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113.アダム・ロバーツ『超快速・旬の・究極の国、現代インドの休みなき発明(作り話)』Adam Roberts, Superfast Primetime, Ultimate Nation: The Relentless Invention of Modern India

無題
1.占い師はモディに希望を見出す
ビヒム・ジョシの栖みかは、デリーのゴヴィンド・プリの陋巷にあった。彼は、30年間占い師で食べてきた。インドの未来はどんなものなのか、私は聞いてみた。ナレンドラ・モディが首相になり、インドはおおいに繁栄する、とジョシは占った。…ジョシの預言は、かなりの確率ではずれる。

(インドの今の現実の風景が呼び起こされるとともに、英国風のシニカルな味わいが、随所に顔をだす。どれだけうまく理解できるか覚束ないが、ゆっくり楽しみながら読んでいこう。)

私(アダム・ロバーツ)は、テレビのトークショーでインドの将来について論じさえした。インドのこれからの繁栄を語るのは、今、もっとも好まれるテーマだからだ。
インドの潜在的な力は以前から言われていた。そして、インドに必要なのは、新しいリーダだ、と。…そういう状況においてヒンドゥー至上主義の抬頭は何を意味するのか。ナレンドラ・モディも、その基本は反エスタブリッシュメントである。強くて大衆迎合的(というより民衆に何がうけるかを知っている)な政治家が権力の座を占める、そういう世界的潮流のなかに、モディもいる。

(モディはインドに繁栄を齎すことができるのだろうか、中国のように。)

2.取り残された土地に生きる人々の最近の変化
ヒマラヤの裾野からそう遠くないインド北東部において、アッサム州はとりわけ貧しい。その貧しい土地に、美しいブラフマプトラ川が流れる。そして、今、この土地をヴィーヴェカーナンダ特急が走る。インドを見るには、鉄道に乗ることだ、と言う人がいる。しかし、鉄道の実態はみすぼらしいものだ。鉄道事業の停滞は、インドの停滞を象徴している、かのようだ。ヴィヴェック特急にのれば、インドの停滞の核心が見えてくる気がする。列車のなか、性転換したヒジュラが物乞いをしている。列車はジグザグに南に向かう。その人は、母親をより良い医療を施すために、母親をタミルナードゥの病院まで連れてゆくのだという。小水の悪臭漂うヴィヴェック特急に揺られていると、逆説的に、容易に改革できることは、実に多いと思えてくる。インドは、このような非効率をあらためようとしている。鉄道省の総裁は、鉄道の近代化をインドの経済発展のモデルとしたい、と語っていた。だが、組合は改革には強い抵抗を示す。
(インドの長距離列車に乗るには、ある覚悟が必要だ。チケットの購入が幾分改善されたとはいえ、依然、過酷なものなのだ。だが、あのインドの鉄道列車が快適なものになるとは、私は考えたことすらなかった。)

このインド北東部の孤立した5000万の人々は、50年間、苦しんできた。彼らは、ずっと自分たちをインド人とは思ってこなかった。中央政府の当地に対する補助金は略奪され続けた。だが、携帯電話と格安の航空網が、彼らを孤立から開放し、分離独立のゲリラ勢力を後退させた。出稼ぎによる収入の増大が、ゲリラによる争闘の明け暮れを遠ざけたのだ。極度の貧困の改善の兆しがここにある。


brahmaptra river
ブラフマプトラ川


3.貧困の経済から開発経済へ
インドにおける経済発展が議論される場面で、アマルティア・センが取り上げられるのは、めずらしいことではない。センは、絶望が改革の原動力になりうる、と考えているふしがある。人々の幸福を考えること、つまり絶望的な現実から人々を救いだそうとする試みは、批判に晒されにくい、というセンの計算を考えてしまう。アマルティア・センは、生活と活動の拠点をロンドンにおいて、南アジアの絶望的貧困を論じる。

経済的な豊かさに関して言えば、南インドは際立っている。カルナタカ州の生活水準は、他の東南アジアの諸国とくらべてもひけをとらない。しかし、問題は、その経済的な豊かさの中でも、例えば、乳児死亡率は極めて高いということなのだ。…グジャラートにも豊かなところがあるが、その医療体制はひどい。インドでは、ある種の繁栄を享受しているかに見える地域でも、基本的な社会サービスの欠如が明らかなのである。

スーラト(グジャラート州)は賄賂のない都市だ。スーラトの繁栄を支えているのは、ジャイナ教徒たちに支えられたのダイヤモンド産業である。スーラトの成功は、地方政府の努力によるものだ。スーラトの改革は、モディの登場とは関係ない。

ナレンドラ・モディの目論見は、グジャラート州に多くの製造業を立ち上げることだった。事業家にとって魅力的な利便性のある環境を、モディは用意した。投資家は、モディに近づき、彼は投資家のプロジェクトを後押しした。モディは事業家を遠ざけたジャワハラル・ネルーとは違ったのだ。

郊外の荒地に壮大なビル群を建てようとしている。あるいは、アーメダバードの郊外には、奇妙な名前(“リビエラ・ブルース”)の街を作り、中産階級の人々が住んでいる。
すべてがおぞましい計画というわけではない。グジャラートの事例は、インドの発展と現代化の先触れと考えてよいのか、迷うところだ。

4.会議派の後退とモディの改革
(インドの社会は、経済成長だけでは測れない振幅をもっている。どんな社会でも程度の差はあれ同じかもしれない。が、とりわけインドでは貧困が、実に豊かで様々な表情を見せる。たとえば、祝祭と信仰がそうだ。金はきわめて重要だとしても社会の本質のすべてではない。そこにインドの社会と人々の不思議な魅力がある。)

マンモハン・シンの首相時代(2004~2014)は、それ以前のどの時代よりも経済的には上手くいった。シン首相の功績のひとつは、インド中央銀行の改革だ。有力政治家と癒着した銀行の旧弊を改め、疲弊した地方銀行を立て直し、海外からの投資をよびよせたのだ。シン首相は、非効率な官僚制度を抱えながらも、統一的な税制による均質な市場を整えていった。そして経済はゆっくりと上向いていったのだ。

シン首相は、より率直に国有企業を民営化するという明確なメッセージを発するべきだった。シン首相は、インド航空を民営化したかった。彼は、改革をしくじったのではない。彼は、改革の重大な方向性を十分に理解しながらもそれに手をつけられなかったのだ。

国民会議派の党首ソニア・ガンディーが閣僚の指名や重要な方針を決定しているにもかかわらず、シン首相は、ソニアとの軋轢を、また自らの望みを、無防備に伝えてしまうところがある。

サンジャイとインディラがあいついで死亡するとラジブが四十の若さで首相となった。そのラジブもタミル独立派の自爆テロで暗殺され、ラジブの妻ソニアにところに、会議派のリーダーの役が回ってきた。ソニアは、2004年の総選挙で会議派に大勝利を齎す。が、ソニアは会議派の分裂をまねく。
ソニアは、イタリア北東部の生まれで、父親は、ムッソリーニを支持するファシストの石工だった。ソニアとラジブは、ケンブリッジ大学で知り合ったのだ。

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ソニア・ガンディー

BJP(インド人民党)も早くから経済の改革・開放に取り組んでいた。地道な成果をあげてきた。2014年、インドの人々はとうとう会議派に見切りをつけた。しかし、ナレンドラ・モディ政権の初期の経済政策は貧弱に見えた。モディは、グジャラートでの会議派との争闘と同様に、デリーでもさんざん苦々しい思いをした。自由な市場、民間活力の推進といった彼の政治的掛け声にもかかわらず、最初はうまくいかなかったのだ。独立の事業家などいやしない、みな政府とのコネで財をなしたのだ。賄賂で票を買う政治家に自由経済など関係ない。それでもモディは元気で調子が良かった。新しい政権はシン政権時代の旧弊を粘り強く断ち切ろうとした。モディの激しい行動が、ある程度、贈収賄をやりにくくした。高額紙幣の廃止は、モディの強い意志を示すとともに、政敵の資金源を断ったのだ。

5.インドの新しい産業とハイテク
インドという国が、改革に本腰を入れ始めたのは、1990年代のことだ。締め付けのあとの開放感で、経済は力強く成長した。当時の雰囲気は、十年のうちにインドはまったく生まれ変わり、米国のようになるのだと、多くの人々が信じていた。ただ、インド政府は、東アジアにおける輸出主導の成長モデルをインドが追うことには懐疑的だったようだ。それよりも、人々の生活の基本となるようなものの生産(例えば、電球を作ること)により力をかけたかった。
 
インドにはしっかりしたインフラが必要だし、ビジネスの成長のスピードを奪う規制も多い。ルノーは、インドの車市場と当地での車の製造に魅力を感じていたが、劣悪なインフラが彼らの投資を躊躇させた。フォックスコーン(台湾系、製造請負業)も、インドの豊富な労働人口に着目したが、膨大な書類仕事に嫌気をさしてしまった。

非常にうまくいっている会社もある。一例をあげれば、カジャリアKajaria陶器という会社だ。本業の陶器類の製造だが、余力でクリーンエネルギーの売電事業といった先進的な取り組みを行っているのだ。だが、その雇用はきわめて限られている。
政府主導の産業は、相変わらず、旧態依然とした装置産業が主なのだ。雇用を求める人々の数は膨大だが、雇用はごくわずかなのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが、インドで熟練工を雇うことも至難なのだ。とかくインドでの事業は簡単ではないのだ。

インドで元気な企業というと、一風変わった仕事が目立つ。ティルマラ寺院(南インドのヒンドゥー教寺院群)における毛髪の輸出ビジネスは、寺院を現に富ませている、という。
(参詣者の剃髪の残骸を輸出して儲けているのか。…こんなことが仕事になるのか、といったことで結構ビジネスが成り立っている現実がインドにはある。これらを、インドの後進性とは私はみない。)

豊かで多様な自然(タミルナードゥのバックウォーターやカシミールの雪景色)と人類の至宝ともいうべき豊かな文化遺産をもつインドだが、訪れる外国人観光客は800万人に過ぎない。インドの観光産業には二つのおおきな障害がある。一つは、名所旧跡へのアクセスの悪さ(例えばハンピ遺跡には、バンガロールからでも、特急とは名ばかりの夜行列車に一晩揺られなければ辿りつけない)、また、もう一つは、女性旅行者の安全だ。インドは、外国人女性が一人で旅するには、それなりの用心と覚悟がいまだに必要な国なのだ。

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中世ビジャヤナガル王国の都、ハンピ遺跡

ナレンドラ・モディは、科学を古代に融合させる。『ヴェーダ』には、すでに宇宙探査の記述があるとか、ガネーシャは、古代において成形手術が行われていた証拠だという話を好む。モディは、インドの多くの人々が、神秘主義よりもヒンドゥー教と新しい技術が熱狂することを良く知っている。

モディは、新しい技術が役人や政治家の腐敗を根絶する、と確信しているかのようだ。噂では、モディは、部下や政敵についてハイテクな方法でつねに追跡しているのだと噂されている。また、モディは、自らの選挙戦で3次元ホログラムを使って、素朴な人々を熱狂させたのだ。

今や、かつぎ屋さんにとって携帯電話は必需品だ。あるいは、自家用車を所有するなどという古い考え方に我々は振り回されない、と多くの人々が言う。携帯電話の普及が、弱い通信事情を劇的に改善したように、新しい技術が、弱いインフラを補い発展させる、と。

(インドでは、技術革新が、インドの今の問題を解決する、という信仰にも似た考えが流行している。役所の仕事の効率化を、政治家をめぐる贈賄の根絶を、教育機会の拡大を、技術革新が齎すと。公衆衛生も、都市の公害も、上下水道の整備も、快適に移動できる鉄道網も技術革新が解決する、と彼らは言うのだろうか。)

(つづく)





113.ナタリー・ゼーモン・デーヴィス『トリックスター・トラヴェル』 Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds  

trickster travels book2
1518年夏、フェズのスルタンに使えるアル・ワッザーンが
チュニス沖でキリスト教徒の海賊に拿捕される
アル・ワッザーンが長年怖れていたことがおきたのだ
奴隷として売り飛ばされるかわりに
アル・ワッザーンの知力が彼を救った
法王列席のもとキリスト教の洗礼をうける
ローマでの旺盛な翻訳や著述活動
たとえば『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』を作成し
『パウロ書簡』をアラビア語訳し、
『コーラン』をより正確にラテン語に訳し
また有名な『アフリカ誌』も書き上げる
そして1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪
の混乱のなかアル・ワッザーンは、
ふたたびチュニスに船で逃れるのだ
波乱万丈の生涯と言うよりは、ムスリムのジハートにも
改宗したキリスト教にも一定の距離を保ち
その両者を自由に行き来するトリックスターとしての
アル・ワッザーンにナタリー・デーヴィスは着目する


1.レオ・アフリカヌス;キリスト教に改宗したムスリムの物語!
ラテン語名、レオ・アフリカヌス、通称アフリカ人ジャン・レオン、もともとはハサン・ブン・ムハマンド・アル・ワッザーン・アッザィヤーティと言う。スペインのアンダルス地方グラナダに生まれ、15世紀後半のレコンキスタの圧力でモロッコのフェズに逃れそこで育つ。法学と修辞学を修める秀才だった。だが戦争がアル・ワッザーンの勉学を支えていた学資基金の存続を困難にした。治療院で働くかたわら、学友との交流で独学に励む。
アル・ワッザーンはよく旅をした。役人のおじにつきしたがって、北アフリカやサハラ、またチンブクまで足をのばしている。アフリカの王朝について記録するばかりでなく、その土地のゴシップも収集している(たとえば聖人のスキャンダルなど)。ところで旅は、多くの場合、ムスリム達の得意分野なのだ、ということを思い出す。
やがてフェズのスルタンの外交をになう使者となる。外交官と一言では言えない気がする。なぜなら、アトラス山脈の寒村に赴けば、判事の役も引き受けるからだ。…カイロのマムルーク朝では、正式の接待を受けられなかった。マムルーク朝の関心は、紅海とインド洋のポルトガル勢力にむいていてマグレブはさほど重要ではなかった。イスタンブールにゆくと、セリムはシリアでマムルーク朝攻撃の準備中だった。オスマントルコの高官がアル・ワッザーンを迎えた。アル・ワッザーンは、船でカイロにもどりジャニサリー(オスマントルコにおけるキリスト教徒子弟による最強近衛師団)による略奪の後を自分の目でみる。アル・ワッザーンは奇妙な、割り切れない感情に捕らわれる。
1518年夏、事件はチュニス沖の島の近くで起きる。アル・ワッザーンは、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていた。海賊に捕らわれたアル・ワッザーンは、スペインの支配するトリポリに連行された。身代金を要求できる人物なのか奴隷として売るのか、訊問をうける。アル・ワッザーンのもつ情報が重要であると、トリポリの訊問官(!)は判断する。アル・ワッザーンは奴隷として売り飛ばされる不安を感じながら多くを語り、もしかすると自分を売り込んだのかも知れない。
アル・ワッザーンは、バチカンのサンタンジェロ城に移送される。メディチ家出身の人一倍好奇心旺盛だった教皇レオ5世がアル・ワッザーンに興味をもつのだ。

2.バチカンに移送されたアル・ワッザーンがキリスト教徒に改宗する
1518年夏、アル・ワッザーンは、チュニス沖でキリスト教徒の海賊に捕らわれる。彼は、トリポリで調べをうけたあと、彼の並々ならぬ知識・情報が高く見積もられたのか、バチカンに移送されるのだ。往時のローマは、オスマントルコの圧力、ルネサンスの熱気、ルターの宗教改革に揺れていた。
アル・ワッザーンが捕らわれていたサンタンジェロ城には、ボナベントゥーラもいて、彼についての言及の証拠はないけれども、ボナベントゥーラの噂を聞いていたに違いない。著者のナタリー・デーヴィスは、その同時代性がとても気になるようだ。サンタンジェロ城におけるアル・ワッザーンの扱いは緩やかで一定の自由もあった。バチカンの大図書館のアラビア語本も借りだし読むことができた。
教皇レオ5世との謁見は印象的だ。アル・ワッザーンは、教皇の対トルコへの姿勢を見誤らなかった。レオ5世のトルコへの強硬姿勢に、アル・ワッザーンの影響があったかもしれない。
長引く勾留のなかで、アル・ワッザーンは、自分の行く末を何度も考えたに違いない。ベネチアとチュニジアとの連合で、それに自分が加わることで、自分はもう一度故国に帰れるかも知れないと思った。また、囚人のままでいるのか、奴隷となるのか、という重圧がつねにあったのだ。
1520年、アル・ワッザーンは、洗礼をうける。ソウソウたる名士が証人となった。以降、アル・ワッザーンの強力な後ろ盾となるのは枢機卿エジディオ・ダ・ヴィテルボEgidio da Vitelboだった。彼は、教皇の浪費・放蕩を可能にした財務官だった。
解放されたアル・ワッザーンは、ローマの路上にでた。ローマを歩き、自分がこれまで見知っていた街とくらべてみた。また、さまざまな言語が飛び交うローマに彼は驚き興奮した。そして、彼は翻訳の仕事に勤しんだ。外交文書の翻訳ばかりでなく、『パウロ書簡』をアラビア語訳し、より正確な『コーラン』のラテン語訳も行っている。
アリストテレス学者のアルベルト・ピオAlberto Pioの屋敷を舞台とする当時の知識人との交流が感動的だ。ルネサンス人文主義はアラビア語文献の助けを借りてギリシャの古典の再発見に至ったのだとは、よく聞く話だが、この本を読んで、その実相、具体的ディティールに初めて触れることができた。アル・ワッザーンは、イスラムにおけるイエスキリストのメシアとしての意義を説いた。ピエリオ・ヴァレリアーノPierio Valerianoとは、動物に関するシンボリズについて議論を行った。歴史家のパオロ ジョヴィオPaolo Giovioとは、オスマン朝のスルタン、セリムについての情報交換を行った。ただ、ヴァレリアーノは、アル・ワッザーンとの交流は明らかであるにも関わらず、彼への言及を行っていない。アル・ワッザーンのキリスト教への改宗には、信頼にもとるところがあると判断していたのかも知れない。知に関する同志であっても、信仰上の同志ではない、と。

reo africanus
■1483年頃のスペインのアンダルス地方で生まれ
1555年頃チュニスで没
通称レオ・アフリカヌス
ナタリー・デーヴィスはキリスト教への改宗後、
イタリアで用いていた名、アル・ワッザーンをは好んで用いている

3.アヴェロエスやマイモニデスの翻訳の手助けをする
1524年には、また異人が現れキリスト教徒とユダヤ人による反トルコ連合を提唱し、ローマの人々を騒がせた。ティルベ川の河口で、チュニジアの海賊が教皇庁の船舶を拿捕する事件なども起きた。
アル・ワッザーンは、他のムスリムと接触することは極めて危険だった。
ただ、当時のローマには元ムスリムの奴隷が数多くいた。家事を担う奴隷は、例外なくキリスト教へ改宗させられたのだ。そして、アル・ワッザーンとは異なり奴隷の洗礼は簡単なものだった。ただ、そのような改宗が制度化するのは1520年代のことになる。また、驚くべきことに(いや、当然起こりうべきことに、と言うべきか)、ローマの上流人士の中には、元ムスリムの奴隷との間に子をもうけることが少なからずあった。実際、アル・ワッザーンが住む界隈には有色人種の女主人の家が稀にあり、それは何を意味するのだろうか。
1523年、アル・ワッザーンは、ボローニャを訪れている。絹製品、工芸品が溢れる豊かな街を見て、彼は北アフリカの諸都市を思い比べた。また、アル・ワッザーンはボローニャの大学を見て感激している。伝統ある知の壮大な構築物をアル・ワッザーンは想像したのだろう。だが、ボローニャがアル・ワッザーンに特別な意味を持つのは、ユダヤ人の医師マンティーノとの出会いだ。マンティーノとは、まずペルシャ医学への興味を共有することができた。アル・ワッザーンは、ローマを超え彼のアラビア学を深く豊かにする契機を掴んだのだ。
マンティーノは医師であるとともに占星家であり、そして何よりもアリストテレス哲学を研究する哲学者だった。マンティーノは、アリストテレス理解のためにアヴェロエスやマイモニデスの著作の重要性をひしひしと感じていた。マンティーノは、アル・ワッザーン助けを借りて(アル・ワッザーンは、マラケーシュで、アベロエスの墓を訪ねている)、アヴェロエスのアラビア語で書かれたアリストテレス論を読み、ラテン語に訳したのだった。
アヴェロエスもマイモニデスもアンダルス地方コルトバ出身のユダヤ人だ。生きた時代も重なる(12世紀)。ただし、現代の史家は、二人の交流の可能性を否定する。イスラム圏で抜きんでた知を誇るユダヤ人学者が、アラビア語で著述し、それがルネサンス期のイタリアで研究される。本来はラテン語のテキストも、欧州ではその多くが失われアラビア語の翻訳でしか読めなくなっていた。今では考えにくく、私には錯綜してみえるが、実は、ダイナミックで何とも輝かしく見える。それは、この本『トリックスター・トラヴェル』の重要な主題の一つである。
マンティーノは、アル・ワッザーンを、『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』作成の仕事に招く。アル・ワッザーンは、その仕事を喜んだ。『辞書』は大変興味深いものであったが完成をみなかった、とナタリー・デーヴィスは書いている。だが、より意味深いことは、その多言語比較の研究を通じて、アル・ワッザーンが彼自身による著作(例えば、『アラブの傑出せる人物達』)を書く根本のモチーフを探しあてたことなのだ。   

4.アル・ワッザーンのアフリカ
アル・ワッザーンは、アフリカについての草稿をチュニス沖での拿捕の際にも、肌身はなさず持っていた。アル・ワッザーンのイタリア在留時代は、気の滅入るつまらない仕事も多かったが、それらをこなしながらあの偉大な『アフリカ誌』をものしていった。
アル・ワッザーンは、自ら『アフリカ誌』の原稿を書いていった。イブン・バトゥータの『大旅行記』が聞き書きであったように、イスラム世界では、長いこと、書物は筆耕による聞き書きが主流であった。1526年に彼は少なくとも2部の『アフリカ誌』をつくりあげた。
10世紀の著名な地理学者アルマスーディにとって旅は極めて重要な情報源であった。しかし、彼の関心は、言語・人々・イスラムに限られていたのだ。それとは反対に、アル・ワッザーンの『アフリカ誌』は、地誌であり、歴史書であり、旅行記であり、逸話集などによる混合物なのだった。
興味深いことに『アフリカ誌』には、西欧流の地図はついていない。場所は、ある土地からの旅程であらわされているに過ぎない。西欧の地図は、アル・ワッザーンには馴染めなかった。彼にとって旅が重要なのは、証拠だてるものではなく、彼の人生そのものであり、山と砂漠は、聖なるものと出会う場所だったからだ。
アフリカは、アラビア語でイフキリアという。本来は、チュニスのあたりを指す言葉だった。他方、マグレブは、アラビア語で西の意味だ。ある全体をアフリカと呼ぶようになったのは、ヨーロッパの側からだった。逆に、アウルーファというアラビア語はあったが、当時誰もヨーロッパとは言わなかった。ヨーロッパやアフリカと呼ばれるようになるには、16世紀になってより広い世界なるものが意識されてからなのだ。
アル・ワッザーンは、アフリカとヨーロッパという語を用いて彼の地誌を書き進めた。
彼にとってのアフリカとは、バーバリ(チュニスからアトラス山脈を含む北アフリカ)、ナンビア、リビア、そして黒の土地とを指す。エジプトの捉え方は議論のあるところのようだ(ナイル川と紅海のどちらがアフリカとアジアの境になるか、という問い)。
アル・ワッザーンは、アフリカに住む人々の特長を描く。ベルベル人の源は、地中海岸の白色人種であり、その方言にも言及する。コプト人や、エジプト人について、さらに興味深いのは、北アフリカのいたるところにいたユダヤ人についてアル・ワッザーンが言及することだ。その場合のユダヤ人とは、遥か昔にユダヤ教に改宗したベルベル人や黒いアフリカの人々も含まれる(ユダヤ人とは、ここでは血のつながりではなく同じ信仰をともにする人々の呼称になっている)。
それらアフリカの土地と人々の多様性をアル・ワッザーンは語りながら(たとえばエジプトやコプトやナンビアの乱れたアラビア語について論じる)、他方で、アフリカの統一性を主張する。彼は、それらの人々のすべてがノアの末裔だと言うのである。イタリア人の読者の前で、アフリカの人々の肌の色、隷属性をアル・ワッザーンは直截には語らない。ただ、彼らの祖先がノアであることを言うのだ。彼はアフリカの差異への関心をしめしつつ、最終的にはその統一像に向かう。
未開で野蛮な人々も預言者の教えで、文明化していった。ムスリム特有の「神の祝福がありますように」といった呼びかけや、長たらしい神への祈りを避けながら、預言者への信仰がアフリカを統一する、と言う。これは、イスラムの教えを直接もちださないで、イスラムの教えの卓越を説いてはいないだろうか。いずれにしても、アル・ワッザーンのアフリカとは、ムハマンドの教えによって結ばれた大地なのである。

5.近世初頭の北アフリカにおける宗教の閾を超える性的逸脱について
イスラム教の発生の地、西アラビアの言葉は、非アラブ圏の言葉と接触し変質していった。諸言語の混交は、必ずしもイスラムの文化を破壊しなかった。そしてアル・ワッザーンの取り上げるもうひとつの混交は、性に他ならない。ナタリー・デーヴィスは、性の混交にとりわけ注目している、ように見える。
イスラム法では性的交渉は正式の結婚、あるいは合法的な奴隷との場合を除いて罪となる。ただし、ムスリム男性は経典の民である自由民のユダヤ人女性、キリスト教徒の女性を都合4人の妻のうちにもつことができた。また、自らが所有するユダヤ人の奴隷、キリスト教徒の奴隷との性的交渉を持つことも罪には問われなかった。異教徒の奴隷との間にできたこどもは、自動的にムスリムとして育てられた。他方、ムスリムの女性は、同じムスリムの男性としか結婚できなかった。また、ムスリムの女性は、奴隷との性交渉は許されなかった。ムスリム法とは対照的に、ユダヤ人とキリスト教徒の法では、性交渉の境界は厳格に閉じられていた。ラビによる法では、結婚、および性交渉はユダヤ人に限られるのだ。キリスト教聖典および教会も、非キリスト教徒との結婚・性交渉を例外なく禁止した。
しかしながら、それらの境界は、実際には流動的なのだと、ナタリー・デーヴィスは言う。とりわけ宗教の閾を超えた性行為は、例えば、キリスト教王国であるアラゴン王国では、キリスト教徒やユダヤ教徒の男達は、マイノリティであるムスリムの女たちと交渉をもった。その女達とは、奴隷、娼婦であり、自由民もいた。さらにそこでは、自由民のキリスト教徒とユダヤ教徒の女達が、ムスリムの情夫をもつこともあったのだ。無論、この「性的逸脱」は、処罰の対象である。
アル・ワッザーンは、ムスリム統治時代のグレナダやフェズでの日々を回想する。そこでは、ムスリムの夫がキリスト教徒やユダヤ人の妻をもつことは決して珍しいことではなかった。そして、イスラム教もユダヤ教も禁止していたことだけれども、ユダヤ人の男達は、ムスリムの娼婦のところに通った。ところで、アル・ワッザーンは、北アフリカおよびイタリアにおける梅毒の感染・猖獗は、ユダヤ人の娼婦がキャリアーになっていたと見ているようだ。
ナタリー・デイヴィスは、分かりやすい結論を書いてはいない。が、シロートから言わせれば、要するに、人間の性的な営みは、宗教という枠組み・対立・掟を軽々と越えてしまう、そして、深刻な偽の宗教対立に喘ぐ現代において、人間の根源的な営みである性を歴史的に見つめなおすことは、人類の和解、寛容、再生にむけた重要な視点を提供しているはずだ、と思えてくる。

6.トリックスターとしてのアル・ワッザーン
アル・ワッザーンは、友人をむち打つ話と住みかを変えて税を免れる鳥の話を好んだ。
友人をむち打つ話というのは、ある男がむち打ち刑の判決を受けるのだが、そのむち打ち刑の執行人が実は友人で、男は友人の執行人に同情を期待する。友人の執行人は、情け容赦なくその男を打つ。男は、鞭打たれながら叫ぶ「友よ、お前は友にこのような仕打ちをするのか」と叫ぶのだ。それに対する執行人の言葉が面白い。「友よ、我慢してくれ、私は行うべき義務をはたさなければならないのだ」と答える。
また、税を免れる鳥の話はこうだ。
「昔一羽の鳥がいた。その鳥は丘でも海でも生きていけた。鳥たちの王がくるまでは、空で仲間とともに暮らしていた。王が現れ税の支払いを求められると、その鳥は即座に海に飛んでゆき、魚にこう語りかけた。『私を知ってますよね。いつも一緒だったのですから。あの怠け者の王は、税金を払えと私に言うのです。』魚は、その鳥を歓迎して受け入れた。鳥は、魚たちと快適に暮らした。すると今度は魚の王が現れて税の支払いを鳥に求めた。鳥は、すぐさま水の中から飛び出し、鳥たちのところに戻ると、同じ話を語った」
上記のふたつの寓話について、ナタリー・デーヴィスは、その変遷やルーツやらの込み入った考証をおこなっている。彼女の結論は、それこそがトリックスターとしてのアル・ワッザーンの本性を語っている、と言うのだが、少々分かりにくい。ここでは、ナタリー・デーヴィスの論を離れて、アル・ワッザーンがこのふたつの寓話を好むところを私なりに想像してみたい。第一番目のむち打ちの話は、義務は友情に優先する、と解釈できる。この場合の、義務とは、職務への義務であり、アル・ワッザーンの場合の職務は、学識の追及であるから真実を語ることへの義務と考えられる。真実を語ることが非常に重要で、それは友情にも勝るものだ、と。
税を免れる鳥の話は、土地やそこの人々に固着する義務は、二次的な義務である、ということだと考えたい。アル・ワッザーンは、『アフリカ誌』において、アフリカの人々の徳と悪徳を語る。その際、アフリカ人の悪徳については、自分はグラナダ生まれなのだといい、グラナダの人々に良からぬ点があれば、自分はそこで育ったのではないと言う、のだ。
むち打ちの寓話と税を免れる鳥の寓話のふたつを結び付けると、土地に縛られず、すなわちそこの人間関係に流されず、真実を語ることの重要性が浮かびあがってくる。土地とその人々への関与を免れながら、真実を語ってゆく、あるいは行動してゆくところにアル・ワッザーンのトリックスターとしての特性があるように思えてくるのだ。
ところで、以上のいささかこじつけに過ぎる解釈はさておき、もっと単純にその挿話を味わいたい。とすると、鳥が税を免れる話には、もっと違った面白さがある。つまり、義務を免れる弁解そのものの物語、あるいは何ものにも属さない自由の感覚がそこにはある。なんだかんだと屁理屈をいって義務を免れる輩、それはある共同体にとって敵かも知れないが、しかし、そういうものが明かす真実があり、また共同体にとっても逆説的に有意義な存在となる場合があるのだと思えるのだ。
ナタリー・デーヴィスの論に戻ると、アル・ワッザーンは、実に自由にヨーロッパと北アフリカの間を、キリスト教とイスラム教の間を行き来する。ただ、アル・ワッザーンは、どうちらの側にいても、一定の距離を保ち過渡の関与を避ける。北アフリカのスルタンに対しても、イタリアの教皇勢力にも一定の距離を保ちつづけた。彼は、反コンキスタドールの戦いに参加したことはあるが、ジハートという観念に熱狂したふしはない。そのような相対的な立場の取り方がユニークなのだ。そしてそれは何に由来するのだろうか、ということを考えてみたくなる。…ナタリー・デーヴィスは、アル・ワッザーンが義務を放棄し、相対的な位置取りをつづける彼の姿勢について、彼が三度の侵略・虐殺を目撃している、ことを強調する。一回目は、1517年、イスタンブールからの帰途カイロに敢えて立ちより、オスマントルコ帝国によるカイロ略取、とりわけジャニサリー(キリスト教徒子弟による最強近衛師団)による住民への略奪を目撃する。二回目は、1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪(こうだつ)(このどさくさの後にアル・ワッザーンは、チュニスに船で逃れる)、最後は(これは、証拠はないのだが)、1535年の神聖ローマ帝国カール5世によるチュニスの攻撃と略奪だ。
アル・ワッザーンのトリックスターとしての本性には、侵略や略奪や虐殺に結びつく深刻さがない。悪知恵や悪企み、するりと責任や義務を躱してしまう狡さはあっても、究極の惨劇には向かわない。硬直した対立や憎しみとは無縁な、ある種楽天的な駆け引きがあるのだ。

natarie zemon davis
■ナタリー・ゼーモン・デーヴィス
1928年米ミシガン州デトロイト生まれ
『帰ってきたマルタンゲール―16世紀フランスのニセ亭主騒動』
(平凡社ライブラリー)ほか

7.アル・ワッザーンの沈黙
歴史(学)は、想像するヒントを提示してもらえれば十分であって、あまり説明をしてもらいたくない、と思うことがしばしばである。そのような考えに似て、歴史(学)における沈黙が魅惑的に思える時がある。ナタリー・デーヴィスのこの本も、きわめて明確に、アル・ワッザーンの沈黙に注視する。
まず、アル・ワッザーンは、1518年夏の、キリスト教徒の海賊による身柄の拘束について沈黙する。彼は、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていたがこの事件について沈黙するのだ。ついでに言うと彼の拘束については、オスマントルコのスレイマンのところに届いていた。また、改宗・洗礼についても、すぐにベネチアに伝わった。彼が、身柄の拘束について沈黙するのは、恥辱と感じたためだろうか、あるいは身の安全のためだろうか、分かるようで良く分からない。
アル・ワッザーンは、クリスチャンとしての自身について何も語らない。彼のキリスト教信仰への沈黙が、彼の改宗が偽装であることの証左である、と言うのは容易だが、それをいくら言っても、アル・ワッザーンの実態の本質は明らかにならない。
アミン・マアルーフの小説『レオ・アフリカヌス』(服部伸六訳、リブロポート)では、ドイツ人の青年がマルチン・ルターの教説をアル・ワッザーンにぶつけ、意見を引き出そうとするが、そこでもアル・ワッザーンは、新教への興味を示しはしない。
アル・ワッザーンは、アフリカはトンブクトゥまで、東はメッカを超えて中央アジアまで、欧州ではフランスまで行っている大旅行家である。しかし、バルトロメウ・ディアスの喜望峰(1448年)の発見には沈黙する。ポルトガルがバチカンに贈ったインド象がローマの街をねり歩いたのだから、ポルトガルのインド洋侵出を知らないわけがないのだが彼は沈黙するのだ。
アル・ワッザーンは、多くの女(性)たちについて語った。白い服を着た母、アフリカの女(性)、ユダヤ人の娼婦、アトラス山地の女(性)、また、女(性)たちのつけるヴェールについても言葉を費やした。ただし、フェズに残してきた彼の妻については何も語らないのだ。
そしてアル・ワッザーンにおける最大の沈黙は、1527年のチュニスへの帰還以降のことだ。帰ってきた背教者の立場は非常に厳しいものだったことは容易に想像される。なにしろ彼は『コーラン』をラテン語に訳したのだ。つまり神の言葉を異教に売った。ナタリー・デーヴィスは、17世紀フランス人旅行者の記録を引いて、アル・ワッザーンの難しい立場を推し量っている。結論は、もしアル・ワッザーンに有力な後ろ盾がなければ、斬罪されていただろう、と。他方で、1535年、カール5世によるチュニスの攻略では、アル・ワッザーンが通訳として働いた可能性がある、とナタリー・デーヴィスは推測するが証拠はない。また、ナタリー・デーヴィスが残念がるのは、アル・ワッザーンが予告していたヨーロッパとアジアについての本はついに世に出なかった、ということだ。いずれにしてもイタリアにおける多産な知的活動と、チュニス帰還以降のアル・ワッザーンの沈黙の意味するところは極めて興味深い。
この本の終章は、アル・ワッザーンをラブレーに引き寄せて、論じている。それは、暴力によって分断された現代を、ふたたび多様性ある寛容な秩序を取り戻す探求のように見える。
2019, 5/11

#112 ニール・ムケルジー“モディのインド”(タイムズ文芸付録、2017、8月11日号)Neel Mukherjee、Midst of a whirlwind in Times Literary Supplement, August 8th, 2017

インドに行くたびに、インドが中国のような経済大国になるのは、人々が期待し騒ぎたてているのとは違って、一体いつのことだろう、と思うことが多かった。この書評を読むと、その感覚は私だけのものではなく、様々な視点から議論されているテーマなのだ、と知った。.

ニール・ムケルジーは、アダム・ロバーツの本について(Adam Roberts, Superfast, Primetime, Ultimate Nation, The relentless invention of modern India、2017)シャープだが好意的に紹介を書く。この本は、新聞や雑誌の記事にするには、きわめて複雑なインドの今について、西洋人(A. ロバーツは“エコノミスト”前南アジア特派員)が書いた本なのだ。そしてこの本のいいところは、英領インド、あるいはポスト・コロニアルといった意識とは著者が完全に切れていることなのだ、とムルケジーは言う。

アダム・ロバーツは、真正面から重苦しい現実・真実に向かいあう。たとえば、仕事の創出についていえば、新しい産業による働き口はわずかで、旧態依然たる重工長大産業が、わずかな働き口を仲間うちで分け合っている、という現実を見逃さない。調子のいい政府発表(モディの政権になってからより顕著になった)など信じない。経済の停滞の具体的証拠を―中断した建設工事、未完のプロジェクト、静まりかえった商店街、行き場の失った失業者による軍隊、未整備のインフラ等々、を数えあげていく。

モディ政権が発表する統計のウソを見抜くのはそれほど難しないが、モディはイメージ戦略にたけている。モディが2012年の選挙で大勝したのは、3次元ホログラムを用いた選挙戦術が功を奏したからだ。複数の選挙演説会場で、モディが同時進行的に自分の分身を登場させたのだ。仕掛けは単純なものだが、地方の文盲の多くの有権者を熱狂させた。モディが優れた国家指導者かどうかは別にして、インドの大衆の好みや望みを的確にとらえているのだ。

モディが掲げる市場主義経済への掛け声には反対の余地はあまりない。つまり、政府の市場への関与を極力抑え、民間の企業活動を活性化させようとするだ。だが、その市場開放はインドの現実においてどんな意味があるのか、とロバーツの本は問題にする。端的に言い切ってしまえば、巨大国家インドの足もとには、許認可をめぐる腐敗と非効率が横たわっている。
他方で、ロバーツは、インドの現実は、自由な市場、規制緩和という以前の問題を抱えている、と見る。たとえば、健康保険制度についていえば、インドでは、従来より民間の制度・ジネスのみであったのだ。その民間保険会社の補償が確かなものではないうえに、その日暮らし的なインドの国民の大多数にとって、それをさらに規制緩和して、どうしようというのか。さらに、先進国においても、規制緩和の難しい領域において、「自由市場による経済の活性化」と言っても滑稽なばかりでなく、一部の強欲な者のみを富ますのは明らかだ。

ロバーツの問題意識は、つづめて言えば、中国における経済の成功とインドにおける失敗なのだ。そこで、中国にあってインドにないものは何なのか、を彼は問う。彼は、それを一種の独裁(authoritarianism)と見る。悲劇は、インドの人々が、インドに欠落している独裁という一種の強権をモディに求めてしまった、ことなのだ。それもよりによって、つい最近までアメリカへの入国を拒まれていた人物(2002年のグジャラートにおけるモスリム虐殺へのモディの関与をアメリカ政府は問題視していた)にインドの将来をたくしてしまったのだ。

ヒンドゥー至上主義のペテン師は、人々をだますことには巧みであっても、国家経済における奇跡を起こすことはできない。
2019, 5

102.山中由里子『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』(名古屋大学出版会、2009年)

アレクサンドロス変相『クルアーン』“洞窟の章”における二本角
ズ・ル=カルナインが 一体誰なのか 
という錯綜した謎解きから始まる本書は
遠い初期イスラームの共同体の記憶から
様々の“書物の道”をへめぐって
中世イスラームにおける
宗教的のみならず政治的な含意をもつ
アレクサンドロス像にいたる
この大きな歴史の流れ、彷徨う表徴は
アレクサンドロスの東征にも似て
多様な諸文化の影響をとりいれながら
多元的かつ独自の文化を特長付ける
それは なにか見知らぬもうひとつの
巨大な世界の発見のような興奮をもたらす


   S. スブラフマニヤムの“テージョ河からガンジス河まで―十六世紀ユーラシアにおける千年王国信仰の交錯―”(“思想”、2002年5月号)という論文は、とても難解だが実に味わい深い。驚くべき歴史の襞、つまり見慣れた歴史の風景とは異なる歴史を想像させる。それらの記述の中で、近世初頭の千年王国信仰が、実にさまざまな思想潮流と表徴を取り入れて普遍王国を待望するという見方が興味深かった。とりわけ、イスラームの千年王国信仰にはアレクサンドロスが重要な位置をもつ。そこではアレクサンドロスが、野蛮と闘う征服者として、また、占星術をよくする予言者として現れるのだ。
   イスラームにおけるアレクサンドロスの再現前は、何とも魅力的なテーマに思える。その成り立ち、機能や広がりのことをもって知りたいと思っていた。そのような関心を気づき始めたとき『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』という本を知り、興奮をおさえながら読んでみた。
    この本を読むとアレクサンドロスは、スブラフマニヤムが触れている以上に、地域や歴史の異なる局面で実にさまざまな顔を現し変身してゆく。しかもアレクサンドロスの“変相”は、まことに雄大で歴史上の大スペクタクルをみるような感興を覚える。
 一例をあげると、本来は敵国の王であるはずのアレクサンドロスがイランの英雄になってしまうのだ。
    アレクサンドロス(ペルシャ語ではスカンダル)はペルシャ王ダレイオスを打ち破り、死にまでも追い詰めたはずなのに、ダレイオスの子となり、イランの英雄になってしまう。この“変相”をお膳立てするアレクサンドロスの出生譚が傑作なのだ。つまり、ダレイオスは、マケドニアの王フィリポスの娘を娶るのだが、彼女は強烈な悪臭の持ち主で(敵国の王の娘の獣性と少しの嘲笑を私は連想する)結婚後しばらくして国本に返される、だがその時すでに彼女は身ごもっていた、そしてその子、つまりアレクサンドロスは、フィリポスの子として育てられたのだ。だからダレイオスが重臣の裏切りで殺害されると、アレクサンドロスは瀕死のダレイオスに「王のこのような死を私は望まなかった」といい、ダレイオスの最後の言葉を聞きとげる。

  この本は、古代の英雄アレクサンドロスが、イスラーム世界で実に豊かな表徴として結実してゆく「書物の道」をたどる。その系統や結合やヴァリアントを明瞭に思い描きながら読み進むことは難しい。しかし、この種の学術書は、普段馴染みの少ない古典テクストを、断片的とはいえ、原文の雰囲気を感じなら読めるのがとても楽しいのだ。アレクサンドロスの遠征におけるインドへ向かうくだり、またインドの賢者との頓智問答などもそうである。
    二本角(アレクサンドロス)は、屍を食する賢者のいる島で宴に招かれる。宝石を盛った金・銀の器を示され「汝が求めているものはこれであろう。このために汝はこの世を彷徨っている。だがこんなものは飢えには何の役にも立たないのだ。我らから一体何を得ようというのか」。二本角はインドへと去る。
    インドの賢者との対話につながるこの導入部は、アレクサンドロスの望み、究極の目的を疑問視しているところがとてもいい。
インドの王の使者が現れると、二本角は「牛油」の入った鉢をおくる。使者は、それに無数の針を刺して返す。今度は、二本角がその針を黒い焼鍋に入れて送ると、使者はその鍋を磨いて返す。このやり取りを二本角はひとつの知恵くらべであると説くのだ。

    ところで、多くの民衆が、中世のイスラーム世界で、どうアレクサンドロスを思っていたかは分からない。そうではなく、極端な生真面目さで、書物に記されたアレクサンドロスの顔の変遷を、この本は検証してゆくのだ。例えば、七世紀のイエメンに生きたワフブの著『王冠をいただいた君主の書』には、ユダヤ系アレクサンドロス物語とムスリム遠征伝説の結合が見られる、と書く。また、十二世紀ペルシャの詩人、ニザーミーの『アレクサンドロスの書』では、アレクサンドロスは遠征から戻るとメッカに詣で預言者として再出発する。“史実”をあざ笑うかのような想像の跳梁に心躍るのだが、それらの“変相”をペルシャ・アラブの古典的テクストのうえに辿ってゆくことは、研究者ではない読者にとっては、ため息がでるほど錯綜している。それでもこの複雑な流れは、表徴としてのアレクサンドロスの豊かさであるかも知れない。
   少し込み入った話になるが、イスラーム世界におけるアレクサンドロスの驚くべき再現前は、実は、以下のような流れによるところを見ておきたい。
その源流は①古代ユダヤ教において神の国を齎すメシアとしてのアレクサンドロス、⓶イランもしくはゾロアスター教における善と極悪の両義的な存在としてのアレクサンドロス、あるいは③偽カッリステネスの「アレクサンドロス・ロマン」(アリストテレスとの交流物語もここに含めるべきか?) としてのアレクサンドロスがあげられる。それらの流れの中にある寓話のもつ興味もさることながら、やはり感動するのは、諸文化の混交あるいは錯綜の豊かな表情なのだ。初期イスラームの古い記憶は、しばしばユダヤ系の賢者との交流や対立に結びつく。あるいは、往時のローマ帝国におけるアレクサンドロスとアリストテレスとの交流の説話がイスラーム世界に還流する。少し飛躍して言うと、固い一一枚岩というようなイスラームのイメージ(私の無知)に修正をせまる多様なものの混交を強く感じる。
 
    逆の見方もあった。広くイスラーム世界で二本角(ズ・ル=カルナイン)と表現されるものが、実在のアレクサンドロスとは何の関係もない、という主張だ。イスラームで言われる二本角(ズ・ル=カルナイン)あるいはアレクサンドロスは、史実のアレクサンドロスとは無関係な、アラビア半島の民間伝承にすぎない、と。
    だからこそ『クルアーン』十八章、“洞窟の章”における記述が、つまり二本角(ズ・ル=カルナイン)がアレクサンドロスであるのかないのか、という考察が重要なのだ。
    この話も一筋縄ではいかない。粗筋をたどると二本角は、①アレクサンドロス、⓶ペルシャの王、③古代南アラビアの王、④神の僕、預言者と考えられてきた。十九世紀の終わり、この錯綜した議論に一応の終止符が打たれた。すなわち、『クルアーン』の二本角のくだりは、アレクサンドロスに関するシリア語のキリスト教伝説に酷似している、という発見があったのだ。この決定的に見えた説についても、その後、留保がつき修正されてきたが―シリア語のキリスト教伝説と『クルアーン』の“洞窟の章”は、親子関係ではなく、ユダヤ系伝承を親とする兄弟関係だとする―『クルアーン』における二本角がアレクサンドロスを指すのはほぼ間違いない、と著者は言う。

    アレクサンドロスは変相していく。変相とは何なのか。……大いなるものは、死しても、姿を変え甦る、いや、違う、少なくともアレクサンドロスの場合は、そう、アレクサンドロスの意志や事業が蘇ることはない。アレクサンドロスが変相して現れるのは、後世の者たちが、アレクサンドロスの伝承を利用・活用するためだ。利用・活用に悪や錯誤は関係がない、むしろ都合のよい変相の妙味を味わっていれば良い。真実価値深いのは、後世において様々に利用・活用されるほどにアレクサンドロスがゆたかな表徴に満ちている、ことなのだ。だが、この本は、その変相の表情よりはその根拠を求めている。



91.田辺明生『カーストと平等性』(東京大学出版会2010年)、長田俊樹『新インド学』(角川書店1998年)

カーストbbb
インドに関する二冊の本についてのノート
『カーストと平等性』は
オリッサ州のある村における
ラーマチャンディ女神祭を通して
各カースト間にわたる「補完と矛盾を含む相互作用」
としての「存在の平等性」を浮き上がらせる
『新インド学』は
サンスクリット語と『ヴェータ』による
西欧におけるインド研究を振り返りつつ
それとは違う 多様なインドの魅力を語る



   アミット・チョウドリーの小説などを読んでいると(たてえば、A Strange and Sublime Address, 1991)、家族と下働きは、仕事・生活の領分は違っていても同じ家族の一員であるかのように分け隔てなく遇していて、とても穏やかで暖かく、カーストとはどこの国の話なのだろう、としばしば考えさせられる。最近は、カーストを差別と抑圧の装置と考えるのは慎重でなければならないと思うのだけれども、『カーストと平等性』という本を手にとってみたのは、そのような問題関心があったからなのだ。
  『カーストと平等性』という本はとても面白い。
副題に「インド社会の歴史人類学」とある。この本は、歴史人類学というものを、歴史学への人類学的視点の導入というようには限定しない。歴史研究と文化人類学におけるフィールドワークを、実際に、同時に行ってしまうのだ。勇気と実行力に驚嘆する。オリッサ州クルダー地方の近世史を、つまり一次資料にあたる歴史研究(貝葉文書の解読)と、その地におけるフィールドワーク(オリッサ州ゴロ・マニトリ村、人口3552人、1992年現在)を実地に行う(著者の当地でののべ滞在年数は5年におよぶ)。

   貝葉文書の「発掘」の記述が気持ちをそそる。
   その貝葉文書とは、18世紀、クルダー王国の会計官僚が、マニトリ村落について記録したものだ。その後、一族は貝葉文書を大切に保管した。現在も秋の大祭で人々がこれを礼拝する。だが今、それら文書の内容を村の人は知らない、という。筆者によるその読解の手つきは「きつく絞った濡れ布巾で、貝葉にこびりついた汚れを丁寧に取り除(くと)……、鉄筆で刻まれた文字が青く浮かび上がる。それでもなお読みにくい書記文字(karani)を、郷土史家の助けを借りながら何とか解読し写しとった」(91頁)というようなことなのだ。それは、膨大な時間と根気のいる仕事だった、ようだ。

   それらの貝葉文書の解読は、マニトリ村のカースト別人口表などを明らかにしてゆく。18世紀におけるオリッサ州クルダー地方のカースト制のあり様を、たとえば戦士カーストの流動的な動態について、つぎのような結論を得る。戦時におけるカースト間の協力(391頁)、つまり職分はカーストのみによらず軍事労働市場によって(114頁)、地域共同体が役割分担して兵力を維持した(88頁)、と考えるべきなのだ。

   植民地政府と近代化が、カースト制から柔軟性を奪いそれをひどく固定的なものにした。植民地政府は、支配のために上位カーストを優遇した。18世紀におけるクルダー地方の真の支配者は、ジャガンナータ神であったにもかかわらず、である。そして植民地政府は、土地測量に多大のエネルギーと時間をそそいでいくのだ。土地を、供犠を中心にした奉仕と分配の土台ではなく、租税徴収の目的に矮小化してしまった。

   ラーマチャンディ女神祭祀の記録と読解が圧巻である。
ゴロ・マニトリ村では、9月、10月の頃、17日間ものあいだをかけこの秋の大祭を執り行う。「おおいなるものに仕える」協業のあり方と「殺し分けて食べる」ことの供犠の進行とが鮮やかに語られる。トライブ民(先住民)や不可触民が、はじまりの供犠獣・鶏の命をたつ。だが、雨乞いの儀礼においては彼らの姿はない。また驚くべきことに、ムスリム住民の参画も仕組まれているのだ。

   著者は、おもにデュモン(『ホモ・ヒエラルキクス』みすず書房2001年がある)や新ホカート派(ダークス、ラヘンジャ、クイグリーとある)のカースト解釈を、このラーマチャンディ女神祭祀における供犠をつぶさに記述しながら、検証する。そこに見えてくるのは、デュモンのバラモンを最上位とする硬いヒエラルヒーでも、新ホカート派の宇宙の中心にある王の権力に根ざす支配構造でもなく、各カースト間にわたる「補完と矛盾を含む相互作用」としての「存在の平等性」なのだった。「存在の平等性」とは、ここではいわゆる哲学テクストにおける存在論の抽象的な平等ではなく、供犠儀礼に象徴的に表されている協業のあり様・存在の仕方における平等性である。

   この500頁をこえる学術書は、綿密で労を惜しまない研究書である以上に、希望の書なのである。それはオリッサ州のある村の人々の希望であるとともに、何か物足りない今の日本に向けても希望である。つまり著者は、均質性と近似性という調和を求め続けてきた近代国家のモデルに対して、差異を認める「カースト・イデオロギーの創造的変容」(ヴィーナー・ダース)を対置させる。……これは、インドの魅力そのものを言い当ててはいないか。

   『カーストと平等性』と『新インド学』とは、具体的な内容のうえで共通項をもたない。しかし、同じ志、方向性をもつ本なのだ。インドへの新しい、というよりは多くの人々がインドに惹かれる素朴で衒いない感性の側にたっている。『新インド学』は、そのことを気付かせてくれる本なのだ。とても貴重な認識なのだと思う。

新インドbbb

   ヨーロッパとインドは特別な絆で結ばれている。バクトリアのいにしえのギリシャ人植民国家ばかりではない。言葉においてもそうなのだ。
18世紀におけるインドの古典語、サンスクリット語の発見は、ヨーロッパの偉大な作家・文人たちを興奮させた。彼らはサンスクリット語による経典や物語に魅了された。サンスクリット語にヨーロッパの諸言語の故郷を夢想したのだ。ヨーロッパでのそれらの知的なうねりをオリエンタル・ルネサンスと呼ぶ。ヨーロッパにおいて多くの偉大な作品が、オリエント・ルネサンスの息吹のなかで創造されたことを、もっと意識しなければならない。E. サイードならば、それを帝国の幻想の側に収めてしまうかも知れないが…。

   インドについての研究は、長いことサンスクリットによる文献の研究に他ならなかった。我が国でも仏教研究がサンスクリット語によるインド研究を後押しした。しかし、『カーストと平等性』も『新インド学』も、サンスクリット語の文献ではなく、インドの多様な言語のなかに全力で入ってゆく。『カーストと平等性』においてはオリヤー語が重要であり、『新インド学』ではムンダ語(東インド、ジャールカンド州域に広がりをもつ)なるものが紹介される。彼らはサンスクリット語の呪縛から自由である。

  『新インド学』は、それでも第一章から第三章までは、ヨーロッパのサンスクリット学の話である。それは、ウイリアム・ジョーンズ(1746-1794)によるカルカッタのアジア協会の設立から始まり、西洋の東洋への憧憬が語られる。アジアに係ったパイオニアたちの知的興奮、情熱、個性、伝記を知ることは実に楽しい。

  「アーリヤ人侵入説」に関する章は、よりアクチュアルな問題を提議する。それは、ヒットラーの第三帝国におけるアーリヤ民族の優性のデマゴギーに結び付く。また、「アーリヤ人侵入説」への反論は、現在のヒンドゥー・ナショナリズムと相性がいい。このような問題状況にあって、この本から初学者が学びうるものは少なくない。

   結論だけを要約する。「アーリヤ民族のインド征服」は、現在の考古学はそれを認めない。「征服」についての証拠―あるいは痕跡でもいい―がないからだ。例えば、遺跡から発掘された人骨や栽培植物は何らの非連続・事件も明かさない。マックス・ミュラー(1823-1900)が語った「征服」、殺戮破壊をともなう一斉大挙の侵入はなかったのだ。だが、その一方で、現代の言語学は、インダス文明から現代にいたるまでの南アジアの言語・文化の非連続を言う。ひとつには、古代インダス文明の言語はドラヴィダ系言語である可能性が高いからだ。インダス川から北インドに広がるインド・アーリヤ語族の話し手の存在と繋がらない。著者の結論は段階的な小規模の移住はあったのだろう、ということだ。
   ところで、ここで興味深いのは、異なる言語の遭遇と混交状態は比較的短くて数十年と考えられる、と著者はいう。戦闘ではなく、手振り身振りをまじえたやりとりがバイリンガル状態をつくり、やがてあらたな形の言語による地域ができあがる。それはつねに平和的ではなかったかも知れないが、たとえばヒンドゥー語の始まりに言葉が通じない人々の暗中模索の姿を思い描いてみることは、「アーリヤ人の侵入」よりは、遥かにリアルで豊かだ。いずれにしても、アーリヤ語族(人種ではない)による南アジアへの侵入、先住民族の征服についてのイメージは、大幅に修正されなければならない。

   こみいった議論はさておき、今、この二冊の本についてあらためて考え始める。この二冊の本が、心を打つものであるのは、そのまっすぐな実践遂行力が土台にある、ことではないだろうか。『カーストと平等性』でいうと、著者は夫婦でオリッサ州の村に住みフィールドワークを行った。『カーストと平等性』には、夫婦で取り組んだ、なんとも言えない落ち着きがある。また、『新インド学』の著者長田俊樹氏は、ムンダの人を妻にした。やはりそれはすごい。未知なるものへの探求・愛がもっとも貴い、という魂を感じる。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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