FC2ブログ

38.クシュワント・シン『この世の天国』、Khushwant Singh, Paradise and Other Stories, published by Penguin Books India 2005, first published in India 2004.

paradiseBBB.jpg クシュワント・シンの好色魂は健全だ
秘め事のセックスの彩りはなく
人間の生産行為としてのセックスを
人間にとって本物である何か
誤魔化しようのないものとして描く
宗教対立の惨劇については
責任ある態度を表明している
そしてあるべき宗教のゆるやかな姿を明かそうとする
欧米との関係・交流については
ナショナリズムの枠を超え
植民地インドの「犯された」経験と
逆にインドの人々による植民者たちへの
反撃=「侵犯」行為を描く
クシュワント・シン晩年の短篇集
『この世の天国』は
意表をつくアイディアとユーモアで
作家にとって重要ないくつかのテーマを
さまざまな視角からふところ深く
織り上げている


   クシュワント・シンは好色な作家だ。シンの好色は、人間にとって本物である何かを明かそうとしている。逆に、シンは今の世の中を擬制としてとらえ嫌っているように思える。今ある社会は、虐殺(例えば印パ分離独立の)忘却のうえに成り立っている、と思うからだ。クシュワント・シンの中には、性への欲望という自然肯定と、虐殺を何とか回避したいという抑制・倫理、人工的な反自然がせめぎあっている。

   なぜ人はセックスをするのか。これも考えてみると良く分からないことだけれども、単純化して言うと、自らの遺伝子を残し、形を変えて生まれ変わり、自らを永遠に生きさせたいと思うからだろうか。クシュワント・シンのこの短篇集は、好色な彩りとともに、子供を産む、子宝に恵まれる、ということがらを巡って、さまざまな物語が広がってゆく。“子を求む”という短編では、仕事の都合で避妊をしていた二人は、そろそろ子供がほしくなってくる。しかし、なかなか子宝に恵まれず不妊症に気付く。インドでは、少なくともこの短編を読む限り、子をもてない夫婦は非常に不幸である。この問題の解決策は、何とも大胆で、意表をついている。男は事件の真相に気付かず、その愚かな味わいがまたいい。

   インドの新聞を読むと、よくホロスコープの広告がでていて(たとえば「恋人を信じられますか」というような惹句がついている)、ナイポールが呆れるような事態も(占星術師がマーケッティングを行う)、あながち誇張ではないことがわかってくる。・・・この短篇集でも、ホロスコープがいくつもの場面で登場する。“一生の占い”では、ヒンドゥーの教えに凝り固まった一家の秀才が、ホロスコープで結婚相手を決める。が、そこから悲喜劇が生じる。シンは、ホロスコープに依存する愚かしさを理屈として論破するのではなくユーモアとして笑いとばしている。シンのユーモアには、インドの現実への抗議が含まれていて、少し啓蒙的な匂いもする。

   僕は、とくに特定の信仰をもっていないのだけれども、宗教・信仰については、それがまるで人類のおおきな謎のような気がしてずっと興味をもってきた。若いころは、宗教をバカにしていた。吉本隆明の“マチウ書試論”を読んだころからか、宗教・信仰が人々にとってただならぬものに思えてきたのだ。聖なる体験として宗教というエリアーデの考えに触れ、一層宗教が重要なものに思えてきたのだ。
   ところで、クシュワント・シンだが、シンも宗教について狂信者から一番遠いところから、神を信じ祈ることの重要性、超越的な存在としての神による人々の倫理の統御を重視しているように思える。“桑の木”という最後に収められている短編は、意表をつくユーモアではなく、作家の根本にある思想・信条を、落ち着いた筆致で描く好短編に思えるのだけれども、シンの宗教観が良くでている。・・・主人公が追う謎の女は、教育があり西洋風で酒を飲み、煙草をおおっぴらに吸う、つまり宗教的な規範・拘束から自由な女でありながら、ブロンズや大理石の偶像に足しげく通いミルクを注ぐ者なのだ。主人公のヴィジャイは不思議な魅力を彼女に感じる。彼女は、ヒンドゥー寺院、モスクのわけへだてなく、祈る人々の傍らによりそっていることを好む女なのだ。そこが、僕には一層興味深く共感をそそる。彼女の、宗教への関わり方は、クシュワント・シンの宗教への思いを、素直に表現しているようにも思える。
   逆に、シンが許しがたいと思う宗教の姿も、この短編“桑の木”で描かれている。ヴィジャイは、ヒンドゥー寺院の前のパーン屋で、ヒンドゥー教徒のいささか狂信的な若造に脅される。謎の女を探しにきたヴィジャイは、そのパーンワラにウルドゥ語詩人のことばをひき演説をぶったからだ。インドは、ギリシャ・エジプト・ローマとならぶ偉大な古代文明のひとつであり、そのなかでも唯一現代に生き延びた文明であるにもかかわらず、今は無知と迷信の残骸の下に埋もれている、とヴィジャイは嘆く。若造は、ヴィジャイをムスリムと誤解し、威嚇するのだ。寛容の精神の欠如、信仰の形式化、知を、他者の文明を敵視する狭隘なドグマティズム、暴力への短絡が、シンにとっては宗教の本質を踏みにじるものに写っているように思う。

imagesCA1DETZC.jpeg
大インテリの風貌;クシュワント・シン
1915年現パキスタン、サルゴーダ生まれる
インドでもっとも著名な作家であり、コラムニスト
また、『シーク教史』の大著をもつ
1984年のブルースター作戦(インド国軍による
シーク教本山、ゴールデンテンプルへの攻撃・虐殺)
に抗議し、パドマ・ブーシャン勲章を政府につき返した

   クシュワント・シンは、宗教の本質的な機能に充分な敬意を払いながらも、現実のインドにおける宗教に対しては独自の立場をとっている。他方、欧米の文化に対しても、これも繰り返されるテーマであるのだけれども、シンは一筋縄ではいかない見方を示す。最初に収められた短編、“この世の天国”は、シンの欧米に対するフィーリングの一端を表しているはずだ。欧米の人々は、それぞれの事情をインドに仮託してインドにやってくる。しかし、それらの人々は、彼らの意図とは違う体験をし、ある場合にはインドに「犯されて」帰ってゆくのだ。

   この短篇集を読みながら、インドは何とも御しがたい魅力に充ちた国だ、とあらためて思った。そして、クシュワント・シンの小説は、物語を読む楽しさを与えてくれるとともに、インドの御しがたい魅力が何なのかを思い起こさせてくれるのだ。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 学問・文化・芸術

35.クシュワント・シン『海に葬る』、Khushwant Singh, Burial at Sea, Published by Penguin Books Inc. 2010, first published in India 2004

singhbook003bbb.jpg 
 作家老境の作『海に葬る』は
 ぼくが考えられるインドらしさを
 あますところなく表現している
 すなわちガンジー主義と現代化の挫折を
 また犯し犯される植民地主義の経験を
 人々の性への欲求を
 楽しく面白く語り聞かせてくれるのだ
 リベラルで深い問題意識をもち
 好色なクシュワント・シンが書いたこの小説を
 一言で言うと インド小説に万歳三唱なのだ



   佐藤優さんの何かの本を読んでいたら、各国の諜報官は、その国の人々の発想や心性を読む必要から小説を結構読むのだと話していた。あるイスラエルの諜報官は、村上春樹をしっかりと読んでいた、と。村上春樹の小説における登場人物が日本人の代表とは思えないが、村上春樹の小説が今の日本人のもっているある種の深い気分を表現していることは間違いない。そんなことを思い出したのも、クシュワント・シンのこの小説を読んでいて、インドの人々の考え方、感情、欲望がよく表現されている、と思ったからだ。インドへのアプローチは、人さまざまであろうけれども、R. K. ナーラーヤンの小説とクシュワント・シンの小説に触れていると、インドの人々の発想がずっと分かりやすくなるように思う。自分発見の旅にしろ、ビジネスにしろ、あるいは諜報にしろ、ナーラーヤンとシンの小説を読んでいれば、彼らの発想の根にあるものが理解できるはずだ。
 
   しかし、ナーラーヤンにしてもシンにしてもほとんど翻訳がない。僕は、日本人がインドの人々を理解するうえで、日本語で読める十数巻のナーラーヤン選集とシンの著作集があったらどんなに素晴らしいだろうと思う(その点でシンの『首都デリー』[結城雅秀訳、勉誠出版]の翻訳と出版は、recluseさんも言うようにたまげた快挙だ)。古典も重要だし、また小難しい精神世界も結構だが、現代のインド人の発想・好み・こだわりを知るのにナーラーヤンやシンをまず読むのがいい、と僕は思う。

   主人公のビクターは、ガンジーの批判者だ。手紡ぎの糸車ではなく、近代的な紡績工場がインドを貧困から救うと考えている。豊かなインドを作るには繊維工業ばかりでなく、鉄鋼プラントが、自動車工場が、大規模ダムが、国中を結ぶ運河や道路が、より多くの学校・高等教育機関や病院が必要なのだと主張する。多分この視点は、現在のインドのおおくの知識人・指導層が共有しているはずだ。有力弁護士の子息として恵まれた環境に生まれたビクターは、ガンジーに自分の意見をぶつける。マハトマは、忙しい時間のなかで将来有望な少年に返事をするのだ。「君の言うことももっともだ。しかし、君の言う豊かになってゆくなかで人々はあたたかい心を失ってゆく」と諭すように語る。ビクターは英国留学から戻ると次々に事業を起こし大成功を収めてゆくのだが、それは自分のためというよりは人々の生活の向上への願いが強い。しかし、当然のこととして小説はそこでは終わらない。精力的に激務をこなしてゆくビクターだが、彼が中年にさしかかったとき名状しがたい疲労をおぼえ、ガンジーの予言した心の喪失を体験するというよりは、聖と性を操る怪物・魔物・ペテン師にからめとられてゆくのだ。

   ビクターの父は、裕福なやり手の弁護士だ。彼は、ガンジーが率いる国民会議派の独立運動にシンパシーを感じている。インドは、英国の植民地支配から脱しなければならないと考えているのだ。しかし、一人息子のビクターには英国風のエリート教育を授けたいと思う。ビクターの教育のために、英国人女性の住み込み家庭教師が招聘されるのだが、あろうことか父はその家庭教師に「自分ほど孤独で哀れな人間はいない」と哀願し犯してしまうのだ。「四十にしてみずからの子供じみた夢-白人の女を犯す-をはたす」と父親に言わしめる。インドと英国の関係を、つまり植民地と被支配民との関係を、犯し・犯される関係として描こうとするところにクシュワント・シンの真骨頂がある。しかし、それが歴史の真実であると証明するのは難しい。インドと英国の関係を、そのような両方向の侵犯として捉えるのはシンの思想、あるいはインドの人々の深層の気分を表しているようにも僕には思える。

   ぼんやりと思うのだけれども、V. S. ナイポールの小説におけるセックスとクシュワント・シンのそれとは随分違うな、と思うのだ。シンのセックスがより大らかであると言うのとも少し違う。ナイポールのセックスが、例えば『魔法の種』(岩波書店)のウィリー・チャンドランのセックスが何となく屈折していて暗く、どこかに抑圧を隠しているように思えるのに較べ、シンは、より直接的で頻度が高い。何か憎めない人間性の肯定の感覚がある。父親が英国人の家庭教師を犯してしまうのも、ビクターが寒さに震えるコール・ガールに情けをかけ童貞を失い、そのうえ有り金全部を盗まれてしまうのも、マルキストの親友のジゴロに一人娘が処女をささげてしまうのも、世の良識(といよりは日本の良識)からすれば随分無体なことに写るのだけれども、面白いのはそれらを作家は非難したり軽蔑したりする風には書いていないということなのだ。シンは、奇妙で不可思議な人間存在のありようを素直に語っているに過ぎない、と思えるからなのだ。・・・ここで少しばかり飛躍していえば、その性の肯定は、インド神話における性の肯定の感覚に繋がっているように思える。ニロッド・C・チョウドリーの『ヒンドゥー教』(森本達雄訳、みすず書房、原著1979年刊)の一章に描かれたひどくエロティックなヒンドゥーの神々による性の場面がまざまざと思い起こされるのだ。ヒンドゥーの神々の性とクシュワント・シンの性に共通しているのは、性への肯定の姿勢であると言う以上に、性は生のある部分の本質であることを自明のこととして認める。あるいは、フロイトが性を死への誘惑とセットで語るのとは違って、性を人間の生命の根源として語る。槍と虎を携えている怪しい導師は、精神の活力を失ったビクターに、セックスが死の恐怖に抗う最良の解毒剤であると語るのだ。

singhwithpatbbb.jpg
クシュワント・シンとナイポールの妻パトリック
   
   楽しく面白く読めるこの小説『海に葬る』をできるだけその物語を迂回して批評しようとした。しかし、それはどうも難しい。すべてのディティールと具体性を捨象して、一言でこの小説についてコメントすると、インド小説に万歳三唱なのだ。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

31.クシュワント・シン『パキスタンに向かう列車』、Khushwant Singh, Train To Pakistan, Published by Penguin Books India 2009, First published in India 1956

パキスタン国境に近いパンジャーブの小さな村マノーマルジャ
そこをとおる列車は、村の生活を刻む時計のようであった
しかしそんな平和な村にも カルカッタで発生した
分離独立の混乱・対立にともなう
暴動・殺し合いのざわめきが迫ってくる
モスリム・ヒンドゥー・シークを区別し
緊張した対立を 凄惨な殺し合いを
演じさせるものは何なのか
幼いダンサーの娼婦ハセーナは
ムスリムの移住を任務とする行政官と一晩をすごしたあと
コミューナルな緊張・対立を
笑いとユーモアで和解に導く
半陰陽のヒジュラについて興奮して語るのだ
『パキスタンに向かう列車』は、
読者に殺し合いの恐怖ではなく
ヒジュラという異形なるものが与える
和解と希望の可能性を伝えてくれる


   インドのちょっとした本屋を覗くと大抵インド人作家のコーナーがあって、そんな本棚の前に立ちどんな作家の本が収まっているのか見るのが僕の楽しみだ。知らない作家の本を手にとり一冊ずつ中身をチェックするのも飽きないし、お馴染みの作家の本が並んでいるのを見てどんな人々がそれらの本を買っていって読むのかを想像するのも楽しい。インド人にとっては耳が痛いはずのV. S. ナイポールの本も良く揃っているのは僕には意外だ。サルマン・ラシュディの本は、ムスリムの反発を嫌ってか見かけない。本屋のおやじに、ラシュディの本を読みたいのだけれど、と言えば店の奥に通され一抱えのラシュディ本を見せてくれるような気がする。どの本屋にいっても、「またいるな」と思う作家も何人かいるのだけれども、クシュワント・シンもそんな人気作家のひとりだ。インドの人々-とはいえ一部の英語を操れる知識層ということになるのだろうが-クシュワント・シンの小説が好きなんだなーと僕は思うのだ。それは、実に正しい選択のような気がする。

K.Singh 003bbb

    『パキスタンに向かう列車』は、印パ独立の悲劇・悲惨を描いた重たい小説ではない。亜大陸の分離独立における人々の移動や財産放棄の苦難、一家離散、レイプ、虐殺、といった悲劇・悲惨を面々と綴るのではなく、何か冒険活劇のノリに近い読み物なのだ(とりわけ最終場面はそうだ)。クシュワント・シンは、倫理観の強い社会派の作家であるから、無論分離独立の悲劇・問題点から眼をそらそうとしているわけではないのだけれども、彼が本物の作家であるゆえに、分離独立をセンセーショナルに取り上げるのを避け、多くの人に訴えかけられるような仕方で、小説を書いているように見える。例えば、タイトルは「パキスタンに向かう列車」であるけれども、パキスタン国境に近いパンジャーブの小さな村マノーマルジャに住む人々にとって村のそばを通る列車は、村の生活を刻む時計のようであり、人々が床を離れるのも、祈りを捧げるのも、畑に働きにでるのも、列車の走る音・汽笛を合図にしている、とごく日常的な風景の描写から小説を初めているのだ。

   平和な村にも、分離独立のざわめきが伝わってくる。
   そのざわめきは、村の外からもたらされる。
   マッリ率いる群盗(ダコイト*)、村の金貸しを襲う。群盗の襲来は、分離独立にともなう社会的動乱を背景にもっているのだろう。二番目の部外者は、都会からやってきたソシアルワーカーだ。彼は、英国留学の経験をもつエリーとであり、社会正義の実現を理想とする者である。あるいは、彼は革命家なのかも知れない。そこに、この地方の行政官がお伴をつれて現れる。彼は、ムスリム住民のパキスタンへの速やかな移住という訓令をもっているが、妙にリアルなのは、彼の夜の宴の時間だ。そんななか死体を満載した幽霊列車がマノーマルジャに到着し、その死体処理に村人が駆り出される。また、鉈でばらばらに叩き切られた人の肢体が上流から流れてくると、カルカッタに始まった宗教対立・暴動が、村のごく近くまで押し寄せてきたことをマノーマルジャの村人は認めざるを得なくなるのだ。

   村にやってきたソシアルワーカーが、小説の主役、ヒーローになるという予感があったが、小説の展開は違っていた。ソシアルワーカーの人物像は、何か作家の内面にある屈折を語っているような感じだ。彼は、村のシーク教会堂で供された食事を拒み、持参した缶詰とビスケットの食事に拘る。村人と同じものが食べられないソシアルワーカー(革命家)という作家の指摘は痛烈である。また、社会運動家としてのハクをつける実践・経歴(たとえば投獄体験)が必要だと自らに語る場面もある。最終場面では、彼は泥酔し問題の渦中から逃げる。

   この小説のヒーローは、村に住む前科者ジャガット・シンなのだ、と僕は思う。ジャガットは、シーク教徒で父子二代の群盗であり、夜間外出の禁止と警察署への定期的出頭を課せられた観察処分中の身だ。彼は、群盗が現れた夜、モスクのムラーの娘ノーロを犯し子供を孕ませる。彼は、宗教の壁を破り、パキスタンに未来の子供を届けるのだ。ジャガットを描くシンの筆使いの陰影は微妙だが、悪党のシンが最後正義を守り神への許しを請う(少なくとも三人のシンがこの小説には登場し、シンという名前の使い分けが面白い)。

   悪党シンによる正義の奪還も悪くはないが、しかしそれは作家の願望が少し勝ちすぎているのではないか、と僕は思う。むしろ行政官と若いダンサーとのやり取りのほうに僕は注意をむけたい。・・・行政官は、そのダンサーをさほど美しいとは思わない。彼は、彼女とのセックスを求めるのではなく、彼女の髪を、腰をまさぐる。作家は、行政官の不能を言いたのだろうか、よく分からない。初め無表情で反応のなかった若い娘が、行政官フークーム・チャンドの問いかけでぽつりぽつりと語りだす。母は自分を生んですぐに亡くなったこと、出生証明もなく歳はよく分からないこと、また、自分はムスリムでシークが嫌いだ、というようなことを娘は話す。どうしてパキスタンに避難しないのかと彼が質問すると、ダンサーは、ムスリムでもシークでもないからだ、と言う。みんな私の歌を聞きに来るからだと言う。まだ街に残っているムスリムはいるのか、という行政官の問いに、娘は少し言い澱んだあと、ヒジュラ(両性具有者)達がいる、と答える。娘は、何度も笑わないで聞いてくれるなら話しましょう、と念押ししながらヒジュラの踊りを真似、歌いながら、コミューナルな緊張が高まってゆく時、コミカルに楽しく対立を鎮静化してゆくヒジュラ達の芸について興奮しながら語るのだ。

images_20121227154518.jpeg
クシュワント・シン
1915年、現パキスタンのサルゴーダーに生まれる
ラホール、デリー、ケンブリッジで教育をうける
判事、外務省、ユネスコなどの官職に就く
また、“イラストレイテッド・ウィークリー・オブ・インディア”
などの編集長を務め、ジャーナリストとしても著名
1980年から86年までインド議会議員
2007年、パドマ・ヴィブーシャン勲章をうける
僕の好きなクシュワント・シンについての伝記上のエピソードは
貧しいニロッド・C・チョウドリーにタイプライターを貸し
チョウドリーが彼の『無名インド人の自伝』を執筆できたこと
クシュワント・シンは、チョウドリーをインドでもっとも
注目すべき作家であると語っている、ことだ

   クシュワント・シンの小説は面白い。何がいいのかとかと言うと、悪への、死への、異形なるものへの親和性と対話のすごさだと思う。この小説は、悪党のシンによる正義の実現を物語る。もっともらしい正義よりも悪が、実は正義に近い、と。また、クシュワント・シンは人間の死というものと正対する作家なのだ。人間は、死という現実にどう向き合っていくべきなのか、という深い問いをこの作家は繰り返す。しかし、クシュワント・シンという作家をもっとも際立たせているのは、行政官の相手をするダンサー、ハセーナが語るヒジュラへの視点・関心・気付きではないだろうか。世の分類-モスリム・ヒンドゥー・シーク、あるいいは男・女-を無化し、その境界を越境するヒジュラに作家が感じているものこそ僕はユニークで貴重だと思う。 

   *ダコイトについては、民衆的な神話の側面と論争的な側面があることを、『南アジアを知る事典』で知った。つまり、人々はダコイトに義賊的な行為を期待する。この小説でもマッリ率いる群盗は、マノーマルジャのヒンドゥーの金貸しを襲うのであって、村人を襲うわけではない。しかし、すべてのダコイトが義賊であるとも言えないわけで、どこまでが事実でどこからが神話なのか、論争があるところらしい。この小説におけるダコイトは両義的だ。前科者ジャガット・シンが、最後の場面で正義につながる犠牲によって神に人々の過ちの許しを請う。また、マッリ率いるダコイトは、ムスリムの虐殺に加担することによって、擬制としての義賊を演じることになる。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR