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69.ジャン・クロード・シュミット『中世歴史人類学試論 身体・祭儀・夢幻・時間』(渡邊昌美訳、刀水書房、原著2001年刊)

DSC_0309[1]_convert_20150126171719これは ジャン・クロード・シュミットの著書
『中世歴史人類学試論 身体・祭儀・夢幻・時間』を読み
私が学んだことどもについての
初学者の勉強帳である
あるいは この本を手掛かりに
私が夢想し 楽しみながら書き込んだ冗談の
覚書である





(歴史とは、哲学よりも遥かに郷愁なのだ、と考えなければならない。なぜなら、過去から齎される破片をたよりに歴史を語ることは、良い夢と悪い夢の違いはあれ、つねに郷愁として私たちの手元に戻され、私たちの魂に刻印されてゆくからである)。

   ジャン・クロード・シュミットのこの本は、歴史(学)を極力郷愁から遠ざけようとしている、ように見える。シュミットの歴史は、郷愁に対して寡黙で禁欲的であろうとする。シュミットは、歴史をむしろ「表象représentationsと象徴的な行為pratiques symboliquesの広範囲にわたる体系vaste systeme」(26頁)の記述に限定し、よって、歴史(学)における郷愁を迂回しようする。

(それは、人間の主体的かつ根源的な選択である想像力による歴史的夢想の何がしかの否定とみるべきなのだろうか。そうではない、「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」を明かそうとする行いは、むしろ歴史的想像力のための源泉の暴露なのだ、と私は考えなければならない)

   中世には、宗教religionなど存在しなかった(6頁)。
   中世におけるレリギオreligioという言葉は、修道僧の身分・誓願に関する言葉であった。
   霊性spiritualitéは、むしろ十八世紀における神秘主義の鍵言葉だった。

   「身体・祭儀・夢幻・時間」という題を持つ本書は、中世の宗教、とりもなおさず中世のキリスト教とキリスト教教会についての本なのである。この本のタイトルを「中世キリスト教史」としたなら、この本はまったく売れなくなる、しかし、私の通念からするとこの本が取り扱う対象は、それを素直に表現すると「中世キリスト教史」になる。

(それでは、中世およびその時代に生きる人々の信仰とその環境をさして私はそれを何と名指したら良いのか。・・・私は、言葉を失うべきなのだ。言葉の獲得ではなく、言葉の消去が求められている。失語空間を彷徨うようシュミットは読者を導いていく)

(私は、「中世キリスト教史」という本を読みたいとは思わない。「中世キリスト教史」が扱う時間・空間の広がりを、「身体・祭儀・夢幻・時間」という見方によって「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」として捉えなおしてみる時、イエス・キリストについての信仰とそれを「信じさせる装置」instrument faire du croireとしての教会が立ち現われてくることの方が、私にはピンとくるのである)。

   たった一言―少ししか言わないところがシュミットの巧妙なところである―中世の信仰は、私たちの今日の日常でいうところの広告やメディアに近い、とシュミットは言う(74頁)。空気のようにつねにそこにあって、社会の成員にたいして方向性を示すとともに、知らず知らずのうちに動機付け、信じ込ませる装置としての広告やメディア、ゆえに、中世の人々は、教会に文句をいうことはあり得たが、そこから抜け出ることなどまったく考えることができなかった、と(261頁)。

(あるいはむしろ、より深くこの時代に捕われているのは、中世の人々よりも私の方かも知れない、と愚考する。私は、この世の、後期資本制社会の、市場経済における断末魔の格差社会に抗議する気持ちをもつけれども、そこから抜け出ることなどまったく考えられない)

(ひとつの奇妙なイメージが浮かび上がってくる。中世を、文化人類学の、未開のフィールドに見立て、歴史家が、探検家のような恰好をして、見知らぬ土地に分け入ってゆく(この社会から抜け出てゆく儀式でもあるかのように)。しかし、そのようなことはあり得ない、と思うのは早計である。歴史家は、歴史という時間を考え、組み立て直すことができるからだ。つまり、可逆的時間の操作に、歴史家はたけている。・・・この本後半の時間論は難解だ(「歴史家が研究する過去の時代にとって現在は未来である」318頁)。しかし、不思議な魅力を放っている。私は、歴史家による人類学的調査の不可能と(歴史家が扱う過去の破片は、人類学におけるフィールド・ワークにどのように比較できるのか)歴史家の時間の魔術について、夢想したくなる欲望を感じ始める)

   西欧中世のキリスト教の独創性は、一神教ではなく、受肉Incarnationに焦点を絞りえたことだ、と著者は考える(269頁)。
   イスラムがなし得なかったこと、つまり偶像を否定しつつ、受肉された図像により信仰が中世を生きる人々にとり身近な実体を持つにいたった。

(ジャン・クロード・シュミットは、中世キリスト教のなかでの受肉についての表徴を寿ぐ。そこに、私は、むしろ哲学の受肉として歴史(学)の声を聴く。隠喩を紡ぐ歴史に、哲学の受肉の形態を見よ)

(この本によって、西欧中世の何を私は了解するのだろう。中世の信仰(人々が意識することなしに生命の価値と社会の進むべき方向性を動機付けられ一連の観念)についての、「信じさせる装置」としての教会の聳立する姿なのである)。

   この本における「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」についてのほとんどすべてが、教会に結びつけられる。
   教会はあらゆるものを支配しようとした。
   教会は時間を支配しようとした(301頁)。教会は、未来は神のものであるから、未来を占う迷信と闘った(328頁)。
   病も教会が説明する(250頁)。例えば籟は、親の淫行luxureによる(248頁)、というように(なんと『聖書』からは遠く隔たった言葉なのだろう。あるいは、日本中世における法華宗のイデオローグとの近似が想起される。日本の場合と相違し、「籟が親の淫行による」という発想が、永続する差別の淵源を形成してゆくのではない(横井清『中世民衆の生活と文化』による)。この相違を注視せよ)。十四世紀に入ると治癒の手柄をめぐって、医師が教会に反抗し始める、のだが・・・(257頁)。
   異教の霊場や泉を教会がキリスト教の聖地に塗り替えてゆく。さらにそこでも、教会・聖職者が奇跡を管理した(254頁)。奇跡の真贋(!)を見分け、奇跡を記録したのだ。

(ここで私は、奇跡を待望する人々の姿が、この本の僅かな記述・表徴をとおして目の当たりにする思いがする一方で、教会はある種の窃盗も行うのだということを知る、それもささやかなものではなく大それたもの=奇跡を盗む、支配とは盗むことでもある)

   人々が夜見る夢もまた教会が支配した。夢は―教会による夢の解釈は―中世の宗教文化を押し広げた、とシュミットは述べる(228頁)。つまり、夢の中への悪魔の侵入とそれと闘う回心の物語を作り上げ、それをダイナミックに人々に説くことによって、「信じ込ませる装置」としての教会の役割を遂行する。

   教会の夢の支配、あるいは夢への介入についてのシュミットの言及・論述は執拗である。夢のなかで、人間は、神との関係において自己を完成できるからだ、と説く(193頁)。

(この論理は、了解が容易だ、つまり、超越的で絶対的なものとの関係によって、人間という微粒子は、宇宙に容易に位置づけられるからだ。西欧中世における教会が、個人を発見してゆく。個というものに気付きはじめた人々の興奮・希望・幸福を私は想像する)

   しかしまた、夢は個人ばかりでなく家族を巻き込む(223頁)。ここで言う家族とは、より広く社会と考えるべきなのだが、さらに中世における社会とは、ここでも注目すべきなのは、生者相互間のみではなく生者死者間の関係をも含む、点なのだ。死者は、夢のなかで蘇生する。

   中世の村社会における若衆の悪ふざけであるシャリヴァリcharivariについても、教会が記録した。教会は、シャリヴァリを快く思っていなかったゆえに(異教の匂いをかぎ取っていたのか)記録にとどめたのだろう。記録は、管理の第一歩であり、支配への意志であり道程である。悪ふざけであるシャリヴァリに生気を吹き込んだものは、実は死者の再来であるからだと、シュミットは指摘する。つまり、例えば連れ合いの再婚に抗議する死者が加わっていた可能性があるのだ、と(174頁)。

(シャリヴァリについての私自身のための覚書:訳者の要を得た解説によれば、シャリヴァリとは、例えば「老人が若い娘を娶った宵、町の若者たちが新夫婦寝室の窓下に集まって鍋釜などを打ち鳴らし、叫び声をあげて嫌がらせをする」(336頁)奇習のことのようだ。シャリヴァリを初めて知ったのは、マイケル・オンダーチェの小説『デビザデロ通り』(新潮社)だった。オンダーチェは、いずれかの歴史人類学の著書から、この知見を得、小説に利用している、ことが今回了解できた。オンダーチェの小説づくりにその時も、今も私は違和感をもつ。逆に、この本の訳者、渡邊昌美氏のシャリヴァリについての寸言は、つまり「一昔前ならばこれらが歴史学のテーマとして云々されることなど、考えることもできなかった」にはとても勇気づけられる。どうでも良いようなことが重大な意味をもってくる時代に私は突き進んでゆく、と思えるからだ)

                                              §

(正系と異端、そして蠢く迷信の徒についてその中世の秩序全体を俯瞰し直してみる時、キリスト教の先進性は明らかなのである。この本に拘泥する限り、キリスト教の進歩的な側面は何度強調しても強調しすぎることはない。人々を愚昧な不幸からとりあえず救いだすために、人々を飢えさせないために、民衆の無知と愚昧をいかに排除し教導するかを中世の教会は真剣に考えざるを得なかった、と私は想像する。あるいはまた、異端派が主張する『聖書』にもとづく斬新と洗練、およびその非妥協=ラディカリズム・ファンダメンタリズムは、もしそれを放置するなら途轍もない悲劇を素朴で善良な人々のうえに招来すること必定の直覚が、教会の中枢にあった(この世の諸々の事象・活動・習慣・伝統、あるいはエートスを原理主義的に裁断する時の社会の不調和と齟齬と破壊、および人々の犠牲、と言えば分かりやすいか))

   上記の見方、中世におけるキリスト教および教会の進歩性に対する私の結論は、さらに重大で、シュミットが紡ぐ見事な知見に私を導く。つまり、それら教会の進歩性とは、対立や闘いの、見出されるものとしてダイアローグ(対話あるいは弁証法、あるいはその頽廃した形態としての異端審問)のなかにあった。

    それは、まず教会と中世神学との間の異常音について、である。中世においては、教会と神学は一枚岩ではなかったのである(64頁)。それは周知のことなのか、比較的新しい問題指摘なのか、私は知らない。「信じさせる装置」としての教会を理論的に根拠付けるはずの神学が(という浅はかな思い込みに私は捕われていた)、真理探究という学問と化し、『聖書』を解放するとともに、ある場合には世俗の思想を承認し、さらには教会の権威を相対化した、とこの本は断定している。教会は、異端というラディカリズムと異教という迷信と闘いつつ、さらに「信じさせる装置」の運営よりは、真理探究に傾斜してゆく神学にも警戒しなければならなかった、ということになる。教会は、あるいいは中世における権威形成途上にある教会は、もっとも困難な状況で重大な責任を引き受けようとしている、ように見える。誤解を恐れずに言えば、異端も異教も神学も、一面的な真理、限定的な倫理のうえに成立している。教会はそれとは違う貌を見せている。しかし、このテーマ―教会と神学の軋轢―に関し私があまりにも無知であるので、私はここでこれ以上の贅言を控えるべきなのだろう。

   二つ目の問題は、「第八章 取り込まれた言葉la parole apprivoisée(採用と変形)」(138頁~158頁)における民衆文化と教会の関係である。
教会は、民衆の語りをとりあげ、変形し、教会のための物語に仕立てあげた。
   聖者物語の形成過程における「知的文化」culture savanteと「民衆文化」culture popuraireの関係は、上記のような採用と変形の過程として、とりあえず整理できる。あるいは、多少具体的に言うと、説教師prédicateurたちは、平信徒laïcが懺悔すると、彼らの言葉を研究し、説教師に都合のよい例話の形に変形し、再び平信徒に送り返したのだ、と。

(しかし、問題は、つまり上記の採用と変形の円環は、シュミットが紡ぐ「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」として表されると、驚くほどに錯綜していて、そのような図式的な整理が実は何の役にもたたないのだと、悟らされることなのである。あるいはむしろ、採用と変形の円環というような台詞・図式・フレームワークを瞬時にして無化してしまうような、発見の燃焼にまで私を導いてゆく)

   まず、時系列で出来事の粗筋を追ってみよう。

1206年、聖ドミニコがラングドックで異端カタリ派の女(性)9人を改宗させた。
1233年、ベランジェールによる目撃証言が報告書となる。「事件」から30年弱の時間の経過は、法王庁が聖ドミニコ自身について列聖審査canonisationのために費やした時間のようだ。
1256~58年、エティエンヌ・ド・ブルボンが『例話』を纏める。ド・ブルボンは、この書物を編むに際して、1233年の証言について口頭でsource orale聞き知っていた、という一方で、1256に纏められたレゲンダ・ノーヴァ『新しい方の聖者伝』を参照していた。

   1233年の目撃証言の報告書と、およそ50年後に書き直されたエティエンヌ・ド・ブルボンの『例話』とを、その「悪霊」démonsに関する箇所について両者のテクストから引いてみる。

a)1233年の目撃証言(141頁)
悪霊は猫の姿で出現した。牡牛の眼のような大きな眼は燃え上がる炎とも見えた。舌は五寸ほども垂れ下がり火のごとくであった。長さ肘の半ばに達する尻尾をしていた。全体はほとんど犬に匹敵するほど大きかった。聖福の人の命によって暖炉の隙間から逃げ、見えなくなった。

 b)1256~58年、エティエンヌ・ド・ブルボンの『例話』(139頁)
「恐れることはない。お前がたが今まで仕えていた主がどんな代物か、神がお示しになるはずだ」。いいも終わらぬうちに、この上なく恐ろしい猫が妻女たちの真っ只中に飛び出した。大きな犬ほどの身の丈、爛々たる巨眼、臍まで届く血走った長く広い舌、短く突き立つ尻尾。どちらかに向きを変える時、恥知らずに尻を見せ、耐えがたい悪臭を撒き散らした。かなりの時間、女たちのまわりを右往左往した挙句、不快きわまる置土産を残して鐘の引き綱に跳び移った。
shemit saint
聖ドミニコ、猫の姿で現れた悪霊、そして異端カタリ派
から改宗した女たち(カタルニア美術館蔵)

 両者の違い、その意味について注釈するジャン・クロード・シュミットの筆致は、ある種の発熱を帯びる。その熱射は私をも火照らせる。・・・もっとも分かりやすく露骨な修正は、異端からの改宗が、聖者ドミニコによってなされたように書き変えられてゆくことなのだが(ベランジェールの報告は、悪霊の可視化であって聖者が行ったことは改宗そのものではない)、ここでは触れない。

   シュミットは、「知的文化」と「民衆文化」という、分かりやすい対立の図式を描きだすのに、実は手間取っている。表徴とシンボリカルな行為の織りなす体系についてシュミットが語りだそうとすると、その「知的文化」と「民衆文化」という対立の観念が、どうでもよいものに落ち込んでゆくからである。以下は、「知的文化」と「民衆文化」という図式にとって都合の悪い、いくつかの指摘である。

1)聖ドミニコの悪霊の呼び出しが、その頃教会が非難した呪術師や降霊術師のやり方と同じなのだと、シュミットは言う。ここにおいて、「知的文化」を代表する聖人と「民衆文化」に所属していた悪霊・異端という対立は、それほど明瞭ではなくなる。むしろ手法における混交を思い描くべきなのだ。蛇足になるが―しかしながら非常に興味深いことに―聖者たちは、呪術師との混同を怖れてもいた。聖者と呪術師を識別するものは、祈りである。そして当時におけるその祈りの身振りは、私が思い描くものよりも、ずっと大仰なものであったのである(146頁)

2)ベランジェールの証言にはない、猫の尻尾の屹立と悪臭、および「不快きわまる置き土産」(糞便)の追加は、まったく驚くべきことに、教会の意図に基づく記述とは、シュミットは見ないのだ。テクストの単純な比較では現れてこない、文化的コードについて、シュミットとは明かす。素朴な言表を、教会が意図的に追加・改竄した、という図式以上の秘密が、このテクストの変更の裏に隠れている。シュミットは、ベランジェールが、猫の尻尾の屹立と悪臭、および糞便について知っていたにも関わらず、それを言葉にしなかった、それも過渡の羞恥心からそうしたのだと、断定している。

3)ベランジェールが猫の尻尾の屹立などについて言葉を控えたことは、「知的文化」と「民衆文化」の問題を超えて、遙かにニュアンスに富みかつ深刻な問題に私を連れてゆく。・・・猫の尻尾の屹立と悪臭、および糞便が意味しているのは、異端であり、同性愛であり、性的倒錯である、とシュミットは言う。それに対し、ベランジェールが示した過渡の羞恥心とは何なのかを、私は立ち止まって考えてみなければならない。一つ確かなことは、過渡の羞恥心が純潔ではなく隠蔽に近い、という感覚なのである。「同時代人から聖ドミニコと女たちとの関係が問題視されていた」(154頁)ことをシュミットは仄めかす。深読みは避けられなければならない。が、ここに見て取れるのは、異端と教会のダイナミックで泥臭い、時に人々を魅了する、私の感覚をこえた中世人の信仰の闘いの場面が、仄見えてくるのである。

  4) 「知的文化」と「民衆文化」というフレームワークにとって、もっとも痛烈な打撃は、そもそもベランジェールが、素朴な民衆の一人といえるのかどうか、という問いに帰ってゆくことなのである。シュミットは、この難問から身を躱すことはない。シュミットの指摘を整理すると、彼女は平信徒であったが修道女たちの近くにいた女である(のちにプルイユの修道女となる)、また、アルビジョワ十字軍の時代、異端論難la polémique antihérétique、とりわけ猫の姿をした悪魔礼拝を行うというカタリ派非難を「知らないはずがない」、と(157頁)。そのようなイデオロギー渦巻く磁場に近いところにいた者が語る改宗の物語、聖者による悪霊の呼び出しの物語は、この章の基本テーマである民衆の語りの取り上げと変形(そこにはつねに民衆の素朴と無知、善良さと生活者の狡知という、ステレオタイプがついてまわる)に属することがらなのかという疑問が沸いてくる、のである。


(民衆の素朴な語り、というイメージそのものが修正されなければならない。苛烈なイデオロギッシュな対立・葛藤の磁場のなかで、異端の言説があり、平信徒の、教会の言葉があった。それを新たな闘いのために変形し方向付けた教会のイデオローグがいたことになる。その思想圏―諸観念の対立・葛藤の場所―をあまり広くかんがえるべきではない、ように私は受け取る)

(素朴と高級文化が対話・対立しているのでない。正系とそれへ対立するものとの関係が問題であるのだ、と一般化はできないが、私は信じる。高級文化は、何と対立・対話するのか、カウンタカルチャーは何と対立・対話しようとしているのか、を注視する必要がある。あなたは、誰と話がしたいのか、誰と共感したいのか、あるいは誰を打倒したいのか、あなたと言う実存は、必ずその志向性を持つ、ことを忘れてはならないのだ。・・・対話の拒否は、延命であっても長期的には衰退であることもまた真実であろう。私は、そこにおいて足をすくわれようとしているのかも知れない)。

(なぜ同性愛が抑圧されなければならなかったのか。シュミットのこの本は、司祭職からの不具者・去勢者の排除にエネルギーを注がねばならなかったキリスト教会の歴史に触れている(273頁)。中世の坊主たちは、「淫楽」を目的とした非生産性(異教が、大昔から継承し保存していた、ある種ゆるやかな「淫楽」の伝統)を嫌ったのか。すべての人々が生産的でなければならない理由はない。聖化という理由で、坊主たちは非生産性の独占をもくろんだのか。生産からはじかれた者たちに「淫楽」を禁じること、それだけが理由ではないだろう。しかし、当時の教会がそこに敵対し、識別せざるをえなかったことは、良く分からないことだけれども、やむを得なかった、とも私は思う。正しい性の営みを唱道する教会の立場を私は理解できる。誰がそれらの方向付けをなしたのか。あるいは、私にそのような方向付けをなし得るのだろうか)。
                                     §

   中世という時代は、病infirmitasが人々の生存と生活にとってより直接的で激烈な時代だった、と私は思い描こうとしている。なぜなら麻痺paralysis、籟lepra、疥癬scabies(これらは、教会が古代医学から引き継いだ用語だ)といったさまざまな病がいたるところに露出していたからだ。当時、病とは、身体を捉え、激しく襲い、あるいは侵す、ものとして記録されていて、あたかも都市が敵に包囲・占領されるようなものだと、シュミットは書いている(247頁)。その目に見えて分かる最大の恐怖が籟であった。あるいは、多くの病が死により近くにあった、とも言える。病が死に至らない場合でも、病は人々の労働を妨害し、困窮させ、物乞いになるほかないような事態を意味した。だから、当時における60%もの奇跡が、病の治癒に集中していたのだ(253頁)。

(中世の病は人々の生存と生活を完膚なきまでに破壊しつくす、そして、その病の現実が苛酷であればあるほど、信仰は深く純化されてゆく、私は、シュミットの中世の病を語る歴史記述なるものhistoriographiqueのなかに、病という苛酷な運命と、それからの救済という美しい表現の断片を探し始める。<私の誤った夢想1>)。

   中世に患者Krank-seinなるものは存在しなかった(245頁)。

   ・・・という意味は、文字通り病人・人が重要なのであって病そのものではないのである。中世においては、病と病人を分離することなど考えられなかった。病と病人を分離するのは、近代であり、科学なのだ。しかし、この点を強調しすぎることは、なにか郷愁めいたものが、つまり、現代の、典型的な西欧の医学の、危機意識といったものから生じてくる別の解答への期待が、込められているはずであると、シュミットは指摘する。

(私は、シュミットの記述のなかに、人と病の一体化した生命を、現代医学の典型の反対物を探し始める。<私の誤った夢想2>。しかし、私が探しはじめた病という苛酷な運命も、美しい祈りと救済も、人と病の一体化した生命も、この書物のどこにも見つけだすことができない。そして、ふたたび、中世の病の「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」を、私は辿り始めるのである。つまり、宗教的表象の内部における自然についての因果関係を(籟は、親の淫行の結果である、というような)さらに近代医学における客観的論説discours objectifの劇的な勝利にいたる過程を知るのである)

   あまりにも豊饒な、病についての表象の森に彷徨いこんで、それでも少なくも鮮やかな出来事・変化が私に迫ってくる。それは、例えば以下のような断片に見て取れるのである。

a)治癒の手柄をめぐって王が、聖者が、教会が、医師が、さらには魔女が争った、のであった。また、医師médecinsは、外科医chirurgiens、理髪師barbiersとその仕事の利得をめぐって争っていた(257頁、259頁)。

b)巡礼と奇跡についての効率化が出来する。巡礼の代理行為が、あるいは聖者・聖地と奇跡受恵者との大胆な遠隔化が進行する(254頁)。

c)中世末期に到って、治療の全面的な独占をはかった教会が、例えば魔女vetulaeの処方を観察し、これを利用しさえした、のだという(260頁)。

   私がまったく恣意的にとりあげた事柄について、いささかの同類項を探すとすれば、それは、合理主義と世俗化という言葉が浮かんでくるのである。さらに、そこに明瞭に浮かび上がってくるのは、シュミットの表象をめぐる歴史記述が、死にゆく人々よりも生きてゆく人々のためにある、という確信なのである。すなわち、歴史(学)とは、郷愁ではなく、シュミットの場合、人々が進歩を求め歩き出す姿であり、わずかだが確かな希望の香りを感じようとしているように見えることなのである。

(少なくも、私の中世史にたいする興味は、モダニズムへの攻撃であった。という意味は、中世に郷愁を求めていることに他ならない。今、この思いは動揺し始める)。

(シュミットにとってイエス・キリストの教えと教会から離脱は、大きな解放の意味をもつ、ところが鮮やかなのである。シュミットの歴史記述は、中世のディティールを愛でながらも、近代の、世俗の到来を一種の光明として待望するふりが見られる。中世史家シュミットは、どこへ私を導こうとしているのか。たくさんの中世とほんの少しの近代の光明を、私はどう受け止めるべきなのか)。

(私は、ここで今、中世史のとば口を見つけたような、気がしている。歴史(学)とは、郷愁の徹底した破壊でなければならない。なぜなら歴史(学)とは、「表象と象徴的な行為の広範囲にわたる体系」を明かすことを通して、歴史的想像力を解き放つからである。それは、中世史のファンにとって、あるいはむしろ、中世史本を「立ち読みする」旅から刺激を受け、喜びとする者にとって、厳格に守らなければならない大義であり掟なのである)。



64.ジャック・ル・ゴフ 『聖王ルイ』(岡崎敦、森本英夫、堀田サト弘訳、新評論社刊、原著1996年刊)、

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難破を予想していた
ジャック・ル・ゴフの『聖王ルイ』への私の冒険は
いつしか楽しい 充実した
心にさざ波がたつような
週末の読書となった 
ページの余白に書き込んだ
幸福な夢想のいくらかを
散乱する破片のまま
見渡すほど遠い中世の違和のかなたへ
いささか大袈裟な言葉で
無知と誤読の怖れをパロディ化し
投げいれてみよう
これは 私の向学心という
純粋で初歩的な覚書である


歴史(学)の急進派のためではなく国民のための書

   『聖王ルイ』という書物は、本質的にフランス国民の書である、と私は思う。普遍性を追求する歴史(学)の放棄である、というよりは、歴史(学)がもともと、国民のものである―一国の民が読み、楽しみ、勇気づけられ、内省し、学習する―という思いがこの本から伝わってくる。

   『聖王ルイ』が、国民の書、なによりもフランス国民の書であるのは、この本で論じられている聖ルイについての各項目に明瞭に見てとれる。例えば、美食を遠ざける王については、フランス国民の美食への愛着と反発を、また、王のセックスの制限については(教会が取り決めていた「抱擁の時」を王は守ろうとした)フランス国民の性への欲望と禁欲への憧れをよく表している、ように思えるのだ。

   『聖王ルイ』は、国民の書であって、歴史(学)における急進派の書物ではない。急進派とは、「実証手続きによって復元される客観的現実など存在しない」というような歴史(学)の叙述に関する主張を行う者達をさす。しかし、ジャック・ル・ゴフの場合、聖ルイの生きた時代においては、ルイ九世など存在しなかった、というような巧妙なパロディになる。なぜなら、中世はあだ名で王を呼んだ時代であるからだ、と言う。このパロディは前衛的でなく、まったくもって国民的である。・・・あるいはまた、王の存在は、王の時間に立脚する、といささか哲学的に考えるとき、王は、複数の時間を生きた、とル・ゴフは語りだす。それらのうちでもっとも重要なのは、聖ルイの生命の時間が何か重みのあるものに捧げなければならない、と考えていたことだろう。捉えどころのない、あえて言えば「殉教者になりそこなったキリストに倣う王」なのである。ひどく曖昧な時間と存在が漂いはじめ、これもまた、フランス国民のうちで、思弁を楽しむ者への恰好の贈りものではないだろうか。

聖ルイの豊かな時代を私たちはどう受け止めることができるのか

   聖ルイが生きた時代が(1214~1270)、私を何よりも驚かすのは、豊かな時代だった、ということなのである。王の国庫は蓄えが充分で、人々は少なくとも飢えていなかった。そういう豊かな時代がフランスの中世においてあった、のだ。飢饉も大規模な疫病の流行もインフレもない、戦争が終結してゆく(英国との戦争を終え、南部諸侯の反乱を鎮圧する) 時代だった。人々に生の極限状況を強いるような恐るべき貧困は、この本のどこにもない。のちの歴史家さえも「聖ルイ王のよき時代」と呼ぶ。時代の雰囲気は、「死をおもえ」(メメント・モリ)から「生をおもえ」(メメント・ヴィヴェーレ)に確実に変化しつつあった。

   この豊かさを導いたのは誰なのだろう。農業における生産性の飛躍があったのだろう、という予測は容易だ。しかし、この本は農業の生産性についてほとんど言及しない。私たちの安易な仮構を、ジャック・ル・ゴフは巧みに拒む。ル・ゴフは、言葉少なに、聖ルイを支えていたのは農民である、と言う。農業の革新と言わずに、農民が聖ルイの豊かさを支えていた、という言い方に私は深く魅了される。さらに、ル・ゴフの注釈「それらの農民が聖ルイをどう思い描いたか分からない」という言葉を聞くと、歴史(学)とは、なによりもまず「時との戦い」なのだとあらためて感じいってしまうのだ。「時との戦い」とは、私たちの現代への思いを中世という時代に接ぎ木しない、まさに中世という時代の異形な姿をなるべくそのままに、私たちの眼の前に現出させる努力なのである。現代に生きる私たちの思考の枠組みに遠ざかりつつ、少しく中世(史)を旅しようとする試みなのだ。

   聖ルイのなかには、農業の生産性の革新により国を富まそうという発想はあり得なかった、とル・ゴフは言う。王の経済における闘いは、純なる貨幣のための闘いであり(良貨を作ること)、正しい徴税であり、高利貸しへの禁制なのだ。


人間性の登場  

   この本は、人間性という問題について、つまりフランス国民は人間性についてどう考えてゆくべきなのかについて、歴史の教訓を開陳している。
   驚くべき報告がある。この大著におけるたった二ページに満たない記述が(921~922頁)、私を捉えて離さない。そのページの一行一行が、私に歴史のかなたへの旅を促す。要点を絞れば、聖ルイの妹イザベルは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の息子との縁談を、イザベルの意志によって拒絶する。イザベルは、キリストへの祈りの毎日を選択する。また、兄聖ルイは、その結婚をイザベルに無理強いしなかった。個の意志への尊重は、神への、あるいは超越的なるものへの理念との関係において是認されなければならない、とでも言うかのように。王国の利害、王の思惑は、信仰者の祈りの前で、差し控えなければならないのだ。フランスにおける、あるいはヨーロッパにおける人道主義の淵源を、垣間見る思いがする。ヒューマニズムとは、神、すなわち地上の人どもを超越するものとの関係において、犯すことのできない約束であり、それを王は表徴行為によって示してきた。王が、人道主義の長い形成の時間のなかで、核心となる働きを演じてきたのだ。 

   誤解をおそれずに言えば、今私は、西欧におけるヒューマニズムは、キリスト教(その実体は、王権と教会)に起源をもつ、と言わなければならない。ある人にとっては自明のことがらを、たったこれだけのことのために、私は、随分寄り道をしてきた気がする。

   (しかし、この二ページにおいて、真に考察されなければならないのは、ヒューマニズとともに王権というもののあり様を、また別の仕方で示しているよう思われる点だ。つまり、イザベルは、フリードリヒ二世の息子との結婚を望まなかったが修道院にはいるのではなく((修道女として誓願を行わなかった))、俗人のまま修道女のような生活を終生送ったのだ。それは、聖ルイの生き方に非常に近い、あるいは聖ルイの行おうとしたことをイザベルも共有していたのだ。聖ルイは、神の国を願いつつ、現実政治に取り組み、死んだ後聖人となる)。


十字軍

   聖ルイの十字軍は、終わりから始まる。それは、十字軍の歴史が、聖ルイの十字軍をもって13世紀後半に終了する、ということだけを意味するのではない。聖ルイが感じていたノスタルジーによって、つまり「あとのこと(家族・領民・領土)」を心配しながら遠征にでた嘗ての十字軍参加者の心情を聖ルイは追体験しようとしているからだ。また、聖ルイの遠征についてまわる後ろ向き(終末に向かうような)雰囲気、そこには祖父フィリップ・オーギュストの早すぎるオリエントからの撤退に対する贖罪の意識があった。いずれにしても、聖ルイは、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆく。

   きわめて豊かな時代における後ろ向きの王について、ジャック・ル・ゴフは語っている。ここで、私は現代世界における指導者の姿を(あるいは哲人の姿を)聖ルイに投影してみたくなる。しかし、投影ではなく対話を、時との戦いを、この書物は読書に要求してくる。

   戦争は、ひとつの交通形態であると言ったのは、マルクスか。というよりは、戦争には交通を拓く、という側面が確かにある、と私は考えてきた。そして、交通の拡大は、人々の、文物の交流を作ってゆく。戦争は、それらの出来事の倫理的裁断とは別に、新たな交通の創出によって、異質な世界の交流と歴史の進展を加速させる、・・・というように私は考えてきた。
しかし、ル・ゴフの十字軍についての叙述は、交通形態としての戦争(観)にほとんど顧慮しない、というよりはこの戦争は何も伝えない、と断言する。十字軍がヨーロッパに持ち帰ったものは、あんずのみであった、と。戦士は、敵の文化を理解する必要はない。むしろ敵視すべきなのだ。軍隊とは、自らの文化の延長線上にしか移動できない(・・・軍隊が、あるいは兵士が、戦争という異文化の現場で、異文化にたいして何を感じ、何を故国に持ち帰るのか私は注視しつづけなければならない、と思う)。

   聖ルイのオリエント理解は僅かなものだった。聖ルイの知識はキリスト教に関係する場所や建造物に限られていた。聖ルイの戦争目的は、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆくためなのだから、『聖書』にある知識で充分だった。聖ルイが十字軍に求めたのは、一種精神的な事業の完成であって、王国の拡大でも、経済的な利得でもなかったのだ。

   聖ルイの十字軍を考えると、観念的な、信じることとのほうが―聖ルイは、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆく―より重要な役割をはたすものと理解すべきように思われてくる。戦争は、経済的な利得と強く結び付き展開する、という私の考え方に再考を迫ってくる。中世という時代において人々を大きく動かすものは、経済ではなく、人々の信じる作用・力なのか、と私は何度も考えてみなければならないのだ(戦争から経済的合理主義を差し引くと、やはり残るものは熱狂あるいは狂気か)。

   そもそも十字軍の狙いは何だったのか。この本では、教皇庁がキリスト教同志の戦争を終わらせるために、オリエントにおける聖地奪還というフィクションを作りだしたものだと言う。そして、十字軍を終わらせたのも、軍事費という途方もない浪費に対する教皇庁の貪欲だった、と言う。教皇庁の合理的な発想・計算と、聖ルイのノスタルジーの濃い動機とが鮮やかな対照を描く。もっと言えば、教皇庁は、きわめて実際的であり、豊かな時代の王、聖ルイは、ひどく観念的なものの影を追う。豊かで幸福感のつよい時代のなかで、聖ルイはひどく暗い歌を歌っていた。

   この本を読んでいて私にとり今ひとつ分明でない点、それは十字軍の経済のことだ。軍資金のおもな出どころは、人頭税、国庫、聖職者である、とこの本はごく簡単にしか触れない。あるいは、聖ルイの十字軍は、祖父フィリップ・オーギュストの潤沢なる貯えを使いはたした、と言うだけなのだ。十字軍の経済についての詳細な検討、あるいは大胆な推論は、この本にはない。・・・逆に、聖ルイにとっての、あるいは十字軍にとっての地中海・海についての論述は豊かで奥深い。中世人の夢と恐れが迫ってくる。聖ルイにとっての海から『聖書』の隠喩をひとまず脇におくと、何とも形容しがたい恐怖の闇が浮かんでくる。

   全体史という極めて不分明な考え方が歴史(学)の領域で徘徊しだしている。ただ、この本における全体史への志向は、明晰である。当然のこととして全体史は、その時代のすべてを追うということではない。その時代を豊かに思い描かせると私たちに思われる符牒のひとつひとつの発見の営みのように思えてくる。現象学的な注視により、私の迷妄は、明らかなものへの道筋を示しうる。・・・ル・ゴフの十字軍についての叙述を興味深く辿りながらも、聖ルイを迎え撃ったサラセンの側の記述がほとんどないことに、当初私は戸惑った。現代の歴史(学)ならば、相当なまでに、サラセン側の事情を収集し整理できているだろう。しかし、ル・ゴフは、聖ルイの側からしか、十字軍について語らない。聖ルイの時代の、時間と空間の広がりが重要なのであって、なによりも聖ルイとその時と場所を生きていた多くの人々にとって、攻められるサラセン側のことは「ゴクとマゴクの民」(182頁)以上のものではないのだ、というところに帰ってゆく。

   この本における歴史とは、ある時間と場所に制約された叙述なのであって、その時間と場所には境界があり、それは容易に超えられない。容易に超えてはならない境界をより際立たせることが歴史(学)の使命なのである、と私は思う。
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王の捕囚

   1250年4月、王はエジプトでサラセン軍の捕虜となる。
   一か月の虜囚の経験ののち、聖ルイが大きく変わっていくことにル・ゴフは着目する。大きな悲嘆、ウツ状態を経て、聖ルイは贖罪行為に激しく傾いていくのだ。
   聖ルイの贖罪行為とは、王侯的な奢侈の意図的な放棄(料理をわざと不味くして食する習慣)、自らの肉体を苛むこと(ひと目を避けて告白し鞭打った)、倹約と施しへの執着(レプラとともに食事をし、病者の足を洗う王)というようなことだ。

   聖ルイは、虜囚の屈辱について一日たりとも忘れさることができなかった、に違いない。だから、王はいつも祈っていた。王は、悲しむのではなく苦しみに耐えていた。イエス・キリストは、苦悩が天国における喜びへの道であると諭し、苦しみの昇華に勤めるよう王に命じた。

   贖罪とは、誰にたいする行為なのか。聖ルイは生涯最大の不幸の償いをイエス・キリストとの関係によって修復しうる、と感じていた。聖ルイが攻撃し、またその手に捕えられたエジプトのサラセン勢力との関係ではなく、イエス・キリストとの関係において一生の恥辱を聖ルイは堪え得る、と。

   聖ルイにおける決定的な失敗は、大いなる者のしるしであるとともに人間的な者の印象を私たちに与える。虜囚について王は隠さなかった。遠くて近い存在としての王の姿が現れてくるのだ。王の失敗は、人間的な印象を私に齎し、生涯の屈辱を隠さない王は、偉大さ、王の存在の大きさを私に示す。

ユダヤ人

   ジャック・ル・ゴフのこの本におけるユダヤ人の扱いは曖昧に見える。聖ルイの、ユダヤ人への抑圧を、現代的な倫理観で(アウシュビッツ以降のヨーロッパ知識人の責務として)、例外的に裁断している。つまり聖ルイのユダヤ人政策は、行き過ぎであった、と。中世の、聖ルイの時間と空間におけるユダヤ人たちではなく、その内的な論理性、考えかたからではなく、ホロコーストとアウシュビッツに到る人類の闇にたいする総括を踏まえ、聖ルイのユダヤ人政策を批判するのだ。ル・ゴフの中世史へのアプローチの仕方からすると、これは矛盾だ。ル・ゴフは、聖ルイがいかにユダヤ人を恐れ、嫌っていたかをできるかぎり当時の資料と言葉と考え方で再現しなければならなかったはずだ。しかし、ル・ゴフは、聖ルイは、より過激な反ユダヤ主義の勢力に後押しされていた、というような弁護をふともらす、のみなのである。

   このユダヤ人問題に対するル・ゴフの言述は、彼の歴史(学)の方法論的観点からするとひどく曖昧である。しかし、ル・ゴフが勇気をもって責任ある立場を表明している、ことは明らかだ。ル・ゴフは科学的で客観的な真理という一種の責任回避に逃げ込まないところが私には新鮮だ。あるいは、本書が歴史(学)の記述であることの本質的な境界(歴史学とイデオロギーとの)についてより明確であろうとしていることが、新しい。

王の機能あるいは王のふるまい

   一国の王であることの意味を考えながら本書を読み進んでゆくとき、民衆を支配し、収奪し、自分の欲望充足のために好きに振舞うような王の姿はどこにも見られない。この本は、むしろ人々の前に姿をあらわし、語り、涙を流し、表徴を操作する王について、細部を省略せずに伝えている。さらに、王権のモデルを提供した『旧約聖書』について論述し、また、インド・ヨーロッパ語族の社会における三つの職分・機能(周知のようにジョルジュ・デュメジルの提唱に由来する)についての聖ルイにおける妥当性を検討する。
   しかし、僕をもっとも深く考え込ませるのはフランシスコ会士が伝える次のような挿話だ。
サレットという女(性)が王宮の階段の下で王を侮辱した。「お前は、小さな兄弟の会士、説教修道士会の修道士、司祭や聖職者たちの王にすぎない」と(1041頁)。
   彼女の侮辱に対して聖ルイがとった行動は、真実驚くべきものなのだ。王は、彼女の考えは正しく、自分は王にはふさわしくない、他の者ならもっとうまく王国を統治するであろうと述べ、さらに彼女に金銭を与えた(ならば王は変わればいい、と言うべきではない、王にふさわしくない者がもっとも王にふさわしい、といいう逆説について考えなければならない、この問いについての素晴らしい回答が1042頁の中ほどにある)。
聖ルイは、王自身に対する侮辱にかんして寛容であった。しかし「彼は神を冒涜する者を情け容赦なく罰した」(813頁)のだ。
   聖ルイは優しいばかりの王ではない。王は、自身への侮辱には寛容であったが、同時に厳格でもあり残酷ですらあった。神を冒涜した者を晒し刑にし、ある場合には鼻と唇を焼かせた。
王国の秩序と運行は、王としての自分を最高の権威として、そこを基準に判断されるのではなく、神=イエス・キリストを基準に考えられなければならない、と聖ルイはふるまった。聖ルイは、いつも正義を味方につけて立ち回ろうとした。正しくあろうとするところが王の巧妙なところだとヴォルテールは見做した。一国を率いる王の立場は、神という超越的な存在なしには機能しない。・・・ところで、神が死に、世俗化する現代世界で、金や利潤が組織運行の最上位理念になりうるのだろうか。神に変わる普遍的な倫理をもちうるのだろうか。

王の信心とキリスト教国家

  この本を、自分たちの感覚とはかなり違う中世という世界への一種の旅として読み始めたとき、しらずしらずのうちに、中世のパノラマ世界が、王の信心とかれのキリスト教国家の完成というテーマに収斂してゆくのを、私はあらためて気付く(中世が、キリスト教およびキリスト教教会とのきわめて強い絆によって成り立つ社会であることは、いわば自明の事柄に属するとしても、それを公式としてではなく一種の迫力のある疑似体験として感じ受け止められるところが本書の醍醐味である。公式を理解するふうにではなく、その時を生きるような感覚で、中世とキリスト教が私のなかに入ってくる)。

   ソルボンヌ大学の共同創設者でありながら、聖ルイは、知識人を遠ざけていたようだ。彼が惹かれたのは、当時、新しい潮流である貧者の友、托鉢修道士会士なのだ。知を貯え、操る者に警戒を示し、清貧と奉仕のほうに親近感を示した。しかし、聖ルイは修道会士となったわけではない。彼が、世俗の王であり、かつ貧者の友であろうとしたところが重要なのだ、と私は思う。妹イザベルが、修道女の誓願を行わなかったように。そしてその両義性が、封建制時代の終わりを予告したのだ、とル・ゴフは書く。

   聖ルイにとってのもっとも大きな敵は異端だった。彼は、カタリ派に対する勝利者であるアンリ八世の息子である。しかし、ときに異端と正統との区分は明確でなく、この王自身もまた王らしからぬ王なのだ、とル・ゴフは書く。聖ルイは「サンスへと至る道を埃の舞うなか裸足でやって来る(・・・)鳩の眼をした、背は高いが痩せた美男子であった」とある修道士が報告しているのだ(1129頁)。 世俗の王であり、かつ修道士のような王、という矛盾を生きるところが、魅力なのだ。
   王が「偉大なる人物」(ル・ゴフはためらうことなく聖ルイをそう呼ぶ)であるのは、彼が生きる矛盾のサイズとその数の多さにある、ように見える。闘う王であり(聖ルイの生きた細部を伝えたジョワンビルは、エジプトでサラセン軍に突進してゆく王を軽率にすぎると、たしなめる筆致で綴った)、かつ平和を求め(これについては、王を弱腰すぎる、という批判があった)、そしてまた狩猟を行わないまれな王なのだ(ワインの酔いを忌避したように狩猟の興奮を王は嫌ったのか、あるいは神の掟に背いたわけでもない創造物の生命をたつことを嫌ったのか、これについても私はさまざまに考えてみたい)。

ル・ゴフが首肯できない聖ルイの姿

   この本を書くためにル・ゴフは15年間、聖ルイとともに多くの時をすごした。時間の経過とともに、研究の発展・深化とともに、ル・ゴフは、聖ルイに称賛とともに友のような親近感をもつようになった。歴史家としては危険な領域に足を踏み入れたのかも知れない。それは、旅や冒険にも似た未知なる輝きとの出会い、その興奮と隠された危険を告げている。ところで、聖ルイとル・ゴフの友情は、ある種歴史家の、あるいはテクストを読むものの、さらには図像を読み解く者の羨むような関係であるけれども、どうもル・ゴフが好きになれない聖ルイの姿もまたあきらかになってくるようなのだ。明言はしていなけれども、聖ルイの説教好き、自らの肉体を鞭打つ苦行、あるいは庶民の楽しみへの無理解(居酒屋、淫売宿など)、ユダヤ人、同性愛者への不寛容、などをル・ゴフは嫌っているようだ。

   聖ルイの説教好きには、笑いばなしがある。王を誘惑しようとした女(性)に、何と聖ルイは説教するのだ(どういう勢力が、何のために、この手の報告を残したのか、という吟味はここでは触れない)。しかし、私としては、王に説教はしてもらいたくなかった気がする。『聖書』におけるイエス・キリストならば、素敵な一言、あるいは意味深長な沈黙で誘惑を躱した、と思う。

   また、淫売窟への出入りの禁止についても、ル・ゴフはユーモラスに聞こえる報告を行っている。つまり、聖ルイが、全面的な売春の禁止を考えたとき、彼の補佐役の修道士たちは、「肉は弱いものであり、原罪は人間がたびたび罪を犯すのを不可避としている」と聖ルイに説き、聖ルイの行き過ぎに反対した。修道士たちは、このような世間知をどこから手にしたのだろう、と私は考えはじめるが、いずれにしても聖ルイは、修道士の説くところを理解し王は修道士の助言に従った。

   ル・ゴフは、中世の王に、現代人には到底なしえない大きさ、強度、ひたむきさを感じ、同時に、現代人には受け入れられない、癖、考え方、振る舞いを発見してゆく。抽象化していえば、きわめて単純で平凡なことだ。しかし、この本は、それらを歴史という肉体をとおして明らかにする。歴史という肉体化された形而上学を、私は一種の喜びをもって夢想する。

いくつもの難しい問題群

  この本は、中世のパノラマ世界を現出させる(サンドニとパリ、王の建築、文書の増大と官僚制の始まり、あるいは個人が書かれた法律とともに姿を現してくる)とともに、非常に難解なテーマをつぎつぎに繰り出してくる。それらの難物のなかでもとりわけ難しく思えるのは、「王の聖別」と「王の聖人化」だ。

   王の最良のモデルは『旧約聖書』におけるダビデであり、それはいくらかシャルマーニュにも似ている。王は、塗油という儀礼をとおして聖別される。この儀礼もまた『旧約聖書』に着想を得ている。そして、人を塗油儀礼によって聖別し、王とするのは教会なのだ。とても不思議な話に思える。人を王とするのは、何なのかという問題と(どういう責任と義務が発生するのか)、またそれがどうして儀礼によって可能になるのか、と思うのだ。王は、人民の搾取のうえに成り立っている、とだけは考えられない。王の、収奪は神への捧げもののようにも見える。すなわち宇宙の運行への仲介を象徴的に演じる姿が浮かびあがってくる。

   まず、ル・ゴフは、奇跡のない聖人などあり得ないと言う。ルイ王の奇跡は、彼の死後起きる。当時、奇跡は墓に集中した。
   王は、チュニジアへ向かう途上、病死した。遺体は葡萄酒で煮て、内臓はオーストリアの城の礼拝堂に、骨は分散してゆく。
   聖遺物が奇跡をおこす。とりわけ病を(たとえば瘰癧を)癒す奇跡と結びついてゆく。
当時の奇跡観念とは、病の消滅よりも人間の尊厳にかかわるものに違いない、とル・ゴフは注釈する。
   このように聖ルイの奇跡ありようを辿ってゆくと、奇跡というものがすこし私にも理解可能になってくる。奇跡とは、ある点の現象をさすのではなく、ある民衆的な心理の壮大な過程であり、それらをまとめて再現前する「しるし」よりなりたっていたのだろう。

ジョワンビル

   ル・ゴフにこの本を書かしめたひとつの理由は、ジョワンビルの残した聖ルイについての文書が存在したからなのだ。ジョワンビルは、聖ルイの近くでともに生き、聖ルイが死んでから大分たって聖ルイについて綴りだす。ル・ゴフは、ジョワンビルの書き残したものを通じて、王の涙や語り、姿と身振り、あるいは性格と行動を紋切型の表現ではなく細部をもった具体的な語りとして受け止め、味わうことができた。ジョワンビルは歴史家ではないけれども、ル・ゴフはジョワンビルに歴史家の一種の理想を、すなわち後世において真に読まれるべきものは、ジョワンビルが書き残したようなものなのだ、と。その他はすべて解釈であり、その時代のイデオロギーの表現なのだ。資料の様々な検証と解釈こそが歴史家の基本的な任務だとしても、あるいは過去の偉大なテクストを蘇生させるのは歴史家にしかできないとして、歴史家の一次記録者への羨望と嘆息が少し聞こえてくるような気がする。そして、その嘆きのなかには、歴史(学)に真に求められているものは何なのかという問いかけがあるはずだ。

二つの設問

   この本において一度ならず問われる二つの設問がある。これらの主題について私は立ち止まり、何度も考えてみなければならない。

   a. クーシー領主アンゲランに対する王の処分
   これは、領内の森に迷いこんだ三人の貴族の若者を領主アンゲランが裁判にかけず吊るし首にしてしまったことに対して、王がきわめて重い罰をアンゲランに課した事件についての考察である

   b. 王のジョワンビルへの問いかけ 
   ふたつ目は、王がジョワンビルに対して投げた質問、つまり「レプラを患うか、魂の死さえもたらす大罪を犯すかとすれば、どちらを選ぶか」と、およびそれに対するジョワンビルの回答、そして翌日の王の言葉についての考察である。

   王の問いかけに対するジョワンビルの回答は、「私は、レプラを患うより三〇回罪を犯す方を選びます」ということだった。王は、その場では何も言わず翌日、「そなたは、せっかちな軽率者のように、愚か者のように話した」と言い、大罪よりも醜いレプラ患者などいないし、大罪を犯す魂は悪魔なのだ、と忠言する。

   今私は、二つ目の主題、後者について、考えなければならない、と思う。なぜなら、中世という時代における恐怖と救済の問題が集中的に表現されている、と思うからだ。中世に生きた人々は、ある種絶対的な恐怖の現実を生き延びるために、魂の救済の方法を模索していた。

   まず驚くべきは、ジョワンビルの率直な物言いである。ジョワンビルは、レプラに関する当時の人々の即物的ともいう恐怖の観念を語っている。それに対して、聖ルイは、大罪はレプラよりも恐ろしいという教えを説く。魂の死さえももたらす大罪についての恐怖は、彼の母親、カステイィリア人のブランシュからうけついだ信仰に立脚する、とル・ゴフは強調する (母親ブランシュと聖ルイのただならぬ協業関係については、陰影に富む叙述を私たちはこの本で味読することができる)。ジョワンビルの率直な恐怖の感覚と、聖ルイの大罪に関する恐怖の観念が何と鮮やかな対照を描いているのだろう。ジョワンビルは実務家であり、事態を実際的に処理することができる。というよりは、ジョワンビルはその時、幸福であった。しかし、聖ルイは違う。苦悩する王にとっては、最終的な魂の救済が問題なのだ。中世における多くの人々がレプラへの恐怖を抱いていた。その恐怖に打ち勝つには、聖ルイが示した贖罪が、かすかな救の導きの手であったような気がする。当然、その一連の贖罪は、神の観念なしにはうまく機能しないことは、言うまでもない。

音楽のない文明など存在しない

   今となってはぼんやりとした記憶だけなのである。それは、中世のパノラマ世界を豊かに語るこの本において、きわめて僅かな記述だったはずだ。ジャック・ル・ゴフは、その頁で(あらためて探してみると713頁)、聖ルイの音楽についてはあまり書けないのだ、と断言している。この千頁を超える本において、この寡黙、沈黙への意志を歴史家のきわめて魅力的な声として私は聞く。読者を乗せない、走らせない、調子づかせない抑制が、歴史(学)には必要なのだ。ただ、ル・ゴフは「音楽のない文明など存在しない」とも付けくわえる。時代は、音楽の変革期であった。後のグレゴリウス聖歌とはあきらかに違う音楽の伝統が生まれつつあったのだ、と言う。俗謡を好んで口ずさむ護衛の盾持ちに、聖ルイは、宗教歌を自ら教え(その前に俗謡を口ずさむことを禁じ)、この盾持ちと一緒に歌ったのだという。俗謡を口ずさむ護衛兵と、聖歌を教え込む王、私はこの絵が好きだなー。

56.マルク・ブロック『王の奇跡』(井上泰男、渡邊昌美共訳、刀水書房1998年刊)

miracle comvert おおよそ11世紀から近世の政治革命まで
とりわけフランスと英国で
王による瘰癧さわりの治療が
盛んに行われた

マルク・ブロックは王によるそれらの瘰癧さわりを
あるいは王権のさまざまな道具立てについて
膨大なフォークロアの探索を通して語る
それは僕にとってとても興味深く楽しい読書だった

この本は王が奇跡を実際起こしたのかということよりも
王の奇跡を信じた多くの民衆が存在したことを
重要と考える

王は何のために瘰癧さわりを繰り返したのか
王政の継承維持のために
王と超自然との結びつきが
行政・司法・財政という制度以上に
必須であったとブロックは考える

しかし この大きな本を読み終わろうとするとき
僕は 実はもう少し違うことを感じ始めたのだ
つまり 人々の病苦を取り除く王の祈りのなかに
民衆支配の手立てというよりも
王が宇宙の中心に存在する理由を
人々の運命をともに生きる王の姿を
感じとりたくなったのだ
 


  この本は、王が奇跡によって病を治癒したのかを問うことはない。そうではなく王のタッチによる治癒行為の繰り返しとその有効性を信じ、治療のために王のもとに参集した圧倒的な数の民衆が存在したことを語る。マルク・ブロックは、それらの現象をまとめて集合表象representation collectiveと呼ぶ。

  それではその民衆が信仰していた王の治癒とはどのようなものであったのか。
それは非常に長くにわたって(大体11世紀から18世紀の政治革命まで)、特にフランスと英国において(つまり教皇権力との鋭い対立の圏外で)、おもに瘰癧(るいれき)と呼ばれる結核性腺病を対象に(あらゆる種類の病に対する治療の試みから、だんだんと瘰癧さわりに収斂していった)、王によるかなりの数のタッチが独占的に行われ続けたのだ(チャールズ2世は、生涯に10万人もの瘰癧さわりをおこなった)。ここでいう独占的とは、王以外による超自然的な治療行為が激しく弾圧された、という意味だ。

  この本を書いたマルク・ブロックの問題意識は鮮やかだ。つまり「王政が臣民のおしつけた行政、司法、財政の組織のメカニズム」をいくら解明しても、「長期にわたって王政が人心を把握したこと」を充分に説明できない、と言う。ブロックは、王政は、王の霊的で神聖な力の集合表徴を通してしか存在しえず、それは「王家をめぐって花開いた信仰と寓話の奥を探る」つまりフォークロアが雄弁に語るところだ、と言う。

  実際にこの本は、王の瘰癧さわりに関する豊かなフォークロアが楽しい。瘰癧さわりを盛り立てる道具立て、例えば王の聖別(マルク・ブロックの描いた王の聖別は、世俗の人からの超越を意味する一方で、司祭になりきることはなく、聖と俗をあわせもった存在のようだ)、塗油(これによって王たる者の聖化がおこなわれるが、面白いのは塗油による聖別前の瘰癧さわりの事例もブロックは明かす)、あるいは王の身体に刻まれたしるしについて(深紅の十字から百合の花に変遷を辿る)詳しく語られる。優れた歴史書がそうであるように事実(資料の読解)の収集は実に丹念であり、そこからかすかに、鋭い歴史的な意味が浮かびあがってくるのだ。さらに聖マルクール信仰との混交や指輪治癒およびセプトネール(7番目に関する信奉)、また驚くべきことに王の瘰癧さわりは、その病者への布施とセットで行われたという(初めはつつましく、次第に大盤振る舞いの様相を呈してゆく、とくに英国ではその出費の記録が残っている)。

  とりわけルネサンス時代以降の知識人が王の奇跡治癒に懐疑的であったことを別にしても(カルダーノは詐術のからくりを考察し、ヴォルテールは嘲笑した)、著者は、王のタッチによって治らぬ者もいたし、何度もさわってもらったにもかかわらず良くならないものも、また快癒はごく僅かだったとさえ断言する。あるいは、科学的な見方に庶民よりは遥かに馴染んでいたはずの当時の医者たちの見解も面白い。ある医師は、瘰癧さわりは明らかな効果がない場合でも無害であるから、タッチ治療を種々試みたあとで危険な外科手術を行うべきだと述べた。

  しかし、この本の謎めいた面白さは、著者マルク・ブロックが表面的な言述とは別の次元で、王の奇跡を信じていたのではないか、と思えることだ。ブロックは、医師に会うと「タッチは瘰癧治療にとって有効であるか」と必ず聞いたのだと書いている。勿論、医師たちの発言は否定的であった。しかし、ブロックの執拗さをどう考えたらいいのだろう。また、ブロックは、この本のテーマに関して「臆病にはできない微妙な仕事」と言う。ブロックが求めた勇気とは何にたいするものなのか。「歴史奇譚愛好家」と見做されかねない危うさよりも、「歴史科学」に超自然という非理性的なものを持ち込むことへの誤解・無理解・無視を怖れていたのかも知れない。しかし、ブロックは、勇気をもって『王の奇跡』という大著を書き上げた。

  現代ならば、「王の奇跡」すなわち数少ない瘰癧さわりの成功例を想像する根拠をブロックの時代よりももう少し幅広く探すことができる。一例をあげればプラスィーボ効果といわれるもの、つまり病はある程度心理的な背景・要因をもつ。“日経サイエンス2014年1月号”に報告された紹介記事によれば、ある場合信頼できる医師の言葉は薬物以上に治療に効果を発揮する。とすれば、絶大な尊崇の対象たる王にタッチしてもらうことが、病者をおおいに勇気づけ、瘰癧の治癒になにがしかの効果があってもおかしくない。

  王は「雨をよぶ首長」と似ている、と言えば分かりやすいか。
  王権は最終的には行政・司法・財政といった制度に還元しえないある仕方で、つまり超自然の能力を演出し、実演することによって人心を掌握する。王とは、そういう儀礼の意味と効果を、さらには実演のノウハウを知っていて、継承するものなのだ。この本を読んでいくと―とりわけ数限りない瘰癧さわりと病者への布施の記録―王に課せられた使命・責任ということが気になりだしてくる。戦時を除いては、王は瘰癧さわりを王の務めとして励んだ。つまり王の使命は民衆の支配というよりは、民衆の難病を治療するということ、民衆の苦難を取り除く方面に広がっていた、のだと僕は感じ始めるのだ。王国の存続と繁栄は、超自然的な力を発揮することによって、人々の病の苦しみに触れその重みに耐えつつ、その苦しみから人々を救う天との交感によって、進行してゆく。僕は、フィーリングでものを言っているけれども、いずれにしても『王の奇跡』は、実に多義的な読み方を可能にしてくれる本なのだ。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

52.横井清『的(まと)と胞衣(えな)』 (平凡社ライブラリー、初版1988年刊)

ena+005_convert.jpg 的と胞衣』という本は
中世における「いのち」のあり方に近づこうとする
たとえば
殺生の罪行というイデオロギーのあたりに
「殺生の愉悦」もまたあったのだという

敵を殺害する武士の
鮮やかな「いのち」の昂揚をうたう
またそのそばで
賤民は「いのち」に付随する穢れをきよめる
「いのち」をめぐる至上と穢れの同心円を
著者はよく練り上げられた文体で描きだす

しかし この本の内容が深くて難解なのは
じつは システムを拒む一見ランダムな
断章の繋がりにある のではないか
つまり横井氏の自由な連想 問題意識にそって
歴史のエピソードが
奔放に つぎつぎに繰り出されてくることだ
まるで中世における暗号化された
呪詛文書のように それは
新しい歴史記述のあり方を
戯れながら 実演しているのかも知れない


   『一遍聖絵』にある「はすかいによじ登って遊んでいるふたりの子供」に横井氏は注目する。「人はなぜふとしたはずみで『あそび』だすのだろう」と問うのだ。僕は、これを読んで、上階の踊念仏の熱狂と子供との関係を楽しく想像する。つまり、大人の熱狂に感応して遊ぶ子供というよりは、大人の熱狂に退屈して自らの遊びを始める子供を、あるいは、その子供の遊ぶ姿が踊念仏の熱狂を突き放して見ている、相対化しているようにも思えるのだ。

   この本には、実に刺激的な解釈が満載されている。一例をあげると、謡曲『鵜飼』を、殺生の罪行ではなく、狂言『靭猿』(うつぼざる)などと接ぎ木することによって「殺生ほど面白いことはない」という驚くべき読解に導くのだ。しかし、僕はそれら多くの興味深い指摘・読解とは別に、冒頭の「的(まと)と胞衣(えな)」という文章を一番強く応援したい。

   「的と胞衣」は、講演のような語り口で、一見脈絡のない独立した考察が、ランダムに物語られてゆく。形式的なシステムへの拒否の感覚を感じ取ったのは読み終えてしばらくたってからだけれども、読みだせば、通常の歴史エッセイとも、無論学術論文とも違うスタイルを直ちに読者は感じ始まるはずだ(出典についてはしっかりとした注がついている)。

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   「的と胞衣」は“弓矢の技芸”における的の話から始まる。なぜ人は、的を射ることに夢中になるのか、と。そして「突然妙な話題に転じ」(保元の乱、『太平記』における公家と武士が意見対立した軍事会議)、さらに頼朝の十二歳の長男頼家が初めて鹿を射止める件となる(頼朝の喜びようと鎌倉の政子の冷淡な反応の対照が面白い)。鹿狩りについて、当時における鹿狩りの社会的機能となぜ鹿なのか、という問いも興味深い。しかし、僕が立ち止まり少しく考え込んでしまったのは、名のある弓使いの大鹿を射止めそこなう物語だ。工藤影光という老武者(おいむしゃ)は、頼朝のまえで大鹿を射損じたあと「あの大鹿はきっと山の神の乗り物なのでしょう。わたしの人生も縮まってしまった」と言い、発熱し床に臥す。武士としての誇り、名のある弓使いの恥辱を読みとるのではなく、横井氏は、ここでも深く心に沁みる生命についての洞察を明かす。「精魂こめて狙い定めた相手の『いのち』を『山神』が己に賜らなかった、そのことを歎じた」に違いない、と。 

   「犬追物」という犬を騎射する武芸と「胞衣」(胎児を包んでいた膜)の処分の仕方についての論説が、この文章のハイライトなのだろう。この二つの歴史事象に共通するのは、実は賤民だ。彼らが、イベントを下から支えるべく犬を集め世話しゲームの段取りをする、また生命の誕生に付随する穢れとしての胞衣をきよめ処理する。武士とその影にある賤民が、同じ「いのち」をめぐって陽と陰の働きを演じている。差別と支配の向こう側に、「いのち」をめぐる円環が形づくられていて、役割を違えても、同じ「いのち」に対峙し支えあい、息を吹き込み、またその役割において生活していた人々がいたのだ、と思えてくる。

   しかし、それでもなお僕にとって問題なのは、この文章がそんな生半可な感想・要約にはおさまりきらない迫力を感じることなのだ。つまりこの文章には、このテキストを統一的・全体的に、あるいは抽象化して理解することを拒む力が働いている。そういうことよりも「この耳では一度も聞いたことのない」中世武士たちの声、馬のいななき、蹄の音を聞こうと囁き、また彼らの雄姿の影に従う賤民の息遣いに耳を傾けてみよう、という誘いが聞こえてくる。それは、ひどく捉えるのが難しい遠い時代の「いのち」に近づいて見てみようという試みだ。

   いずれにしても、講演風な装いを持つこの文章は、一見とっつきやすい印象とはうらはらに、深く、とても難解だ。いくつもの魅力的なエピソードと型にはまらない解釈が、著者の自由な連想によって次々に繰り出されてくるからだ。それはある時は謎めいていて、ひょっとすると横井氏自身が本来の意図を隠しているのではないかとさえ思えてくる。横井氏がいくらか興奮してこの本で紹介している中世における暗号化された呪詛文書(三浦圭一郎氏の解読による)のようにも見えるのだ。

   中世史という研究領域に魅力を感じつつも、その歴史記述の方法について僕は何となく不満を感じてきた。つまり歴史の記述は客観的で、不変の、科学であるべきだ、あるいはありうるとする信仰に対して、違和感をもつ(まるで戦争責任への批判として歴史学が存在しているかのように)。そうではなく、歴史の記述を、歴史的事実という迷宮から救いだし、豊かに膨らむ読者の想像力を期待しつつ、過去との対話、死者との対話を語ってゆくことこそを遊び楽しみたい。ごく控えめに言って「的と胞衣」は、歴史科学のむこうにあるより豊かな歴史記述への実験を含んでいるはずだ、と僕は考えたくなる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

49.藤木久志『戦国の作法』(平凡社ライブラリー、初版1987年刊)

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西も東も分からない僕の中世史の旅は続く
今回も暗中模索の取っ組み合いとなった
この本を読むきっかけは
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』に
非常に感心した と書いてあったからだ
それで『戦国の作法』を読みだすと
今まで読んできた中世史の本とは
また一味違った感覚があって面白い
明るい中世を強調しすぎるのではなく
地に根をおろしたしたたかな農民のリアリズを
あるいは村の知恵と政治と決断を
僕は感じ取った
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』を読み
僕は何だか故郷の村を出て
開拓農民になった気分を味わった
この『戦国の作法』では
村の作法をいろいろと学習しながら
村のリーダたる 庄屋となって
領主権力と対峙する自分を
想像してみたくなった


  藤木久志『戦国の作法』は、夢想がちなロマンチストではなく、苦労人のリアリストが書いた本に思える。何故なら、争いごとを、紛争処理の観点から論じているからだ。中世の村々における、あるいは領主との争いごとを、そのよってきたる原因や背景ではなく、争いごとはつねにどこにでもあるという前提から、それをいかに収拾するかの知恵・習俗・方法・技術の再現とその特長・個性について語っているのだ。ケンカを始めるのは勢いだ。しかし、それをおさめる技術こそは、中世の惣村の社会的な力量を示す。ケンカの終わらせ方に注意がいくのは、まぎれもないリアリストの感性だ、と僕は思う。

  この本の入り口は、故郷の村の回想から始まる。電燈もなく、馬車も通わず、雪に埋もれる深い山あいの村、と著者は書く。じつは著者の歴史認識、あるいは研究のテーマは、著者のそんな村の生活に基本的な認識の枠組みをもっている。それは素晴らしいことに違いない。歴史資料を生き返らせるのは、人であり、もっと言えばその人のオプセッションだ。歴史研究は、客観的で科学的な歴史資料の操作・整理であろうはずがなく、その人のオプセッションの解釈であり、変形であり、延長拡大であるからだ。

  それにしても下手人の入れ替え、という中世惣村における作法には、奇妙な感覚を覚える。違反の主体を置き換えてしまうなんて。しかし、より抽象化して言えば、置き換えの作法は、より普遍的であるようにも思える。昔から、人々は、一番大切なものを、あるいは切羽詰まると置き換えるのだ。例えばサクリファイスにしても、人から動物へ、あるいはものへ、さらには現代における芸能者・有名人へと置き換えられてゆく。あるいは、フロイトの夢判断では、男根や女陰はありとあらゆるものに置き換えられてゆく。置き換えは、文化の本質であるかも知れないのだ。

  僕たちは、罵詈雑言の文化を失って久しい(と僕は思っている)。日本の今を思うと、この本の「言葉戦い」の章には、期待が高まる。「軍記」における言葉争いについては、良く知られている通りだ。興味深くも難しいのは、戦国期に至って、領主・大名が軍事行動に際し「言葉戦い」を禁止してゆくことだ。それも極めて厳格に、場合によっては死罪をもって臨んだ、と言う。その理由は、「言葉戦い」という情報戦による兵の動揺・戦意喪失を大名が恐れたこと、および足軽・雑兵に「言葉戦い」の主役が移っていったことが挙げられているが、それでは、総じて「言葉戦い」が抑制・禁止されていく理由にはならないのではないか。いずれにしても霊性をもった言葉の自由な跳梁を抑制していくなかに、近世が始まろうとしている、ように感じられるのだ。

  近世の始まりは、神々の呪縛から少しずつ自由になってゆく過程かも知れない。著者は、折口信夫を援用しながら、「言葉戦い」の源流を言問・言技にむすびつけ、呪いの言葉がもともと神の言葉であったことを示唆している。言葉の呪力からの解放もまた、近世への道であったのかも知れない。

  中世における庄屋のしたたかでバイタリティあふれる活躍につての章が、僕にとってはもっとも心躍った。庄屋は、上の方から送られてくる役人の末端ではなく、村々における百姓の代表だった。彼らは、上からの要求に否応なく従う卑屈さを微塵も感じさせない。ダイナミックに交渉し、場合によっては領主の側を脅すことすらある。・・・秀吉の時代、その絶対的な権力の前で、何と検地役人を庄屋たちが大がかりに買収しようとした事件すらあったのだ。自らの判断で、リスクをおかし、行動を起こす庄屋達の逞しい姿が浮かび上がってくる。民・百姓の側に立って、村の「損免要求の先頭にたつ」のが庄屋だった。それもまた、領主権力の支配と収奪を完成させる一つの機構と見たいむきの人もいるかも知れないが、庄屋の役割の具体相を見てゆくと、より豊かな中世惣村のダイナミックなあり様を、民衆的な抵抗の現実を感じ取ることができる。

  この本のポイントは、「権断」(中世における刑事犯人の検挙・審理・判決を行う手続行為)を自らの判断と力で行うことができる「自力の村」ということになるのだろうか。いちいち領主へお伺いをたてなくとも、村に係る刑事事件についてかなりの程度まで村の判断でことを進めることができる。それは、中世における惣村についての新しい見方を示しているようだ。しかし、そこで僕が面白いと思うのは、解決のための仕掛けが非常に分かりやすい、ということだ。たとえば、盗人・放火・人殺しなどの「大犯(だいぼん)三ヵ条」に対して、落書(らくしょ)・高札(たかふだ)・褒美をもって村は対処する。落書というのは、投票で犯罪人を特定するやり方のようである(それにも色々なルールがある)。高札は、手配書を掲示することのようだ。褒美は、文字通り金銭などによる報酬なのだが、注目したいのは、いずれの仕組みも極めてわかりやすく直接的な効果が期待される、ということだ。

  「自力の村」を作るための「権断」が極めて明瞭な仕組みによって支えられていた。それについて僕が思いつくことを列挙すると、①仕組みの分かりやすさが、村のサイズと良いバランスがとれていた、②仕組みは分かりやすいが、その運用は簡単ではない、つまり村の指導層(庄屋になるのか)の力が問われる、③領主権力による介入の口実を与えないような緊張感が村にはつねにあったはずだ、等々。

  この本において考えてみたいことは実にいろいろある。例えば、中世史研究の台風の目ともいうべき差別の淵源について、この本の記述は極めて控えめである。そのことの意味をもう少し考えてみたい。あるいは逃散における聖と俗についての言及も面白い。さらにまた村の若衆(武力衝突の中心であるがゆえに強い発言力をもつ)を扱った章を読むと、現代の若者のおかれた状況との比較が頭をよぎる。しかし、それらは、藤木久志氏の他の著作をも読みながら考えを深めてゆくべきだろう、と思う。
  ところで、そんなあれやこれやの問題提議を思い浮かべながらも、最終章「村堂の落書き」という短文の異様な輝きは一体何なんだろうか、と僕は思うのだ。それは「郷里越後の国境いに近い、村はずれの神社や仏堂に今ものこる戦国の旅人たちの落書き」についての文章だが、経文からの引用、歌、あるいは旅や出身地の記録、エッチなものいい、さらに男色の風を読み取りながら遠い過去の時間に生きた人々に思いを馳せている。落書きという自発的な表現に触れて著者のリアリストの眼がいささか自由な遊びの世界に動いてゆくのが楽しい。

  この本は、雪深く、深い山に閉ざされた故郷越後の村の回想から始まる。そこでは、むしろ「権断」でなければことがすすまない、と言う。そして、最終章は、「村堂の落書き」を通して、村の外の世界の声を聞こうとする。村のウチ側に村のソト側が接木される。村を始点と終点とした円環において、この本には「自力の村」と中世の村におけるナゾ解きが一杯つまっている。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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