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60.ファルーク・ドーンディ『イースト・エンドのすぐそこ』、 Farrukh Dhondy, East End at Your Feet, published in Topliners 1976, in M Books 1988.

farukh+003_convert.jpg イースト・エンドの少年や少女たちは
どんな風に大人になっていくのだろう
ファルーク・ドーンディは
異郷のアドッレセンスに
どうにか生き延びてくれ
幸福になってくれ
罠に気をつけろ
自分を見失うな
正しく生きてくれ
と連帯のメッセージを送る







1.
   学校にいる上級のワルが、自分の姉に惚れてしまう。姉へのラブ・レターを手渡すよう脅される。自分の姉が、美人でそれほど目立たなければ自分はこんなことで悩まなくて済むのに、と思う。・・・設定が面白い。ひ弱な自分が不良をぶちのめさなければならないと思うところが、アジア的と考えるべきなのか・・・、あるいは、モスレムの雰囲気なのか。あるいは個人の問題ではなく、家族の名誉に係る問題と主人公の少年は考えているのか。

2.
   作家は誰に語りかけているのか。少年たちにか。自分の少年時代にたいしてだろうか。あるいは、少年たちの未来にたいしてか。
   ファルーク・ドーンディは、少年・少女の物語を得意とする作家だ。・・・少年・少女を主役とする物語は僕に不思議な感覚を呼びおこす。とても不思議だ。この短編小説集『イースト・エンドのすぐそこ』は、少年期の不思議と、イースト・エンド(オブ・ロンドン)の不思議において、二重のかなたを示している。

3.
   ニキビに悩む娘が、セックスすればニキビが治ると聞かされる。・・・性が思わぬ方角から飛び込んでくる。この短篇集における少年・少女たちのおもな関心はセックスというわけではない、とあらためて思う。少年・少女の心を占めるのは、友達であり、家族であり、先生との関係なのだ。あるいは、生きていくこと、そのものであるかも知れない。

4.
   少年・少女たちのお気にいりのアイテムは音楽だ。芸術家の雰囲気をもつ白人のボーイフレンドは、趣味の悪いレゲーではなくミック・ジャガーをスマートに聞いている。そのボーイフレンドがレコードを携えて家に遊びにくる。父のプレイヤーで二人はロックを聴く。父親が帰ってきて気まずい雰囲気になると少年はレコードを置いて帰ってゆく。ヒンドゥー歌謡しか聞かない父は、ボーイフレンドのストーンズのレコードを盗み、隠してしまうのだ。父親には、ロックを受け入れることができない。というか怒りしか感じられない。・・・父の暴挙について優しく諭すオバさんの挿話がいい。故国インドにおける家族のひとつのエピソードに僕の暖かなこころが蘇ってくる。祖父は、女たちが素敵だと思って買ってきた陶磁器の一式を、粉々に壊してしまったのだ。

5.
   表題にもなっている“イースト・エンドのすぐそこ”は、ディッケンズの二都物語ならぬ、ケシヤプ少年の二都物語だ。ロンドンとパリではなく、ロンドンとボンベイの二都物語。物語の主調音は悲しい。一家は、夢を求めてロンドンにやってきた。豊かな暮らしができるはずだった。しかし、父親の死によってボンベイに引き戻される。・・・少年のモノローグは淡々と進行し、少年の未来への可能性がひとつずつ潰え去ってゆく。もし、イースト・エンドの実際の少年・少女たちがこの短編を読んだならどんな感想をもつのだろう。うるさい両親の存在のありがたみか、それともインドに連れ戻される恐れだろうか。うまく言えないが、イースト・エンドが自分達の実際の棲家であることを客観視する感覚ではないだろうか。

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ファルーク・ドーンディ
パルシーの家系(イランの拝火教徒の末裔)の子として
1944年プネーに生まれる
プネー大学卒業後、奨学金を得て渡英、ケンブリッジなどに学ぶ
英国ブラック・パンサーなどのがちがちの左翼の活動家でありながら
きわめて反リベラリズム色の濃いV. S. ナイポールとも親しい交遊をもつという
児童文学、テレビや芝居の台本、エッセイばかりでなく
近年ではルーミー(13世紀イランのスーフィズム詩人)の新訳も世に問うている

6. 
   高学歴の秀才ファルーク・ドーンディの書くイースト・ロンドンの住民は、決して豊かな人々ではない。父親のようにインドで金銀細工師をしていれば良かった、と嘆く短編がある。英語を操れない人も多い。片言の英語の会話がいつしかグジャラート語に変わり、グジャラート語の一言も解しない者がすべてを理解する。・・・作家と庶民の間の文化的・経済的なギャップは明らかだ。しかし、ファルーク・ドーンディはイースト・エンドの人々が好きなんだろうなー、と思う。そしてそこで生き始めた少年・少女達を励まそうとしている。自分を見失うな、自分の可能性を信じろ、仲間や友情を大切にしろ、不正や暴力に屈するな、と。それはあるべき世界についての話ではなく、現実を生き始めた少年や少女への連帯のメッセージだ。

7.
  絵がうまい少年は、白人の娘を勇気をだしてデートに誘う。少年は、彼女が彼に好意をもっていることは知っている。しかし、その誘いは彼女にうまく躱される。少年は、有色人種との外出を両親に咎められことを嫌ったのだと考える。・・・少年はコンペ用に入念に描いた彼女のポートレイトをどうでもいいものとバザーで売りにだすのだ。最終場面のチープな結末が、僕は好きだなー。

8.
  いわゆるパキ・バッシングとよばれる社会現象を扱った短編もある。親友の父親が、ごろつきの挑発・暴力に傷つき倒れ、病院に運ばれる。この短編は、バッシングの恐怖ではなく、ベンガル人のささやかな雄姿を、小さくきらめく民族の誇りと勇気を描いている。

9.
  この短篇集を読んでいると、僕もイースト・エンドの住人になりたくなってくる。素敵な孤独と淡い連帯の感覚を思ってしまう。サイードなら、そんな夢想は経験すれば地獄と化す、と言うだろう。この本を読んで、二十世紀は越境する人々の時代であった、と言えば大仰になる。だが、ナイポールが旅先のホテルにいるときが一番落ち着く、という感覚に近いか。ファルーク・ドーンディの短編小説集は、そんな感覚にもつれながら、イースト・エンドの少年・少女に寄り添い、彼ら自身の物語を創造する。

46.ファルーク・ドーンディ『メッカに行こうよ』、Farrukh Dhondy, Come to Mecca and Other Stories, first published in London 1978 by Fontana Lions.

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マルチ・エスニックな移民社会における
フェスティバルが最高潮に達しようとするとき
警官隊の介入があり衝突へと発展しゆく
警官にはがい絞めにあった衣装担当のジョジョは
自分にかまわずに逃げろ
とカーニバル・クイーンの少女に叫ぶ
衣装の羽根をひろげ
蝶となって飛んでゆけと
 




  
    装丁のいい本はなかみも大抵いい、と言っていたのは誰だったか。この『メッカに行こうよ』も、表紙のイラストがなかなかカッコイイ。そしてなかみもすごく良かった。マルチ・エスニックなイースト・エンド(オブ・ロンドン)を舞台に、少年・娘・青年の生活とストラッグルとはかない恋に、胸がキュンとなった。ところで、タイトルの「メッカに行こうよ」だが、勘のいい人は何となく想像しているように、メッカとはブリック・レインにあるダンスホールのことだ。そう言うと、この短篇集のイメージが沸いてくるだろう。

   この作家を何で知ったのだろう。すっかり忘れてしまった。どうにか思いだしてみると、おそらくアミタヴァ・クマールの本に紹介されていたんじゃないだろうか。というのは、この本が、おもに英国に流出したベンガル人の物語だからだ。そう思ったのは、クマールの本がいつも海外に流出した南アジアの人々を主題にしているからだ。

   この本は少年むけ読み物だ。
   百数十ページのこぶりの本のなかに六篇の短編小説が入っている。さまざまなギャップ-常識や文化やジェンダーなどについて-が散りばめられていて楽しい。
   ストライキをしでかす少年は、英国人の女性記者から取材をうける。彼女は、少年を組合のミーテイングに誘う。労働運動に目覚めさせようとしているのだろう。しかし、めかし込んだ少年は、女性記者をデートに誘おうとするのだ。ダンスホール「メッカ」にだ。
   あるいはまた詩心がある教師との交流を描いた短編では、教師はワーズワースやT. S.エリオットやらの詩の素晴らしさを称揚しようとする。しかし、少年が書いた詩は、バビロン(摩都)とかジャー(神)とかのレゲーのキーワードを用いた詩なのだ。
   数え上げれば切がないギャップの例に出くわす。異文化の接触による火花が散るのは、僕には何とも楽しい。しかし、この少年むけ短篇集がそれほど理解しやすいかというとそうではない。イースト・エンドの住人にとってはおそらくあたりまえのことが僕にはそれほど良く理解できないからだ。たとえば詩を教える教師は「ハンドバッグ」をもっていて、生徒たちはそれに注意をむける。「ハンドバッグ」が、同性愛者のサインにも思えるし、そうでないのかも知れない。あるいは、コミュニティのカーニバルを扱った短編では、カーニバル・クイーンになる娘の母親は、Mistressと言われている。通ってくるダンナがいるのだからやはり二号さんということになるのだろうが、僕にはピンとこない。

   「フリーディナーズ」Free Dinnersという短篇も、このフリーディナーズというのが良く分からない。クラスでは僕とブラックのロレーヌだけがこのフリーディナーにあずかる。それは極貧の象徴なのか、とも思う。しかし、ロレーヌの父親は、copper(警官)で、公務員であれば極貧ということはないとおもうのだけれども、copperにはもっと違う意味があるようにも考えられる。
   分からないことが多いのだけれども、「フリーディナーズ」を僕は堪能した。悲しい物語だ。貧困とつつましい幸福と心が通いだす二人の愛を僕は感じた。ダンスがうまい恋人がストリッパーに、やがて街娼になってゆくのは、悲惨というよりも運命のようなのだ。人の幸福と不幸は、初めから運命づけられているのかも知れない、と思ったのだ。

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ファルーク・ドーンディ
1944年パルシー教徒の家系に属するものとしてプネーに生まれる 
プネー大学を卒業、スカラシップを得て英国ケンブリッジに留学
以降、英国に居住
自身、反人種差別の活動家であり、また左派知識人との強い絆をもつ一方
V. S. ナイポールとも仲がいい、とのこと
児童書、教科書、伝記、劇作、そして映画およびTVの台本と
幅広い創作活動を広げている

   著者にとっては二作目のこの短篇集は、インド出身の著者のインドらしさを色濃く引きずっている。そのインド性と移民社会の英国との衝突するときに発する火花が僕には面白い。しかし、どうなんだろう、時がたてば、故郷のことも固定した記憶となって薄まってゆくはずだ。その時、著者のものする小説はどんな仕方で英国の現実と係りあってゆくのだろうか。・・・ファルークの本を読み続けよう、と僕は思う。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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