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47.石田英明編訳『ウダイ・プラカーシ選集』(大同生命国際文化基金、2011年刊)

UdayP1aaa.jpg 『ウダイ・プラカーシ選集』によって
パンチのきいた日本語と
また要領をえた注釈で
ウダイ・プラカーシの代表作三篇を
僕らは楽しみながら読むことができる
プラカーシの小説を読めば読むほど
この作家の偉大な可笑しさと
インドの厳しい現実を思うのだけれども
そしてまた 時代の変化にたいしても
アクチュアルな緊張感覚をもちつつ
変わらぬ硬骨漢ぶりに感嘆する
この『選集』を読み終えたとき ぼくは
もっともっと多くのプラカーシ作品に
触れたいと思った
それはもっとも美しいインドではないとしても
インドの魅力の謎に
もっとも近い気がするのだ
 

   『デリーの壁』The Walls of Delhi, 2012を紹介する文章で、ウダイ・プラカーシの翻訳単行本は見たことがないと僕は言ったのだが、『ウダイ・プラカーシ選集』(1911年12月刊)が出版されていた。しかし、この本は一般の書店では買えない。僕は街の図書館で借りて読んだ。このような個性的で面白い小説を所有できないのは非常に残念なのだけれども、とりあえず良質な日本語と適宜な注でもってプラカーシの小説を読めることはあり難い。

    この『選集』には、三篇の小説が収まっている。「ティルチ」と「ポール・ゴーラムのスクーター」および「・・・そして最後に祈りを」だ。「祈り」を読むのは初めてだったけど、「ティルチ」と「ポール・ゴーラム」は、英語で読んでいた。「ティルチ」は、今回翻訳を読んでみてだいたい読めていたと思ったが、「ポール・ゴーラム」については、ほとんど何も理解できていなかった。

    「ポール・ゴーラム」が日本語で読めるのは有難い。発想に飛躍があり、時に詩的なイメージが広がり、また足下のインドのニュース(たとえば話題のテレビCMのような)についての闖入があり、なかなか手ごわい小説なのだ。しかし、翻訳とは有難いものだ。ずいぶんいろいろなことを教えてもらいながら小説を堪能できた。

    「ティルチ」は毒とかげに父親が咬まれる話だ。父親は、咬まれた翌日街の裁判所にでむく要件があるのだが、炎天下アタマがおかしくなり、ついには野垂れ死にする。正気を失いかけた父親を、街の悪童たちが追い回し石を投げつけるところが妙にリアルで恐ろしい。スリルに充ちた物語展開とインドにおける厳しい生存のサバイバル劇を見るようで、しばし息をのんで読んだ。
 
    英語版『デリーの壁』の前書きに、プラカーシの熱狂的なファンのことが書かれていた。「この小説はまったく自分のことのようだ」というようなことをファンはプラカーシに迫ってくるのだという。僕もそうした熱狂的なファンの存在を容易に想像できる。そうだとすれば読者を熱狂化するプラカーシのメッセージとはいったい何なんだろう。
    プラカーシの小説の特長を思いつくままに書いてみると、インドの古典叙事詩にも通じる物語の楽しさがあり、詩人ならでわの比喩・イメージの飛躍があり、またある種の猥雑さ、痛烈な悪罵、そしてこれは何と言ったらいいのかブレヒト的な批判意識(ブルジャワ社会の欺瞞を鋭くつく乾いたユーモア)がある。ヒンドゥー社会の猥雑ともいえる現実と硬派な文学的洗練を読者はさまざまな仕方で楽しめるのだ。しかし、一番とりあげたいのは、何と呼んだらよいか、やはりある種の愚者の肖像なのだ。「ポール・ゴーラム」も、時代の変化についていけない寂しくも愚かなヒンドゥー詩人の物語だが、「・・・そして最後に祈りを」はより徹底した愚者の物語、愚者への絶大な讃歌なのだと僕は思う。

   ワーカンカル医学博士は、優秀な医師だ。博士の論文は、国際的な医学雑誌にも掲載された。ワーカンカル博士は医学・医療ばかりでなく、宗教や科学についてユニークな見識をもち、民族奉仕団(SSR、ガンディー暗殺者の出身母体であり、組織はガンディーの暗殺を公式に肯定した)の活動にも熱心なのだ。博士は、ワイロや不正には決して手を染めない。また貧しい人々にも誠心誠意の医療行為を施す。ゆえに庶民のワーカンカル医師への信認は絶大なのだが、勤務する公立病院では、不正で私腹をこやしている上司・同僚にとっては目のうえのたんこぶなのだ。彼らは、はじめ彼を懐柔しようとし、また、それが不可能と知ると僻地の医療施設へ博士を左遷する。 
   「病院の者は、私を融通のきかない理想主義者だと笑う。しかし、私の仕事のどこに理想があるのか」と博士は自らの日記に書く。そして、博士の妻は「自分の夫が多くの人から感謝され褒められると、自分がからかわれているとしか思えない」と嘆息する。
ワーカンカル博士はすごい秀才でもあるにもかかわらず、冷たい感じがなく、暖かな何かをもっている。それは、左遷された僻地に住む先住民への博士の関心によく表れている。また妻に女学生時代の恰好をさせて楽しむ博士のいささか倒錯した趣味にも現れているのだろう、と思う。

   この小説は、正義感を強くもつ硬骨漢の物語ではない。そうではなくワーカンカル博士は世間的な出世や金銭欲にはまったく無頓着に、ただひたすら己の仕事の使命のみをまっとうしようとする。それは、世間的には愚か者と言ってもいい。さらに、愚かさが少し度をすぎている分ユーモラスで開放的だ。
   ワーカンカル医学博士は、最後に勝利する。政治家や役人やギャングや警官の悪党どもを蹴散らし、若いムスリム青年の死の尊厳をまもる。ワーカンカル医学博士は、自らの死とヒンドゥー神・ガネーシャの介添えによって真実をまもる。しかし、そのタッチは、受難というよりは、トリック・スターとしてのヒンドゥー賢者に近い。

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ウダイ・プラカーシ

   プラカーシは、左派の信条を強くもち、時代の大きな変化にも変節することのない硬派のヒンドゥー語作家だ。ガンディーの時代がどんどん遠ざかり、グロウバル経済とやらの喧噪にゆれる今日のインドにおいても、プラカーシが単に節操のかたい作家である以上のアクチュアルな作家であるひとつの理由が、愚かなる神々を称賛し続けているからなのではないだろうか。愚かなる神々への称賛は、時代の変化を硬直して否認するのではなく、時代との緊張を持続しつつ、しかしそれでもなお、民衆的真実は何かを問い・追求し続けるインドの人々を励まし続けている。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

42.ウダイ・プラカーシュ『金色に輝く日傘をもつ娘』Uday Prakash, The Girl with the Golden Parasol, translated by Jason Grunebaum, published in 2013 by Yale University Press, first published in Hindi 2011.

PrakashBookBBB.jpg 海を泳ぐ二匹の小さな魚は
自由な愛を歌う
他方 カースト間対立の暴力と流血は
キャンパスにおいて日常化しつつある
ウダイ・プラカーシュの『金色に輝く日傘をもつ娘』は
カーストを超えた若い学生の恋の物語と
カーストの現実の壁を
シュールに ときに詩的に ユーモアをまじえ語る
ありそうもない恋物語が
ありえそうな残虐さとむすびつくとき
夢物語の時間が終わり 
現実にひき戻される
 

  
   ウダイ・プラカーシュの『金色に輝く日傘をもつ娘』は、低いカーストの貧しい青年と金持ちのブラーミンの娘が愛しあう小説だ。これは僕にとってとても難しい小説だった。それは、僕がカーストのことを良く理解できないためだろう。恋人アンジャリの父親は、成功した建設会社のオーナーで今は州政府の閣僚である。とくに社会思想に目覚めたわけでもない「箱入り娘」が低いカーストの青年に恋をするのだ。

   ふたりの恋は、「インドのケンブリッジ」と言われる大学を舞台にしている。その大学の学生寮タゴール・ホステルは、インドのさまざまな地方からやってきた学生たちのつどう下宿だ。カルティケヤは、プネーからやってきた。ヘマントはアッサムの出身だ。サパムは、マニプールからやってきたのだが、教師をしている兄が最近警官に誤射され死んだのだった。彼らの両親は、しがない生業で食いつないでいる人々だ。百姓や、小店主、下級官吏だ。彼らは貧しい生活をさらに切り詰め、あるいはどこからか金を借りてきて息子たちに送る。その金は、家族の涙と汗、そして夢でぐしょぐしょに濡れている、と作家は書く。

   前に読んだ『デリーの壁』The Walls of Delhi, 2012は、ありえないことをめぐる物語だった。『デリーの壁』は、ありえないことを支える途方もないデタラメ・ほら話が楽しかった。そんなデタラメ・ほら話がこの小説には見つからない。しばらく迷っていると、低いカーストの貧しい青年と金持ちのブラーミンの娘との恋自体がありえない話ではないのか、と思えてきた。これは僕の推測だ。インドの人々は、それは誤解だというかもしれない。

   プラカーシュは、六十年代のヒンドゥー映画について言う。それは、貧しい低いカーストの青年が、金持ちの高位カーストの娘に恋する物語を繰り返した、と。ありえない夢物語に貧しい人々が酔いしれたのだ。この小説も、あり得ない話なのかも知れない、と僕は思うのだ。もしかすると、インドの人々にそれは自明のことなのかも知れな。他方、これを読むアメリカ人の多くは、自由恋愛が許されないインドのカースト社会に憤るような気がする。

   ふたりの恋が、海をおよぐ二匹の魚にたとえられる。インドの古い、古い神話のようだ。僕はその詩的な表現が好きだ。他方、ラウルがアンジャヤリとセックスするとき、「オレは野獣となって犯す」、と宣言する。「幾千年の抑圧の軛(くびき)を絶ち、復讐をとげる」、と。これも、二人の恋があり得ない物語だから意味をもつのではないか。

   ムルク・ラージ・アーナンドの『不可触民』Mulk Raj Anand, Untouchable, 1935において寺院付きのパンディットが、清掃カーストの娘を誘惑しようとするのも、U. R. アナンタムールティの『儀式』U. R. Anantha Murthy, Samskara, 1965における導師・アーチャリが不可触民の情婦と交情・共食するのも、上位カーストの男が下位カーストの女に手をだし、侵犯する。そんな一方通行が、現代インドの物語においても繰り返し語られてきた。しかし、この『金色に輝く日傘をもつ娘』は違う。同じキャンパスで学ぶ若い二人が愛しあうからだ。プラカーシュは、上位カーストの者が下位カーストの女を犯す伝統的な価値観を転倒する。あるいはパロディ化する。ただ、プラカーシュはありえない二人の恋が残虐な悲劇に終わるとき、それはありうる話なのだと語り、ありえない時間をリセットするのだ。
 
   ふたりの恋は、「インドのケンブリッジ」と言われる大学を舞台にしている。それは、平和なキャンパスではない。上位カーストの学生グループがまず下位カーストの学生を攻撃し、凌辱し、わずかな現金を奪ってゆく、ところから始まる。下位カーストの学生も、手製の銃や火炎瓶で武装し反撃にでる。プラカーシュは、一貫して下位カーストの学生の立場に立つ。この対立も、実は分かりづらい。背景にあるカーストがよく理解できないからだ。

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ウダイ・プラカーシュ

   パンカジ・ミシュラの『ロマンティックス』Pankaj Mishra, The Romantics, 1999という小説には、上位カーストの学生扶助グループのリーダーが登場する。彼の部屋には、拳銃がころがっていて小説の主人公は、嫌な印象をもつ。しかし、彼らも貧しい。ミシュラはそのリーダーの故郷を訪ねると、未亡人の彼の母親は「下位カーストへの割り当てがあり、有力なコネをもたないこの子に就職口はない。早晩破滅するしかない」と言い捨てる。学生リーダーは、母親の予想したようにギャングに身を落としてゆくのだ。主人公とエドマンド・ウィルソンについて語りあったリーダーは、ギャング間の抗争で、バラナシの路上で撃ち殺される。
 プラカーシュ―が描く非ブラーミン学生を攻撃する上位カーストグループのごろつきも、ミシュラが同情を寄せる上位カーストの学生扶助グループのリーダーもともに真実の一面を捉えているのだろう。どちらの側により正義があるのか、僕には分からない。

 書店では、ガンディやトルストイ、プレームチャンドやタゴールの本が姿を消した。かわりにビル・ゲイツの本がベストセラーになっている。プラカーシュは、インドにおける経済の開放とグローバル化に毒づく。インドはもはやそこに住む人々の国ではなく、インドの民主主義の伝統は息絶えた。一部のギャングがインドという国を牛耳っている、と嘆息する。プラカーシュは非妥協的な硬派の左翼だ。反時代的で抵抗する者であり、正義とは何かを問い詰める。しかし、その小説世界の豊かな表情は一体何なんだろう。主義主張における硬骨漢ぶりとその表現の自由さ、豊かな想像力のバランスがいい。ウダイ・プラカーシュは、パブロ・ネルーダやガルシア・マルケスと似た血脈に属する、と言えるのだろうか。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 学問・文化・芸術

28.ウダイ・プラカーシュ『デリーの壁』、Uday Prakash, The Walles of Delhi, Translated by Jason Grunebaum, Published in 2012 by UWA(The University of Western Australia) Publishing Crawley, Australia.

ウダイ・プラカーシュは人間らしい生活ができているのは
ほんの僅かな人々にすぎず
あとは虫けらのように生きていくしかないのだと言う
虫けら同然の生を強いられている人々にとって
その厳しい境遇から抜け出すことはどのようにすれば可能なのか
第一篇は、清掃人ラムニヴァスにありえないことが起こり
十代の情婦スシュマとの至福の時をすごす
第二篇は、ありえないことが起こり
モハンダスは何度も幸福になりそこねる
腐敗と堕落と奸計によって
モハンダスは何と名前を盗まれてしまうのだ
第三篇は、一番ありえそうな脱出の物語
しかし、何が脱出に成功した二人を祝福したのか
今もっとも注目を集めている現代ヒンドゥー文学の急先鋒は
現在インドで進行している経済発展と開発が
虫けらのように生きる多くの人々を救いだすことは
決してないのだと呻くように語る


   ウダイ・プラカーシュはこだわりのヒンドゥー語作家で、英語で読める本は限られている。短編小説集『どんちゃん騒ぎ』、創作およびエッセイを集めた『短いのや、長いのや』、そしてこの本『デリーの壁』、またしばらく入手が難しかった『黄金の傘を手にする少女』も近くアメリカででるようだが、そのぐらいだ。しかし、近刊の『デリー、壁のなか』を読みだすと、「ウダイ・プラカーシュはやはり最高」と、思わず叫びたくなったのだ。

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第一篇、清掃人ラムニヴァスにありえないことが起こり
十代の情婦スシュマと至福の時をすごす


   V. S. ナイポールは、インドの現実を直視すれは狂気と化す、と言った。そしてウダイ・プラカーシュは、直視すれば狂気と化すインドの現実に入ってゆく。プラカーシュは、虫けらのように生きている人間から目をそらさない。表題作“デリー、壁”の冒頭数十ページは、自分の住んでいるフラットからそう遠くない通りで、路上で商いをしている人々について語る。ディティールが鮮やかで、思わず引き込まれるようにして読んだ。はしおりながら雰囲気を伝えてみよう。

   台車を引きパーンを商うサンジャイは、ウッタルプラデシュ州のある村からでてきたのだ。その隣にはチャイ屋のラタンラルがいる、その向かいの少し道を下ったところではサントッシュが路上で車の修理をしている。ラジュバティは、ゆで卵を売っている。陽が落ちると、そこにアイスクリーム売りの車をひくブラジンデルが加わるが、彼がひく車には、 “クワリティアイスクリーム”と虹色のペンキで鮮やかに書かれている。そこらにはたくさんのオート・リクショウの運転手が屯していて、彼らのほとんどがビハール州かオリッサ州の出身なのだ。トファイル・アーメドはナーランダからミシンを抱えてやってきた。住所不定なので客は彼を信用できない。だから小学生の通学鞄か工場労働者の制服の修繕ぐらいしか仕事がないのだ。そのトファイルが突然この場所から姿を消す。ヤツは病気でナーランダに帰ったのだとある者は言い、ブルーラインバスに撥ねられ、ヤツのミシンは警察署の裏にごみとなって捨てられている、とある者は言う。この通りには、毎日新参者があらわれる。しかしそのうちの誰かが突然姿を消し、二度と戻ってこない。それはまるで法律で決められているかのようにごく日常的に繰り返される。

   このあとプラカーシュは、その通りから離れてとある廃墟に住む住人を紹介し、さらにそこから貧乏人に充ちた眼にみえないトンネルのなかに入ってゆく。貧民の血を吸いとってデリーの街は生き延び、あるいは肥大化している、とでもプラカーシュは言っているようだ。

   清掃人ラムニヴァスにありえないことが起こる。ラムニヴァスは若い情婦をつれてタジマハールへ旅行するのだ。豪華ホテルで大盤振る舞いする不審な二人のところに警察が乗り込んでくる。これでラムニヴァスの幸福もおしまいだと、思っていたらそうはならない。警察官は、どこで金を盗んだのだとか、スシュマ(情婦)はいくつなのかと尋問をつづけるが、やがて酒宴となり、泥酔した警官がラムニヴァスからしこたま賄賂を巻き上げたあと引き上げていくのだ。プラカーシュの小説が楽しいのは、インドの度し難い現実から出発し、それがいつしかどんちゃん騒ぎ・どたばた劇に展開してゆくところだ。プラカーシュの想像力による飛躍は、何かインドでなら起こり得そうな味わいがあり、また、地を這うリアリズムで同情を押しつけてくるようなところがまったくないのがいい。

   多くの者が田舎から出てきて何の保障もなく苦しい生活を強いられている。どうしたら彼らはこの境遇から這い上がることができるのか。ウダイ・プラカーシュのこの小説における答えは簡単だ。つまりそれはあり得ない。・・・この小説の語り部、つまりかなり作者に近い者は、清掃人ラムニヴァスから話を聞いて、悪の隠し金を探し夜のデリーの街をさまよい歩く。この悲惨な境遇から脱出する方途がもしあるとすれば、それはデリーのどこかの壁に隠された金を当てもなく探し続けるようなものだ、と作家は語る。

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ウダイ・プラカーシュの翻訳はあるのだろうか
少なくとも、単行本では見たことがない
入手が容易な英訳はRage Revelry and Romance, New Delhi 2003
およびShort Shorts Long Shots, New Delhi 2003とこの本だ
傑作の評判の高いThe Girl with Golden Parasol が来年アメリカで再版される
非ブラーミンの少年がブラーミンの少女に恋する物語とのこと
再版が待ち遠しい

第二篇モハンダス、ありえないことが何度も起こり
モハンダスは何度も幸福になりそこねる
腐敗と堕落の奸計によって
モハンダスは何と名前を盗まれてしまう


   モハンダスは、低位・弱小カーストに属し、政治ボス・実業家あるいは街の有力者とのコネを持っていない。ただ、モハンダスは、ふたつの宝をもつ。つまり美人で気立てのいい働き者の妻とBA(学卒資格)だ。モハンダスはBA取得のために猛勉強した。BAがあれば今の畑仕事と竹細工の貧しく苛酷な境遇-毎月給料が貰えあったかい食事がとれる、盲目の母と病気の父を病院に連れていける、妻にサリーを買ってやれる-から脱出できるはずだとモハンダスばかりでなく家族の皆も考える。

   モハンダスは最優秀の成績でBAをとった。しかし、モハンダスが入っていこうとする社会はあまりにずる賢いのに、貧しく力のないモハンダスはあまりに公明正大だ。力あるものがずる賢いトリックを用い、貧しく力のないモハンダスが、正しい道をゆく。モハンダスのそのまっすぐな生き方は、何かとぼけた感じがして、そこが実は面白い。村の金持ちは、モハンダスのBAに嫉妬しつつ、貧乏人のBAへのこだわりをバカにする。しかし、この小説がモハンダスのBAを嘲笑している風はまったくない。モハンダスの愚直な公明正大さは、ひょっとすると作家の資質と重なっているのかもしれないのだ。作家は、モハンダスのBAと正直さの側に立っている。 
   ウダイ・プラカーシュは「BAも多くの文学賞を得ているのに定職なく生活は極貧」「英語は解放の言葉、ヒンドゥー語は人々を奴隷にする」と自らのヒンドゥー語作家への拘りを呪っている(ちなみに作家の母語はチャッティスガル語でヒンドゥー語は第二の言語なのだという)。モハンダスの愚直なとぼけた味わいは、プラカーシュの強烈な個性と重なって見える。ずる賢くつれない世間を渡ってゆく能力の欠如にこそプラカーシュの文学創造の根拠があるのではないか。

   モハンダスがありえないトリックによって何度も幸福になりそこねる時、9.11のテロでニューヨークの世界貿易センタービルは崩れ落ち、アジアの二つの主権国家が徹底的に破壊され、インドではダム建設で5000万人もの人々が家を失い、2000万人もの人々が毎日の飲料水に事欠き、7億もの人々が、生活用水の便のない生活を強いられている。他方において、インド経済は驚異的な成長をとげているとされ、十年でインドはアメリカになる、と人々は話しあっているのだ。
   作家は、モハンダスの希望と落胆を語りながら、それを世界の出来事を対比する。モハンダスの悲嘆の物語に、いささか強引なしかたで世界情勢を挿入してくるのだ。僕には、マディア・プラデーシュ州の寒村に住む一人の男の不幸と激変する世界の出来事との間には何の関係もないと思う。しかし、モハンダスの悲喜劇に世界情勢を作家が執拗に挿入してくるのはなぜなのだろう。
   僕は、ここで何となく二つのことが思い浮かぶ。
   ひとつには、インド経済の進展・繁栄に取り残されているモハンダス。今のインドの経済開放の恩恵が、ごく一部の人々のものでしかないことを作家はきわめて厳しい姿勢で見ている。
   もうひとつは、劣悪な生存を強いられているインドの大衆の現実を知りえず、ひたすら自分の困窮と不幸からの脱出に汲々とし一喜一憂するモハンダスに対する作家の批評意識、あるいは相対化の試み、を読みとれると僕は思う。モハンダスに社会倫理を求めるのが本意ではなく、それはインドのインテリゲンツィアに対するプラカーシュの批評意識を、あるいは自分自身にたいする社会倫理を求める批評意識を僕は強く感じる。

   ウダイ・プラカーシュは、ヒンドゥー社会のどんちゃん騒ぎ・どたばた喜劇をリアルに描くのが非常にうまいのだが(ということは、それらとともに生きている)、社会倫理性を強くもった作家だ。あらゆる社会の不正に対して作家には責任があると考えているふしがあるのだ。それをつきつめて考えると、僕にはいささか息苦しくなるのだけれども、その倫理的姿勢がプラカーシュの描くヒンドゥー社会のどんちゃん騒ぎ・どたばた喜劇を読むに耐える小説にしていると僕は考える。

   モハンダスにおける自らの名前の喪失は、西欧の小説にあるような自分が誰なのか分からなくなる自己同一性の危機の物語と似ている。しかし、プラカーシュの語る自らの名前の喪失の物語は、人間の内面の劇として喪失ではなく、モハンダスとモハンダスの家族の生存と生活をかけた闘いであり、生存のための名前を強奪されてしまう物語なのだ。
   さらに、モハンダスのケースは、多くのインドの人々に起こりうることなのかも知れない。モハンダスの悲惨と不幸は、つまり下位・弱小カーストに属し有力者とのコネをもたないものが安定した社会的地位を得ることが至難であることを表現しているのだ。インドの多くの人々にとって他人事ではない現実味をもった物語であると考えた方が良いように思った。

第三篇マンゴースィル、一番ありえそうな逃亡の物語
しかし、何が脱出に成功した二人を祝福したのか
作家はインドの今の変化に戸惑いを感じながら
変化の恩恵が、大多数の貧しい人々とは無縁であることを
脱出した家族に寄り添いつつ語る


   ウダイ・プラカーシュは、類まれな才能をもつ物語作家であるから、この“マンゴースィル”の筋を明かすことは慎まなければならないと思う。しかし、物語の展開とは別なところで、この中編小説がもっている気になる点について少し触れておきたい。

   マンゴースィル”は、若い女と年下の男が、苛酷な状況から脱出し、デリーのスラムに辿りつき、そこでの生活と家族の行く末を見届ける作品だ。それで、何が特異かというと、そこにかなりの分量で作家自身についての記述が挿入されてくることなのだ。作家は、二人の脱出の話に興味深く耳をかたむけ、途絶えながらもこの家族との交流を続ける。その間、作家にとっての苦しい生活や不安定な身分(たとえば、ヒンドゥー語作家にとって書くべき場所はもはやどこにもないのだ、と嘆く)いくつもの庶民の街、あるいはスラムがあとかたもなく消えていくインド社会の変化への思いを語る。しかし、そこまではごくありきたりの展開に思えるのだが、脱出した女ショーバーが作家の眼に妖艶な女として見えてくるところから、何やら小説の本筋とは違った異常音が聞こえてくるのだ。ショーバーは、作家との再会をつれあいのチャンドラカントに哀願する。夫のチャンドラカントは、作家を家に招き食事と酒を振舞う。ショーバーは、連れ合いに気を利かせて二人にしてほしいと合図を送る。作家は、ショーバーに男としての欲望を抱く。ショーバーは作家に肩をよせ、ひたすら涙を流すのだ。ショーバーは、サリーがびしょびしょになるほどの大量の涙を流すのだ。

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ウダイ・プラカーシュ
1952年1月1日、マディア・プラデーシュ州シャードルに近い
寒村に生まれる
十三歳で母を失いアルコール中毒の父をあとに
近隣の村の教師に育てられる
科学分野で学部卒業後、ヒンドゥー文学の修士号を取得
共産党活動家として投獄体験をもつ
ヒンドゥー語詩人、小説家、州政府行政職・研究者、ジャーナリスト、翻訳家(ネルーダやロルカ、さらにはロマン・ロランの『インド』をフランス語からヒンドゥー語に翻訳している)TVディレクター、映画制作、雑誌編集と幅広いキャリアをもつ
2010年ヒンドゥー語部門のサトイヤ賞を受ける

   この中編小説の終わりに近いところで、この小説の真の主役であるかもしれないスーリーは、「この世で本当に人間といえるのは、一割か二割の人々に過ぎない、あとは蟻か、ごきぶりか、犬か、豚か、牛なんだ」と作家に語りかける。スーリーの言葉は、そのまま作家の思いに繋がっているはずだ。プラカーシュのこの本に共通する呻き声は、あまりにも多くの人々が人間として扱われていない屈辱と忍耐に対する狂気の、つまり条件ぬきの叫び声ならぬ呻き声であるかも知れない。プラカーシュの認識は、今のインドの近代化・経済発展が、あまりにも多くの人々の犠牲・収奪の上になりたっていて、一部のギャングどもだけが金儲けをしている、というものだ。「病院も、銀行も、学校も、議会も、裁判所も、それに広々とした大通りも、俺たちのものではない。俺たちは、そんな場所から追い払われるか、踏みつぶされて捨てられるのがせいぜいなのだ」と。
   モハンダスを窮地から救おうとした判事の家の壁には、マルクスとガンディーの肖像画が掛けられていた。インドの進むべき道は、マルクスとガンディーによって指ししめされているのだろうか。経済開放以前のインドのほうがマシだったとウダイ・プラカーシュが言っているわけではない。ただ、この小説ではっきりと言えるのは、今の経済開放や発展を徹底して疑う姿勢である。多くの貧しい人々を切り捨て彼らの生活の破壊のうえにしか成立しない現代化に対してウダイ・プラカーシュは「ノン」を意思表示する。今のインドの現代小説は、急速な経済の進展による現代化にたいして一様に戸惑いの表情をしめし、その現代化のなかで失われかけているものを必死で繋ぎとめようともがいているように見える。しかし、貧しい人々に寄り添うプラカーシュほどにラディカルに問題提議している作家を僕は知らない。

   しかし、それでもなお、プラカーシュの小説は、そんな図式には還元できない物語の楽しさに充ちていることを忘れてはならと思うのだ。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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