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97.シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ『最後の問い』、Saratchandra Chattopadhyay, The Final Question (Shesh Prashna), translated by Members of the Department of English Jadavpur University, published by Penguin Books India and Ravi Dayal Publisher 2010

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.シャラッチャンドラの晩年の小説
『最後の問い』は
ヒンドゥー的な退去・達観からは遠い
人が人を愛することの自由と
伝統的価値観との相克を
あるいは 一人の人間が生きてゆく役割と責任を
執拗に問い詰めているように見える

小説の舞台はアグラのベンガル人社会だ
そこに流れてきた美しい人カマルは
多くの男達をつぎつぎに魅了する
愛のためなら盗みも強要しかねない
ただカマルは 愛の女神であるばかりでなく
病む者・弱者の救済に身を挺する
社会正義の女神でもあるのだ

この小説における「最後の問い」とは
私たちの国における近代化=西欧化
そして伝統の抑圧という問題と
すこしばかり似ている
しかし、おおいに相違しているとも言える
近代化=西欧化の受け入れの
その途方もない相克を
じっくり味わいたい


   この小説『最後の問い』(1931年原著刊)は、シャラッチャンドラの晩年の作品だ。議論につぐ議論の小説で、自由恋愛や伝統文化、さらにフェニミズム(女性の福利厚生と言ったほうがいいか)という大テーマから中国の纏足や宗教儀礼を廃さなかったルネサンスについて、実にさまざまなことが議論される。このいささか理屈っぽい小説がシャラッチャンドラの晩年の作だというのは意外な気がする。『最後の問い』は成熟や悟り、ヒンドゥー的な撤退と諦念からはほど遠い、悩み多い社会的存在=人間についての小説である。

   多くのベンガル人が、その頃(二〇世紀前半)、さまざまな事情をかかえ、アグラに移住してきたのだ、というように小説は始まる。タジ・マハールで有名なアグラが小説の舞台なのだ。生まれ育った土地を離れ、しがらみを断ち、社会的な成功をおさめた者たちの、ある種自由で進歩的な雰囲気がこの小説にはある。

   ある金持ちの家で夜会があり、シブナトーという男が歌う。アグラに住むベンガル人の有力者・有名人士が歌曲の夕べを堪能するのだが、一人のジャーナリストがシブナトー非難の声をあげる。シブナトーは、飲んだくれで教授職を失い、友人の共同経営者が病死するとその石材業を独り占めし、病死した友人の家族を見捨て、さらに病気がちの妻を離縁し、出自の怪しい妖艶な女と一緒にくらす者なのだ。要するにあまり誉められた者ではないのだが、とても面白いのは、シブナトーは人々が眉をひそめる不道徳をまったく恥じていず、隠しもせず、堂々としていることだ、「何が悪いのか」と。

   この小説はその不道徳漢シブナトーの第二の妻カマルを中心に進行してゆく。カマルは絶世の美人で、伝統的価値観から過激なほど自由な女、愛情をまっすぐに表現し行動できる女なのだ。

   カマルは、この小説で何人の男の心をとりこにしたのだろう。あまりはっきりしないけれどもカマルは若い未亡人のようだ。彼女はその時、夫をもっていた。そのあと、卑劣を毅然と生きるシブナトーの第二の妻となり、また、金持ちの老人アシゥトシ氏、彼の娘の許嫁であったアジット、ヒンドゥーの理想への懐古的回帰を模索するハレンドラらの心を大いに悩ませる。道徳と愛情の間で男達は悩み苦しむ。他方、カマルの愛はとても率直である。男と女がいて、二人の間のある種の波長が合ってくれば愛しあうようになるのは自然じゃないか、と。多くの男をつぎつぎに愛してはならない、というのは社会の掟にすぎない。カマルの奔放な愛情行動は打算の積み重ねによる人間の窮屈なあり様を軽やかに超えてゆく。

   ところで、カマルの愛情行動は、ある意味で社会を敵にする。だから、アシゥトシ氏の娘モノラマは、伝統的な道徳を素朴に信じる者であるがゆえにカマルを毛嫌いする(本当は、自分の許嫁をとられると怖れているのかも知れない)。ジャーナリストのアクシャイも、社会の良識という虎の威を借りてカマルを糾弾する。だが、それらの非難が表面的に見えるのは、カマルが他方で示すヒューマニズムなのだ。

   その頃アゴラを悪性のインフルエンザが襲う。金のある者達は、比較的安全なところに避難してゆく。しかし、皮革を業とする者たちの多く住むスラムの一帯では、その病の蔓延は陰惨を極めた。手当する者もなく、食料もなく、安全な飲料水もなく、病人が寒さから身をまもるかけ物もない。カマルは、身を挺して彼らの手当に尽くす。面白いのは、カマルが、同じインフルエンザで苦しむ夫のシブナトーの看護を拒むことだ。彼女は、スラムで看護活動を行い、力尽き絶望して戻ってくるのだ。

   病気で苦しむ者の手当を命がけで行う。これはシャラッチャンドラが繰り返しとりあげるテーマだ。皮革を扱う仕事をする人々の多く住むスラムについて、その内部の人々についてこの小説では何も語られない。それはまるで影のようなのだ。それらの人々と容易には混じりあわないが、貧しく差別された人々への同情がいつもある。同情といえば、何か時代遅れの感覚のようだが、シャラッチャンドラにとっては確かな質量をもつ。シャラッチャンドラの場合、犠牲と同情について、人はこうするべきだという、すっきりした解答はない。しかし、繰り返し、形・姿を変え、弱者に対して自分はどのような関係をとりうるのか、という自問自答がつづく。

   カマルは、遠くからやってきた。茶畑のある農園から流れてきた。実は、父は英国人の茶園の支配人だった。母は、さまざまな男を渡り歩くふしだらな女(娼婦という意味だろうか)であった。カマルの美貌と自由な考えは、その混血・雑種性にある、と想像できる。アグラに住むベンガル人の高級人士は、カマルの出現で、自分たちの伝統的価値が揺らぐのを怖れた。怖れると同時に彼女の自由で解放的な行動-それは西洋的な価値観と重なっている-に憧れた。この小説のタイトル「最後の問い」というのはその辺りの相克を描く。ヒンドゥーの素晴らしい人間主義を損傷することなく、つまりヒンドゥーの儀礼を守りながら西欧の合理主義、というよりこの小説では男と女の自由な関係をとりいれられないか、という問いだ。

   カマルは、この小説の最終章で、アグラから旅立ってゆく。行く先は分からない。シャラッチャンドラの小説の別れの場面はいつも突然やってきて、淡々と進行する。カマルが、アグラの知人に別離の挨拶に回っているとき、街のヒンドゥー寺院が火事に見舞われた。神像を守ろうとして、ハレンドラの同志ラジェンが火のなかに飛び込んでいった。ラジェンは神像を救いだしたあと息絶えた。シャラッチャンドラは、ラジェンの行為を愚かであると思っている。だが、命よりも貴重なものがあるという象徴行為に惹かれる作家でもあるのだ。シャラッチャンドラの小説の面白さは、人が生きていくための生活、日常性とそこを突き抜ける超越的なものとの交錯にある。その交錯の放つ火花が人の生きる価値なのだ、とシャラッチャンドラは言っているように、私は解釈する。

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■シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ
Saratchandra Chattopadhyay 1876~1938
『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)が翻訳で読める
インドの神々が 現実世界において意味するところを
了解できるような小説である

94.シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ『救出』、Saratchandra Chattopadhyay, Nishkriti (Deliverance), in Saratchandra Omnibus Volume 1, first published by Penguin Books India 2005.

saratchandra omnibusシャラッチャンドラの『救出』は
1910年代の後半に書かれたのだろう
カルカッタの大家族における
妻 嫁たちの争いを描きながらも それは
欧州における世界大戦とロシア革命という
20世紀の大きな変動局面と無関係ではありえなかった

作家は 社会変革とは何か
現実の変革とは何かを問い詰めた
そのとき シャラッチャンドラの本領とする
日常性を超越する神々は
おおきく後退したのだ あるいは 
「神々はお隠れになった」のだ


 『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)を書いたシャラッチャンドラはどこに行ってしまったのだろう。破壊の神へ捧げられる犠牲、聖化された暴力、生活という日常性から逃れる悪の極限、そのようなはっきりとした特長をこの『救出』に見つけることができない。むしろ、この小説では、そのような非日常(聖なる時と空間の顕現)とは対蹠的な、食べてゆくことの憂鬱な苦労と争いが目立っている。

   小説の冒頭で、チャタルジー家の来歴が語られる。
   カルカッタ、バウォニポールのチャタルジー家は、数家族がともに暮らす大家族である。
長兄ギリシの家族、次男ホリシの家族、いとこロメシの家族、それに今は夫を亡くしている祖母等々。次から次へと見知らぬ家族の顔があらわれ戸惑う。
   嘗てチャタルジー家はラプナラヤン河ぞいの村で裕福な暮らしを送っていた。
   そこに突如、猛烈な旱魃が地域を襲った。数年ですべての蓄えを失った。万策尽きて、一家はカルカッタに辿りついたのだ。
   家族の者は必死に生きたのだろう。長兄、次男は法律家となり財を築き、失った土地も取り戻した。ただ、ここでひとつの異常音が起きる。それはいとこのロメシで、彼は、無為の人なのである。家族から金を引出し、相場のようなことに手をだしたがうまくゆかなかった。今は、新聞を眺める無為の生活を送っている。

   この小説で、ほとんど唯一、脱常識的な記号は、無為のロメシである。そしておそらく作家シャラッチャンドラは、金を相場で散財するだけの非生産的なロメシという男を愛している。だが、この小説でのロメシの存在はかすかに輝くだけなのだ。・・・・・作家シャラッチャンドラは、家のなかのうんざりするほど退屈な日々の無意味な女たちの争い、その現実を書き綴る。

   この小説は、家のなかの、女たちの争いの物語だ。次男の嫁といとこの嫁(無為のロメシの妻)が反目し合っている。長兄の嫁シデシュウォリも、実家から帰ってくると、マラリアの感染ですっかり体が弱り、大家族をきりもりできなくなってしまった。長兄の妻シデシュウォリは、自らの衰えに苛立ち、聡明でしっかり者のいとこの嫁シャイロジョにあたる。シデシュウォリは、次男の嫁ノヨントロ(浅はかな女に描かれている)の甘言にいつかなびいてしまうのだ。そして男達は、妻たちの争い・不満につきあうことに疲れている。

   事件が持ち上がる。次男の子、アトゥルが台所の閾のところに立っている。いとこの嫁シャイロジョ(無為のロメシの妻)が料理の支度をしている。シャイロジョは、アトゥルに、「靴をはいて台所にはいらないで」と注意する。アトゥルは、「台所には入っていないよ」と抗弁する。シャイロジョは、「行って」と促すがアトゥルは、なおもそこに立ち続ける。長兄の子モニンドロが通りかかりと「おねえさん、何かあったの」と尋ねる。シャイロジョは激しい怒りを抑え沈黙を守る。それをみていた長兄の子ニロが、アトゥルの足を指さし、「お兄ちゃんは靴をはいたままそこに立っている。シャイロジョおばさんが注意しても聞かないんだよ」と言う。アトゥルは、「閾の外、何がいけないの」と理屈を言う。沈黙と理屈の戦いだ。モニンドロはそれを聞くやいなやアトゥルに飛びかかり殴打する。モニンドロは屈強の若者だ。モニンドロは加減を知らずしたたかにアトゥルを打ちのめす。家族の者が集まってきて大騒ぎとなる。……父親のホリシがアトゥルにどうしてこうなったのかを聞く。アトゥルは、シャイロジョおばさんが僕を殴れと言ったんだよ、と嘘を吐く。さらにホリシがシャイロジョに説明を求めるが、シャイロジョは何も言わない。

   無為の人ロメシの妻シャイロジョは聡明で意志が強い。シャイロジョは作家の理想の女のような気がする。彼女の抗議・抵抗のスタイルは、沈黙と絶食だ。長兄の嫁シデシュウォリもそれには手を焼いた。沈黙と絶食、それは語らない、意味しない抵抗である。また、何か宗教的・伝統的な雰囲気がある。シャイロジョはどうしてそのような抵抗のスタイルをとるのだろう。意思表示だけで十分、相互理解・意思疎通の拒否、あるいは説明が状況をより一層悪化する、と考えているのか。
   次兄の子アトゥルを殴打したのは長兄の息子だ。シャイロジョの息子ではない。家の子供達は、シャイロジョを認め好いている。逆にそのことが次男の嫁ノヨントロとの軋轢を生み、長兄の嫁シデシュウォリの嫉妬を買っているのかも知れない。・・・・・しかし、嫁たちの争いを書くシャラッチャンドラは、本当のところ何を言いたいのか。シャイロジョの痛ましい崇高さ、あるいはその神々しい姿と、無為の男ロメシとの組み合わせに作家は何を求めているのだろう。

   アトゥルへの殴打事件のあと、次兄の嫁ノヨントロは、荷物をまとめ家をでて行こうとする。長兄の嫁シデシュウォリが「どこにいくつもり」と尋ねても、ノヨントロは「どこか、ただもうここにはいられない」と繰り返す。しかし、彼女は、結局は、家をでなかった。荷物をまとめたのは、ポーズだったのか、あるいは、「あなたがこの家からいなくなったら世間の人はどう思う」という言葉が効いたのかも知れない。

   大家族主義の強い求心力が理解を超えている。彼女らの最終的抵抗・恫喝は、家をでることであり、それは家族の崩壊と同等の意味をもつ。その強度が異常とも思えるのだ。他方、核家族は、インドの近代小説を読んでいると、駆け落ちとほぼ同じに見える。社会の掟を破る行為に近い。反社会的であるが、同時にそれへの悲劇的な憧憬もある。


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■シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ
Saratchandra Chattopadhyay 1876~1938
『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)が翻訳で読める
インドの神々が 現実の生において意味するところを
了解できるような小説である

   デリヴァレンス、救出は、沈黙と絶食で抵抗を表現するシャイロジョの完璧な勝利で終わる。彼女と無為の夫、連れ子を含む二人の息子をつれて家をでてゆく。理由は、長男の妻と次男の妻との陰口を耳にしたからだ。「シャイロジョの顔はみたくない」と。しかし、その移住・救出が意外な展開を生む。シャイロジョの一家が、田舎の家と土地の資産・権利をすべて手にすることになるのだ。……『救出』は、私には分かりにくい小説だ。その分かり難さを、いささか強引に言葉にすると、夢見ることの好きな作家が、あえて社会的現実とは何かを考え、その社会的現実(ここでは、大家族のなかの女たちの軋轢)に目を向け、その現実を摘出しつつも、神話的ヒーロー・ヒロイン(日常性を超絶し、人間が神的なものに変身しかかる瞬時を演じる者)に後ろ髪を引かれて書いた小説のように見える。この小説においてシャラッチャンドラは、社会的現実という呪縛から神を救出し、神はお隠れになったのだ、と。

92.シャラッチャンドラ・チョットバットヤーイ『村』、Saratchandra Chattopadhyay, Pallisamaj (The Village Life), in Saratchandra Omnibus Volume 1, first published by Penguin Books India 2005.

saratchandra omnibus父の葬儀のためにラーメシュは街から戻ってきた
人を思いやり人助けを厭わない好青年だ
そのラーメシュが より意識的な
村の変革者となってゆく
ただ 少し込み入っているのは
彼の変革に立ちはだかる者が
親族であり また愛するラーマなのである
シャラッチャンドラは
村のという外部と 変革者の内面を
ときに極めて洗練された情景をまじえながら
作家自身の生き方として問い詰める

   
    U. R. アナンタムールティの小説、『バーラティプラ』では、U. R. Ananthamurthy, Bharathipura, 裕福なバラモンである主人公が、新月の祭りの夜、ホーレヤール(不可触民)を寺院の境内に進入させ、神々のたたりなどないことを明らかにしようとする。モハンダス・カラムチャンド・ガンディーが試み、失敗したことをアナンタムールティは小説で再演しようとした。小説『バーラティプラ』(バーラティプラは、南インド、カルナタカ州にある門前町)は、社会変革とはどのようなことなのか―変革の対象、変革の主体、変革の目的、変革の動機、さらに言えば変革の希望に潜む欺瞞、等々について―を思い悩み、問い詰める。そして、その『バーラティプラ』の主人公が読んでいたのが、この小説『パリサマージ 村の生活』(原作はベンガル語で1916年に発表)なのである。シャラッチャンドラの『村』も、社会変革について、作家が思い悩んだ作品だ。

    小説の冒頭のページがつねに重要である。この『村』という小説の場合も、小説の問題系を暗示している。要約してみよう。

    ベニ・ゴーサルがムケルジーの家にやって来て、「ラーマはいるかい」と呼ぶ。おばさんは、お祈り最中なのだ。それでも、おばさんは台所の方を示す。ベニは、あがり框(かまち)のところに立って、ラーマに「どうするんだい」と話しを切りだす。鍋を竈から取りあげると、ラーマは「何のこと」と聞き返す。「タリニ・クーロの葬式のことだよ。ラーメッシュが昨日帰ってきた。大そうな葬式をやらかそうとしている。ラーマは葬式にでるのかい」。ラーマはいささか憮然として「私がタリニの葬式に行くって」。ベニは「分かってはいるんだけど、あいつは葬式に来てくれるように皆のところを回って歩くはずなんだ。やつはあいつのおやじ以上の悪人だ。やつが来て葬式に来てくれと言われたら、ラーマはどうするんだい」とベニは続ける。

    祖母のいる遠い街にでていたラーメシュが、父の葬儀のために村に帰ってきて、葬儀(村人への大盤振る舞いでもある)を執り行おうとしている。ラーメシュのおじで村の実力者であるベニ・ゴーサルが葬儀をぶち壊そうとしている。ラーメシュを村から追いだし、彼の相続財産を横取りする下心があるのだ。血縁で結ばれた小さな世界で、妬み・遺恨がうずまいている。いや、シャラッチャンドラは愛もあると言っている(ただし、今彼女は、家の隅の暗い台所にいる)。ベンガル地方のこのクアプール村では、その愛憎が激しい。どうしてそうなるのか、背景を辿ってみよう。

    話は、百年前に遡る。バーララム・ゴーサルとバーララム・ムカルジーは大の親友だった。二人は、語らって生まれ故郷を捨て、クアプール村に落ち着いたのだった。それぞれがこの村で結婚し家を構えていく。ただ、ムカルジー家が、良縁を機会に富み栄えていく一方で、ゴーサルの方は、ぱっとしなかった。二人の仲はいつしか疎遠になっていった。しかし、バーララム・ムカルジーが死ぬと意外なことが明らかになった。ムカルジーの遺言は、全財産の半分を、嘗ての親友であるゴーサル家に譲るよう命じていたのだ。その遺産により、ゴーサル家とムカルジー家は、クアプール村を差配してゆくようになったのだ。…これにまた別の争いが付け加わる。バーララム・ゴーサルの息子ベニとバーララムの弟タリーニの争いだ。土地や財産をめぐる係争が繰り返された。今、タリーニが死に、彼の息子ラーメシュが村に帰ってきた。ベニ・ゴーサルとムカルジー家は、今は、結びついているようだ。ムカルジー家のラーマは、タリーニのせいで、父親が監獄に送られたのだと思いこんでいる。

    社会変革を問う小説『村』において、ラーメッシュが生まれ故郷に帰ってきたのは、村を良くするためではなく、父の葬儀を行うためだった。ラーメッシュは、カルカッタから料理人を呼び盛大な饗宴を行う。ラーメッシュは気前が良い。だが、現実の葬儀は、遠くから見も知らない親族があらわれ、意地汚い飽食があり、卑しい噂話、痴話げんかが繰り広げられた。心の狭い人々にラーメッシュはうんざりするのだ。街で思っていた村の素朴で清らかな絵はそこにはなかった。ラーメッシュの魂が彷徨いだす。彼は、村の貧困・矛盾・抑圧に目が開かれてゆく。

    シャラッチャンドラの長大な自伝的作品『シュリカンタ』Srikanta (1917-1933)、における人助けは、即物的である。あるいは成行き、衝動的である。そこに困っている人、病気で苦しんいる人がいれば、自分を犠牲にして、人助けする。それが遠大なまわり道をつくる。『シュリカンタ』という小説は、人助けと愛のまわり道についての小説なのだ。シュリカンタ(作品のヒーロー)においては、人助けは、人を愛することと同列のように見える。社会変革というような概念、もっと言えば社会主義にむすびつくような革命の観念とは無縁なのだ。しかし、『村』は違う。個人と個人の関係ではなく、村における多くの人々の窮乏や不幸に対して(ただし、村という限定はある)、義務と責任を、あるいは人の生き方を問う。この小説のヒーロー、ラーメッシュは、生まれ育った村の貧しい多くの人々のために生きる道に巻き込まれてゆく。あるいは、選択してゆく、主体的に。

    葬儀のあと、いくつもの事件が続く。村のボス、ベニ・ゴーサルは入相の池の魚を独り占めしたり、学校の運営資金を横領したりするのだ。ケチな話だ。あるいは、ラーメシュを村八分にしようとする。しかし、人々の苦しみは小さくない。ラーメッシュは憤慨し抗議の行動を起こす。そして、長雨のあと、村人の作物が全滅してしまうかも知れない危機に見舞われる。ベニ・ゴーサルが、堰の門を開けようとしないのだ。ベニは、洪水でできた池・湖の魚で一儲けしようとする。村人が、ラーメッシュに助けを求める。ラーメシュは、関係者、ラーマやベニの母親への説得を試みるのだがうまくゆかない。農民の作物が全滅したら彼らはどうやって生きてゆくのだとラーメシュがつめよると、ベニは、土地を抵当に借金で食いつなぐだけだと答える、自分が金を貸してやるのだ、と。ラーメシュは、ついに剛腕の使用人を送り、力づくで堰の門をあけさせる。ラーメシュは暴力で悪に抵抗することになるのだが……。

    この小説の、ある一章は、不思議な愛を語っている。二人の出会いと半日の行動はまるで夢のなかのできごとのようである。これは、幻想なのか、白日夢、よく分からない。が、とても気になる。この章は、二人の愛とその社会化(ムラ社会という文脈における二人の愛)を語っているようにも思える。とんでもない誤解・誤読であるかもしれない。勇気をだして要約してみよう。

    葬儀から数か月がたっていた。ラーメシュは、タラケシワールの池に沐浴にでかけた。池へ下る階段のところで一人の女に出会う。今、沐浴を済ましたところなのだろう。歳の頃は二十歳にもいかない。娘は、ラーメシュを認めると水瓶を置き、サリーを身繕いして「ここにいらしたの」と声をあげた。ラーメシュは驚き「私のことを知っているのですか」と問い返した。「存じております。いつこちらへいらしたの」、「今朝、いとこもくるのです」。彼女はさらに続けて「お付きの者は」と聞き、「一人なのです」と彼は答えた。彼女は笑い、眼を合わせ、控えめに「私についていらして」と言う。
    彼女が寺院で祈りを捧げているあいだラーメシュは、奇妙な感覚に酔いながら彼女を待っていた。彼女の濡れたサリーが不思議な磁力を発しているように思えた。祈りは一時間半ほどで終わった。
「どうして自分を連れてゆこうとするのですか。あなたが誰なのか教えて下さい」とラーメッシュは問うた。すると彼女は、少しの沈黙のあと「こうしなければならないのです。食事の用意があります。私はラーマです」と言った。
    二人は、とある屋敷で休みをとる。ラーマはラーメッシュに食事を供する。質素な食事なのだが、ラーメッシュはそれに例えようのない満足を覚える。ラーマは、敷物を広げ、ラーメッシュに午睡をすすめるのだ。ラーメッシュは、午睡の習慣がない。ラーメシュは、部屋に一つしかない窓から雲を見ている。ラーマが閾のところに立って「今夜は泊っていらして」という。ラーメッシュは驚き「この家の主に話さなければ」と答えると「この屋敷は私のものです」とラーマが言うのだ。……それからまた対話が続く(それは、ラーメッシュの今の、人の生き方についての深い煩悶を語っているようだ)。ラーマの祈り、篤い信仰について(ラーマはアプリオリに絶対者に帰依する者のようだ)、「夕食は何がよろしいですか」というようなこと(どうしてラーマは食事に執着するのか、逆にラーメッシュは何でもいい、と無頓着だ、ただしそれは共食の儀ではない)、ラーメッシュは死後の世界を信じる者である、というラーマの指摘(ラーメッシュは現世を正しく生きなければならないという倫理に捕われ苛まれている)、ラーマは自分が未亡人であり、ヒンドゥーの世の中では生きながらえないと言う(喜び、あるいは愛を禁止された者、すなわちラーメシュの愛の拒絶を表明する)、ラーメッシュは裕福であるがゆえに他人を思いやれる、そうでないものは自分が生きてゆくだけなのだ、人のことに思いをいたすのは子供のすること(ラーマは、変革という冒険ではなく人が生きていくための生活の重みを言っている)、等々と続く。そして、この章は、ラーマの大量の涙で締められる。

    二人は、他の者をおしのけて利己的に愛を成就しようとしない。妖艶な愛のやりとりのなかで二人が交わす対話は、倫理的で、社会変革と日常性の相克を問い詰めているように見える。ラーメッシュは、変革の倫理を語り、ラーマは、生活という日常、それとそれらを司る超越的なものを言おうとしている。そのようなシリアスな問答を、シャラッチャンドラは、何とも言えない洗練された愛の場面のなかに設定する。ラーマの家は、神の家に違いない。そこに立ち寄り、休み、食事をとる者は、変革に勤しむ者、心飢えた者である。だが、ラーメッシュは、そこで安らぎ何かを思いだしているが、変革という観念を忘れたわけではないのだろう。

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シャラッチャンドラ・チョットバッドヤー
Saratchandra Chattopadhyay (写真左)
1876年、西ベンガル州フーグリの村に生まれる
貧しいバラモンの家にうまれ正規の学校教育は受けていない
妻と幼い子供をビルマにおいてペストで亡くしている
1938年、カルカッタで没
シャラッチャンドラはベンガル語で書く作家であり
はじめその小説はタゴールの筆名による作品ではないかと噂された
近代インドの初めての職業作家であり
ベンガルでもっとも人気が高くもっとも多数の読者を持つ
作家と言われている
彼の作品は 何度も映画化されている

    シャラッチャンドラは、愛と破壊の神々に物語を捧げる作家だ。しかし、時代がそれを許さなくなった。同情や親切とは違うイデオロギーと鋭い社会批判の時代に入りつつあった。ロシアにおけるボルシェヴィキの革命は目前である。インドの社会も大きな変革を必要としている、と作家は感じている。自分が考えてきた正義と善意だけでは、社会は変わらないかも知れない。作家は、かなり無理して、悩みながら、自分にとっての社会変革を問い詰めた。それが『村』という小説なのだと私は思う。


66.シャラットチャンドラ・チャットパッダエ『シュリカンタ』、Saratchandra Chattopadhyay, Saratchandra Omnibus Volume 1, first published by Penguin Books India 2005.

004_convert_20141111132438.jpgシャラットチャンドラの『シュリカンタ』は
作家の自伝的な小説だと言われている
1917年から作家の晩年にいたる1933年まで
断続的に発表された
あえかなベンガル男の
ベンガル ラングーン パトナ 北インド
にわたる 青春彷徨は
妖艶ないくつもの愛と 煌く夥しい涙と
病を引きずりながらも
ひたむきな正義に生きる姿が
古典叙事詩に登場する
王子の蘇生を思わせ
そのような物語に 僕は
驚かされ 堪能させられた


   とても面白い本だ。きっと何度も読み返すことになるだろう。感覚が独特なのだ。ビルマに働きに帰らなければならないと言いつつ、いつまでもぐずぐずしている。困った人や病に苦しむ人がいると、捨てておけない。こんな柔らかくて弱い顔をした正義がどうして可能なのだろうか。

   あえかなるシュリカンタSrikanta、幾人もの女(性)が彼を愛し(つねに、女(性)の方からアプローチが始まる)、そのつど彼も彼女たちを本気で愛する。彼を愛する女(性)たちは、不幸な境遇・過去をもっている。(しかし、それらの愛が完ぺきにプラトニックな雰囲気なのは何なのかとも思う)。この小説に性愛はなく、逆にエロチックなまでの女(性)の涙に溢れている。この作品において流されるおびただしい涙が、もし宝石のように輝きだしたら、どんなにきらびやかな小説となるだろう。・・・なぜシュリカンタはこうも女(性)たちに好かれるのか。誠実であること、おそらく彼がハンサムであること(写真で見るシャラットチャンドラはすごい美男子だ)、仕事に精をだす働きものではない(女(性)を優しく相手する心の広さがある)というような理由を僕は挙げたくなる。彼は、誠実で生真面目な、病気がちだが優しい遊び人である。自分の生活のために齷齪と働く者ではないから、女(性)たちを虜にする(ここの論理は実はうまく繋がらないのだが、そのような気がしてならない)。自らの生活のために齷齪働く者は下層民の職分に属し、高位カーストに属する者は、高貴で価値ある遊戯に(困った人への人助けと愛)に、すべての時間と生命のエネルギーを焼尽しなければならない、とでもいうかのようなのだ。

   シュリカンタと係る何人もの女(性)のなかで、とりわけ比重が重いのは、パーリPyariだ。彼女は歌姫であり、高級娼婦であり裕福な仲買人でもある(あった)。『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社、原著1917年)のチャンドラムキーChandramukhiに似ているが、彼女が理想化されているのに反して、パーリはより現実的な存在のように見える。それにしても、やはり分からないのは、パーリの純粋な魂だ。罪深い過去が拭い去れるなら、幼子を抱え戸口を訪ね歩く物乞いになりたい、とシュリカンタに言う。王侯を手玉にとった高級娼婦がそのようなことを言う不思議が了解しづらい。もっとも穢れた者が聖なる者に転化するパラドックスを理屈でいっても虚しい。そのような不思議がシュリカンタの女(性)たちにはあるのだ。

   金銭はシュリカンタを拘束しようとする。自分のあずかり知らぬ許嫁を自分から解放し、嫁がせるために、つまり彼女の婚資のためにシュリカンタは、ビルマに向かう。しかし、シュリカンタにおいて金銭は、社会の約束ごとである以上の意味をもたない。シュリカンタという人間は、社会契約以上の宇宙の理を感受しようとしてもがきはじめる。結果として、金銭がシュリカンタを狂わすことはない。どこか彼は金銭に無関心であり無頓着なのだ。と言うより金銭についての虚無感が彼について廻る。

   ビルマとラングーンは、金銭とカーストからの暫定的な自由をシュリカンタに齎す。インド人はビルマでの出稼ぎ生活を謳歌している風が伝わってくる。仕事探しは、実は楽ではなかったけれども、何かインド人としての特権というべきものを彼も享受している。英国のインドを支配する植民者の気分の片鱗をシュリカンタは味わったに違いない。それよりも、僕は、むしろインド人の技能を尊重するおおらかなビルマの人々のことを想像したくなる。さらに、ビルマの女(性)たちの大らかな優しさが際立って見えてくる。出稼ぎのインド人にいいように騙されるビルマの女(性)たちに、シュリカンタは同情し怒りを露わにするのだ。シュリカンタの怒りはインド人同朋にむけられたものである以上に、ビルマの人々の善良さにむけられた苛立ちのようでもある。ここにおいてシュリカンタは、リアリストなのだ。・・・ビルマは、シュリカンタにとっても艶やかで滑らかな別天地の趣を伝えている。しかし、ここでも女(性)の不幸とコレラなどの流行病の猛威はシュリカンタを容赦なく攻撃する。シュリカンタにおけるビルマは、青春の光と影そのもののようだ。

   コレラやマラリアなど、病がいつも、いたるところでシュリカンタを苦しめる。夥しい死がシュリカンタのまわりでおこる。子供を孕み、村から追放された未亡人の傍らで彼女の苦しい死を見届ける。ラングーンでは、ひどく合理的な考え方をする説教好きのインド人の同胞の死をみとる。コレラで一村が全滅しかかっているキャンプでかれは懸命に生命を救おうと奔走する。幼なじみの詩人の死とは擦れ違いになるけれども、シュリカンタは彼を埋葬する(つまり、幼なじみはヴァイシュナヴァ派に共鳴する者のようだ)。一体何人の死にシュリカンタは同伴したのだろう。しかし、シュリカンタは体力を奪われながらもどうにか生き延びる者なのだ。女(性)たちの手厚い介抱が強い効験をもったのか。それでも病は完全に癒えることはなく、弱った体を引きずるようにして、パトナのあたりを、ベンガル地方を、また北インドの村々を移動しつづける。あえかな英雄は、傷つき病で弱っている。彼の移動・旅は霧立ち込めた夜の旅の雰囲気で、廃屋と化した病院から取り残された病人が突如幽霊のように立ち現われてくる挿話そのままに、闇は深い。同情が結晶化したような愛と、虐げられてある者たちへの人助けと、シュリカンタの青春彷徨はつづくのだ。いつまでも(本当にいつまでも)ビルマへの帰還はシュリカンタには訪れない。・・・病と闘うシュリカンタは、社会契約的な存在というよりは、宇宙の理との対話(つまり生命とは、死とはという問いに対する答え)を求める宗教者であるようだ。

   シュリカンタは一度サドゥーの一団に入り、修行者になる(北インドは、どこでもそのような遊行托鉢僧の集団に出会えるところとして描かれている)。しかし、彼はそこに長居はしなかった。ヒンドゥーの神々へのそこはかとない尊崇の念を抱きつつ、迷信を、カーストの悪をシュリカンタは拒否する。小説冒頭近くのエピソードは、悪霊の出没する焼き場・墓場へ、決して幽霊など存在しないのだ言い張り、彼はライフルを携えて赴く。・・・小説『パリニータ』Parinnta (1914)におけるオジのブラフマ・サマージ(ラーム・モハン・ロイが創設した宗教・社会改革運動)への突然の回心が連想される。作家のヒンドゥー改革派への共鳴が感じられるのだ。迷妄を拓く合理的な科学の力と伝統的な宗教の力が、シュリカンタの血のなかで沸き立っている感じなのだ。僕は、シュリカンタの信仰と迷信を退けようとする合理性が 好きだ。

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シャラットチャンドラ・チャットパッダエ
Saratchandra Chattopadhyay
1876年、西ベンガル州フーグリの村に生まれる
貧しいブラーミンの家にうまれ正規の学校教育は受けていない
妻と幼い子供をビルマにおいてペストで亡くしている
1938年、カルカッタで没
シャラットチャンドラはベンガル語で書く作家であり
はじめその小説はタゴールの筆名による作品ではないかと噂された
近代インドの初めての職業作家であり
ベンガルでもっとも人気が高くもっとも多数の読者を持つ
作家と言われている
彼の作品は 何度も映画化されている

   『シュリカンタ』を読んでいると、インドの古典叙事詩における流浪する王の姿、その正義の体現と、力強い女神の姿がだぶって見えてくる。インドの近現代小説の多くが、インドの古典叙事詩の再解釈・再演である可能性が高く、この『シュリカンタ』もそういう部類の小説なのだろう。しかし論拠をもってそれを言うことは、目もくらむような遠大な仕事に思える。僕には手に余る大事業であり、あまり深入りはできないのだ。それよりも、唐突に聞こえるかもしれないが、『シュリカンタ』の翻訳が欲しい、と僕は思う。旅や映画を通して、あるいはビジネスの面でもインドへの関心が高まっている時なので、なおさらそう思う。また、かなり決定的な場面で良く分からないことが多く、専門家の注解が是非ほしいところなのだ。読んで面白く、それでいて何かが決定的に違う世界が広がっていて、不思議な驚きに充ちた未知なる世界がそこにはある。いずれにしても、この小説はある種のインドの人々の心のありように触れることのできる、とても貴重な小説(自伝的小説)なのだ。

59.シャラットチャンドラ・チャットパッダエ『パリネータ(婚約者)』Saratchandra Chattopadhyay, Parineeta, translated from the Bengali by Malobike Chaudhuri, published by Pneguin Books India in 2005.

pari+002_convert.jpg 両親を亡くしラリータを
オジのグルチャランが育てている
隣家の息子シェカールとラリータは
心の底で 自分たちの愛を
確かめている
二人の明かされない愛は
シャラットチャンドラの十八番(おはこ)なのか
読者をじらすように苛む
社会の掟が 金が 二人の愛と人々の幸福を
阻み続けるのだ
ベンガルでもっとも良く読まれてきたと言われる
シャラットチャンドラは この小説で
社会の理不尽な力 とりわけ金の力に
抗議する一方
社会運行の犠牲者たちの
精神的価値のきらめきを
称揚しているようでもある 
 
  シャラットチャンドラの小説は、何か不思議な退廃の雰囲気をもっている。ラリータは、家に金がなくなると、隣の金持ちの息子のところへゆき、引出から必要な金額の金をもってゆく。ラリータはいつ返せるかわからない、と息子のシェカールに言うが、返す必要はない、その理由は後から分かる、というようなことをシェカールは返答する。こんな金のやりとりがあったのかと僕は驚く。金は、もう少しアクセントのきついものと、あるいは金に困れば、人は鬼にもなると思っていたが、この小説では、金が人々の生活や愛を拘束する一方で、どこかで金銭についての虚無の感覚が漂っている。
 
  『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社、原著1917年刊)は、金を蕩尽する小説だ。他方、この小説『パリネータ(婚約者)』(原著1914年刊)は、金が人々を縛る。ラリータを養っている(彼女は孤児なのだ)おじのグルチャランは、娘を嫁がせる婚資のために家を抵当に借金をし、その借金に喘いでいる。隣家の主人は、息子のシェカールを種にどれだけ結納金を積ませるか計算している。シェカールとラリータの愛は、愛しあっているのにどうして反撥し傷つけあうのか読者を苛むが、この二人は、金の拘束と自分たちの立場を理解しているようなのだ。・・・金をめぐるやり取りは、この小説のいたるところにあって、読みようによっては金が、自由な恋愛、純粋な愛を阻害している、という抗議にも読み取れる。しかし、シャラットチャンドラが面白いのは、社会的正義の観念によりかかり、金の力を非難ばかりしているわけではなく、金からの遊離を描いているところだろう。

  隣家の金持ちの息子シェカールは、学位をとり法律家として生活していこうとしている。ラリータが彼のところへ金をとりに行くと、いつも本を読んでいる。『デーヴダース』の主人公が、死にいたるまで財産を蕩尽する不良息子であるのに対し、何と優等生であることか。

  シェカールは、父親と違って金の亡者ではない。しかし、ラリータとの結婚を父親に求めようとはしない。デーヴダースには抗う父親がすでになかったがシェカールは父親に反抗しようとはしない。デーヴダースの破滅へのエネルギーを思うと、シェカールは何ともおとなしい。ラリータはシェカールのどこに惹かれたのだろう。父親の死後、二人は結ばれる。何ともエネルギーの希薄なハッピーエンドなのだ。『デーヴダース』が破滅に向かって激しく疾走する小説であるのに『パリネータ(婚約者)』の幸福はうつろうだけだ。

  グルチャランはラリータの父親がわりだ。実の娘が何人もいるのに、両親を早くに亡くしたラリータをひきとり娘同然に育てている。グルチャランは優しい。あるいは軟弱なのだ。しかし、僕はそんなグルチャランに不思議な魅力を感じる。二番目の娘の結婚資金を作るために高利の借金をしてしまう人の良さ、誰とでもすぐに打ち解けられる如才のなさ、さらに姪のラリータの気持ちも考えずに、縁戚にあたるギリンの借金肩代わりを受けてしまう判断の軽さ。けれどそんなグルチャランが、突如ブラフマ・サマージ(ラーム・モハン・ローイが創設した宗教・社会改革運動)に改宗する。改宗のいきさつはこの小説では詳しくない。グルチャランの生活苦とノンシャランな生き方、それがどのようにブラフマ・サマージに結び付くのか分からないが、しかしこのシャラットチャンドラの改宗の創作は興味をそそる。

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シャラットチャンドラ・チャットパッダエ
1876年生まれ 1938年逝去
作家としての出発は、出稼ぎ先のビルマから始まる
Mira Kamdar, Motiba’s Tattoosを読むと日本軍侵攻前の
ラングーンがいかに美しく活気のある また人々が幸福に
暮らす街であったかを伝えている
シャラットチャンドラの自伝的作品には
当時のビルマ あるいはラングーンについて
どのように書いているのだろう

  この本の解説(Swagato Ganguly)によると、シャラットチャンドラの実際の父親はボヘミアンで母親が死ぬと家族を捨て出奔してしまった、のだと言う。その後のシャラットチャンドラにおける生活の苦渋はおして知るべしだろう。しかし、この小説のグルチャランという人物には捨て去られて者の怨みは読みとれない。それよりも父親と同じ遺伝子をもつ者へのある種の共感がある。それもまたとても不思議な感覚なのだ。

  シャラットチャンドラは、ベンガルでもっとも人気のあった作家であったという。つまり、ベンガルの人々は、この不思議な感覚を味覚し、共有してきたのだろうか。

  シェカールとラリータとの反発しあう愛は、十歳になる妹アンナカールのいたずらによって、つまり花環の交換によって思わぬ展開をとげる。花環の交換は、婚約のしるしに読み替えられるのだ。意味するものとしての花環の交換は、意味されるものとしての婚約、という風にラリータによって操作される。これが、この小説の鍵であるカラクリなのだが、この本の解説は、これもまたヒンドゥーの伝統とは無縁なシャラットチャンドラの創作である、と教えてくれる。・・・シャラットチャンドラは、読者の退屈を怖れる発明家であり、とてもモダーンな感覚をもった作家なのだ。

  『デーヴダース』は、破壊の神に捧げられた愛の犠牲物語だ。
この『パリネータ(婚約者)』も、犠牲物語である。しかし、それは破壊の神への生贄ではなく社会運行と秩序維持の神(ヴィシュヌ神あるいはクリシュナ神を僕は想像する)への生贄なのだ。そして、この小説にある犠牲は、悲惨でも残酷でもなく、ある種「いのち」のきらめきを示している。シャラットチャンドラの物語は、読者を退屈させない。と同時に神話的とも言いたくなる広大な宇宙の理(ことわり)を思いおこさせる。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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