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100.アミット・チョウドリー『カルカッタ』、Amit Chaudhuri, Culcutta: Two years in the City, published by Alefred A Knopf 2013.

culcatta_20170805142628cb7.jpgアミット・チョウドリーの『カルカッタ』読んで
要約を作ってみた
それは 実に楽しく 感動を新たにする作業だった

物乞いの女と薬を買いにゆくチョウドリー
カルカッタの左派州政府が終わるとき
ある中産階級一家の没落
グロウバラゼイションの到来と本格料理の時代
召使たち それは盗みと若すぎる死
そしてカルカッタの魅力について考える

要約は 要約した本人にとってのみ
しばしば 発見の喜びがある
私にとって 『カルカッタ』という本は
通り一遍のインド理解のはるかむこうを
指し示す



§1.おおカルカッタ!

   父親は、1941年、カルカッタで勉学に励んでいた。父は、もう一人のチョウドリー、ニロッド・C・チョウドリーと同じ学校で勉強していた。父の小さな勉強部屋、通った安食堂を、思う。人ごみのカルカッタで父は疲れていた。日本軍がカルカッタを爆撃した。(本当か?知らなかった。)
   それから父は、会計士の資格をとるためにロンドンに渡る。あとから母が合流する。母は身ごもってカルカッタに戻ってきた。母には頼れる身内がいなかった。義理の祖母が母を見なければならなかったのだ。厳しい五月に私は生まれた。(それは酷暑の季節。)

   カルカッタ北部の嘗てのブルジョワたちの屋敷の跡を歩くのが好きだ。たとえばシャデルナゴル(カルカッタ中心部から北へ二十数キロ)はとてもフランス的な街なのだ。フランス窓がやってきたのは、デュプレックス(1697-1763)が英国と覇権を争っていた頃。あのフランス窓の残骸を手に入れられないだろうか。
3500ルピーでフランス窓と扉を買った。預ける場所も人もいないのに。

   二十世紀の初めデリーに首都が移転し、カルカッタの凋落がはっきりした。
   インドの新政府は、カルカッタの港湾特権を奪った。
   ワーラーナシーとカルカッタは似ている。死後の世界に繋がっているから。
   年老いた親たちの街、両親の晩年を共にすごし見送るために、輝かしい仕事を中断し、多くの者がカルカッタに帰ってくる。

   カルカッタは遊びと自由を可能にする街だ。詩は日常の風景を変えるもの。カルカッタは詩なのだ。それは日常からの解放を意味している。そして人々はここで憩う。憩うことについてタゴールは歌った。『自由の歌』Freedom Song, 1998のブゥハシュカールにしても、政治と芝居は切り離せない。(カルカッタの政治も詩に近い。)……私は、ずうっとカルカッタについて書いてきた。

§2.物乞いと薬を買いに

   英国から帰ってきてパーク・ストリードを再び歩いたときの感激が忘れられない。私は、カルカッタにいればそれだけで幸福なのだ、と思った。故郷でも異郷でもない、戻ってきたという感覚。
   オックスフォード書店のところに屯している女の子は、赤ん坊のときから知っている。少女は、川向うから毎日歩いてやってくるのだ。

   クリスマスの七日前、幸福そうな賑わいのなかの人々と物乞いたち。この独特なつかのまのエネルギーの横溢が好きだ。若い女がこの子に薬を買う金を恵んでくれと言う。私は、金ではなく、薬を買ってあげよう、と返答する。どうしてハウラで物乞いしないのか、などと会話をしながらジェー・ピー・メディコという薬屋に辿りつく。しわくちゃの紙切れにはとくべつな薬ではなくビタミン剤が処方されていた。彼女の名前は、ボビー・ミシュラといった。物乞いにすこしずつ気押しされつつ、私は、子供に路上のチョーミンを買ってやった。私は、路上で商いされるチョーミンを食べたことがない。

§3 カルカッタの左派州政府
 
   カルカッタをダメにしたのは、英国と左派政権(インド共産党マルクス主義派)だというステレイタイプを長いこと聞かされてきた。左派政権は、生活の質を大幅に向上できなかったとしても教育水準は確実にあがり、さらにマイノリティにもっとも寛容な社会を作りあげた。ホームレスがホームレスに食事の世話をするような街をつくったのだ。カルカッタの停滞・時代遅れには理由がある。つまり、市場主義経済への抵抗があるからなのだ。だが、大きな選挙を前にしてカルカッタの左派州政府は自らが作りあげたものにとらわれていた。

   州政府商業・経済商大臣のニルパム・センNirupam Senに、人のつてをたよって会いにゆく。センは、マルワリ(グジャラートに出自をもつベンガルで有力な商業者集団)で、彼が独身なのは、政治への献身を表している。センは、ジャーナリストにたいしては、愛国者としてふるまった。センは、イデオロギーで人を見ない。そして彼も、ベンガルにおける経済改革の必要性を感じていた。タダの大衆車ナノは、実は、センの発案だった。ナノの無残な流産が頭をよぎった。「チョウドリーさんは、社会にたいする責任以上のものを望むのですね」とセンは言った。

   2009年の州議員選挙で左翼=インド共産党マルクス主義派は後退し、2011年の選挙で決定的な敗北を、つまりベンガルの現実政治からの退場を宣告されたのだ。
選挙から半年が過ぎ、ベンガルが変わり始めた。
   毛沢東派の武装グループのリーダー、キシェンジKishenjiがカルカッタから100キロメートルの森の中で殺害された。キシェンジの母親がテレビのニューズで泣いていた。キシェンジは、ブラフマンの貧しい村の出身だった。数学と法科の学位をもっていた。

§4 ムカルジー家の没落

   私の小説『自由の歌』についての批評は散々なものだった。例外は、アニタ・ムカルジーで、彼女は、私の書くカルカッタが好きだと言ってくれた。そんな彼女から私はお茶に招かれた。彼女の顔の表情には独特のやさしさがある。彼女は、立ち上がって私たちを迎えられないことに恐縮していた。アニタは、天然痘の後遺症で立てないのだ。彼女は、自分の紅茶には手をつけない。礼節なのか、すでに紅茶を飲んでいたのか、分からない。
   アニタ・ムカルジーは、ヴィクトリア朝時代の英語を喋った。そのような古い英語が生きながらえているとは。アニタの古式な発音は、妻に、彼女のおばを思いださせ、妻は興奮し、しきりに懐かしがった。

   アニタの息子サミルダは、ケンブリッジ帰りだった。サミルダのヨーロッパは、私の知るヨーロッパと違っていた。彼の妻は英国人とのハーフだ。彼のようなカルカッタの教育のある中産階級をブゥハドゥラロクゥbhadralokと言う。彼は、英国から戻ると大手鉄鋼会社の購買部長を勤めるのだが、野望はなく、出世にはあまり関心がなかった。というより、サミルダは、“エンカウンター”紙を購読するような男だった。

   そのようなサミルダも、六十年代に入ろうとする頃、天然痘に感染する。
   初めて彼に会ったサミルダは引きこもりがちだった。が、たまにクラブに顔をだすのだとも言った。クラブについて、彼は饒舌だった。サミルダは、クラブの上客だったのだろう。しかし、クラブの階段がうとましくなっていた。サミルダは不思議な幸福感をもつ男で、リハビリには不熱心だった。

   ムカルジー家は、八十年代の後半、厄介な訴訟に巻き込まれてゆく。その訴訟を起こした慈善事業団体は、世間でいわれているほど優しくなかった。サミルダは訴訟で神経をすり減らし消耗していた。
   多くの者が「投資」に浮かれていた九十年代、サミダルは投資顧問なる者に騙される。サミダルと母にとって辛い時が続いた。彼らは、即座の救済を必要としていた。思い出の茶器が、ルイスダールの絵が、テーブルも時計も、母からの贈物だった宝石も売らなければならなかった。とうとう彼らは住み慣れたアパートから引っ越さなければならなくなった。引っ越し先のアパートからは、なかなか良い眺めが望めた。父の同僚が住んでいたので知っている。引っ越しして数か月たつと、アニタ・ムカルジーが亡くなった。

§5 本格料理の時代

   ボンベイは商売の街、デリーは政治と権力の街、とするとカルカッタは、何の街になるのだろう。カルカッタは、「夕飯を家でとりますか」の一言のために存在する。ベンガル人の立ち話は、天気の話からかならず食べ物の話になる。

   カルカッタの中産階級の人々にとって、中華料理は長いこと楽しみのひとつであった。思い出の中華料理屋の数々が思い浮かぶ。チョーリンギーにあったあの中華料理屋は何といったか。妻もその店の名前が、ここまで出かかっていて思い出せない。(記憶のなかでだけ存在する店。) 電話をかけまくって聞く。そう“南京”だったのだ。

   グロウバラゼイションとともに「本格的」な中華料理やイタリア料理がカルカッタにやってきた。しかし、インドで、外国人シェフが活躍するのは難しい。タジ・マハール・ホテルの中国人シェフは、今どこにいるのだろう。

   評判になったパン・エイジアという店にしても、最初たべた日本風の緑茶のアイスクリームに感激したが、再度訪ねると、何か味が変わっていた。パン・エイジアは、当地の人々に受け入れやすい味覚に迎合していったのだ。
   評判のイタリアン・レストラン、“カーサ・トスカーナ”の受付嬢は、聞いてみるとクロアチア出身だと言った。(これは、カルカッタのやりかたでなく、きわめてインド的なやりかただ。何か調子の狂った辻褄あわせだ。)

   インドの人々は、ローカルの食材を高級とは見做していない。彼らは、生のオリーブの実を好まない。二百年前の英国人作家の果物に関する記述が蘇る、ここの果物はみじめなものです、と。それでいて、インドの人々は、食に関して極めて保守的である。チーズすら味わおうとしない。ヒンドゥー改革派があえて肉をたべようとしたのは、遠い昔の話なのだ。

   ウイリアム・ジョーンズのアジア協会の地に、新しいホテルが建てられてゆく。それはカルカッタの変化を先取りしている。……タジ・ホテルのレストランで、品書きに生姜のプリンを見つけたのだ。懐かしい好物を発見して小躍りした。注文したのだが、それは生姜のプリンではなかった。ボーイに「これは生姜のプリンではない」と苦情を申し述べる、ボーイは「これは生姜のプリンに間違いございません」と繰り返す。とうとうシェフが現れ「もう本当の生姜のプリンを誰も望まないのです」と申し訳なさそうに言う。(愛おしいカルカッタが流失してゆく。) それを人々はニュー・インディアの到来と呼ぶ。

   ハイヤット・ホテルのイタリア人シェフ、カナツィにコーヒーショップで話を聞く。彼は、サルジニア島生まれ、トスカーナで育った。カナツィはとても困難な仕事をやりとげた男だった。彼のイタリア料理を現地化させずに常連客を獲得できたのだ。
   ミシュランのスター・シェフ、カナツィは驚くべき率直さで語る。インドとイタリアはすごく似ている、と。イタリア料理とインド料理は、別者とは思えない、と彼は続ける。ウイリアム・ジョーンズが、インド・ヨーロッパ語の同族性の根本を探りあてたのと似ている、と思った。(料理の世界で、カナツィが、食の根源を非妥協的に暴こうとしている。そうして、彼のイタリア料理は、インド化することを免れ、かつ顧客を得たのかも知れない。)
   カナツィは、別れ際に、是非ディナーを食べにきてくれ、と言った。(それは、商売の言葉というより共感の言葉だった。)

§6 召使たち

   彼らは朝早く、郊外のいろいろなところからやってくる。若いラージャは、アパートの住人の車やドア・ベルを綺麗にしてまわる。父の介護人カマラの朝も早かった。彼らは自由の気概があって威厳がある。彼らには気をつかわなければならない。季節の贈りものも必要だ。ちょっと注意したいのは、彼らをチョカールchakorとは呼ぶべきではないということだ。その意味は、使用人に近く、とるにたらぬ者、蔑みが入っている。そのようにではなく、単純に「働く者」カアジェル・ロクkaajer lokと呼ばなければならない。
   彼らは、ある日突然いなくなって、また突然帰ってくる。彼らは、彼らを居ずらくした村で自然災害や選挙があると、予定を変更して帰ってこなくなる。だが、また何かをきっかけとして、まるで何もなかったように帰ってくるのだ。

   ラキという女性の料理人は、気の利いた料理ができるだけでなく、造語の名人だった。飲み水に使う浄化水を「川岸の井戸水」と言ったりした。その彼女が遅れてやってくるようになった。他のアルバイトのためだった。そして、彼女がいなくなった。二年すると彼女が突然戻ってきた。彼女は、絶対に謝らない。今度は、金の装飾品がなくなった。母がすごく悲しんだが、警察には届けなかった。また、ずいぶん沢山の油や小麦粉がなくなる(消費される)もんだと話していたら、妻はラキが食料品を持ち出すところにでくわし、ラキを解雇しなければならなかった。私は、ラキを可愛がったし、彼女も私たちを好いていた。ラキとの関係が途絶えたかに見え彼女の存在が遠のいてゆくなか、ラキが長女の結婚式に私たちを招いてくれた。私たちは嬉しかった。私たちは、彼女の長女の結婚を喜んだ。ラキが再び私たちの料理人として働くようになってから、彼女がまた突然消えた。グトゥカ(パーン)中毒のラキのダンナがガンを患い亡くなったのだ。十日もすると、何もなかったように彼女は帰ってきた。
   ラキが小さな子供を連れてくるようになった。孫だった。末娘の夫が失踪したのだ。初め人見知りをしていた子が、次第に大胆に行動するようになった。居間に進入し居座るのだった。小さな専制君主に私は苛立ちながらも、(どこか憎めなかった。)。ラキは、孫が私の仕事の邪魔をしていることを理解していた。私は強い調子で「その子を学校に通わせなくていいのか」と彼女に迫った。実際、私もつてをたよって施設を捜したのだ。ラキは、「私ももう五十(歳)だ」と嘆息して言った。私は「とうに五十は越えている、私が四十九なのだから」と言い返し、自分自身がそのような歳になっていることに驚いた。ラキはたまたま職にあぶれていた女を自分の代わりに送りこんできた。孫の学校が見つかったのだ。

   ベンガルでは、女の子もすごく可愛がれる。インドの他のすべての地域で、男の子の誕生のみがもてはやされとしても、だ。
   シャンパルさんは、ディグハという有名な海岸リゾートでホテル(食堂)を営んでいた。母は、シャンパルさんをたよりにしていた。彼は、食堂のかたわら人の斡旋もしていたのだ。どうしても人手が必要なことをシャンパルさんにいうと、彼は自分の十五歳の娘を送ってよこした。母と妻は、そんな少女を働かせることはできず、読み書きを教えていた。彼女の良くない咳が家族には気になった。医者につれてゆくと医者の見立ては結核で、楽観できるものではなかった。父親が迎えにきて十日間で娘のシャンパは帰っていった。
   初めて私がシャンパにあったのは二年前だ。その時、やはり結核で亡くなった私の音楽の師と同じ兆候を私は感じた。妻がシャンパを医者に連れていった。医者は、治療が適切になされていない、と言った。医者の処方箋はいささか大仰に思えたが、ことの重大さを語っていた。薬代は妻が一年間支払った。父親が、地域の病院の無料医療に切り替えるまで続いた。
   結核は過去の病気のように思われがちだがそうではない。耐性菌による新手の結核は、少しでも治療を怠れば死に繋がる。……実は、シャンパの結核が十歳の自分の娘に感染していないか、私は心配していたのだ。娘は時々咳き込むことがある。杞憂だった。ただ、娘の咳がアレルギー性のものだと分かるまでに随分時間がかかったのだ。
   その後のシャンパのことを私はほとんど知らない。でも、彼女を忘れたわけではない。シャンパは本当にかわいげのある子で、年老いた母に時々電話をかけてきて母の話相手になってくれていたからだ。その娘が結婚するのだと知らせてきた。私たちは大いに喜んだ。結婚、すなわち結核の治癒を無意識に思ったからだ。
   シャンパのような気立てのよい、控えめで綺麗な庶民の娘は、将来のさまざまの可能性を軽く投げ捨て、さっと結婚してしまう。そしてすぐに子供を産み子育てに埋没する。ダンナが酒飲みでなく真面目に働けば、それなりの生活はできる。しかし、多くの場合そうではない。シャンパも水汲みの重労働をしなければならなかった。
   母がシャンパルさんに電話すると「シャンパは逝ってしまった、彼女はもういない」と告げられる。母は、唇を震わせながら私たちに繰り返した。シャンパは十九歳だった。

 
§7 ああ!カルカッタ

   それは年にほんの二度、三度のことなのだけれど、ミニ・マシにしばらく会っていないなー、と思うことがあった。ミニ・マシは母の古くからの親友だ。彼女が発作を起こし、今度ばかりはショブハバザールの介護病院に入ることになった。

   ショブハバザールは、北カルカッタのもともとはベンガル・ルネサンスの土地柄だ。つまり、いかがわしい者たちが財産を作ったところなのだ。新興成金は、そこに屋敷を建てた。それら成功者たちの息子や孫が詩人や芸術家になっていった。
ベンガル・ルネサンスのそもそもの始まりは、あの髭の肖像画のラーム・ローハン・ロイに始まる、と私は思っている。カルカッタのブラフマンの知識人は、カーリダーサの翻訳者ウイリアム・ジョーンズなどの西欧人との接触を通じて自らのアイデンティティに目覚めていったのだ。だが、ベンガル・ルネサンスもブゥハドゥラロクゥ(Bhadralokベンガルの高等遊民)も誤解されてきた。キップリングには、カルカッタの現代性を理解できなかった。

   カルカッタの現代性とは、新しさということではない。(その現代性は自由に少しばかり似ている。) ジュリアーニ市長とグロウバラゼイション以前のニューヨークでその自由を私は再体験した。そして、ベルリンのユダヤ人歴史博物館で、その現代性とは人々の平凡さであることを確認したのだ。
ベンガルのモダニストはヒンドゥーの神々をしりぞけた。宗教を持たない新しい世代の到来なのだった。(おおいなる平凡の時代がやってきた)。

   母をつれて、母の古い友人を介護病院に訪ねてゆく。開発の対象になっている北カルカッタなのだが、いまのところグロウバラゼイションの圧力は感じられない。
ミニは半分眠っているようであり、半分覚醒しているようだった。彼女は、私を認めると真実驚いたのだった。
   彼女も母と同じくシルヘット(現バングラデシュ北部の都市)からやってきたのだ。
シルヘットの人々は、今や世界中に四散して働いている。一種のコズモポリタン、根なし草だが、本好きで文化・文物を愛しむ者が多い。彼らの訛りは明瞭で、彼らのジョークはとびきり辛辣だ。タゴールの詩を替え歌にして楽しんだ。
   ミニは、私たちが訪問した四日後に亡くなった。

98.アミット・チョウドリー『海を渡ったオデュッセウス』、Amit Chaudhuri, Odysseus Abroad, published by Alefred A Knopf 2014, originally in India 2014.

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『海を渡ったオデュッセウス』は
ジョイスの『ユリシーズ』に似て
ある一日の物語である
異邦の地に彷徨う インド人の若者の
初夏の ロンドンのその一日を
特長付けるのは主に三つ場面である
主人公のアーナンドがウォーレン通りの
フラットで目覚め
マレット通りの学部で教授と面接し
それからベルサイズ・パークに住む伯父さんに
会いにゆくことなのだ
この小説に事件はなく ありきたりの生と
そこから派生する想念・記憶・観察が
小説の時間をつくる
アミット・チョウドリーの文章の力と
詩的想像力が読者を飽きさせない
読者がこの本から最終的に受け取るものは
存在の静謐な影
間違って現代に紛れ込んだ英雄の
無残な姿 あるいは
見えない神に近づいて行こう
とする足音 であるのかも知れない
 
   アミット・チョウドリーは、1962年生まれのインドの小説家で、英語で書いている。カルカッタとボンベイで育った。高等教育は英国のロンドン大学やオックスフォードで学んだ。ずいぶんいろいろな文学賞をとっているけれども、2002年には、サーヒティヤ・アカデミー賞を『新世界』A New World (2000)で受賞している。
チョウドリーの小説は、二通りあるように思う。ひとつは『新世界』のように、どちらかというと物語性に富む小説、もうひとつは『午後のラーグ』Afternoon Raag (1993)のように日々の生活のなかのささやかな出来事、また自らの存在をじっと見つめ語っていく作品群とに分かれるのだ。チョウドリーの2013年発表の『海を渡ったオデュッセウス』は、その両者の中間をゆくように見える。あるいは存在への凝視・気付きと劇的なもの・物語性との総合の試みのように見える。別の言い方をすると、これは詩と物語の融合であるかも知れない。
   ところで『海を渡ったオデュッセウス』はとても難解な小説だ。ジョイスの『ユリシーズ』ほどではないとしても、チョウドリーの他の小説にくらべてもとりわけ難しい。あまり自信はないのだけれども、大雑把な輪郭と気になったディティールを辿ってみたい。

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■『新世界』A New World (2000)
主人公のジャヨジットが、アメリカから父母の住むカルカッタに里帰りする物語だ。
妻と離婚し、小学生の一人息子を連れ、格安航空のビーマン機を乗り継ぎ、
一線を引退した父母のフラットに辿りつく。
…2か月のカルカッタでの休暇のあいだとありたてて言うほどの事件はおこらない。
最終章で、両親はカルカッタ空港へ見送りにでむくのだが
、ロビーでは、ハワイアン・ギターに合わせてタゴールの歌が流れていて、
それは何とも言えない寂しさを湛えている。

   アーナンドはベッドで眼をさます。爽やかな目覚めではない。ロンドンのどこかのフラットなのだろう(ウォーレン通り)。ふと、数日前にテレビでみたチャリティコンサートの記憶が蘇る。飢えたエチオピアの子供たちとウェンブリー・スタジアムで踊る人々の映像が、アーナンドにとってはひどく居心地が悪かった。飢餓という厳しい現実とロックミュージックに体を揺らす平穏そうな人々との対照は残酷なものである。このテレビ番組について、障害をもつマークと大学の食堂で話をした。マークは、素晴らしいイベントだと言うのだった。意見はまるでかみ合わなかった。入学当時の記憶が重なってゆく。反戦・反核デモがあったのだ。巡航ミサイルについての報道に恐怖した。アーナンドは死を身近に想像した。彼のおじさんロドゥヘシは、核兵器は予兆にすぎない、どんな破滅が待っていようと予兆を怖がってはならない、とアーナンドを宥(なだ)めたのだった。伯父さんの言葉には知性の輝きがある。
   フラットの部屋の重い木枠の窓。初夏なのだろうか。いつもと同じ風景。
   階上の住人は遅くまで寝ている。彼らの足音について。
   昨晩は良く眠れなかった。胃酸過多のせいでもある。階上の住人、パテルや彼の恋人のシンシアは、夜中の三時、または明け方になってやっと寝入るのだ。シンシアは、キリスト教へ改宗したベンガル人の娘だ。新しいタイプの女なのだ、と思う。新しい女とは、自由恋愛する者の意味だ。ヴィヴェク・パテルの父親は、西アフリカ・タンザニアで商売をしていた。その父親がヴィヴェックをロンドンのビジネス・スクールに送り込んできた。彼らの商売にアメリカ流のマネージメントが必要なのだろうか。そんなはずはない、とするとヴィヴェクはロンドンに何をしにきたのだろう、とアーナンドは思うのだ。
(アーナンド自身の不確かなロンドン滞在の目的が対象化され、批評されている)。
   アーナンドの夕食の定番はシンガポール・ヌードルか焼き飯だ。そのユーストン通りの中華料理屋の店員は無愛想だ。言葉が分からないからかも知れない……。
           
   というような観念とも想念ともいうべきことがらが次々に繰り出されてゆく。
ところで『海を渡ったオデュッセウス』は、ジョイスの『ユリシーズ』と同じように、アーナンドのある一日を軸に展開してゆく。(同じ六月の一日)。アーナンドの「青春」の、ロンドンにおけるある一日に、彼の回想・観察・洞察・感想・意見を接ぎ木する。それはジョイスの「意識の流れ」というよりは、海を渡ったオデュッセウスの、異邦の風景と体験についての詩的なモノローグ・エッセイに近い。

   階級!アーナンドは英国にくるまでそれを考えてみることすらなかった。階級と呼べるものがインドにはまるでないからだ。


   あるいは、父親・母親についての回想。彼の両親は、アーナンドに先行してロンドンでの移民生活を試み、そして故国に帰った者達なのだ。ついでに言うと、アーナンドにとってはタゴールもまた学位をとりそこねて故国に帰った者だ。ただ、かれの伯父さんは(母親の兄)、ロンドンで一度もホームシックになったことがない、と強がりを言うのだがアーナンドはそれをウソだと思っている。

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■『午後のラーグ』Afternoon Raag (1993)
この小説は、アミット・チョウドリーにおける英国のオックスフォードとボンベイの二都物語である。
オックスフォードの雨や街、風変わりな学友、インドからの留学生との交流等々が、
静かだが力強い文章で描かれてゆく。
他方で、エクスタラバガンサを楽しむボンベイの音楽一家が回想される。
それはボンベイの旧市街にある小さな寺院に家族が集まり、
一家の精神的よりどころであるグル(師)を偲んで、
夕刻から早朝まで、入れ替わり立ち代わり歌曲が歌われ、演奏されてゆくのだ。     

   朝の九時頃起きて、フラットの隣人のことやら、家族のことやらが細かく描かれたあと、アーナンドが向かうのは指導教授との少し憂ウツな面談だ。……何人かの指導教授の回想があり、今の指導教授とのやり取りが述べられる。要約がほとんど無意味と言いたくなるディティールにつぐディティールの連続なのだが、そしてそれは、アミット・チョウドリーの文章の力によるのか、一見退屈だが丁寧に読み込んでゆくととても味わい深い。そのような文章の紡ぎのなかでも、記憶にのこるのは、ある女性教授の回想だ。

   教授は中世古典文学の専門家だった。クリステヴァの本に感銘をうけたフェミニストでもある。教授は、チョーサーを詩人として捉えているが、アーナンドにとってチョーサーは詩人ではない。バートン博士は、アーナンドに中世古典文学を情熱的に語った。しかし、アーナンドは別の種類の、つまり男と女の緊張を感じ始めるのだった。アーナンドは、教授が性的な関係を欲しているのではないかと感じた。それは確かなようにアーナンドには思えた。しかし、アーナンドは、彼女とのセックスを自分も欲している反面、なにかしっくりいかないものを感じていた。

   それだけのことなのだ。が、この小説を読む者は、現代に紛れ込んだオデュッセウスの性への夢想の矮小さを思わずにいられない。この小説の一つのテーマは、アーナンドの両義的な性についての物語なのだろう。ポルノグラフィーへの偏愛とマスターベーション、同性愛への親近感と異性愛への齟齬の感覚、近親愛の誘惑、手を変え品をかえアーナンドの不安定でとらえどころのない性のありようが顔をだす。

   アーナンドはマレット通りの学部に指導教授を、気が進まないまま訪問する。教授は暖かいのにジャケットを着ている。何故だ。デーヴィッド教授は、少し名の売れた作家でもある。教授は文学の研究者ではなく小説家なのだ。リトアニア生まれのユダヤ人で英国人とは違う喋り方をする。アーナンドの課題エッセイについて品評が始まる。「楽しめた(退屈しなかった)」というデーヴィッド教授の言葉にアーナンドは引っかかる。二人の間の微妙な違和がアーナンドの文学についてのこだわりを暗示している。アーナンドは人間が生きていくうえでのある種の痛みについて書き、小説家のデーヴィッドはそのような痛みの感覚を相対化するスタイルを得意としているようなのだ。アーナンドの書いた「川を渡る」という詩行について、それは二年前なかば強制的に別れさせられた「いとこ」との愛と無関係ではない。T・S・エリオットやフィリップ・ラーキンの詩を模して書いた詩ではない。むしろカーリダーサの詩作における核心となる観念ヴィラハ(viraha、別離)との親和性をもつ。二人のやりとりとアーナンドの回想は錯綜し、飛躍し、断片的で込み入っている。数週間前に読んだシェークスピアのソネット集にオーデンが序文を書いていて、オーデンはハンナ・アーレントを引き合いにだし、とても説明しにくいことを書いていた、というような語りが続く。あるいは、“エンカウンター”紙にこの詩を投稿し没となったこと、返送されてきた原稿に付けられた心のこもった手紙はアーナンドにとって宝なのだ、とも言う。アーナンドは謝絶なかに自分への理解を見出す。……教授は、アーナンドの文学的センスを一流であると認める一方で、「君は詩ばかりを読んできたんだね」とアーナンドの文学的性向の偏りをつく。その通りなのだとアーナンドは思い、小説というものをほとんど読んでこなかった、と納得する。小説と言えるようなものは『西部戦線異状なし』と『武器よさらば』ぐらいしか読んだことがなかった。それでも『ユリシーズ』はどうにか最後まで読んだが、何も理解できなかった。文頭の大文字のSがなぜか記憶に残るだけなのだ、と。……教授はもっと小説を読むべきだといくつかの本を推薦する。例えばスウィフトの『ガリヴァー旅行記』。アーナンドは、教授がアーナンドに罰を、つまり学校の地道で退屈な勉強に戻れ、という罰を与えようとしているのだ、と感じる。

   デーヴィッド教授のところを辞したあと、アーナンドは伯父さんのところに向かう。この小説は、伯父さんの存在を抜きにしては成り立たない。伯父さんは事件を起こすのではない。ありきたりの日常の生活の風景と、それを少しく彩るウソの寄せ集めが特長といえば特長なのだ。しかし、アーナンドが、そのちょっと風変わりで寂しさのつきまとう伯父さんのことを好いている。何故だかはっきりはしないが、この伯父さんには、下品な生活の匂いと、非常に高貴な魂が混在していて、それはアーナンドのいささか詩的でとらえどころのない存在を慰め勇気づけているように見える。アーナンドはこの伯父さんと一緒にいると安心できるのだろう。インドにいたらそうはならない、故郷喪失者同士の強い引き付けあう関係だ。

   学部をあとにアーナンドは、何を昼食に食べようか、というようなことを考えながら“タイムズ”をキオスクで買い、アジア書店を覗き、グージ通り駅近くでフライドチキンを食べようかと迷う。しかしおなかが空いているのではない、と気づく。エッジウェア行きの地下鉄に乗り、列車はモーニントン・クレシェント駅を通過し、ベルサイズ・パークへと走る。
   地下鉄を降りると、通りの角の花屋では、誰かがもらうことになるだろうブーケを作っている。陽が通りの向こうに落ちようとするとき、北欧風のアパートが立ち並ぶところを通り過ぎるとベルサイズ・パークに到る。ベルサイズ・パークNW3番地、ここには嘗てアーナンドの両親が住んでいた。緑のドアの23号室があって、くり色の扉の24号室が伯父さんの棲家だ。…アーナンドの父親は、ここで会計士試験の勉強をしていた。紆余曲折があったのだが、父親は最終的に会計士の試験に合格する。アーナンドはそのため金の苦労をしたことがない。
   扉をあけると伯父さんが立っている。中にはいると、伯父さん特有のいつもの儀式が始まるのだ。「アーナンド、今朝私が何を食べたか当ててごらん」と伯父さんは言うのだ。アーナンドは知らないふりをしなければならない。「砂糖を一杯いれたコーヒー、蜂蜜、一かけらのパン、それに水を二十杯」と、さもそれが理想の朝食のように言うのだ。

   ロドゥヘシ(伯父)は、孤独な一人の王国の住人だ。王国を存続するために、風変わりな物語をロドゥヘシは作り、語る。アーナンドは、そのような話に飽きているはずなのに、伯父さんの冗談・語りを受け入れる。アーナンドを特長付けるのは、育ちの良さを感じさせる受動性と、詩人としての固執だ。

   伯父さんはシティで働いていた。伯父さんが、フィッリップ・ブラザースで(総合商社?)なぜ重役になれなかったのか、その理由をアーナンドに繰り返し語る。伯父さんは、アーナンドの父が近年重役になったことが引っかかっているのだ。伯父さんが語るその理由はバカげている。トイレ時間が長すぎたからだ、と。(インド人は、排便についてじつに色々と意味づけをする人々だ)。……ジルベルタはトイレの清掃をしていた(この小説において清掃に携わる者たちへの視線もまた独特である。区別しつつ平等なのだ)。ポルトガル人の娘で、伯父さんはその娘に恋をしてしまった。彼女もまた感応した。ある日、伯父さんは、ジルベルタにタマをぐっと握られてしまったのだと言う。だが、ジルベルタは、同じ事務所で働く下らない男にさらわれてしまった。伯父さんは生涯童貞なのだ。

   伯父さんとアーナンドは、ベルサイズ・パークのフラットをあとに街にでる。といって二人に特に行き先があるわけではない。行き先も用事もない外出、その雰囲気がとても独特だ。家のまわりをひと歩きする散歩とも違う。恋人どうしの時間に近いだろうか。二人の時間をもつために、二人の会話をもつために、外にでる。その時、街の風景は歌における季語のようなものになる。

   有名人も多く住むハムステッド街。今日は、金曜日。二人はティーショップに入る。二人はお茶を飲んでいる。伯父さんは気分がいいのか、タゴールの詩を歌いだす。隣の席の英国の人は聞こえないふりをする。伯父さんはタゴールの信奉者なのだ。「若いころ、故郷のシロン(アッサム州の旧州都)では、皆詩に親しみ詩を書いた。君のお父さんもいい詩を書いた。兄貴も素晴らしい詩を書いたんだ」と伯父さんは語る。その故郷にいる兄に、伯父さんは今でも金をせびられている。伯父さんは、アーナンドにマフィンを食べろとしきりに勧める。アーナンドは、本当に腹をへらしているのは伯父さんなのだということを知っている。「伯父さんも詩をかいた?」とアーナンドは尋ねる。伯父さんの父親が交通事故で突然亡くなったのはロドゥヘシが三歳のときだった。家計は一挙に苦しくなったのだ。伯父さんは学業優秀な生徒だったが高校を出ると、中古車のセールスマンをやって一家を支えたのだ。シルヘット(現バングラディッシュの北東の街)からシロンへ、そしてロンドンに家族のために働き場を変えていった。…伯父さんは、自分の父親を別の世界の人、つまりタゴールが生きた時代・世界の人だと語った。……ウェイトレスは勘定書きをテーブルに置くとさっと立ち去っていった。伯父さんは、軽口の一つ二つを交わしたかったのかも知れない。伯父さんは、チップをどれだけおいたらいいのか悩み、アーナンドに相談するのだ。モップとバケツをもったシークの女が、まるで結婚披露宴の主役であるかのように、テーブルの間を飛び回ってゆく。

   伯父さんが語りかけてくるのは、ある種のステレオタイプと化したインドの人に近い。節約につぐ節約、大言壮語、儀礼化した日常、ウソを楽しむ心理、等々。予想できなかったのは伯父さんの詩への感受性、タゴールの信奉者だということだ。そして、詩は、伯父さんとアーナンドの数少ない共通の関心事でもある。伯父さんは、詩をもつ超俗的な魂と家族を支えていかなければならない世俗の苦労との両方のなかにある。だから、伯父さんは、チップをいくらおくかでいつも大いに悩む。アーナンドはその場合、助言者に徹する。だが、アーナンドは、そのような伯父さんを好いていて、伯父さんも、アーナンドが自分の理解者だと思っている。

   二人は外にでる。トラスト・ハウス・フォルト・ホテルを通り、王立自由病院もすぎ、動物園のアナグマについて語り……あの頃、キーツが心の支えだった、とアーナンドは回想する。愛していた姪と別れロンドンに来たのだった。キーツの病と悲恋を思ったのだ。
バスに乗ると、階上に席をとる。二人は当てもなく、行き先も決めず、ただロンドンの金曜日の夜を楽しむのだ。バスは、キーツの家を過ぎる。それから地下鉄でキングス・クロスへ。伯父さんのフラットの机の上にあった“サン”紙とスティーブン・キング。伯父さんは、知識階級が読む“タイムズ”や“ガーディアン”は読む気がしない、と言う。しかし、それでも伯父さんはロビ・タクゥル(タゴール)の声を聞く。
本屋を覗き、インドの菓子を扱う店にたちより、ウォーレン通りに向かう。アーナンドは、伯父さんが「アブナイ、ここの女たちは良くない」といったキングス・クロスの愛想のいい女たちを思い出す。本当に悪い女たちなのか、とアーナンドは考えはじめる。アーナンドは、17歳の頃、好きな女の子にも欲望を感じなかった。そのことで悩んだのだった。数か月悩んで娼家のところに「相談」に行った。「夢精という言葉を知ってる?」とアーナンドは伯父さんに聞く。伯父さんは、少し怒って「私はまったくノーマル」と言う。伯父さんに、女友達がいないわけではない。教養あるベンガル人や英国人と出歩き、「詩」について語るのだ。

   アーナンドのフラットに戻る。隣の住人の部屋に灯りはついていない。部屋の窓をあけると、夏の夜のにぎわいが、部屋に入ってくる。ミルトンやシェリーの詩の話の続き。“ラングランド”という詩集を伯父さんは本棚からとりだし、「こういう英語は分からん」と呟く。「ベンガル語は分かるのかい」と伯父さんはアーナンドに問いかける。「まぁまぁ」。「ベンガル文学は途轍もない、日々の出来事を宇宙の運行と同じレベルで語るんだ」と言う。人は、自らの死を認識できない、と伯父さんは話を続ける。アーナンドは、死後の世界についてどんな観念ももっていない。伯父さんは、足を掻く。血が流れる。「ベトネベート軟膏はあるかい」。
「フィッツロイ・スクエアーのインディアンYMCAにご飯を食べにいく?」と伯父さんが聞く。アーナンドは、あのボリュームある料理には気がすすまない。アーナンドは母の料理を思い出す。母を失ったのは、母の料理を失った、ということなのだとあらためて思うのだ。

   『海を渡ったオデュッセウス』という小説は、食べ物についての記述が豊かだ。ユーストン通りにある中華料理店のシンガポール・ヌードル(焼きそばの類?)に始まって、アメリカンスタイルのフライドチキン、ティー・ショップで食べるマフィン、本物のインドの菓子、等々。それらは、何か時々顔をだすポルノグラフィーへの言及とワン・セットのような気がする。図式的に過ぎるかも知れないが、食物はかなり性欲の代理物のような趣なのだ。アーナンドは、街を彷徨い、いつも食べ物のことを考えている。しかし、それはしばしば抑制される。一方、伯父さんは、いつも腹を空かしているが、少ししか食べない。アーナンドが街で認めるのは、娼婦・ポルノそして詩人の声だ。

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■アミット・チョウドリー
1962年カルカッタ生まれ、ボンベイで育つ、高等教育を英国で受ける。
小説・詩・評論を書き(英語)、欧米の大学で文学を講義する一方
マニアという以上の音楽家である。
「甲高い声のヒンドゥー歌謡がインド音楽のすべてではない」と言う。

   迷った挙句、結局“グルカ・タンドリ”という店の階段を降りていく。猛々しくも時代錯誤な名前、とアーナンドは思う。故郷の訛り(シルヘット)のウェイターに席に案内される。アーナンドは一度もシルヘットを訪ねたことはない。近くのテーブルで賑やかに食事をする人々は幸福そうだ。何故?彼らがインド人だからだ。英国で暮らすインドの人々は、インド料理屋では幸せなのだ。パパダムの皿がやってくる。数か月前、伯父さんは母を電話で激しくなじった。母のやらかしたミスが原因だった。伯父さんは、母にはきつくあたる。母は気にしていない、と言った。母は歌の名手、伯父さんは母を芸術家なのだと言い放つ。…ウェイターは、イクバルという。(ムスリムか?異郷においてのみ同朋なのだ)。シルヘットに話がおよび、何か打ち解けた気分になってゆく。伯父さんは、騒がしい客をさして「彼らは一体どういう連中なんだ」とイクバルに聞く。ウェイターは「金曜の晩は毎週あんな連中がやってくる。彼らは飲み過ぎだ」と。英国において飲酒の批判はしてはならない、とアーナンドは思う。

   満腹してアーナンドのフラットに戻る。伯父さんは、アーナンドにテレビのチャンネルを変えてくれと頼む、騒がしい番組は疲れる、と。伯父さんの好みは、悲しい番組、それと野生動物をあつかったドキュメンタリーなのだ。嘗て、伯父さんと一緒に暮らそうかと思った時があった。そうしなかったのは賢明であった、と今では思う。大鼻と生殖能力について、話が続く。アーナンドにとってはどうでもいい話なのだが、ふと、インディアンYMCAのホールに掛かっているイエス・キリストの絵を思い出す。その像のキリストの鼻は大きいが、その表情は、生殖能力とは無縁で、まるで中産階級のみじめで彷徨える学生、何をなすべきかを迷う自分のようだった、と。

   この本の最後の数頁が素晴らしい。飛躍があり、込み入っていてひどく難解だが、分かるような気がする。それは、アミット・チョウドリーのいささか逆説的で詩的想像力に任せたカースト論なのである。すべての外国人が、インド人に、カースト問題を聞きたがる。ならば、答えよう、とチョウドリーは宣言しているかのようだ。その語り口は、この本の終章にまことにふさわしい。

   伯父さんは、トイレからもどるとぽつりと言う「アーナンダ・シャンカール・ライAnnada Shankar Rayは皆が有名になる時代がくる、と預言したんだ」。これはアーナンドの隠された望み、詩人としての成功についての伯父さんの寸評なのか、と思う。だが有名になったとしても、それは詩人のせいではなく時代のせいだとアーナンドは思う。また、詩人としての成功は、アーナンドにとって、有名になることに重きがあるわけではない。伯父さんが続ける「シュードラの時代、とヴィーヴェ・カーナンダは言ったんだ」。順応と隷属の支配する時代だと、アーナンドは恐怖する。ただ伯父さんが言っているのは、現に存在する社会的グループとしてのシュードラではない。時代の退化・退廃にむかう堕落のメタファーなのだ。終末論の雰囲気がある。…ブラフマーは、禁欲の賢者が導く精神の時代、クシャトリアは、王や高貴な人たちが、崇高さの価値を示した時代、ヴァイシャは、商人の時代、ちょうどイギリスが凡庸で退屈な帝国を築いたようなもの、最後に路上の人々が力をもつシュードラの時代が来たのだ。アメリカの金儲けと通俗文化の時代、皆が有名になる時代……。

   伯父さんは、姿を変えて現代=シュードラの時代を生き延びる賢者、というメーセージが聞こえてくるような気がする。そして、アーナンドが詩人であるなら、真に大いなるもの・価値を讃えるものでなければならない、と。しかし、それでもなお、シュードラの時代に生きる賢者の物語はとても苦い味がするのだ。

   午後の11時過ぎ、地下鉄が終わるまえに帰ろうか、と伯父さんが言う。さよならの言葉はなく、ただ「じゃ、行くよ」と言うだけ。アーナンドは頷き「送ろう」と答える。ロンドンは夏、凍えることはない。

41.アミット・チョウドリー『奇妙で壮大な住所書』Amit Chaudhuri, A Strange and Sublime Address, published by Minerva 1992, first published in Great Britan 1991.

addressBBB.jpg アミット・チョウドリーの処女小説
『奇妙で壮大な住所書』は
サンデープ少年の眼を通して
カルカッタの叔父さんの家の人々を
また酷暑や停電や街の風情を瑞々しく描く

そこでチョウドリーは 家族に仕える使用人を
家族の一員として描いていて
それはあたかも平等なるカースト社会のようでもあり
僕らを驚かす

叔父さんの心臓発作と入院は
家族にとってひとつの事件であったとしても
それもまた家族の歴史のひとこまに過ぎない

南カルカッタ
ヴィーヴェカーナンダ通り17番地は
遥かな宇宙の慈しみの下で
人々が息をし 住まうところなのだ


   題名の「アドレス」というのが良くわからなくていろいろ想像してみたのだけれども、この小説を読み進むと、「アドレス」が何のことなのかちゃんと書いてあって気分がよくなった。それは、子供の通学鞄に書いてある住所書のことなのだ。どう奇妙で壮大なのかは、読んでもらった方がいい。で、本当に奇妙で壮大なのは、その住所を書いた叔父さんの方なのだ。この小説の語り手であるサンデープは、詩と物語を書くのが好きな少年で、だからちょっと変わっている叔父さんのことが好きなのだ。マテリアリストでないところに、夢想がちなところに、何か惹かれるものを感じている。

   この小説に出てくる人々は、総じておっとりしていてガツガツしたところがない。サンデープの叔母さんをマッサージに来た女について、近所の人たちは、「あの女は盗癖があるから気をつけろ」、とか「時々売色もしている」と彼女を遠ざけるよう忠告する。しかし、叔母さんはそんな忠告を意に介するところがない。マッサージを終えて帰る女に駄賃を与え、オレンジをもっていく気配りを示す。

   この小説において「奇妙で壮大」なのは、叔父さんの一家とそこに出入りしている使用人との関係だ。使用人の子供達が、叔父さんの家のテレビを見ることを楽しみにしている。あるいは、トイレの清掃人の自慢話(金持ちのマルワリのトイレを清掃していた)を皆が聞く。叔父さんの家族とそれら使用人とは、大きな家族と言ってもよく、立場のちがい、あるいは住み、食事をし、寝る場所はちがっても、彼らの幸福と不幸、喜びと悲しみは繋がっているのだ。台所の流しで手を洗う不作法をたしなめもする場面もあるが、途方もない調和が存在し、お互いの違いを認めあっている。平等なるカースト社会に僕は面食らってしまった。

   小説の後半にはロンドンに住む別のオジさんの話がでてくる。“この世で一番幸せな男”というタイトルは、いくらかアイロニーの響きがあるけれども、このオジさんは、家族のない孤独な生活を大切にしている。彼は、週末でもないのに週末の買い物に行くという「隠された論理」を弄ぶ人なのだ。今は年金暮らしをしているオジさんを訪ねたサンデープは、午後をともに過ごした後、バスで帰途につく。サンデープはバスの二階に席をとる。オジさんはサンデープを一階の席に一生懸命探す。チョウドリーの文章は、そんな何気ない行き違いを過不足なく描く。何とも言えない可笑しさと、オジさんのささやかな幸福と孤独な生活を思ってしまう。

   サンデープも、叔父さんの一家もあまり宗教に熱心ではない。叔父さんは、学生時代、共産党のシンパだった。また、一家の好物が魚料理なのも、伝統的なヒンドゥーの上位カーストとは違う気がする。しかし、僕はチョウドリーのこの小説の全体に深い祈りのような宗教的ものを感じる。見えない神々に対する静かでひたむきな祈りをチョウドリーの文章は、織り上げている。例えば、チョウドリーが家の清掃人について「彼女は、一日中良く働く。少し腰をかがめ、それは何か見えない神に尽くしているようだった」と書くとき、チョウドリーの隠れて見えない神々が際立って見えてくる気がしてくるのだ。

   チョウドリーの本を読むのは何冊目になるのだろう。頑張って読んできたわけではないのに四、五冊にもなるのだろうか。チョウドリーにとってこの処女小説は、第二作『午後のラーグ』Afternoon Raag (1993)に雰囲気が似ている。この『奇妙で壮大な住所書』は、カルカッタの叔父さんと叔父さんの家に係る人々・文物を少年の眼から描いている。それに対して『午後のラーグ』は、青年のオックスフォード留学について、またボンベイの実家のことを回想し書いている。少年から青年への成長、場所の移動はあるにしても、共通するのは、輝くばかりの透明性、神々しいとでも呼びたくなる静謐さ、もっといえば僕らを存在の気付きに導く詩的な文体だ。しかし、『自由の歌』Freedom Song (1998)、『新世界』A New World (2000)になると人生の暗い重荷・屈折・孤独の影が現れてくる。『新世界』の主人公ジャヨジットは、自分の人生の進展と世の変化に戸惑っている。深く静謐な文章は健在なのだが、『奇妙で壮大な住所書』、『午後のラーグ』にある透明で澱みのない幸福感は消えていくのだ。他方『不死の神々』The Immortals (2009)は、『自由の歌』、『新世界』で描いた人生の憂鬱を払拭するのが目的であるかのように、音楽と音楽を愛する人々への幸福をひたすら歌う。いくつもの美しい場面をチョウドリーは『不死の神々』のなかで書いているけれども、それはどこかマニアックで、限られた人々の熱狂のなかに埋没しているようなのだ。彼の詩的な文体の力は後退し、僕は、それが少し不満だった。

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アミット・チョウドリー
1962年カルカッタに生まれ ボンベイに育つ
英国で高等教育を受ける
D. H. ロレンスからの影響が強くロレンスについての評論を上梓している
サトイヤ賞(『新世界』による)を始め数々の文芸賞を受け
また 欧米のいくつもの大学で文学を講じる傍ら
実験音楽の実践を勢力的に行っている

   僕が、チョウドリーの本を手にとるとき、いつも期待してしまうのは、彼の詩的な文体の力だ。心が疲れているとき、ささくれ立った日常から少し遠くに行きたいと思うとき、チョウドリーの文章を読むのは、生きる爽やかな元気を思いださせてくれる。この小説『奇妙で壮大な住所書』には、世界を肯定し愛する力が漲っている。通学鞄に書いたヴィーヴェカーナンダ通り17番地は、遥かな宇宙の慈しみの下で人々が息をし住まうところなのだ。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

30.アミット・チョウドリー『午後のラーグ』、Amit Chaudhuri, Afternoon Raag, Published in Great Britain 1994 by Minerva, First published in Great Britain 1993 by William Heinemann Ltd

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 オックスフォードの雨や街 風変わりな学生が
  またインド人留学生との交流が描かれる
  他方でエクスタラバガンサを楽しむ
  ボンベイの音楽一家が回想される
  チョウドリーのたぐいまれな美しい文章は
 存在への気付きをとおして
 日常のささやか出来事や心のざわめきを
 青春のかすかに輝く光に変換し
 人々の掌に届けてくれる
 チョウドリーはインドと英国で
 隠れて見えない神々への道を静かに歩む
 

Cover illustration: Mark Entwisle
著者がどこまで関わっているのか分からないけれども
チョウドリーの本の表紙絵はいつも素敵だ
インドらしい味わいと芸術的洗練のバランスがいい
チョウドリーは、育ちがいい分あか抜けている 

     『午後のラーグ』は、著者の二冊目の小説集で、そんなことを読み終わってから気が付いた。本当は、第一小説集『奇妙で崇高なる講義』A Strange and Sublime Address (1991)から読んだ方が良かったのかも知れない。僕は、好きなタイプの作家を発見すると、その初期作品に惹かれてゆく。未完成なところや、気張ったところが初々しく、止むにやまれぬ表現への欲望が好きだし、また、その人の個性がもろにでるのも面白い。 この小説では、オックスフォードでの学生時代のこと、およびインド(おもにボンベイ)での生活のことが交互に語られる。
    オックスフォードの方では、勉学や教授、英国人学生との交流についてではなくて、もっぱらインド人留学生のとの交流が、語られてゆく。・・・同じ建屋に住むシャルマは、インド哲学についての博士論文を準備している。彼の英語は、少しブロークンでインド訛りがきつい、それでチョウドリーに英語を教えてもらっている。ついでに言うと彼は、北インドの地主の息子だ。女友達も何人かいて、品行方正とばかり思っていたチョウドリーが女友達と一緒に“大人のオモチャ”の店に探検に出かけたりするくだりがあり、僕には少し以外な感じがした。何となく顔は知っている学生の一人が自殺し、そんなとき女友達の一人マンディラに言い寄られるようにしてセックスをする。夜、一人になり、階上に住む彼女のことを考えながら、彼女の部屋の床と僕の部屋の天井はつながっていてひとつである、というような感想をもらす。チョウドリーらしい表現で僕は何かとても嬉しい気分になってしまった。
 
   ヒンドゥー映画が雨のシーンが大好きなように、この本もオックスフォードの雨についていろいろに描いている。チョウドリーの雨の描写を読んでいて、大学を観光する気はしないけれども、オックスフォードの雨をいつか見てみたいものだと、思った。・・・たとえばセント・ジャイルズ・カフェでのデートのシーン。それは離婚してオックスフォードにやって来たシェーナズとの最初のデートだった。インドでは見知らぬ二人がオックスフォードで故郷インドを思った。そんな時、雷が鳴り、雨が降りだしたのだ。それはオックスフォードの雨ではなく、インドの激しい雨のようだった、と。外の道では女の子が叫び、バス停の人々があわてふためく声が聞こえた、と回想される。・・・あるいは、この小説の最終章は、最初にこの街に着いた時の雨のことが、そのこぬか雨は、誰も濡らしはしなかった、と言う。

   タイトルにあるラーグ(raag)は、この小説を読むとひとりでに分かってくるのだけれども、歌というぐらいの意味になるのだろうか。単純な言葉である分、チョウドリーの思い入れを強くじだ。・・・チョウドリーは、ラーグについて熱っぽく語る。ラーグには、北インドの歴史、地図、暦が織り込まれていて、その土地とその土地の人々の生き死にと切り離せないがゆえに、時間を超越した存在なのだ、と。

   実際のラーグに親しんでいないので妙な言い方になってしまうかも知れない。そんなことが気にはなるのだけれども、ヒンドゥー寺院でとり行われる家族の音楽会のシーンは、とりわけ美しい。・・・夕方、ボンベイの旧市街にある小さな寺院に家族の皆が集まってくる。エクスタラバガンザ(狂想的音楽劇)とチョウドリーは呼ぶ。一家の精神的よりどころであるグル(師)を偲んで、入れ替わり立ち代わり歌曲が歌われ、演奏されてゆくのだ。家族のお爺さんから、子供、嫁まで含めた一家が、そしておそらくゲストである音楽の師が、明け方まで音楽三昧の時間を過ごすのだという。・・・文化の商業主義や教養主義の不毛な俗物性を嗤うのは簡単だけれども、何が本物なのかを言うのはたやすくない。モンスーンの終わりに行われるチョウドリー家の音楽会は、本物の文化が何かを僕らに伝えてくれる。

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アミット・チョウドリー
1962年カルカッタ生まれ ボンベイで育つ
ロンドン大学、オックスフォード大学に学ぶ
2002年『新世界』A New World でサトイヤ学芸賞を受ける
コロンビア大学、ベルリン自由大学などの教壇にたつ
作家業とは別にみずから実験音楽の活動を精力的に続けている

  この小説を読み終わって少し時間がたってみると、この小説が、静的な存在への気付きと動的な興奮とから成り立っている、という鮮やかな対照が浮かびあがってくる。チョウドリーの個性は、そんな興奮にいたる静的な助走のすごさにある、と僕は思う。チョウドリーは、その助走においてささいなことを、読者を退屈させることなく書くことができるのだ。チョウドリーの文章は、日常のつまらぬことを、詩的に、存在への意識を開いてゆくように書き進む。例えば下宿の廊下を歩く誰かの足音が、読者に人間存在の深淵を喚起させるのだ。丹念に書き込まれた助走が、興奮の場面に導いてゆくなかで、僕らの心が感じ取るのは、生という存在が、感じ、音を聞き、見つめ、何かに触れる、というような単純な事実であり、それが生きる喜びであるかも知れない、という発見なのだ。僕らの日常のささやかな出来事が、心のざわめきが、決してとるにたりないものではなく、生きる喜びのひとつの姿でもあることに気付かせてくれる。チョウドリーの美しくニュアンスに富む文章を読むことは、人間存在の根源への旅であり生の讃歌への導きである。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

18.アミット・チョウドリー『不死の神々』Amit chaudhuri, The Immortals, New York 2010, Vintage Books, First published in Great Britain 2009 by Picador.

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チョウドリーは、インドの音楽への愛を書かないではいられなかった セミプロの歌手の母、バンドをやりながらサルトルを読む息子、そして音楽の師 かれらが作る時間と季節の移り変わり カルカッタからボンベイへ 音楽への静かな熱狂をチョウドリーは、小説という形に刻んでゆく

 




  チョウドリーの小説を読むのはこれで三冊目になるけれども、この『不死の神々』は、これまで読んできたチョウドリーと少し変わった印象を僕はもった。どこが違うのかぼんやり考えていたら、二つ、三つの特長が頭に浮かんできた。一つめは、主人公のニルマリアの家族が、ボンベイのコンドミニアムに住むニューリッチで、今まで読んできたつましい中産階級の家族ではないことだ。二つ目は、音楽への静かな熱狂が全編にあって、存在論的とでも呼びたくなるチョウドリーの文体がいくらか後退しているように思えることだ。

  若いころチョウドリーは、北インドでインド古典音楽を修業した。また、最近はロック風インド音楽のCDを何枚かだしている。音楽への拘りは相当であることは分かっていた。しかし、これまで読んできたチョウドリーの小説(『新世界』A New Worldおよび『自由の歌』Freedom Song)では、音楽の扱いはごく僅かで、魅力ある脇役のようなものだった。それがこの小説では、ひたすらインド音楽への愛を、音楽を愛する人たちを、彼らの静かな熱狂を歌い上げているのだ。インドの音楽が好きな人には、すごい情報源であり、またたまらない魅力をもった小説だと思う。残念ながらこの小説に出てくる歌い手でいえば、ラータ・マンゲルシュカルぐらいしか僕には分からなかった。
 
  マリカ・セングプタは、ベンガル育ちのセミプロの歌手だ。家柄はいいのだろう。育ちの良さなのか彼女は異常なほどに優しい。彼女の父親が死に、家族が経済的に傾きかけているとき、幸い稼ぎの良い男と結婚する。夫は、外資系のHMV軽音楽部の幹部社員なのだ。運転手付きの白いメルセデスが会社から貸与されているが、夫の仕事についてはあまり語られず家族思いの穏やかな父親である以外、存在感に乏しい。マリカの音楽の師がシャムジだ。シャムジの父親は、偉大なパンディットの歌唱の伝統を引き継ぐ者で熱狂的なファンをもっていた。マリカの一人息子ニルマリアはシャムジに何か通じ合うものを感じ、師として尊敬の気持ちを抱くようになる。母親のマリカと息子がシャムジと交流してゆく姿がこの小説のメインストリームなのだ。やがてその息子ニルマリアが、友達とロックバンドをやりながらも、より精神的な価値に目覚めてゆく。サルトルや西欧哲学の読書にのめり込んでゆくのだ。最後、シャムジが病に倒れる。ニルマリアは哲学の勉強のためにロンドンに旅立ってゆく。

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▲アミット・チョウドリー
1962年カルカッタで生まれボンベイで育つ。高等教育をロンドンで受ける。
『新世界』で2002年度のサヒティア文芸賞を受賞。
オックスフォード、コロンビア、ベルリン自由大学等で現代文学を講じる。
小説執筆のかたわら、実験音楽の活動をみずから勢力的に続けている。
写真 Rolling Stone India より
 

  「マリカの声は素晴らしいが彼女のベンガル訛りはどうにかならないか」とか「どうしてもっとグルは古典音楽を演奏しないのか」、とか「ヒンドゥ歌謡のキンキンした高音だけがインドの歌曲ではない」とか、インドの音楽をめぐる発言は、インドの音楽をほとんど知らない僕にも何か楽しい。そして、我が国の音楽状況にはない親密でほんものの関係をそこに感じはじめるのだ。お稽古ごとの音楽や、孤独な趣味として音楽、あるいは音楽学校の権威、教養主義的クラシックコンサートといった風景からは感じられないほんものの楽しみと、音楽技術を切磋琢磨する人々がいるのだ。マハラジャからごく普通の庶民まで、皆が音楽を愛している。音楽は、少なくとも多くのインドの人々にとっては、かけがえのない究極的な生の喜びの源泉である。インドの人々は容易には彼らの音楽を手放さない。インドの生活の様々な場面で、それを感じる。そして、そういうインドに僕は惹かれてきたのだ。しかし、この小説は、インドの音楽の深い喜びを語っているとともに、効率や経済、金のために音楽が力を失い堕落してゆく恐れを語ってもいる。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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