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103.V. S. ナイポール『小説・この世界の一つの道』、V. S. Naipaul, A Way in the World: Novel, published by Alfred A. Knopf, Inc., New York, in 1994.

a way in the world book222この小説『この世界の一つの道』が舞台とするのは
ナイポールの生まれ故郷 トリニダード
あるいは 黒人奴隷とアジア人の年季労働者による
カリブ海の植民地世界
黄金郷伝説と革命に揺れるベネズエラ
南米の北の端ガイアナ
インドとは古くから交流のあった東アフリカ
ということになる
時間軸は コロンブスの航海の時代から
ポストコロニアル状況の1970年代になるのか
それらの前景と背景における
黒人たち 革命家たち あるいは何かに憑かれた人たちが
揺籃の地をはなれ 広い世界に出ていくとき
何が起きるのかを書く
あるいは広い世界に
連れ出された人々に何が起きたのかを物語る

私たちは 自分自身のことを あまりよく知らない
私たちは 自分に対する異邦人であり
自分がどこに向かえばより安全なのか分からない
それを選択できる者は 強者であり
保護と安全を手にできる者だ
とナイポールは語る


今回この本を再読して
改めのて 本書に圧倒された
感動というよりは 恐れ 驚いたのだ
その底にあるのは 
ナイポールの生き 経験し 選択した
差別についての感覚なのだった

 ナイポールは、『読むことと書くことについての個人的な覚書』Reading and Writing: A Personal Account, 2000という小さな本のなかで、イーヴリン・ウォーが述べた「フィクションは作家の経験したことの変形でしかない」という言葉を、ある種、感慨深げに引用している。この本『小説・この世界の一つの道』もウォーの言葉そのもののような、ナイポールが実際に生きたことの変形としての小説である。どこまでがナイポールが経験したことで、どこからが創作なのか、その境界が分かるようでもあり、分かりにくくもある小説だ。ただ、実際の経験(それも記憶でしかない)とフィクションとの境界は、おそらく作家自身にとってはどうでも良いことのように見える。あらゆる経験や事実は、記憶あるいは抽出された記録である以上、本質的にフィクションに傾いてゆく、と作家は考えているからだ。

 ところで、この本は、いくつもの切り口で読むことができる。ポストコロニアル状況、カリブ海世界あるいはトリニダードの歴史と人物、革命家群像、憑かれた人々の不幸、無垢なる人々が揺籃の地を離れ大きな世界(文明)のなかに投げこまれてゆくこと、等々について考えながら中身の濃い読書ができるのだ。だが、とりわけ目立って見えるのは差別の問題だ。ナイポールは、差別についてのある感覚、あるいは考え方を実に豊かに語る。それは差別を悪として批判し排除するよりは、差別に纏わる恐怖が社会を、人々の生を活性化させ、生きる目的を明確にする(安全ということかも知れない)というように描かれる。差別という極めて捉えがたく扱いの難しい主題について、ナイポールは、自らの経験と記憶を参照しつつ極めて陰影の深い物語を織り上げるいる。

   プロローグはクイーンズ・ロイヤル・カレッジに通っていた高校生時代の回想から始まる。無論、この章も、差別について物語っているのは明らかだ。
 荒筋を追ってみよう。
五月の祭りの催しに生け花(フラワーアレンジメント)のコンペをやろう、ということになり審査員に、女性扶助協会で生け花とケーキ作りを教えているレナード・サイードさんを招くことになる。ナイポールに限りなく近い高校生の主人公が、女性扶助協会にサイードさんを訪ねてゆく。受付嬢が「サイードさんなら、道の向こうの建屋にいますよ」と教えられ、そちらへ行ってドアを開けると、高校生は驚愕するのだ。何とサイードさんは、人の死体を前に、花を飾りつけていたのだ。高校生はショックで青ざめうろたえるのだが、サイードさんは至極丁寧に高校生の相手をし、無論、審査員も引き受けてくれたのだ。高校生の驚愕には、ナイポールの差別感覚―死体を扱う穢れた者への怖れ―が隠れている、ように思える。
 次の年、高校生はふたたびサイードさんを女性扶助協会に尋ねる。今回は、ケーキ作りをサイードさんは女性たちをまえに教えていた。高校生は、その光景を見てふたたびある種のおぞましさを覚えるのだ。ねり粉をこねる毛むくじゃらの手が気になって仕方がなかったのだ。毛むくじゃらの手と白いねり粉に、作家は何か猥雑な印象を―性行為を弄ぶ者―読者に求めている気がする。
 三度目の訪問はサイードさんの自宅を訪ねたのだった。自分の家の近くセント・ジェームズにサイードさんは住んでいた。その距離の近さを高校生はどう受け入れるべきなのか分からず取り乱す。そして高校生は、三度、驚く。サイードさんは病気で臥せっていた。彼の毛深い手が、サテン地、あるいは絹のかけ物の上にあった。光沢のあるかけ物も、部屋飾りも、あの葬儀屋から、つまり棺桶の装飾品の残り物に違いないのだ、と高校生は悟りぞっとする。人の死に浸潤された生の匂いを高校生は嫌悪するのだ。
 ナイポールは、ここで差別という言葉を一切吐かないで、自己のうちにある差別感情を描いている。作家がこのプロローグを括る言葉がすごい。まず、始まりは、サイードの祖父あるいは曽祖父が、トリニダードに移民してきた、彼らはインドのシーア派ムスリムの集団に属していて、おそらく北インドのラクノウからやってきたのだ、と類推する。彼の家があるセント・ジェームズは、ラクノウ通りとも呼ばれ、ラクノウ出身者が多いので有名だからだ。だが、尋ねもしないで分かるところが差別らしい。そして、ラクノウのムスリムは大多数がシーア派なのかも知れない。(彼らがなぜシーア派でなければならないのかは分からない。ただ中世の北インドにおけるスンニ派ムスリムによるシーア派、あるいはイスマエル派への苛烈な弾圧の歴史を私は思い起こす。弾圧と抑圧が差別〔外部と交わらない固い信仰の保持と特異な伝統・文化〕を形成していった、というようなことを私は想像する。) さらにナイポールは、サイードの祖先について語る。「おそらく(perhaps)」という言葉をナイポールは繰り返しながら、サイードの出自を、ラクノウの舞踊集団で、女のような化粧をして淫らに踊る男たち、と言うのだ。サイードに纏わりついた死と性に彩られた淫らな印象は、あるカースト集団への差別感情に結びつく。ナイポールは、その差別感情を激しい嫌悪として表現している。将来を嘱望された高校生は、ここで差別の対象に深い恐怖を抱いている。

   この本における黒人(ナイポールはニグロと呼ぶ)についての描き方は、独特で具体的であり、侮蔑・拒絶の対象であるよりは理解の対象なのだ。それはあたかも差別する権利の主張であるかもしれない。差別は撤廃されなければならない、ではなく差別しあってこそ社会は生きる現実と楽しみがある、とでもいうようなニュアンスがあるのだ。

   プロローグに続く第二章、“歴史、魚の膠(にかわ)の匂い”は、主人公が難関の留学生試験に合格し、オックスフォードへ行く前の役所での臨時雇いの時代を描いている。未来のエリートは、出生証明書(これもナイポールについて回るメタファーだ)の写しを作っていた。そこにブレアーという黒人の上級管理者がいた。ナイポールは、ブレアーは苦学の人である、言う。ここでも、ナイポールは、黒人についての皮相な偏見に挑戦している。そして、ブレアーには威厳というものがあり、彼のメモ書きは、細字で几帳面なのだった。週末の給料日には仕事が引けると、職場で皆してラムを飲むのだが、彼はその輪の中に入らず、昇進試験の準備に時間をさいていた。ナイポールは、ブレアーがある特異な黒人の村(逃亡奴隷のコミューンか?)の出身者で、長く外部との交渉を持たない閉鎖社会における純粋・純朴な価値観・性格を彼は引き継いでいるのだと推論する。そして、ブレアーには野心があったのだ。ナイポールと同様、閉じた小さな社会からより大きな世界に出てゆきたい、という願望をもっていたのだ。そしてブレアーもナイポールも、トリニダードを離れ、より大きな世界の現実の中に入っていった。
 十数年、あるいは二十数年が過ぎて、二人は東アフリカの新興国で再会することになる。その新興国の大統領は、民族主義的な社会主義国家の建設を目指していた。ナイポールは、その首都の新しい大学の教授として招聘されたのだった。それは、ナイポールの小説『暗い河』(TBSブリタニカ)とほぼ同じシチュエーションだ。一方、ブレアーは、高位の行政官として大統領の顧問となるのだが、その使命は、その国からのアジア人、とりわけインド人を排斥・追放することなのだった。トリニダードにおけるアフリカ系住民とアジア系との人種的対立・緊張・差別感情が場所を変え、再演される。…ブレアーは、大統領の意図を理解した。しかし、純粋で律儀な心情・性格のブレアーは、アジア人の排斥・追放よりもより広い改革に突き進んでいった。そして、独裁国家の周辺で甘い汁を吸う人々が、ブレアーを抹殺する。トウモロコシ畑で遺棄された彼の遺体が発見されたのだ。
 ブレアーの短い生涯は、黒人エリートのある姿を描いているように思える。ナイポールのブレアーを語る筆致は、終始逆差別的である。黒人について良く言われることの逆を言っている。だが、実に興味深いのは、そのブレアーに、差別についての本音を吐かせていることなのだ。
 コンパウンド(外国人特別居留地区⁉)での夕食会の席であったか、ブレアーはナイポールとおぼしき人物に語る。「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」と。これは、ブレアーという黒人の言葉であるとともに、ナイポールの信条告白である。即座に反応する差別行動というところがミソだ。いずれにしても、ナイポールの求める文学が、道徳的な説教とは大いに異なる。

 ブレアーは、役人という国家公認の道を登り詰めようとする。他方、ラブランLubrunは、革命家なのだった。国家体制を揺さぶり転覆を企てようとする黒人だ。ラブランが仏領西インド諸島の出身者であるのは、フランツ・ファノンを想起させる。ラブランは、知的で巧みな弁舌、国際的な人脈と洗練された身のこなしを合わせ持っている。おかしいのは、革命家のラブランが、ナイポールの著作に共感し、ロシア語の雑誌にナイポールの本の書評を掲載することだ。あり得ない、と初め思い、やがてこれはジョークなのかと思い直す。カリブ海諸島の砂糖キビ労働者こそは、世界最初の賃労働者なのだというラブランの説は何か珍妙なのだが、彼のナイポールへの共感は、世界の辺境に生きる者の偏頗な喜劇性という認識、という点で一致するのかも知れない。革命のイデオロギーには収まりきらない真実への希求をナイポールはラブランに認めているのが、少し意外だ。
 ナイポールの革命家としてのラブランに対する見方はむしろ公平で率直なのだ。だが、ラブランの出自についてナイポールが言及し始めると、何やら独特なニュアンスが醸し出されてくる。ラブランの母は、黒人奴隷であったに違いない、とナイポールは類推する。なぜナイポールは、ラブランの母が奴隷であったと言わなければならないのか、と私は訝(いぶか)しく思う。ナイポールの言い方は、むしろ庶民の陰口に似ている。ナイポールが時に極めて俗なる言辞を吐くのは分かっている。だが、ナイポールは凡百の知識人が示す上品で高級な寛容を拒む。人が生きてゆくのは、そのよう上品でも寛容でもないのだ、という本能がナイポールにはあるのだ。
 
   革命家ラブランは、何度かナイポールと交錯する。クイーンズ・ロイヤル・カレッジの図書館には彼の著作が陳列されていた。どのような人がラブランの本を読むのか、ナイポールは何も言わない。それから、ニューヨークでのリベラル人士との会食やら、チェコ人の情婦との間に生まれた、扉ほどもある大女の娘やら、読者を飽きさせないストーリーが続く。だが、英国人作家フォスター・モーリスの語るラブランの逸話が、とりわけ恐ろしく、興味深い。それも陰影深い差別についての物語だ。

 1930年代、トリニダードで石油掘削・精製所で大規模なストライキが発生した。鎮圧にあたった警察官が焼き殺され、それがカリプソに歌われたりもしたのだった。本格的な文学の書き手で、トリニダード・トバゴについて、とてもいい旅行ガイドをものしているフォスター・モーリスは、その騒乱の傍らにいた。彼は、騒動の首謀者が集う会合になぜか居合わせたのだ。議論は、闘争方針やら戦術から離れ、白人への性的なレイシャル・ジョーク、つまりそこにただ一人居合わせた白人のフォスター・モーリスへの攻撃へと変わっていったのだ。そこで、フォスター・モーリスは決定的な過ちを犯したのだ、とナイポールに語る。つまり、モーリスは、ストライキの黒人指導者ラブランに向かって「悪いけど君にキスできない、君を王子様にはできないんだ」と言ってしまったのだ。その時何かが起きたかも知れないし、何も起きなかったかも知れない、とナイポールは書く。
 黒人、あるいは有色人種の白人に対してもっている差別感覚をとりあげるところがナイポールのとてもユニークなところだ。人種差別というと、白人の黒人に対する、あるいは有色人種への差別ばかりが言われるが、ナイポールのこの本では、白人への差別感がしばしば取り上げられるし、さらに有色人種同士の差別にナイポールはとりわけ着目する。その視点は、言われてみれば至極当然であり、貴重な気がする。

 航空機と飛行場は、ナイポールにとって特別な場所である。それらの場所についてとてもいい文章を残している。『インド傷ついた文明』(岩波書店)の冒頭の数ページが、私はとても好きだ。モンスーンの長引くなか、作家は深夜、雨のボンベイの空港に到着する。これから二度目(⁉)のインドの旅を始めようとするくだりだ。様々な人生の片鱗をナイポールは垣間見る。作家は到着に不安と焦燥と孤独を感じている。何度読み返しても心が動く。

 この物語は、ベネズエラのカラカスに向かう、旅客機の中から始まる。隣合わせたインド系ベネズエラ人は、トリニダードで買ってきたチャツネの瓶をもっている。彼が身につけている金の鎖は、実は、ビルの解体作業中に偶然発見した隠し金で作ったものだ、とその男、マヌエル・ソルサーノは話すのだ。シモーヌ・ボリヴァール記念金貨の隠し金とベネズエラの黄金郷伝説とがダブって見えてくる。旅の行きずりで交わした会話の中で、ナイポールはソルサーノにある差別についての物語を語らせるのだ。
 マヌエル・ソルサーノの息子は、憧れていた警官になった。ベネズエラでは、どうも警官が凛々しさと強権の象徴のようなのだ。ソルサーノの息子、アントニオは良くできた子だが、自分に似てとても内気な性格なのだ、と父親は語る。そのような息子が、どのように知り合ったのか、背の低い「小さな娘のような女」と同棲することになる。奇妙な結びつきなのだ。二年がたち、父親は二人を訪ねる。彼女は父親の前では慇懃で、慎ましく振舞うのだった。別れ際、父親は、その「小さな女の肩」に触れて戦慄する。彼女の肩はあまりに硬く、筋肉質なのだった。ソルサーノは、彼女の過酷な肉体労働の過去を確信した。肉体労働に対する侮蔑の念と、貧困への恐怖(「小さな女」は、貧困による栄養不足がもたらしたという偏見をナイポールはもっている)がないまぜになってソルサーノを捕らえた。そして、ソルサーノの衝撃は、その後の事件と不幸な屈辱の予兆でもあった。
   この後の展開は差別の話ではないのだが、ナイポールならではのリアリティ感覚が素晴らしい。……「小さな女」は、雑貨屋を営むシリア人の情婦でもあったのだ。そのことを知ったソルサーノの息子、アントニオは、「小さな女」を追い詰めリボルバーで撃ち殺そうとする。彼女は「貧しい小さな娘にとってシリア人がどんなに助けになったか貴方にはわからないでしょう」と言うと、アントニオは拳銃を打つことができなくなる。アントニオは、内気であるばかりでなく、ある種とても優しい。ナイポールは、同朋の内気と柔弱さをじっと見つめている。…彼女の言葉にアントニオの心は乱れる。今度はシリア人を撃ち殺そうとする。「小さな女」をソルサーノの息子に手引きしたのは、このシリア人なのかも知れない。シリア人を追い詰め、拳銃の引き金を引こうとしたとき、シリア人は、何か性的な侮辱の言葉をアントニオに投げる。それは人種差別の言葉ではないだろう。が、その言葉によって、アントニオはまたも発砲への怒りを挫かれてしまうのだ。殺人に至らない屈辱にまみれた物語は、これこそ生の本質である、というナイポールの呪いようでもある。

   ナイポールは、実は探検家の側面をもっている。西インド諸島を三か月旅して回る『中道』Middle Passage、1962でも、ガイドと少人数のグループでジャマイカの奥地のジャングルに入っていく。コンラッドの『闇の中』の雰囲気なのだ。私には、『闇の中』はほとんど何も理解できない難解な小説だが、ナイポールが、『闇の中』に深く魅了されている、ことは分かる。未開の自然の奥深いところへの侵入は、暴力的で反秩序的な、アーカイックな人間の自然性を呼び起こす魔力がある、のかも知れない。……この本ではインディオの案内でベネズエラの奥地へナイポールは、入っていく。作家は、ジャングルの只中で、もう自分の力だけでは文明世界にもどれない、と恐怖する。深い闇の中の野営地でナイポールは、ウィスキーを飲んでいる。ガイドのインディオの若者が、自分にもラムを飲ましてくれ、と言う。ナイポールは、これはラムではない、と拒むのだ。……ナイポールは、そして思うのだ、このインディオ達を自分が愛しいと思うのは何故なのか、と。ナイポールは、しばらく考え、この愛情はこの人々がいつまでも外の文明にふれず無垢なままでいて欲しい、という感情に他ならないのだと、納得する。ウィスキーとラムを一緒くたにしない区別と、己との違いを愛おしい、と思う感情が、ナイポールの差別についての物語の根本にあるのだろう。

naipaul.png
ヴィディアダハル・スラヤプラサド・ナイポール
癌で妻パット・ホールを亡くした二か月後、ナイポールは
パキスタン籍のナディーラ(写真左)と再婚する

   ナイポールにとって差別のない社会など考えられない。ナイポールは、差別をルールで規制すればすむ以上のこととして捉えている。そして、ナイポールは、差別を恐怖として語るとともに何か魅了されている。うまく説明できないが、ナイポールの問題提議は重大である。

   ナイポールの『小説・この世界の一つの道』はとても怖い小説だ。それは、差別の恐怖と愉悦を語るからだろう。だが、この本の非凡なところは、ナイポールが一種開放的な差別を求めていることだ。存在を抹殺する差別でなく、お互いの存在を認め合う(罵り合う)差別を排除してはならない、とナイポールは語るからだ。黒人のブレアーが言うように「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」。それを認めてこそ、この世の共同体は、生命をもつ。
 

29.V. S. ナイポール『奴隷棟』、V. S. Naipaul, The Overcrowded Barracoon, Published in Vintage Books Edition 1984, First published in Great Britain 1972 by Andre Deutsch

ナイポールの中期までのエッセイを集めた『奴隷棟』は
読者をさまざまに魅了し圧倒するに違いない
珠玉のエッセイを 極上の文章の魅力を
僕が伝えたいと思ってもそれはたやすくはない
そこで、この本のページの余白に
僕が書き込んだ感想や要約などを書きだしてみた
良い翻訳が出版されることを期待しながら
ナイポールの魅力の片鱗を
僅かでも感じてもらえたら嬉しい


一章、存在しない植民社会への書き込み
 
   ロンドン
   ナイポールにとってマスメデイィアとは学究的な問題なのだと、言う。ナイポールが言いたいのはマスメディアには、コミュニティを背景にした濃密なコミュニケーションが希薄であるから退屈なのだ、ということなのか。ナイポールにとってロンドンは、そういう意味で退屈な都市であり、不毛であり、失望を繰り返した場所なのだ。ロンドンでは、芝居を見にいっても舞台と観客との間の真の交流が存在しない、バスに乗っても、人々はプライバシーによって分け隔てられている、ただ時間が空費されてゆくのみなのだ、とナイポールは言う。
   ナイポールは、ロンドンの生活を職業と安全ための場所として選択した。逆に、ナイポールにとって濃密なコミュニティとコミュニケーションを感じられたのはどこなのかと問えば、故郷のポートオブスペイン以外にない。そこで僕はある種のアナロジーが思い浮かべる。ポートオブスペインの生活と現実が、ナイポールがさんざん批判したことになっているポストコロニアルの国々の生活と現実に非常に近く見えてくるのだ。

Obercrowded bbb
ヴィンテージ版の『奴隷棟』
この本を読むのにあまりにも時間がかかったため、本は解体寸前となってしまった
しかし、そんな濃密で贅沢な読書はもうできない、と今では思う

   トリニダットのよう伝統や社会の規範が弱いところでは、自分を売り込むために個人が個性的に振舞う必要がある。ナイポールは、個性をとりたてて演出する必要のない伝統や社会の規範の確立した国で生きることの方がましである、と考えた。しかし、ナイポールは、生きていくために個性を演出する人々に後ろ髪をひかれ続けていたようにも思えるのだ。ナイポールは、ことさらに個性を演出しないですむ社会に秩序と安全と進歩についての憧れを感じたのだけれども、そこには物足りない何かがあって、しかし、ナイポールの場合、それはあからさまに表明されない。

   ジャスミン
   ナイポールは、自分の小説、たとえば『ビスワス氏の家』A House for Mr. Biswas (1961)がトリニダットに生きたことのある者にしか理解できないと嘆き、それは職業作家にとって大きなハンディキャップであると書く。僕は『ビスワス氏の家』が一番好きな小説であると思っているのだけれども、どう作家の嘆きを受け止めたらいいのだろうか迷う。ある社会についてのローカルな知識と経験を超えた普遍的な面白さが『ビスワス氏の家』にはあるはずだと言うべきなのか、あるいは僕が『ビスワス氏の家』の本当の面白さのほんの少ししか理解できていない、と悟るべきなのか迷うのだ。

   ナイポールにとって英国の文化・伝統は自分のものではなく、英語だけが自分の血肉なのだと語る。英国の文化・伝統には距離をおいたまま、文学は、英語という言葉への愛をより大きく育む。しかし他方でナイポールにおいて文学は、人々の人生をよりよく理解するものなのだ。つまり、ナイポールにおいては英語への愛と人々の人生が文学という形式において結びついてゆく。どんな人生も美しい言語で語らなければなりない、それがナイポールの文学における掟だ。

   幼少のころよりジャスミンは、どこにでもあり良く見知っていた。そして、ジャスミンという植物の名前も知っていた。しかし、実際のジャスミンを見て、これは何という植物なのかとナイポールはある人に問うたのだ。言葉に魅惑される感覚は、必ずしも言葉が指し示すものに向かうわけではない。ナイポールの文章は、現実と実際のものとは離れたところで、抽象的な観念の練り上げによって出来上がっている、と強く感じさせられる時があるのだ。

   東インド人
   インド人とインディアンという日本語における使い分けは絶妙だ。しかし、この使い分けの良さは、多くの日本人の視野の限界を語っている。つまり、カレーライスと西部劇だ。世界の現実はもう少し広く複雑なようだ。
   英国植民地、例えばトリニダット(西インド諸島)に入ってきたインド亜大陸出身の年季労働者を、当地ではイースト・インディアンと呼んでいた。さらに、オランダ領スリナムでは、インド亜大陸出身のインド人(東インド人)が多く住んでいたところに、他の西インド諸島から東インド人が流入してきて、彼らを英国インド人British Indianと呼び分けていた。しかし、英国インド人の呼称は、ナショナリズムの高まりとともに、ヒンドスタンに変更されえたのだという。ところで、それではカリブ海諸島、西インド諸島では先住民を何と呼んでいたか(ほとんど先住民は根絶やしになっている)、レッド・インディアンなのである。
1492年に始まるクリストファー・コロンブスのアメリカ新大陸の発見は、カリブ海域の島々をインドであるとする誤認を含む。生涯コロンブスは、それをインド亜大陸の一部であると信じていた。その誤認は、修正されることなく西インド諸島という呼称で現在までひきつがれている。ナイポールは、学生時代、「西インド諸島のトリニダットからやってきた東インド人です」と正確かつ真面目に自己紹介し、母国を離れて住むインド人を面食らわせたことを回想している。実際の歴史は、若いナイポールほどには生真面目ではない。「西インド諸島」という大いなる誤解の痕跡を、人類史おける過誤の記念碑として決して消し去らないでもらいたいと僕は思う。

二章、インドについての書き込み

   インド人の自伝
   ナイポールは、インドのカースト制について明解な立場の表明を避けている。ナイポールはカースト制について「多くの貧しいバラモンがいる一方で不可触民がビジネスで成功することは大いにありうる」という注釈を繰り返す。ナイポールは、この本でもカースト制への自らの意見主張を避けながら、これまた難解なカースト論を展開しているニロッド・C・チョウドリーを引きあいにだし、カースト制へのいくつかの見かたを示しているのだ。チョウドリーも、カースト制は、諸階層間(おもに経済上の階層を指しているのか)の移動を制限しないと述べるのだが、問題は、ルールをないがしろにする人々の野心をどう制御するかなのだと、説く。あとは、英国植民地政府のプロパガンダだ、と(植民地政府はカースト制を自らの統治のためにさんざん利用し、改悪し、そのあと捨て去り、さらに非難攻撃した)。実際のところ僕には、ナイポールが要約するチョウドリーの言っていることの半分も分からない。しかし、チョウドリーはインドがカースト制の制約から解き放たれたなら地獄が現出する、と明言する。そしてその地獄のイメージは、実は次のようなチョウドリーの言い方に表現されているのではないか、と僕は考える。つまり「この世でもっとも下らない連中というのは西欧社会の都市部に住む下流中産階級なのだ」と。西欧社会の下流中産階級がどう下らないのか説明はされていないけれども、僕はそれが何となく分かる気がするし、またナイポールの小説においてもこれは繰り返されるテーマだ。たとえば『ゲリラ』Guerrillas(1975)は、英国中産階級出身の女性革命家における俗物性を余すところなく批判的に描く。

   インド再訪
   ナイポールの書物は、とりわけエッセイについては、インド人が読むとなると随分耳が痛いだろうと想像する。しかし、インドの現代作家たちは、ナイポールをよく読んでいる。理由は、ナイポールの言説が、インドの人々にとって耳の痛い反面、彼らの心に触れる言葉であるからだろう。それは、たとえばナイポールがビートニックについて発言するとき僕は強く感じた。インドを訪れるビートニックが、どんなに誠実にインドなるものとの対話を演じようと、所詮は金持ちの嫌味なジョークである、とナイポールは書く。ジョークは、立場を変えれば恥辱に変わる。とりわけインドの人々にとっては恥辱なのだ。自分たちがどうにか改めなければならないと思っているものをビートニックは有難がるのは、インドの人々にとって決して愉快なことではないことを、ナイポールとインドの作家・人々は共有できるのだ。

   インドの貧困について、インド人にとっては耳の痛いことをナイポールは言っている。インドの貧困は、インドの人々の怠惰と非効率の弁解には、ならないだろうとナイポールは言うのだ。「ニューデリーの五つ星ホテル、アショーカ・ホテルの擦り切れた絨毯は、インドの貧困では説明できない。サービスの行き届かないラウンジの薄汚れた肘掛椅子も、換気口を今しがた掃除していたカーキ色の賤民がそこに置き去りにした長手の箒も」。・・・インドの貧困に崇高なものを求めるべきではない、インドの怠惰と不合理を面白がり笑うべきではないのだ。

   インド人は、インドの古代文化を誇りにしたがるのはどうしてか。彼らは、実は未だに古代に生きているのだ。なぜなら、インドには永遠はあっても時間の経過とともに生起する出来事を記録する歴史をもたないからだ。ナイポールは「実際のところインド人は、古代文化の犠牲者なのだ」と。インドの思想家は、西欧を物質的には豊かだが精神的に病んでいる、という。しかし、ナイポールは、どうしてインドが病んでいない等と言えるのか、と反論するのだ。

   インドは魔法の国である。インドでは信じられないような不思議なことが起きる。ただし、その奇跡は、ナイポールの場合、ありえない奇跡に容易にだまされてしまう人々の心性と土壌をさしている。
   ナイポールは、ある聖人が水の上を歩く奇跡についてのパフォーマンスを取り上げ論じている。聖人は、パフォーマンスの日取りを決め、安くない鑑賞チケットを販売した。当日、地域の名士が集い撮影隊が待機するなかで、パフォーマンスは行われた。ナイポールは書く「定刻になり聖人は水の上に進んだ。そして沈んだ」と。
 インドの危機は、単に政治的あるいは経済的な諸問題ではなく、より深い人々の感覚・心性にあるのかも知れない。聖人は、水上歩行の実演を約束した。多くの人がそれに関心を示し奇跡を期待した。聖人は奇跡の実演を真剣に信じていたに違いない。しかし、聖人は沈んだのだ。

   アジメールの選挙
   この文章を読むと、インドにおける選挙が、人々の熱狂を呼び、人々を巻き込んでゆくまるでページェントを見るような感じがしてくる。非常に美しい文章だ。僕は、はからずもこの文章の最終場面で涙を流してしまった。インドの人々にとって選挙とは何かということ。もっといえば、祭に彩られて人々の生。ナイポールは、郊外の丘に登り、選挙に興奮する街を眺めるのだ。

ajimer.jpeg
アジメール
 
   インディラ・ガンディーが非常にきびしい政治政策を選択しデリーで孤立している。たとえば、女史は、ハリジャンの地位向上に真摯に向き合う。しかし、それはアジメールという地方都市における選挙の背景でもある。アジメールにおける選挙は、国民会議派における独立運動世代とミセス・ガンディーにつながる急進勢力との対立で、独立運動世代が暗黙の了解事項としていたことを急進勢力がないがしろにし始めた、というものなのだ。独立運動世代を代表するのは盲目の弁護士であり、急進勢力を代表するのがもと映画俳優なのも面白い。さらに二人は、姻戚関係にある。
   盲目の弁護士のクダル氏は、やり手の弁護士であるとともに、貧しい農民の係争を無償で手助けするような仁徳の人だ。他方、急進派の候補、ビシウェシワル氏は、氏の夫人に背中を押されて出馬したようだとナイポールは見ている。ビシウェシワルはいいが、女房が悪い、と街の人々は噂する。
   ナイポールが涙を流す。
   クダル氏の出馬理由をナイポールが聞く場面だ。老弁護士は、サクリファイス(生贄)なのだと答える。その言葉に感応してナイポールは涙をながすのだが、その理由が判然とはしない(穿った見方をすれば、世代交代を完成させるための儀礼とも言えるが、それを裏付ける説明はない)。ナイポールが泣くなんて、それだけでも信じがたいことなのに、それがサクリファイスという言葉に結びつくとは。
   実は僕も、このエッセイの最終場面を読んで泣けてしまった。・・・選挙が終わり、勝利した者がいて敗者が明らかになる。ナイポールは、歓喜と悲嘆を目の当たりにする。そしてインドの猛烈な春がきて祭が始まる。祭で賑わう行進の列に、赤い小麦粉のボールが投げ込まれる。赤が意味するのは、春であり、勝利であり、サクリファイス(生贄・犠牲・供犠)なのだと、ナイポールは書く。

三章、西欧への視点についての書き込み

   マツダモリヒロ、百万ドルの賭け
   1966年6月、在日朝鮮人マツダモリヒロが、ニューヨークタイムズ紙などにベトナム戦争の終結を訴える意見広告を掲載した。ミスター・マツダは私財をはたいて広告代金を支払った。ミスター・マツダのベトナムに平和を求める意見広告は、実は、彼独特のビジネスと結びついている。ナイポールは、ミスター・マツダの奇妙な個性に着目し、日本にも取材に訪れるのだ。ナイポールの眼のとまる日本は、プロシア風の黒い学生服、几帳面な家の佇まい、栄養ゆたかに育つ小学生の太モモであったりする。朝鮮系の人々の顔の造作は、日本人に比べ平板である、といった誤解もある。
   ピョンヤン近郊に生まれたサン・トクウオンは、青雲の志をもって日本に渡り、学業においては挫折したが戦後の闇市で儲け、ボクシングジムを経営しながら現在に至っている。棺に入って三十日に及ぶ断食を行ってきたように宗教家としての側面ももつ。信仰とビジネス、思想と行動が奇妙に混交した在日朝鮮人の半生記としてこのエッセイは興味深い。しかし、このルポルタージュは『奴隷棟』でしか読めない。浩瀚なナイポールの『エッセイ集、作家とその世界』Essays: The Writers and the World (2002)では再録されなかった。ミスター・マツダのエッセイの出来が必ずしも良くなかったとナイポールが考えているのか、再録されなかった理由を僕なりに想像してみたくなるのだ。


   モントレーのスタインベック
   スタインベックの貧しい人々を描いた小説に始まり、名作と世間に知れ渡ったときその小説の舞台に何が起きるのかを描く。さらにオカルトに異常なほど興味をもつ西海岸の精神風土についてナイポールの筆が進む。土地の土産物屋は、ヒッピーが金をもっている上得意であると見ていること、20年代小人が住むような「お人形の家」が流行したことなど興味深い話が次々に繰り出される。・・・今は豊かそうに見えるアメリカ(注;60年代後半)、しかし30年代には今では信じられないような苛酷な労働があった。そういう嘗ての苛酷な労働の現場・缶詰工場の跡地をナイポールは訪ねる。ナイポールの想像力が羽ばたきだす。しかし、最後のシーンが最も素晴らしい。この地の辣腕のビジネスマンの日課をナイポールは紹介するのだ。今では廃屋となった缶詰工場に来てウォールストリートジャーナルを読むのが彼の日課なのだ。過ぎ去った苛酷さのなかに身をおき、生きるよすがを求めること。人間の根本にある条件、強くもあり柔らかくもある生のあり方を垣間見る思いがする。

   ニューヨークのノーマン・メイラー
   このルポ(1969年のノーマン・メイラーのニューヨーク市長選挙)で目立っているのは、天真爛漫なボランティアだ。アジメールの選挙のルポルタージュにはないものだ。僕は、アジメールの選挙ルポに感動したけれども、ニューヨークのノーマン・メイラーの選挙ルポには心が動かされなかった。

   ジャック・スーテル
   ジャック・スーテル(Jack Soustelle)は、南仏モンペリエ生まれのメキシコ古代文明を専門とする歴史研究者であるとともに精力的な政治家だ。変化に富んだドラマチックな人生を歩んだ。政治に係るようになったのは、戦争と反独レジスタンスによって自然ななりゆきだった。ドゴールのアルジェリア独立承認を無責任であるとして対立する。以降亡命生活が続く(1968年にフランスに復帰)が学者としての研究を続ける一方、亡命という非日常性が、つねに彼の注意を政治に向けさせるのだ、とナイポールは書く。西欧の没落というテーマについて、ナイポールはコメントをさしはさまない。紹介するのみで僕はそこにナイポールの意志を感じる。ナイポールは、フランスが、ヨーロッパの国々が植民地を手放し、地方主義的な文化に後退してしまった、と言う。

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V. S. ナイポール
1932年、英領トリニダットに生まれる
1996年 妻パトリシアを癌でなくした3か月後、
パキスタン国籍のナディーラと再婚する
2002年ノーベル文学賞を受賞
ナイポールの伝記で、僕がとくに面白いと思うことが二つある
一つは、自分に作家への道を歩ませ、また作家として同志でもある
父の死にたいしてナイポールが葬儀のために帰郷しなかったこと
また、もうひとつは母が、ヴィディアを自慢の息子と思うどころか
あれは息子ではない、と言い放っている点だ
パトリック・フレンチ『世界あるがまま』
Patrick French、The World Is What It Is (2008)より

   コロンブスとロビンソン・クルーソー
   まったく人の手に触れていない世界に行ってみたい、というありふれた人々の夢について、それを実際に大規模に経験し得たのがスペイン人だった。しかし、その経験の真実の姿が見えてくるためには、時間の経過が必要だとナイポールは考える。経験の熱狂を空しくするには、長い時間の経過が必要なのだ。

   アンギラの難破した6000人
   ナイポールは、僕などにはなかなか見えないものを明らかに見せてくれる。発展途上国、第三世界、最貧国、ポストコロニアル社会の人々の思いや現実を読解する文法をナイポールが持っているのだ。その文法とは、一つは宗教にたいする鋭い感受性-たとえばアンギラの大統領が、キリスト再来論の信仰をもっていることを素早く見抜く-二つ目は人種あるいは差別についての感性-たとえば英領ホンジュラスの植民史において初期に入ってきたニグロと後続のブラック・カリブの間には決定的な断絶があった、と述べている-、三つ目はそういう人々の願いと現実、そういうものの磁場を鋭敏に感じ取れるのだ。・・・ナイポールは、僕らには観光客が眺める風景にすぎないものを、その社会の意味の連鎖のなかに案内してくれる。僕らが、時として衝撃をうける事象の背後に隠れているその社会の約束事や意味の広がりについて読解のためのたくさんのヒントを与えてくれるのだ。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

22.V. S. ナイポール『ビスワス氏の家』、V. S. Naipaul, A House for Mr. Biswas, New York 1961, Alfred A Knopf, First published in UK 1961.

『ビスワス氏の家』は、僕が一番好きな小説だ
ナイポールにとっても『ビスワス氏の家』が
作家にとって一番重要な小説のはずだ
そして20世紀という時代を
人々の大量移動と故郷喪失に求めるならば
『ビスワス氏の家』こそが
20世紀最大の傑作であるに違いない


   『ビスワス氏の家』は、僕にはとりわけ愛着深い小説だ。ナイポールのグッとくる本はほかにもたくさんあるけれども、この小説を読んだ頃の僕の生活がどこかこの小説に似ていて特別で運命的なものを感じるのだ。この小説を読んで随分たつけれども、今でもいくつかのシーンをはっきりと覚えている。時々、そんなシーンをふと思い出す。例えば、新聞記者となったビスワス氏がスラム街の取材中、出奔したおじのバンダットに偶然でくわす、ところ。思い起こしてみると・・・バンダットとの会話は、一方通行でどうも通じない。おじさんは、耳が聞こえないのだ。そして中国人の情婦もどうも唖のようなのだ。それに気付いたビスワス氏は気味が悪くなり逃げるように退散する。昼下がりのポートオブスペインの陋巷の雰囲気が気だるくて何ともよい。根なし草小説のなかのさらなる根なし草。僕は、根なし草にある種の憧れと恐れを抱いた。

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▲クナッフ社版『ビスワス氏の家』
この版には、著者による回想的な前書きついていてそれがとてもいい。

   物語は、トリニダットのインド系移民社会が舞台だ。ナイポールの実際の父とおぼしき人をモデルとしたビスワス氏が六本の指をもった不吉な子として生まれる。誕生の儀礼をとりもつパンディット(祭司)は、いくつかの預言めいた忠告を与える。ビスワス氏を水に近づけるな、と。ビスワス氏が牛飼いのアルバイトをしている時、行方不明のビスワス氏を救出しようとした父親は、池に飛び込み溺死してしまう。水とか、牛飼いといったヒンドゥー神話に親しい符牒、父殺のパロディで物語は始まるのだけれども、深刻な事態と周囲の悲嘆をよそに、小牛の持ち主ダーリーが池にはまって溺死した小牛を前に「おいらの小牛、おいらの小牛」と嘆き悲しむさまが僕には可笑しかった。悲嘆の貌は、人さまざまなのだ。

   おおまかにそのあとの小説の展開をたどってみよう。
ビスワス氏は、父が死に一家が離散してゆくなかで、パンディットにところに弟子入りするも不勤厚がたたり破門される。友人のヒントで看板屋になったビスワス氏は、とある商家で仕事を請け負っている時、その家の娘に懸想しラブレターを送る。「君と話がしたい」と。ビスワス氏が彼女と実際に言葉を交わす前に、そのラブレターは一家の女ボス、タルシー夫人のところへ届けられ、ドゥワリー(結納金)をもらえない結婚を強いられるのだ。結婚祝いは、ドゥワリーの現金ではなく、店に売れ残っていた日本製のコーヒーセットだった。ビスワス氏は、シャーマと一緒になって言葉を交わし、彼女の声がひどいダミ声であることに仰天する。後に、新聞記者となってからビスワス氏がものする短編小説の書き出しは「『遁走 M. ビスワス作』  33歳の彼にはすでに四人の子供がいる。・・・結婚という罠にはまり家族という重荷を背負い、彼の青春はとうに過ぎ去ろうとしている。そのような時、主人公は若い女に出会う。彼女は、痩身で白い服を着ている。彼女は初々しく、優しく、処女であり、どうにも子供をもうけられそうに見えない」なのだ。小説は、それから進むことはなかったと、ナイポールは書いているが・・・。
  一家の異端児ビスワス氏は、妻の実家との軋轢を繰り返し、彼の人生の彷徨は続く。チェースでの雑貨屋業は、結局のところ経済的な自立を約束しなかった。ビスワス氏が新聞記者となるのは、試験によってではなく、いくらかの強引さと幸運な成行きの結果だ。記者の仕事は、ビスワス氏にとって充実したものであった。ローンでようやく手に入れ家は欠陥住宅であったが、大家族の桎梏を逃れ「初めて人生で孤独という贅沢を味わう」ことに満足をおぼえる。最終章、ビスワス氏は病に倒れ新聞社を首になる。
   その時のことを作家は次のように語る。
   「ビスワス氏46歳。四人子供がいた。彼には一文の金もなく、妻のシェーマにも一文の金もなかった。シッキムストリートのビスワス氏の家は3000ドルした。そこにビスワス氏は四年間住んだが、ローンの金利はひと月20ドルだった。借地料がそれに10ドル要った。二人の子供は学校に通っていた。年長の二人は、奨学金で国外に留学していたが、ビスワス氏の収入といえば、この二人にたよるしかなかった」

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▲ハヌマーンハウス(妻の実家)のモデルとなった家
「ビスワス氏は、久しぶりにハヌマーンハウスに娘を訪ねる。自分の娘が
学校に通っていることを知りビックリする。顔をあわせた妻は、
ごはんは食べたのか、とビスワス氏に尋ねる」
写真、Patrick French, The World Is What It Isより
 
   小説の粗筋をたどってみても、この本の魅力は伝わらない。あまりにも豊かなディティールに充ちているからだ。そんなことを考えていると、次のようなエピソードが思い浮かぶ。・・・ビスワス氏は、窓からよくものを捨てる。パンディットのところに弟子入りしていた時は、糞にまみれたハンカチを投げ捨て破門される。ハヌマーンハウス(妻の実家)では、「こんなもの食えるか」と言って女房のシェーマが作ったカレーを二階の窓から投げ捨て、それが元ココナッツ売りの義兄ゴビンドにかかり、義兄から半殺しのめにあう。そして、今ビスワス氏は、自分の欠けた歯を窓から投げ捨てようとしている。まるで、何かがおこる前兆をでもあるかのようだ。

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▲シーパサッド・ナイポール
ヴィディアの父であり、ビスワス氏のモデル
愛車のフォード・プリフェクトの前でポーズをとる
ちなみにナンバーはPA1192とのこと
Patrick French, The World Is What It Isより

  クナッフ社版の前書きが僕は好きだ。著者にとってこの小説があまりにも生々しく、この小説に再会するのに20年の歳月を要した、ことが書かれている。キプロス島の旅の一夜、著者はたまたまBBCの海外放送にダイヤルを合わせると、「ベッドタイムの一冊」という番組で『ビスワス氏の家』が朗読されていたのだ。朗読を聞いたナイポールは、涙を抑えることができない。そして、文章は『ビスワス氏の家』の執筆の頃の回想に繋がってゆく。ロンドン北部の屋根裏部屋には、隙間風が吹き込み古い絨毯を揺らす。引っ越しした下宿の娘さんにイニシャル入りのひざかけをプレゼントされたりした。その時のことをナイポールは、人生でもっとも充実し幸福であったが、『ビスワス氏の家』の執筆に性根を使い果たしたとも語る。

   なぜ20年もの間、ナイポールは『ビスワス氏の家』を読み返すことができなかったのか。その20年間は、ナイポールと父との関係を表現している、というように僕には思える。ヴィディアは、父シーパサッドの志を継承する者である。大家族主義、ヒンドゥーの保守主義への反逆者である父に共鳴し父を称賛するとともに、作家として生きる志を父から引き継いだ。作家として生きることにはふたつの意味があった。ブラーフマンとしての生き方の再生、つまりタブーをもたない新しい時代、新しい土地でうまく立ち回り一儲けすることではなく、精神的な価値を顕現させ称揚すること。そして、もう一つの意味は、大英帝国の再編にともなう都合で海外に年季奉公者として流出した同朋の生活と苦難、夢と尊厳を記述・記録し、さらに称賛すること。ナイポールは、それを使命と感じていたに違いない。20年間の空白は、ナイポールが父シーパサッドの志の忠実な具現者、または大いなる成功者である一方で、父の不幸・犠牲・挫折を償うことを自分にはできないと思うところから来ているのではないか。

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19.V. S. ナイポール『ミゲル・ストリート』 (小沢自然 小野正嗣訳、岩波書店、原著1959年刊)

ナイポールは、欧米の読者へのサービスからか
『ミゲル・ストリート』を「ユーモアとペーソス」で偽装する
しかしその根には、暴力と虐待が また苛酷な現実があった
カリプソの題材になるような滑稽な生を
またその生活を活気づける悪態とともに
ミゲル・ストリートの人たちは繰り広げるけれども
主人公の「僕」は、そこから旅立ってゆかなければならなかった
トリニダットの陽光がつくる自分の影
舞台で踊る小人のような影を見つめながら
 

   今回、殊勝にも翻訳と英語の本を並べて読んでみた。まず英語で読み、あとで日本語の翻訳を読んだ。読み落としや、思わぬ勘違いがないか確かめた。思うことはいつも同じで、英語で分からないところは翻訳で辿ってみてもだいだい分からない。よく分からない箇所というのは、英語も難しいが、内容あるいはバックグランドについての知識がものをいう感じだ。

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▲この表紙絵は、アメリカにとってのリゾート地のイメージで描かれすぎてはいまいいか。
カリブ海に浮かぶ島、トリニダットにおけるインド系移民社会へ案内してくれるものは、何も描かれていない。岩波書店には、もう少し誠意ある本づくりを期待したい。
 

   少年の眼を通して描かれた『ミゲル・ストリート』は、「ユーモアとペーソス」にあふれる小説という、ことになっている。とはいえ、「ユーモアとペーソス」の下には、インド系移民社会の厳しい現実と暴力が横たわっている。冒頭のボガードの章は、重婚罪で逮捕される話だし、新聞ばかり読んでいる通りのインテリであるハットにしても、逃げた女房を半殺しにして三年の務所暮らしを食らう。アメリカ兵相手の娼館の主、ジョージの趣味は、子供たちを殴ることであり、他にも女房・子供を殴るシーンは多くて、その種の暴力がまるでトリニダットのインド系移民社会の一つの特長でもある、感じがしてくる。

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▲ヴィンテージ版の表紙写真
Steve McCurry/Magnum Photos
80年代の初めまでは、ナイポールの本は基本的にアオドレダッチ社から出ていた。
アンドレダッチ版の『ミゲル・ストリード』がどんな体裁の本なのか、一度みてみたい気がする。アンドレダッチ版のナイポールの古本はどれもいい値段がついていて、僕には手がでない。僕は、初版本に拘ることはまったくないのだけれども、『ビスワス氏の家』のアンドレダッチ版は、欲しいと思っている。


   ナイポールが持ち出してくる暴力は、作り話ではなく現実であったのだろうと僕は思う。ナイポールが、それらの虐待や暴力をリアリズムではなく、ユーモラスに語ったのは、ひどく苛酷な事態をユーモラスに語る表現の転倒・妙味というよりは、ナイポールの職業作家としての成功への意志を僕は感じる。欧米の読者が求めているものをナイポールはきちんと測定できたのだ。

   『ミゲル・ストリート』を読み進んでいくと、に登場してくる滑稽だが愛くるしい人々が、何でもって生計をたてているのか、不思議な感じがしてくる。あくせく働かなくとも、つるむ仲間がいて、退屈を紛らわせる事件が起き、そんな事件をカリプソで歌われ流行る。そんな風にぶらぶらして生きていけるのなら、それは何とも羨ましい。地上の楽園と言ってもいい。しかし、そんなあり得ない状況にたいして、ナイポールはこともあろうに次のような説明をしている。
「ミゲル・ストリートの奇跡のひとつは、誰も食べるのに困らないことだった。」
あり得ないことだから奇跡と言っているのだろうけれども、『ミゲル・ストリート』はおそらくありえない奇跡を楽しむ小説である、とナイポールは告げ知らせているのかも知れない。

   インド系の現代文学が、好んで試験をテーマに取り上げる。どんな社会でもそれなりの地位につこうと思ったならば難しい試験を突破しなければならない。とりわけまともな生業が限られている社会ではなおさらだ。例外はあるにしてもそれしか選択肢がないのだ。しかし、『ミゲル・ストリート』においては、それも賄賂によっていとも軽々とすり抜けてしまう。ナイポールは、自身の苛酷であった留学生試験の体験を、道化のような振る舞いによって昇華しているのだ。母親がなけなしの虎の子でパンディットに賄賂をおくる。その駆け引きが面白い。何度も試験に失敗した秀才のエリアスは悔しがって「賄賂、賄賂」と騒ぎたてるが、母親は「賄賂も払えないど貧民のくそバカ野郎」と言い返すのだ。

   『ミゲル・ストリート』は、欧米の読者へのうけを狙って「ユーモアとペーソス」によって偽装しているけれども、その根っこには、暴力と虐待が顔をだす。さらに、もうひとつの魅力は、悪態だ。ハットは、ローラを「シェークスピアみたいだぜ」といい、主人公の少年は「大口のろくでなし」とか「あんたの屁に火がつくよ」とか「黒んぼガニマタのあばずれ」といったローラの悪態を「僕がこれまで聞いたなかでもっとも豊かなものがあり、僕はけっしてそれらを忘れることはないだろう」と言うのだ。

   この小説の最後の一行を僕は何度も読んでいるはずなのに、また、その内容を記憶しているものと思っていたが、今回読み直してみて、ある重要なディティールを読みとばしているのに気付いた。つまり、こういう風に言っているのだ。
「みんなを残し、僕は飛行機へと元気よく歩いていった。うしろを振り返ることなく、前にある僕自身の影だけを見つめながら。踊っている小人のような僕自身の影だけを」(I left them all and walked briskly towards the aeroplane, not looking back, looking only at my shadow before me, a dancing dwarf on the tarmac.)

   影が、小人が踊っているようだ、としたところを読みおとしていた。悲痛で感傷的な別れの言葉として故郷トリニダットの陽光が作る影ばかりを想像していた。その影が踊る小人であったとは。別離の主役は、舞台の上で踊る小人のようであったとは。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 学問・文化・芸術

17.ナイポールにおけるガンディーとチョウドリー②、V. S. Naipaul, A Writer’s People; Ways of Looking and Feeling, First published London 2007 by Picador.

ナイポールの2007年に出版された『作家と人々』におけるガンディーと
ニロッド・C・チョウドリーの記述が気になっていた。
今回は、チョウドリーの挫折・屈折に触れつつ
チョウドリーとナイポールに共通するある沈黙について考えてみた。
最後は、ナイポールの辛辣な痛罵に触れる。

   V. S. ナイポールのチョウドリー論を読んで、僕は何か損をした気がしている。ナイポールは、チョウドリーの『驚異の学者―マックス・ミューラー』 Scholar Extraordinary: The Life of Professor the Rt. Hon. FRIEDRICH MAX MÜLLER, P. C. (1974) を下らない本だと言い、それでチョウドリーの本を読むのを止めたのだと言う。その言葉に影響されて、僕は苦労して『驚異の学者―マックス・ミューラー』を読む気を無くしてしまった。でも、本当にナイポールが言うように『驚異の学者』は下らない本なのか。サヒテイア文芸賞の受賞リスト(1975年度)に『驚異の学者』を見てから、また段々と、『驚異の学者』を読んでみたい、という気がしてきている。

   『驚異の学者』がサヒテイア文芸賞を受賞したことは、僕に二つのインスピレーションを与える。何か面白い読み物なのではないのか(インドの人々が小難しいだけの本に賞を与えるとは思えない)、第二に、インドの読書好きの間で評判になり、いろいろな議論があったのではないか、ということだ。どんな議論があったのか想像してみるのは、何か楽しいことのように僕には思える。

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▲ニロッド・C・チョウドリー
1897年ベンガルのキショルガンジに生まれる。
1999年オックスフォードで死す。
チョウドリーの政治姿勢は、ヒンドゥーナショナリズムの右派に近く、
アヨーディアの紛争については、明確な立場の表明を拒否した。

   『驚異の学者』は、マックス・ミューラーという学者についての本だ。そして、チョウドリーは、学者になることが自分の人生の目的であると若くして考えていた。しかし、そもそも学者とは、いかなることをなす人なのか。
   ナイポールは、チョウドリーの願望を充分に意識しながらチョウドリーを学者ではないのだ、と言う。雑多な知識を際限なく繰り出してくるが、専門的な学者としての訓練をチョウドリー受けてはいないのだ、と。ナイポールの鼻持ちならない権威主義を僕は思う。(1) しかし、ナイポールの言い方は挑発的にすぎるとしても、逆にチョウドリーの魅力は、専門家という狭い専門領域に自足しない、あるいは自分の興味にそって自由に動き、自分の頭で考え、それを臆することなく表明するところにある、ということではないだろうか。チョウドリーの著作は、一次資料にあたる地道な読解作業の成果というよりは、様々な学者の学問的著作の再編集の趣が強いとしても、そこには明瞭なチョウドリーの個性があり、それは僕にとって楽しい読書である。また、インドの知識層に対するチョウドリーの著作の影響も侮れないと僕は思う。何よりもチョウドリーの自由と勇気に充ちた個性が貴重だと思っている。  

  
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▲『一無名インド人の自伝』表紙
写真 ラグビール・シン 
南アジアの作家たちの著作表紙に使われることが多いい写真家だ。しかしそれは欧米での出版物について言えることで、インド版では事情が異なる気がする。ラグビール・シンの写真集は、日本でも『ガンジス』が岩波書店からでている


   チョウドリーを世に知らしめた『一無名インド人の自伝』The Autobiography of an Unknown Indian (1951) を読んでいくと、おそらく誰もがある種の戸惑いを感じることになるのだろう、と思う。つまり、この本の前半における父方の村と母方の村、そして自分の育った村を中心にしたベンガル地方の民俗誌的な素晴らしい記述と、後半部分のとってつけたようなインド現代史についての分析的なエッセイの接ぎ木が何とも居心地わるく誰にも感じられるのではないだろうか。独学によって(いわゆる受験勉強とは違った勉強の仕方で入試を突破する)カルカッタ大学に進み学部を卒業するまでのところはいい。しかし、チョウドリーが、もうすでに一頭地抜きん出た大読書家であったにもかかわらず大学院試験の準備を怠り、受験に失敗し就職への道を進まざるをなってからは、ほとんど自分について語っていない。自伝から離れ、インド現代史について語りだすチョウドリーの側の事情をナイポールは、ジャーナリストとしての不遇、およびあまり幸福ではなかった結婚生活が背景にあるのだろうと推測している。

   それにしても、チョウドリーの受験失敗のエピソードは非常に面白く興味をそそる。大学入試試験と同様に、チョウドリーは、いわゆる受験勉強をせず、ひたすら自分の気の向く読書に時間をついやす。チョウドリーは、当時のカルカッタ大学図書館の蔵書に陶然とし、その知的征服こそが自分が挑むに値するテーマであると考えていたのだ。受験対策の必要に気付いた時にはすでに時間がなく、諦めのなかでインド国軍改革についてのアイディアを練るのだ。チョウドリーは大学院の入試に失敗する。その時の父親の言葉もいい。ナイポールは、チョウドリーの不合格を当然ではないかと評論しつつ、チョウドリーがこの失敗にいささかのプライドを感じている風だと付け加えている。

   『一無名インド人の自伝』の後半部における自伝からの逸脱は、チョウドリーのあまり幸福ではなかった人生と重なる。ナイポールは、それについて傑作を台無しにしていると考えている。僕は、チョウドリーの現代史講義も参考になったが(ラーム・モーハン・ロイへの尊崇、カルカッタ・ルネサンスとでも言うべき文化運動の熱気、ガンディーへの疑問など)カルカッタのおけるジャーナリストの生活がどんなものであったのかも知りたいとも思う。
   チョウドリーの空白の後半生をナイポールから指摘されると、きわめて的確な指摘だと思うとともに、そういえばナイポールについてもそういう空白があったはずだ、と思えてくる。その空白とは、三年間のオックスフォードでの留学生時代のことだ。その時代についてナイポールは、何も書いていない。学部卒業後BBCの海外放送部(カリブ海地区)でのアルバイト時代については、繰り返し語っているにもかかわらず、オックスフォード時代のことはただの一言も語っていないのだ。その間の様子がおぼろげながら分かってきたのは、『父と子の間:家族の私信』Between Father and Son: Family Letters (1999)とパトリック・フレンチの『世界はあるがまま』Patrick French, The World Is What It Is (2008)を読んでからだ。それらを通して、ナイポールのオックスフォード時代が当然のこととしてまったくの空白ではなく、時に情熱的に動いていたことが分かる。しかし、それでもナイポールはその時代について口を閉ざすのだ。ナイポールの沈黙への意志が何を意味するのか、単純にナイポールの不幸と結論づけては惜しい気が僕はしている。(2)

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▲V. S. ナイポール『父と子の間:家族の私信』
この本を読んで僕はナイポールの謎の空白期間-オックスフォードの三年間-のことが大分イメージできるようになった。講義の課題レポートの作成に熱心に取り組む姿、金欠のなかで学生どうしのビールパーティを主催したり、アルバイトのこと、また学生会の文芸雑誌の編集に携わったりする。それら大学生活のことをナイポールは、小説の主題としてはとりあげない。
 

   語られなかったことがより雄弁にナイポールにとっての問題の所在を言い当てている、と言いたいところだが、それほど明確な根拠を僕が感じているわけではない。しかし、チョウドリーがMAへの受験の失敗を何か少しのプライドをもって語っているように、ナイポールがオックスフォード時代のことを語らないのも、ナイポールのある種の拘り、プライドが感じられる。それは、文学について自分がもとめる尺度からすると、オックスフォードがナイポールに提供できるものは、教育、あるいは研究であって、ナイポールが考える文学の本質とは無縁であると思っていたのではないか。オックスフォードでの英文学の勉強は、ナイポールが考える文学からもっとも遠いものであった。しかし大学が、人生を考える場所ではないのは、あまりにも明らかなはずだが。

  ガンディーについての前の文章でも触れたように、ナイポールは、途上国における個性の主張を嫌った(『ミドル・パッセージ』Middle Passage, 1962)。それは、社会システムが未熟であるから、人々は個性的に振舞う必要があって、それは未熟な社会を一層混乱させると見ていた。だから、ナイポールにとってチョウドリーが現わす過剰さと逸脱は、否定されるべきものであったのかも知れない。ナイポールは『驚異の学者』を下らない本だと公言し、チョウドリーは学者のふりをしているが何ら学者としての業績をもたないのだと悪しざまに言うのだ。しかし、ナイポールの痛罵は、チョウドリーを未熟で混乱した社会の鬼子にすれば本当に済む話なのだろうか。

  このエッセイ“インド再び、マハトマ以降”India Again: the Mahatma and Afterを読み返しながら、ガンディーやチョウドリーを悪しざまに言うナイポールの見方・感じ方がずっと気になっていた。

   ナイポールは痛罵することを得意とする。ナイポールの痛罵は、親密になろうとする関係を中断し、切断の感覚を残す。相手との距離を広げ確定するのだ。しかし、ナイポールの痛罵には、相手へのシンパシーがないわけではない。シンパシーを感じながらも何かムリして振り切ろうとするところがある。『中心の発見』(草思社、原著1984年刊)において、故郷のトリニダットを旅立とうとしている時の心境をナイポールはこう綴っている。「もう後ろを振り返るまい。(故郷の明るい光がつくる)自分の影を踏んで、前に進むしかない」と。そして、振り返ってみれば、ナイポールの痛罵には、ある種の魅力が充満している。親密なものとの訣別というある種の痛みをともなった魅力をもっているのだ。多くのナイポールの読者が痛罵の魅力を、最高品質の痛罵の魅力を感じているはずだ。
   『自叙伝』を繰り返し読んでいるガンディーについても、『驚異の学者―マックス・ミューラー』で読むのを止めてしまったチョウドリーについても、ナイポールがとる厳しい態度、さらに言えば痛罵については、親密なものを振り切ろうとする何か辻褄のあわないナイポールの意志を僕は感じている。ナイポールの世界へのたいし方は、辻褄のあわないギクシャクとしたものを引きずりながらも、安住をつねに回避するような癖を示している。

(1) パトリック・フレンチのナイポール評伝『世界はあるがまま』によると、ナイポール夫妻は、 ロンドンの自宅でチョウドリーの深夜にまでも及ぶ長広舌にたびたび悩まされたのだという。いかにも起こりそうなことだが、ナイポールはそういった事情についてはこの本『作家と人々』で触れていない。

(2) オックスフォードの3年間についてナイポールは何も書いていない、と書いたあとで、『ものまねする人々』The Mimic Men, 1967のなかに、カリブ海地域からの留学生が、北欧の女子留学生をナンパする話があったことを思い出す。しかし、それもオックスフォード時代のナイポールの生活の焦点をカモフラージュしている文章のような気がする。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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