された気になるのだが、そのようなものではない妖艶なものすら感じる。アルカイックで呪術的、ある場合には血の匂いのするヒンドゥー寺院群を、またムスリムによるイコノクラスムを十二分に見知ったあとで見るこのロータス・マハルは、文化の融合という以上のもの、つまり、ヒンドゥー対ムスリムという単純な二分法では割り切れない文化の厚みを、融合というよりはおどけた混交を感じる。あるいは、ヴィジャヤナガルをピュアなヒンドゥー文化の象徴とは決していえない重層した文化のありようを押し出している。

   王もしくは支配階級は、イスラムの新しい文化の息吹に心酔していたかも知れない、と思い始める。往時のヴィジャヤナガルにはムスリム居住区があり、王宮区にはモスクもあった(今もその遺跡が残る)。さらに驚くべきことには、王国の最盛期には、トルコ系の騎士団一万人を擁していたと言う。歴史家はさらに語りかけてくる。王はイスラム風の長衣を着ていた可能性もある、ただ、それらイスラム的なものは、宗教的な信仰の表現ではなく、流行の意匠にすぎない、と。生真面目な思想信条ではなく、支配階級における外来文化のもたらす流行への鋭い感受性を想像し、私の心が躍る。

   ヴィジャヤナガル王国の始まりについても、実は、このヒンドゥー・イスラムの不思議な両義性を語っている。王国の創始者のハリハラ(在位1336-57)は、彼の仕える軍の敗北により(一説にはカーカティーヤ朝の臣下であった)、捕虜となってデリーに連行される。そこでハリハラは、ムスリムに改宗する。ハリハラを信頼するようになったスルターンは、トゥンガバトラー川に(ヴィジャヤナガルはその川の岸に建つ)不穏な状況が生じるとハリハラを派遣する。その後の話がより伝説的である。ハリハラは、ヒンドゥーの聖者の導きにより再びヒンドゥーに再改宗するとスルターンに叛旗を翻し、1336年ヴィジャヤナガル王国を建国する。
   ハリハラのヒンドゥーへの再改宗について、ナイポールは、自身のヒンドゥーのフィーリングで、あり得そうもないと感想ももらす。つまり一度カーストを捨てた者のヒンドゥー教徒への復帰はあり得ない、と。また、近年の歴史家の一人は、捕虜として連れていかれた宰相が王として戻される話はあるが、改宗の話は、資料的に裏付けられない、と論じているという。つまり、この改宗と再改宗の物語には、ヒンドゥー主義の願望が(それもかなり屈折している)表現されているのだ、と。

   ホスペットの宿へは、ローカルバスで戻った。バス代が、ルートによるのか日によって違うのが面白い。13ルピーだったり、16ルピーだったり、21ルピーだったりした。そんなホスペットへの帰り道、バスのなかで、突如ざわめきが起こった。ひどく汚れた身なりの痩せ細った裸足の少年三人がバスに乗り込んできたのだ。バスの車掌は、笑顔で平静を装っているように見えた。バスの代金は払っているようだった。幼児が寝入っている席に行って席を空けろと言っているようだった。また、別の一人は、空いていた隣の席に座るやいなや、とても奇妙に思えたのだが、瞬時に居眠りをはじめた。その少年の顔には疱瘡を患った跡が見えた。緊張からか会話が絶え静かになった。バスの乗客のほとんどが何かに耐えているようであったのだ。このフツーでない少年達は何なんだろうか。スラムの住人なのか。あるいは、指定カーストの者なのか。これが、南インドの田舎町における差別とその解決にむかう道程の風景、ひとつのバナキュラー民主主義到来の現実にも思えたのだ。

   ナイポールの文章に触発され、ようやく実現したヴィジャヤナガルの旅は、あきらかに、ナイポールが書く、敗北を運命つけられたヒンドゥーの栄華・攻撃されるのを待つばかりのヒンドゥー、ムスリムによる都市の執拗な破壊という見立てについて、さまざまな修正を迫って来た。ナイポールの呪いは、ここヴィジャヤナガルに来てみると、驚くばかりに容易に消えていった。妄想が消え去るようでとても爽やかだった。
   あらためて思う、古代が蘇るようなヒンドゥーの文化においても、イスラムはすぐそばにあり、また大航海時代の合理的で実利的、冒険的な進取の気性もあった。そしてムスリム勢力は、すでにある程度イスラムに開かれていたヴィジャヤナガルをなぜ執拗に破壊しなければならなかったのか。・・・・・・破壊のあとムスリムはこの土地を完全に捨て去り、人々もこの地を振り返らなかった。

   鼻をもがれたガネーシャ像を横にみて、坂道を少し上がり、ヘーマクータの丘をハンピ村の方へと下ってゆく。崩れかかった石の聖堂に腰をおろし、眼下にヴィルーバークシャ寺院を眺める。この寺院だけが激しい破壊から免れたのは、理由がわからないとナイポールは言っていた、と思い出す。ラウドスピーカーから、ヒンドゥーの経典の読誦だろうものが聞こえてくる。わが国におけるお寺の読経と違って、明るくメロディアスである。このスピーカーを用いた読誦は、ムスリムのやり方に似ているなー、と思う。東アジア系の若い連れ合いがボルダーリング(岩登り)を試みている。聖域でボルダーリングとは・・・。ドラヴィダ様式のピラミッドのような屋根をもつ寺院群を見ながら丘を下る。ヴィルーバークシャ寺院の塔門をくぐると、そこは現に生きる人々の信仰の世界なのだ。僅かな賽銭で象がその鼻を器用に用いて庶民を祝福している。炊き出しご飯が大鍋から振舞われている。大鍋から蒸気がわきでている。ご飯は、わずかに塩で味付けされていた。食べ終わった後の紙皿が、壁際の隅に無造作に散乱している。そのごみを片付けるのは、ここを参詣する人たちとはまた別の人々なのだ。
   インドの人々の信仰は、世界遺産に登録された歴史的に価値の高い遺跡ではなく、このヴィルーバークシャ寺院に集っている。静謐ではなく、民衆的なエネルギーの現存に心が和む。観光に飽きた心が、民衆の素朴な信仰の姿に感応する。人々は何を祈って帰るのだろう。しかし、この民衆には個人がなく、個人である者はこのような民衆を形づくらない。

  バンガロールへの戻りのハンピ急行では、フランス人観光客の一行と一緒になる。ツアー・コンダクター氏とたまたま隣になったので、「今回の痛ましい出来事には言葉もありません」と言うと、一瞬彼は凍りついた(私が成田を発ったその日[日本時間11月14日]、イスラム国の息のかかった同時多発テロがパリで起きたのだ)。そしてすぐに話題を変え、こんどの夏には、東京、富士山、京都、広島へのツアーを企画しているのだと言う。どうしてフクシマには行かないのですか、と言おうと思ったがやめた。
   バンガロールもまた曇りがちで、激しい雨も降ったのだ。小雨と晴れ間が交互する朝、タゴールのスケッチを現代美術館に見に行く。タゴールは、ベンガルの霞を描いていた。違うなー、と思う。つまり、私がデカン高原で見てきたものとはまったく違うのだ。天心はタゴールのスケッチにどんな感想をもっていたのだろう。

<参考にした本>
V. S. ナイポール『インド―傷ついた文明』(工藤昭雄訳、岩波書店1978年)
ヴィディア・デヘージア『インド美術』(宮治昭、平岡美保子訳、岩波書店2002年)
『世界歴史体系 南アジア史 弟3巻 南インド』(辛島昇編、山川出版2007年)

バイス、ヌーヌス『ヴィジャヤナガル王国誌』(大航海時代叢書Ⅱ-5所収、岩波書店1984年)

74.山松ゆうきち『インドに馬鹿がやってきた』(日本文芸社2008年刊)

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   私は、漫画を読まない。読んでも面白くないからだ。それでも例外はあって、川崎ゆきおと山松ゆうきちの漫画は好きで割合と読んできた。
  山松ゆうきちの漫画は、『怪力エンヤコーラ』(青林堂1983年刊)が最初だからそう古いつきあいではない。何か単行本が出ると、ちょっと読んで頭を休める、というような風できた。しかし、縁とは不思議なもので、私にとって数少ない気になる漫画家=山松ゆうきちが、よりにもよって「インド詣で」の漫画を出すことになるとは、・・・。旧聞に属することではあるけれども、続編『またまたインドに馬鹿がやってきた』(日本文芸社2011年刊)も出ているので山松氏のインドを、私にとってはいくつもの謎=問題点(!)を中心に振り返ってみましょう。

問題点1.山松氏は、なぜインドに向かったのか。

  『インドに馬鹿がやってきた』の初めの方に、その経緯が描かれているが(大使館への問い合わせ、「貴方の御国には漫画はありますか 持ってって発売してもええですか」)、何か良くわからない。運命的な出会いと言われれば反撥したくなる。結果としてインドと山松氏の間には何か深く共鳴するものがあったことは確かようである。敢えて言葉を探せば、ある種の遊戯の感覚が、山松氏にもインドの社会にもあって、共振しているかのようだ。

問題点2.なぜ山松氏はインドで漫画を売り捌こうとしたか。

   60歳近くにもなって、それも初めての海外旅行で、誰ひとり知る人もいないインドへ単身乗り込み、日本の劇画をデリーでヒンディー語に翻訳し(英語じゃないところがすごい)、インド人に印刷させ、さらに路上で売り捌こうとした。なぜだ、なぜなんだ(!?)。・・・これは、旅というもののコミュニケーションの困難についての解答に違いない。インドを旅して、風景や人々の姿は容易に眼に入ってくる。ガイドもどきや物売りやらとのごく表面的なやりとりは容易である。だがインドおよびインドの人々との真の深いコミュニケーションは難しい(これは同朋のあいだでも同じだが)。物をつくりそれを売ろうとすることは、一挙にインドのある現実の中に入っていき、本物のコミュニケーションを始めることができるのだ。インドの人々と本をつくり、それを路上で売るというやり方を選択した結果、山松氏は驚くほど深くインドと関わることになった。これは驚嘆すべきことである。

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問題点3.山松氏は、なぜ自作の漫画ではなく『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』を売ろうとしたのか。

   平田弘史の劇画『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』は、1962年、部落開放同盟大阪府連の抗議で闇の奥に葬り去られた(回収および破棄)問題作なのである。山松氏自身の漫画ではなく『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』をヒンドゥー語に訳しインドの路上で売り捌こうとしたことは、この本の最大の謎だ。
   ところで『血だるま剣法』は今読み返してみるときわめてヒューマンな差別反対の書である。差別の救いがたい暗闇(一例をあげれば差別戒名に見て取れるような迂回的差別)を隠し持っているわけではない。差別はあからさまに露出している。主人公幻之助の残虐に走るところと被差別部落の出自との結び付きが少々気になるが、良く読んでみるとその残虐さは、差別的偏見というよりは、むしろ幼児的で意味のない増幅に思える。『血だるま剣法』は、むしろ差別された者の、その逆境をバネに尋常ではありえないスーパー・パワーの噴出を歌っており、ロマンチックですらあり、60年代の実は明るく健全な社会思潮(と今からは思える)を思い起こさせる。
  山松氏は、そういうきわめてヒューマンでナイーブな差別反対の書『血だるま剣法』をインドの路上で売り捌こうとした。差別が、制度・歴史・文化として確立している国へ(と多くの日本人は信じている*)、ヒューマンでナイーブな差別反対のマンガを突きつけそこでおこる何がしかの火花が散ることを期待したのか(かの地で発禁処分にでもなれば本望)、それでもなお本当の理由はわからない。
今回『血だるま剣法』を再び読み返してみて、もうひとつ重大なことに気付かされた。『血だるま剣法』の復刊(青林工藝舎、2004年)は、山松氏の秘蔵していた『血だるま剣法』(日の丸文庫、1962年)によって可能になった、とのことなのだ(当時の出版元の社長は焼却処分を公言していた)。山松氏と『血だるま剣法』との間には、他人には伺い知れない紐帯=物語があるのかも知れない。秘蔵された『血だるま剣法』が、半世紀をへてデリーの路上に姿を顕わしたのだ。
   それにしても、山松氏は完全抹殺されそうになった他人の本=漫画をすごく大切に持ち続けた。生命の重みとは、このような感覚によって形成されてゆくものに違いない。

問題点4.なぜ英語でなくヒンドゥー語なのか。

   現地でもいろいろな人が「英語で出版した方がいいですよ」とアドヴァイスしているにも関わらず山松氏はヒンドゥー語を選択した。英語の方が売れるかもしれないが(ヒンドゥー語で生活するインドの庶民は本など買わない)、それでは物語にならないという目算が山松氏にあったのかも知れない。
しかし、山松氏の思惑はさておき『インドに馬鹿がやってきた(正・続)』におけるヒンドゥー語の言葉・会話の頻出は何とも楽しい。ヒンドゥー語の迫力、豊かな表情が伝わってくる。それは一種の芸なのだろう。山松ゆうきちの漫画におけるヒンドゥー語と日本語との合体・融合は、言語芸術における新たな可能性すら感じる。“サイキール リクシャ ワレーキ ドカーン”は、実は虫歯になりそうな程に甘ったるい人情譚なのだが、このタイトルの響きは最高である。
   “特別対談”(ヒンドゥー語研究者石川まゆみ氏との対談)では、ヒンドゥー語をとりまく環境変化について、かなり明瞭になりつつある厳しい現実について語られている。今、インドでは、良家の子女にヒンドゥー語で話しかけても英語でしか返してこない、つまり英語がステイタスとしてヒンドゥー語を周辺に追いやっているのだという。それはかなり顕著で露骨なことのようだ。だからなおさら一層、山松氏のカタカナ・ヒンドゥー語ちゃんぽん漫画は、光輝いている。

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問題点5.山松氏はなぜスラムにこだわるのか。

   『またまたインドへ馬鹿がやってきた』は、漫画ではなくカレーうどんをインドで売ろうとする漫画物語だ。バイトのインド人はスラムで商売するのを嫌がるのだが山松氏はスラムに行こう、と言う。お金を持っている人が集まるところで商売するのがフツーの考え方だと思うが、山松氏は貧困と不衛生と犯罪の渦巻く(というイメージをもつ)スラムで商売しようとする。超マーケティングの発想を山松氏は実践する。スラムに入ってゆくことは、フツーの人にできることではない。あるいはしてはならないことだ。山松氏がスラムに溶け込み(緊張感を醸し出さない)、自らの記憶(釜ヶ崎)を通り越して人間の原初への郷愁を感じているようにさえ見える。人は、システムの桎梏を遁れ、どれだけシンプルに生きられるのか、を覗きこむように。

問題点6.山松氏は不死身であるのか。

   驚くべきことに山松氏は、インドで生水を飲みインドの庶民が食する現地食を平気で食べる。山松ゆうきちは不死身であるのか。・・・実は不死身でなく、スポットの二週間のインド滞在でA型肝炎に感染し死線をさまようことになる。あるいはまた、インドで犬に咬まれ、狂犬病ワクチンの痛くて高額な注射を打たなければならなくなった。
これらのエピソードには、真実とはどのようなものであるのかを、つまり喩としての怖れと現実に生起する危険との関係について物語っている。
山松氏の非常識は、絶対的な保障を得ることはなく、厳しい現実によってしばしば木端微塵と化す。それでもなお常識を超えた夢の試みが広がってゆく。

問題点6.インドへやってきた「馬鹿」とは何なんだろう。

   山松ゆうきちが好んで取り上げるアイドルは、「馬鹿」である。おろかな者の愛らしく豊かな表情、あるいは「馬鹿」ものの孤独と超能力をある種の抒情性と合わせて山松氏は描き続けてきた。たとえば、“ぞうりばきのランナー”におけるタゴやん。山松氏は、「馬鹿」を愛おしむように繰り返し描き、そしていつも「馬鹿」の味方であった。
   「馬鹿」を笑い楽しむことは実はそれほどむずかしくはない。しかし、多くの人は、ある程度「馬鹿」でありある程度「利口」なのだろう。だが、「馬鹿」になり切って「馬鹿」を演じることは、そうたやすいことではない、と思う。
   『インドへ馬鹿がやってきた』において、山松氏は「馬鹿」を自ら実践する。山松氏はみずからの行為と肉体によって笑いの主体形成をはたす。ウケをねらったバカ=道化の卑屈は皆無である。『インドへ馬鹿がやってきた』は、望むべき最高のリアリズムによって聖なる馬鹿の肖像が浮かび上がってくることに成功したのである。

*最近はカーストを差別の装置と考えるのは慎重でなければならないと注意している。
たとえば、アミット・チョウドリーの小説などを読んでいると、主人と下働きが、仕事・生活の領分は違っていてもお互いを家族の一員であるかのように分け隔てなく遇していて、カーストとはどこの国の話なのだろう、としばしば思うからだ。
また、最近田辺明生『カーストと平等性』(東大出版会、2010)という本を読んだのだけれども、そこでもカースト制度にある平等性の原理を突き止めている。著者は、ある祭祀(ラーマチャンディ女神祭祀9月、10月の頃、17日間続く)における供犠(「殺し分けて食べる」)を実地に現地調査し(オリッサ州ゴロ・マニトリ村)、つぶさに記述しながら、デュモンや新ホカート派のカースト解釈、つまり、デュモンのバラモンを最上位とする硬いヒエラルヒーでも、新ホカート派の宇宙の中心にある王の権力に根ざす支配構造でもなく、各カースト間にわたる「補完と矛盾を含む相互作用」としての「存在の平等性」を見出している。田辺明生は、均質性と近似性という調和を求め続けてきた近代国家のモデルに対して、差異を認める「カースト・イデオロギーの創造的変容」 (ヴィーナー・ダース)を求める。差異に基づく平等、それこそがカーストの神髄でなければならない、と言うのだ。

57.パゾリーニ、ピエル・パオロ『香るインド』 Pier Paolo Pasolini, The Scent of India, translated by David Clive Price, published by Olive Press, London in 1984.

scnetCCC.jpg 1961年パゾリーニは
モラヴィアと当時の妻エルサ・モランテとともに
インドを旅行する
パゾリーニはこの時39歳で
初の映画“アッカトーネ”を発表している
旅へでたきっかけはタゴールの記念行事に
招かれたことのようだ







 

   パゾリーニの文章は、詩的で、深く、難解だ。とくに初めの十数ページは何度か読み返さなければならなかった。しかし、パゾリーニのインドの旅の観察・感想は、その方向性において僕らの感じ経験するインドの旅に非常に近い。つまり、パゾリーニはインドについての蘊蓄を語ることもインドの大物との交流も書きはしない。パゾリーニを強く惹きつけるのは、インドの路上に生きる人々であり、軒をつらねる掘立小屋なのだ。裸足の人々を、まるで『聖書』の世界に生きる人々のようだ、とパゾリーニは驚嘆する。あるいは、パゾリーニはボンベイの夜の街を歩き、路上生活者の眠りは死者のように深い、と感想をもらす。それはパゾリーニの魂の鼓動が伝わってくるような文章だ。パゾリーニははっきりと述べている。「私は一人で、静かに歩きたかった。一歩ずつこの新たな世界を知ろうとして。まるでローマのスラム街を一人静かに歩いていたときのように」。

   印象的なのは、旅の途上、移動の間のちょっとした休憩時間においても、パゾリーニは、時間をみつけてはそのあたりを歩くことだ。パゾリーニは、まるで魂のロケハンを行っているようだ。パゾリーニはそんな路上散歩においてさまざまな出来事に出合う。ボンベイの海岸では、砂で拵えたヴィシュヌ神像と捧げものをする人々に惹きつけられてゆく。それは、生まれ育ったフリウリ地方で見た異教信仰の名残と似たものを感じる。あるいは、女の服をまとういい歳の男の狂った踊り(おそらく両性具有のヒジュラだろう)を目撃する。しかし、いくつもの路上観察・事件で圧巻なのは、死につつある女のかすかな声=歌を聞くことだ。それは、オーランガーバートからエローラに向かう移動の小休止における路上散歩において起こる。端折ながら自己流だが訳してみよう。

   「小道の向こう、つまり砂埃と沼地のなかに小さな石の家があった。石でできた階段、その上に老婆が敷居のように横たわっていた。老婆は硬く動かないように見えた。まるで悪夢を見るようだった。老婆は起き上がろうとしているようにも、またそうすることを諦めているかのようにも見えた。彼女が苦しんでいる、ことは明らかだった。痩せた子供のようでもあり、痛みの感覚をこらえ、仰向けになっていた。石床に横たわる首・頭を右左に動かしていた。
きらめく緑色の服は、前がはだけていて老婆の震える腹が露出していた。私の後に付いてきた子供たちも老婆に眼が止まりかすかな戸惑いを見せたがすぐに何でもないかのようなそぶりをするのだった」

   パゾリーニがこの老婆にさらに近づいてゆくと、老婆の口がわずかに動いていのに気付く。何と、死につつある老婆が歌を口ずさんでいたのだ。音節のはっきりしない老婆の歌は、パゾリーニにとって、インドのすべての悲惨とそれからの逃走のように聞こえるのだった。

   あからさまな死、インドならこのようなことに場合によっては出くわすことがあるだろう、と僕は思う。傍らの死、死の露出をインドの人々は手放さない。「いのち」とは何か、と問う劇場が、インドの道端にはまだまだ多く存在する。

   死につつある老婆は、パゾリーニにとってまるで聖人の死のようだ。横臥する聖人のイメージをパゾリーニは連想している、と僕は思う。聖人の歌は、この世の悲惨を見つめ「いのち」とは何かを語り告げている。聖人は、この老婆の死と歌のように、パゾリーニにおいては、もっともみじめな姿で現れる。ぶっきらぼうな残酷をのぞかせる老婆の死はパゾリーニにおける至上の美の表現だ。

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ピエル・パオロ・パゾリーニ
1992年ボローニャに生まれ、1975年ローマで殺害される
パゾリーニのスキャンダラスな死もこの本を読んでいると
パゾリーニの描いた聖なる絵のような気がしてくる

   『香るインド』は小さな本であるけれども(本文77ページ)、いのちの根源を問うような詩的な省察ばかりでなく、インドの社会についての批評を含む。インドのロータリークラブの人士とその眷属について、インドの金持ちは肥え太りその娘たちは醜く横柄である、といった感想をもらす。他方、貧民のウソは真実なのだ。あるいは、カジュラホーについて西欧的価値観においてもっとも美しい、と言ったりする。しかし、有名なエロチックな姿態を象るレリーフについての言及はない。僕には、パゾリーニの言っていることが、面白く魅力的なのだが本当のところは良くわからない。韜晦というのか、あからさまな、当然のこととしてある、誰も反対のしようがないことについて言葉に表すことをパゾリーニは避けているように思える。真実は、語られる言葉のなかにはなく、見出されねばならない、とでも告げられているようなのだ。

   ボンベイで始まったこの本の旅は、ワーラーナシーのガートで終わる。火葬される人体を目の当たりにしてパゾリーニが語る言葉は、「静かで、喜びにみちたコミュニオン(霊的交流、あるいは聖餐)」なのだ。インドで経験したもっとも奥深い感情とも、言う。しかし、そこには燃えあがる炎だけがあって、いかなる「におい」もない、と。ワーラーナシーのガートに遊んだことのある人ならば明瞭なことなのだが、「におい」のしないガートなどあり得ない。これもまた、パゾリーニの大いなる転倒、分からないところだ。『香るインド』は、「におい」のないワーラーナシーで終了する。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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