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39.網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店1984年刊)

amino+002_convert_tate.jpg  網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』は
中世史研究の隆盛のひとつの記念碑的著作なのだろう
中世における海民・山民・商工民・芸能民が
自然という「大地と海原」を媒介にして
天皇に強く結びついていたさまを
具体的な細部の検討を通して
知ることは戦慄的ですらあった
相論(係争)のために偽造された職人の由緒書のなかに
鵜飼として鮎を漁する桂女(かつらめ)の
遍歴する商人・遊女・巫女の商権と交通権に
天皇との結びつきがあったのだ
現代にいたる「歴史の力」が消し去ってしまった
厳しくも逞しく くっきりとした特長をもち
また 時に非常に美しい人々と文物を
この本は蘇らせてくれる
しかしそれらを排除し扼殺した者は誰なのかも
問う本なのだ
この本を読んでいると
学問という狭苦しい枠を超え 
多くの人々のものの見方・考え方に影響力をもつ
人の心を豊かにしてくれる種類の
最高の読み物に出会えた気がしてくる


   不覚にも、またしてもすごい本に手をだしてしまった。網野善彦には、一般の読者むけに書かれた読みやすい本がたくさん出ているのに、よりにもよって大著『日本中世の非農業民と天皇』(本文591頁)の読破に挑戦したのだ。史学科の学生でも、相当に勉強熱心でなければ手にあまる代物だろう。この本を読む資格は僕にはないと思う。どれだけ理解できなのかというと三~四割がいいところだろう。しかし、『日本中世の非農業民と天皇』の読書が、退屈だったかというとまったくそうではなく、読んでいて面白く、時には目くるめくような感興をおぼえた。非常に豊かな読書体験だった。

   この本がすごいのは、半端な姿勢・知識では到底歯が立たないという意味だけではない。中世における非農業民、すなわち海民・山民・商工民・芸能民などの人々の生態とその歴史変化を、膨大な資料の精彩な読み込みから「間違いない」と言える僅かの事象・意味を浮かび上がらせてくる知的な迫力とともに、はからずも非農業民の影に浮かび上がってくる天皇、あるいは天皇制という大問題に、決して声高ではないにしても、真正面から向かいあっていることだと思う。天皇による保護・特権付与がなされた人々が、賤視の対象に変化してゆく歴史を、ごく控え目に、しかしこれだけは言えるという真実が記述されている感じだ。

   非農業民と天皇の結びつきについての問題意識を、この本は通奏低音のようにもつ。そして時間をかけて僕なりに考えてみたい論点をこの本で知った。それはのちに入会権の争いとしてより明瞭に顕在化するのだが、「大地と海原」は誰のものかという問だ。荘園制という土地所有とは別の次元で、「草木獣鳥魚類海藻等」は領主のものとうよりは、そこに住む人々のごく自然な環境、それとともに生きる「人民」が活用できる本源的な権利であったはずだ。その環境と権利を最初に特権化しある限定した人々に与えたのが天皇であった。少なくともこの本を読む限り、「大地と海原」を支配する天皇の影響は絶大であり、その自然の恵みと天皇の結びつきは、さらに言えば、日本列島に住む人々の意識の根底に刷り込まれたある種の自由と不自由を、開放と拘束を表現しているのかも知れないのだ。

   僕は、歴史への柔らかく型にはまらない著者の感受性・想像力に何度も唸ってしまった。そういう意味で、この本の秀美は、中世の商工民をめぐる偽文書の考察だろう。
    網野善彦は、中村直勝(1890~1976)がその多くを偽とした文書のなかに真正のものが少なくとも含まれているということを検証する。さらに、中村が「変な」「気味の悪い」「落ち着きのない」と形容した文書に積極的な意味を読んでいくのだ。つまり、それら偽文書のなかに天皇と供御人の歴史的な淵源を辿れるとする。偽物についての考察によって真実の姿を浮かび上がらせる逆説の方法に僕の心は揺れた。また、女性の商業・金融面での当時の活躍を中村が偽作と断定した粟津橋本供御人(クゴニン)の文書に見出してゆくのも面白い。

    海民をめぐる話、鋳物師の話も、ディティールにつぐディティール、厚みがあり味わい深い。しかし、桂女(カツラメ)という女達の何と艶かしくも逞しく、またときに妖しくも魅力的なことか。桂女とは、遠く中世においては鵜飼を生業とする女性の集団であったようだ。桂女という鵜飼は、鮎を漁るばかりでなく、鵜船を操り水上を行き来した。彼女達は、鮎を売る商人であり、遍歴する遊女であり、呪術的な力をもつ巫女でもあったのだという。富貴・権勢の人々が彼女らと遊び、彼らの宴席を賑わした。僕も、その時代に生きて彼女らと遊んでみたいものだと想像する。それが叶わぬ望みなら、道行く桂女を見とれていたいと思うのだ。
    桂女をめぐっては、興味深い事実が多い。現代にいたる花嫁の角かくしは、鮎鮨を入れた桶を、白布を巻いた頭上にいただいて諸国を経廻した習俗の名残であるとか、彼女らの集団が女系相続であったとか、興味が尽きない。柳田國男には、近代の彼女らについての美しい文章があり(“桂女由来記”)、また、江馬務は彼女らの起源を朝鮮に求めたという。桂女の生業であった鵜飼についても、僕はテレビで見る長良川の観光名物でしか知らなかったのだが、南アジアにまで視野を広げて考えるべき、生活に密接した漁法なのだということを教えられた。
   桂女という特異な女性集団について、このような重厚な史書にある地味な記述によってではあってもいろいろと想像してみたくなるのは、何だろう。著者が言う「歴史の力」というものを僕が感じるからかもしれない。天皇から特権と保護を受けていた桂供御人(くごにん)=鵜飼であった(隷属していたのではない)彼女らが、天皇の支配権の弱化とともに、桂女は大きな変貌をとげることになる。他方、鵜の首をしめて漁をする鵜飼にたいする仏教思想に基づく殺生禁断の圧力があった。彼女らが賤視・差別の対象となってゆく、背景がそこにある。それでもなお近世の桂女は、元祖を伊波多姫と宣言し、安産を祝い婚姻に際しては祝言を述べてきたのだ。僕は、夢想するのだが、自由に遍歴し逞しく、また艶めかしく生きる桂女に変貌を強いたのは「歴史の力」であるとともに、僕ら現代につながる日本人であるかも知れない、と。変貌は、言葉を変えれば排除し扼殺したのだ、と。現代における角かくしと桂女の習俗は、何とも皮肉なめぐり合わせである、と著者はこの章の結びで付け加えている。

     この大きな本のごく短い「あとがき」で、著者は霞ヶ浦四十八津の滅亡にいたる歴史を辿ったその論文を小ノートと呼び、謙遜しながらも特別な思い入れを込めて回想している。著者が日本常民文化研究所で働いた六年間のささやかな成果であると述べ、また、それはおそらく著者の公刊された処女論文であるのだろう。しかし、僕の好みでいえば、この論文が最高の読み物に思えるのだ。近世の文書の読解からおぼろげに浮かび上がってくる事件やら時代の変化が、霞ヶ浦四十八津に生きる海夫たちの生きた姿をじつに豊かに想像させてくれるからだ。入会の湖をめぐって、中世における鹿島社、香取社による影響行使、鈴木という豪族の台頭があり、そして徳川の時代、入会の湖が水戸の「御留川」となりさまざまな相論をひきおこすことになる。霞ヶ浦四十八津の入会で生きる自立した村々の連合体と水戸の領主との対立という構図に収斂させてしまうとつまらなくなるが、事態はそれほど単純ではなかった。たとえば「あぐり網」の使用に端を発する訴訟において四十八津側は勝訴した。そして、霞ヶ浦の漁業の古くからの慣習を連判をともなう規定八箇条(たとえば、鯉の漁期を定めている)として奉行に公認させるのだが、それは同時に自然権への自らの手による拘束でもあったのだ。

     この大きな本を読み終えてぼんやりと考えていると、さまざまな問題が頭をかすめてゆく。いろいろと考えてみたいことが少なくない。しかし、ふと変な思いが頭をよぎる。著者網野善彦は、随分おおくの人から、とりわけ後進の人から批判をうけているなー、と思うのだ。それへの反論も時には激しい物言いになっている。そして僕は思うのだが、後進の者にとって網野善彦は批判をまともに扱ってくれる先輩に写っているのかも知れない、と。それは著者の学者として良心という以上に心の広さ・温かさを僕は感じる。この本がそういう著者の心の温かさをどこかで伝えている。591頁のこの学術書は、読んでいると学問という狭い領域を超え、人の心を豊かにしてくれる種類の、世間に影響力をもつ最高の本であるにように思えてくる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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