107.ヴィヴェク・シャンブハグ『ガチャール・ゴチャール』(2017年刊)、Vivek Shanbhag,, Ghachar Ghochar, translated Srinath Perur, published by Penguin Random House, New York in 2017.

ghacar bookつましく暮らしてきた一家に
新しく起こした会社のすみやかな成功は
幸福というよりは何か不気味な不調和を
家族にもたらした
コーヒーハウスで多くの時間を
過ごすだけの無気力な主人公は
家族が豊かになってゆく現実に
違和を感じているようでもあり
終始 傍観者のようでもあり
捉えどころがない 
だが 家族の今の繁栄を妨害する者が
あきらかになると 無意識にその者を
抹殺したのかも知れないのだ
この小説は豊かになっていくインドの
深い不安を表明しているに違いない


   この小説は何か不気味な通奏低音をもっている。その不気味な靄を除くと、ある一家に起きたごくありきたりの物語なのだ。リストラによる父親の失職、叔父の会社ソーママサラ(香辛料の卸業)の立ち上げとそのすみやかな成功、姉マラーティの離縁と実家への出戻り、幸福だったアニタとの結婚と軋轢など、ごくありふれた出来事が続く。しかし、何かが不気味なのだ。南インド、バンガロールの街や通りに降り注ぐ日差しはキラキラ輝いているはずなのに、薄い靄がいつもかかっているように見える。

   小説はこのように始まる。
「私」はコーヒーハウスと皆が呼ぶ店のテーブルに腰かけ、ただ通り過ぎる人々を見ているのだった。そこのウェイター、ヴィンセントとのちょっとした会話が「私」には何よりも心の慰めだった。その日は、前の恋人チットラとしばしば座ったテーブルに女が座っていた。その女のところへ男が現れると、女はその男をいきなり殴りつけた。二人に何があったのか、と「私」は訝る。チットラのことを思い出す。チットラも、さっきの女のように、「私」を良く厄介払いした。チットラは民生委員の仕事をしていて、夫の暴力や横暴に苦しんでいる女たちの話を「私」にするのだった。「私」は、その男たちの罪を、自分が負わなければならないような気持で聞いたのだ。彼女との最後の会話を思い出す。姑に深夜家を追い出された嫁、夫もその虐待に加担したのだ、と。
 
 なぜこの「私」は、日がな一日、コーヒーハウスで暇をもてあましているのだろうか、と疑問が湧いてくる。この男は、遊んで暮らしていける裕福な家の子息なのだろうか、少し違うように見える。というのは、遊んで暮らしていける結構な境遇以上に、この男につきまとっている暗い影が気になる。深い喪失感がこの男を包んでいる。この語り手はまるで死人のようなのだ。そして、民生委員の彼女の虐待の話を、どうして自分の責任と考えなければならないのかが、分からない。何か調子が狂い、安定を失い、底知れない不安に主人公は苦しんでいる。

   学校を卒業すると「私」は叔父のヴェンカタチャラに勧められるままにソーママサラに入った。しかし、その叔父の会社で「私」は働くことはなかった。「私」の一日は、朝起きてシャワーをあび、コーヒーハウスに行き、それからソーママサラの事務所にゆき、新聞を端から端まで読み、またコーヒーハウスに立ち寄り、ヴィンセントと会話を交わし、家に帰ってくる、その繰り返しだった。……「私」の最初の給料で、母は、新しいサリーを買うことが夢だったが、ソーママサラの成功が母のそんな夢を忘れさせたのだ。

 ヴェンカタチャラの会社ソーママサラの成功には、ある種非合法な雰囲気がある。その秘密のノウハウを叔父は一人占めしていて、家族の者にも明かさない。叔父に退職金を出資した父も、初めソーママサラで働きだすのだが、何かを嗅ぎ付け身を引いた。叔父は、家族のものに給料を存分に支払うが、会社で働くことを好まなかったのだ。叔父はいい人ではなく悪人なのだ。だが、叔父はきわめてまともな精神のもちぬしだ。苦しみ、精神のバランスを崩しているのは、その悪のビジネスの当事者ではなく、そのおこぼれに与っている傍観者の「私」のほうなのだ。この構図が、この小説に不思議な味わいを与えている。

 いくつもの読み応えのあるエピソードが続く。だが、それらのなかで、とりわけ印象深いのは見知らぬ女が家に訪ねてくる場面だ。彼女は、家の外で、叔父を待つ。家の者は、彼女が家の中を覗っていることに気付いている。長い時間がたってとうとうその女は、家のドアをノックし、叔父がいるはずだが会いたいので取り次いで欲しい、と母に言った。母は不承不承取りつごうとするが、叔父に来客をつげると、叔父は、会いたくない、居ないと言ってくれと言う。あからさまな居留守だ。母は、叔父はいないというと、女は抗弁するが母はとりあわない。女は、叔父の好物のレンズ豆のカレーを持って来たのだと、差し出す。姉のマラーティが「この売女」と罵り、そのカレーをはねのける。地面に彼女の手作りのカレーがぶちまけられる。「私」は、彼女の叔父への愛情は、本物だと思う。その愛情を足蹴にするこの家の女達を「私」はどうすることもできない。妻のアニタはこの事件に深入りせず遠くから見ていたが、家族の非道をのちになって非難するのだ。そして、叔父の商売についても、警察にすべてを告げなければならない時が来る、と言うのだった。

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ヴィヴェク・シャンブハグ
カンナダ語作家
カルナカタ州アンコラに生まれる
マイソールで工学を修める
パンカジ・ミシュラが近年もっとも
注目すべきインド人作家という

 妻のアニタが里帰りすると、家の雰囲気が少し違ってきた。昔のように皆してお茶を飲み世間話に盛り上がった。水入らずということか。昔住んでいたところに住む教師のムンジャナトゥの話に及ぶ。ムンジャナトゥの女房は、若くて元気だったのに突然の死んだ、とても不自然だ、と。すると、夫に殺された以外に考えようがない、と母は言う。その殺された女と妻のアニタの不在が何か重なりあって行くようなのだ。
そして小説は、ウェイターのヴィンセントに「お客様は手洗いが必要かと存じます、手についた血液を洗い流した方が宜しいかと」と言われ、主人公がはっと我に返るところで終わる。
 
   叔父の商売の成功が一家を狂わせた、と考えるのは慎重でなけれなならない。つまり、貧困を美化してはならない、と思うのだ。しかし、この小説は、豊かになってゆくことで(あるいは慎みのない豊かさ中で)失われてゆく何かとても貴重のものについて執拗に語りかけてくる。あるいは、人の道を外れた過剰な豊かさに、底知れない不安を感じているのかも知れない。……この小説は、豊かになりつつあるインドのある現実について、その不安と疑問をストレートに問いかけている、と私は考える。愛を繋ぎとめようと心を込めて手作りしたレンズ豆のカレーを突き返すような怖ろしい時代にインドは入りつつあるのかも知れない。

   ところで、小説のタイトル“ガチャール・ゴチャール”は、この小説を読めば明らかになるのだが、それには何の意味もない、二人の、幸せの符丁なのだ。それもまた、ものに溢れた豊かさでではない何か、あるいは汚辱を知らない慈しみを、作家は呼び戻そうとしているように思える。

106.ニール・ムケルジー『自由の国』(2017年刊)、Neel Mukherjee, A State of Freedom, published by Vintage, London in 2017. (first published by Chatto & Windus in 2017)

images_20180327123128a61.jpgまた、すごいインドの作家を発見した
作家はニール・ムケルジーという
『自由の国』という本を読んだのだ
この本には、シュールレアリスム的な作品や
いささか難解なモノローグ小説も収められている
だが、放浪する熊使いの物語や
両親の家の料理人の物語は
分かり易いばかりでなく、抜群に面白く
とりわけ熊使いの物語は傑作に違いない
にわか旅芸人の無一物の旅と、
ささやかな子熊との心の通いあい(のように思える)に、
真実泣けてしまったのだ




   それはどこからやってきたのか、どうしてそこにいるのか誰にも分からない。あれは何なのか?犬なのか?犬にしては大きく、鋭い爪をしている。それが小熊だと分かるまでに少し時間がかかった。…というようにその物語は始まる。母親が魔女であると噂のあるラクシャマンは、その小熊に芸を仕込んで旅にでて金を稼ごうと思いつくのだ。焼き鏝(ごて)で鼻に引き縄を通す穴をあけ、牙を打ち砕いた。この場面は、民俗誌でも読むように詳細に、客観的に描かれる。しかし、小熊は容易には踊りをおぼえない。ラージゥ(小熊の名前)を連れて村の道を歩くと、村の悪童は石を投げ、犬は吠えるのだった。ラクシャマンは、小さな声で小熊に語りかける、「踊れ」と。叩き棒と人参でダンスを仕込もうとするのだが、それを木の上の猿がずっと見ていて、ラクシャマンは、猿が人参を狙っているのだと用心する。
 どうにか小熊にダンスを仕込むと、ラクシャマンは大きな祭りを待った。
 五十三匹の羊を犠牲に供する祭りの進行についての描写がまた見事だ。羊の頭は、一太刀で切断されなければならない、さもなければ、十三年にも及ぶ厄災が村を襲う、と人々は信じている。この祭礼が、この小説の筋を忘れたかのように、生き生きと描かれる。ラクシャマンも、ここでどう金を稼ぐのか、というよりも祭りの興奮で頭が一杯になってしまう。
 ラクシャマンとラージゥは、腹をすかしながら旅を続けた。ラクシャマンは、子熊の他には何の持ち物も持たないようなのだ。着替えも洗面道具もなく、それは一種人間の生存の極限を描いているようでもあり、また、何物にも拘束されない自由でもあるのかも知れない。……道端の店でビスケットを買うのだが、子熊を見せ値切ろうとラクシャマンは思いつく。ラクシャマンは、子供を熊にのせて稼ごうとか、商売のコツを少しづつ考えだしてゆく。
 村に入ると、熊がめずらしいのか子供達の列がすぐできた。生意気そうな少年が前に進み出て、子熊のダンスを見るにはいくらなんだ、と聞く。ラクシャマンが決めかねていると、お前は値付けもできないお貰いさんか、と嘲笑う。そして、その子供はそれは熊ではない、犬だと叫び、石礫を投げ付ける。その一つがラクシャマンのすねを強打する。ラクシャマンは、子供らを追い払うと、途方もない疲れをおぼえ、こんな遠くまで来て、オレは一体何をしているのだろう、と嘆息するのだ。
 ひもじく厳しい放浪が続く。暑い空気は、炎のように感じられた。夜になると、少し涼しい鉄道線路のところで休んだ。ラクシャマンは思うのだった、この熊と自分は何ら区別するところがない、と。ふと気が付くと、不思議なことに、ラージゥが彼の後ろからついてくるのだった。言葉少なに語られる、ラクシャマンと子熊との親し気な関係がとても心に響く。
 モンスーンが近ずきつつある頃、二人はとある門前町(ヴァラダプル、カルナータカ州?)に辿りつく。寺院の司祭は、ラクシャマンとラージゥを見ると侮蔑の表情を顕わにするのだった。だが、司祭は子熊のダンスを所望し、金曜日の朝に参詣の人々が多く来るのだとラクシャマンに言うのだった。参詣の人々は、神々へ祈るとともに、珍しいものを見て楽しむ。ラクシャマンも今度ばかりは首尾よく商売に成功し安堵していると、司祭がお布施を要求してくるのだった。シヴァ神への捧げものを拒むのかと司祭に詰め寄られラクシャマンは司祭に大枚を吸い取られてしまう。ラクシャマンの呪いの言葉がいい、司祭の頭を砕いてそれをシヴァ神に捧げたい、と。
 雨が降り出した。二人は、旧国営企業の今は廃屋となった社宅にもぐり込んでいる。雨漏りで水たまりができ、ネズミが走り、また、別の潜入者もいるようなのだ。ラクシャマンは、稼いだ金をとられないか心配でたまらない。郵便局で金を送れるということを聞いたことがあるが、どうすれば郵便局で金を故郷の村に送れるのか分からない。
 晴れ間をねらって、二人は、大道芸ができる場所を探して当てもなく歩く。とある学校に行きつく。そこでは、何かのイベントが進行中だった。スピーカーからはヒンドゥー映画の流行り歌が流れ、菓子売り、風船売り、飲みもの売りが露天をかまえ、舞台では着飾った少女がリハーサルなのか、ちょっと躍ると笑い転げている。少女達が、先生達が、警備院が忙しくたち働いている。子熊のラージゥも異常なほどの興奮している。そこで、ラクシャマンは随分儲けることができた。金をとってキュウリやピーマンを子熊が食べるところを見せたのだ。皆がそれを見て拍手喝采したのだ。コールドドリンク売りから、これは学校の創立記念行事なのだと聞かされる。
 この喜ばしき祝祭の終わりには、二つの喜ばしからざるオマケがつく。三日間ラクシャマンがしっかり稼いだ家(廃屋)への帰り、ラージゥに芸を仕込む時に手ほどきをうけたプロの動物使いがどこからか現れ、手ほどき料の残金を払わされる。そして、四日目にこの学校をラクシャマンと子熊ラージゥが訪ねると、わずかに後かたずけをする者だけの寂しい校庭を見るのだった。祭りの後のこの何もない感じが、私はとても気になる。

無題
ニール・ムケルジー
1970年ベンガルに生まれる
ジャダプール(カルカッタ近郊)大学卒業後、渡英
オックスフォード、ケンブリッジ、東アングリア大学などで
高等教育をうける
複数の文学賞を受けている
現在、ロンドン在住

   結局のところこの物語に感動し、語りかけてくるものは何なんだろう、と考える。ラクシャマンの無一物の放浪は、少し心が通う生命がそばにあれば(子熊のラージゥ)それ以上のものはすべて余剰のものであり(それは愛と呼ばれるものの原型か)、長い人類の時間の流れにおいては、人は腹をいつも空かしてほっつきあるくことしかしてこなかった、とも思えてくるのだ。ラクシャマンの無一物の厳しい放浪の生活にあって、便利で贅沢な暮らしのなかには無くなってしまったものが確かにあり、この小説はそういう厳しいが自由な生への郷愁なのか、とも思う。安全や安心を求めているうちはいい、しかし、それがかなりの確度で手に入った場合、さらなる安心や安全を求めることにどんな意味があるのだろう。厳しい毎日とたまた出会う祝祭の興奮と幸福感、それが人間の生を根本において条件付けているものかも知れない。この小説における祝祭は、即物的な過酷な生にとってのみ輝いている。
   だが、他方で、贅沢な暮らしを当たり前と思って生きている者が無一物の放浪にもどることはできない。もうそこには戻れなとすると、何とも不幸な贅沢を人々は耐えて生きていかなければならないのか、とこの小説を読み終えて考えるのだ。人は安心を何より願うが、安心だけでは充実した生は得られない。
(H30,3/31)

105.U. R. アナンタムールティ『ヒンドゥー至上主義かガンジー主義か』(2016年刊)、U. R. Ananthamurthy, Hindutva or Hind Swaraj, translated from the Kannada by Keerti Ramachandra with Vivek Shanbhag, published by Harper Perennial, India in 2016.

hindutva or hind swaraj
これは、カルナタカの大文豪U. R. アナンタムールティ
によるモディとヒンドゥー至上主義に対する抗議の書
である。ここで言う抗議とは、この言葉のもっとも深く
て重い意味にとらなければならない。つまり、
アナンタムールティほどに、ヒンドゥーの極度の洗練と
問題点を描きつきつめた作家はいないからである。
ヒンドゥーの深いところからの、いわゆるヒンドゥー
至上主義への批判の書なのだ。以下は、この本についての
幾分私的なスタイルの要約と抜き書きである。
括弧(……)内は、私の意見・感想、あるいは補足説明である。 
                 
                
 

 モディの選挙結果について、どう見るべきか。悲劇ではあれ、一家族によるインドの支配から解き放たれた。
 グジャラートの暴動で殺された者たちは葬儀もされなかった。にもかかわらず幽霊となって誰にとり憑くこともなかった。暴動によって引き起こされた死者は、車にはねられた子犬のようなものだ、とモディは発言した。暴動は、勝手な振舞をする者への手っ取り早い教えなのだ、と。
モディの勝利は、ガンディーを殺害したゴドセ的なものの再来である。サヴァルカール(1883-1966)、ゴドセ、モディの系譜はあまりに明らかだ。
 モディは、今のインドの中産階級の欲求を代弁している。
 モディは、メード・イン・チャイナをメード・イン・インディアにしたいだけ、なのだ。
 グローバリゼーションとは、インドが安い労働力を提供すること。しかし、それよりも重大なことは、グローバリゼーションが場所性の喪失となることだ。(ヒンドゥー至上主義が大好きな)シバージーは、終始、地域の人、田舎者であったのだ。そして、さらに開発は過去の記憶を抹消する。
                   *
 ガンディーの暗殺者ナードゥラム・ゴドセは女の子として育てられた。(私の知るインドは過渡に男子を有難がる。それなのに、なぜ、ゴドセは女の子として育てられたのか)。
 ゴドセの最終弁論は注目に値する。ゴドセは言う、自由に考え多くを学んだのだ、と。マルクスもガンディーも読んだ。ガンディーの非暴力は、あまりに宗教的な理想である。ガンディーは、あらゆる宗教が欠陥を免れない、のだと考えた。だが、ゴドセはガンディー殺害の正当性を言い張った。
                   *
 ゴドセ、モディの源流を作ったのは、サヴァルカールだ。
サヴァルカールは、血のつながったヒンドゥーがヒンダスを作ると言い張る。ヒンダスは、土地に結びついた人々ではなく、血のつながりなのだ。
 サヴァルカールは、古代への称賛を繰り返す。真理を求めるブッダの生涯が、苦悩に満ちたものだったのの反対に、陶然と古代に埋没する。サヴァルカールは、英国植民地下において現に生きる人々の苦しみを見ず、インドの古代の栄光で現実を糊塗する。
                    *
 イスラームの侵入は、この国の民衆にはほとんど影響を及ぼさなかった。だが、サヴァルカールはヨーロッパにおける国民国家に似たものを夢想する。
 サヴァルカールはヒンドゥーの本性(Hindutva)を1923年に提唱した。BJP(インド人民党)がサヴァルカールの説くヒンドゥー・ナショナリズムを受け継いだ。会議派自体が、サヴァルカールの考えを薄めたものだった。ジャワハルラル・ネルーは、ガンディーのヒンドゥー・スワラジ(自治自立)に批判的だった。ネルーは、ガンディーのアシュラムで生活するのはごめんだと言った。(私もガンディーのアシュラムでは生活したくない。しかし、ガンディーは、少なくとも、アシュラムでの生活を他人に強制はしていない)。会議派は、ガンディーのストイックな自然主義からの解放を願い、ガンディーのエコロジー思想も厄介払いしたかったのだ。会議派がもてあましていたガンディーを、サヴァルカールに心酔していたゴドセが消したのだ。ガンディーがもう十年生きていたら、会議派はさまざまな現実についての選択の苦悩を味あわなければならなかった。だが、今、モディが、ガンディーを最終的に始末したのだ。
                    *
 ガンディーは、ナショナリズムに対して非常な警戒心をもっていた。ガンディーの最後の断食は、ナショナリズムに対する抗議だった。ガンディーとタゴールは、国民国家という考えを受け入れなかった。他方、会議派のネルーは、ナポレオンを称賛し、モディの口癖は国家利益だ。(国益の前で個人は何が言えよう。だが、国益に反しても個人は発言し続けなければならない。それが逆説的に国益になる。国益による個人への締め付けは愚かなやり方である)。モディの勝利は、インドの連邦制の理念の放棄に他ならない。インドは、インドという国家体制を必要としない。ガンディーは、村々が武装するような国を考えていたのだ。発電所のために農民の土地を取り上げてはならない、少数部族民を食べさせているのは森である、とガンディーは考え続けた。
                    *
 自分の足で歩いて旅をする者はもういない。我々の祖先は、自然との調和の中で生きる謙虚さをもっていた。原初、人々は食べるものに事欠かなかった。それをためこむことによって変化が生じたのだ。ガンディーの理想の追求を、モディは完全に打ち砕いた。会議派の腐敗が、モディ躍進の背景にある。
                    *
 我々は、善なるものと悪なるものとの闘いを自らのうちに認めなければならない。その意味で『罪と罰』におけるラスコーリニコフは忘れがたい人物だ。
 (ラスコーリニコフは、悪を処断することは悪にはならないはずだという仮説を実地に試してしまった。しかし殺人は違う。殺人はその理由によって正当化されえない領域を含む。そのような正当化してはならない試みにインドは、今入りつつあるのかも知れない。ヒンドゥー教は、それらの殺人を含む魅力ある悪の試みを、むしろ代替する装置であるのだが)。
 繰り返しになるが、我々自身のうちにある悪が問題なのだ。ヒンドゥー教における罪は、個人的な ものではなく、すべての生けるものの罪なのだ。非暴力の日常を送るインド人が暴力を求めている。今、そのような状況に私たちは立ちあっている。
 (暴力を求める人々の願望がモディの選挙を勝利に導いた。アナンタムールティは、我々自身が持つ悪は、根源的であるがゆえに宗教が取り組むべきテーマと考えている。だが、モディは、それとは知らずに、その制御されなければならない願望・衝動を政治のパワーに変換してしまった)。

104.アニタ・ナイール『女性専用車』(2001年刊)、Anita Nair, Ladies Coupé, published by Penguin Books India in 2001.

ladies coupeバンガロールからカニアクマリに向かう
女性専用車両で
そこに居合わせた女(性)たちが
それぞれの半生を語り合う
平凡な主婦は 夫なしでは何もできないと嘆く
横暴な夫に復讐する高校の化学教師
リッチで活力ある宝石商の妻
祖母の生き方と事件的な死を語る少女
下働きの労働を続けるなかで
性に翻弄された下層出身の女(性)
語り手アクヒラはそこに様々な回想を織り交ぜる
父親の突然の死があり 
家族のために犠牲となったのだ
封印したはずの年少者との恋愛が
再び激しい欲望となって現れる
これは質の高い娯楽性と
社会的抗議をあわせ持つ 問題提議の小説である
このような小説をむさぼり読む
インドの娘達・女(性)達の顔が 目にうかぶ


小説は、主人公のアクヒラがバンガロール・カントメント駅に立っているところから始まる。駅の雰囲気を伝える描写とディテールがいい。暑さは髪にさしたジャスミンまで汗ばむようだと、言う(異形の徴か)。駅舎は多くの人でごった返し、こんなに大勢の人が列車に乗れるのだろうか、と彼女は不安に思う。暇な警官が大型スクリーンのTVを見ている、走りまわる子供たち、線路に散乱するごみ、トイレの悪臭、赤いターバンのポーター、等々、インドの鉄道駅の光景が伝わってくる。家族に見送られる男、きっと男はボンベイへ出てそこから中近東方面の国に出稼ぎに行くのだ、そして、家族の期待と重圧をアクヒラは思う。家族の幸福のすべてが、この男の出稼ぎにかかっている、のだと。

 アニタ・ナイール『女性専用列車』は、バンガロールからカニアクマリ(コモリン岬に近い)に向かう列車のコンパートメントにたまたまで乗り合わせた六人の女性が、それぞれの半生を語り合い、それによって女の生き方、あるいは女の存在とはどのようなものかを問う、フェミニズム小説だ。ただ、アニタ・ナイールのフェミニズムは、出来上がったイデオロギー臭さが些かもなく、素朴な手つきで女の生き方を本気で考えているところが、好感がもてる。乗り合わせた女に半生を語らせる小説の枠組みは、初め古臭くも思えたが、語りは、インドならでは女(性)のおかれた諸相を、自然かつ秀逸に描き、引き込まれるようにして読んだ。

 物語の始まりは、父が突然亡くなった、ことなのだ。そのとき語り手のアクヒラは大学進学の準備をしていた。学業優秀で、一族のうちで初めて高等教育を受ける者になるはずだったのだ。アクヒラは、父の事故死が自死であると確信するにおよんで、アクヒラの悲しみは怒りへと変わっていった。三人の弟と妹はまだ幼なかったのだ。アクヒラは、葬儀では少しも泣けなかった。母は、人の目を気にして、泣いてくれ、とアクヒラに懇願するのだった。……父は、税務署に勤める堅物だった。賄賂を受け取らないので有名だったのだ。それでも、母とアクヒラは父の昇進をずっと待ち続けた。その父が母と四人の子供を残して、すべての重荷から逃れるように、突然、逝ってしまったのだ。ただ、父を煙たがった役所は、父を殉職とし、アクヒラを税務署の事務係に採用した。最後に、役所は温情を示したのだ。

 賄賂を拒む清廉潔癖な人物を、インドの現代小説が好んで描く。たとえば、ウダイ・プラカーシの“そして最後に祈りを”(『ウダイ・プラカーシ選集』大同生命国際文化基金ん)などが印象的だ。彼らは、正しいことをしているが組織では孤立している。そのような人物像は、現実には存在しえない極めて理想的なヒーローなのか、あるいは、実際にそのような清廉潔癖な人がインドの諸組織には少なからずいて、その報われない不幸が作家たちを惹きつけ救済を試みさせるのか、私には、よく分からない。この小説におけるアクヒラは、理想を貫き得なかった父、大胆に現実に処することができなかった父に対し批判的だ。だが、アクヒラが家族を飢えと路頭に迷わせないのために高等教育も、愛も、結婚も、職業もすべてを諦め、弟と妹を育て上げたとき父について何を思ったか、かなり複雑なものがある。ここに、アニタ・ナイールによるフェミニズムについての真摯な問いがある、と思う。家父長制の色濃いインドの社会いおいて、その弊害を事上げするだけではなく、その重い責任を引き継がなければならなくなったとき、フェミニズムはどのようなことが起こるのか、を問い考えているからだ。

 コンパートメントの自分の席にどうにか落ちつくと、アクヒラは、様々なことを脈絡もなく回想する。父親にまったく従順で家事に勤しむ母や、つましい生活のこと、愛し合う夫婦の子はそれほど幸せではない、というようなことを思うのだ。そうこうしているうちに、列車は、カニアクマリを目指しバンガロールを発っていく。
 ほぼ席がうまったコンパートメントで、話の口火を切ったのはアクヒラだった。アクヒラが未婚であることが知れると、一同は驚き、女は一人で生きていけないとか、仕事をしているのか、とか、いいえ、男に頼らない生き方こそ価値があるとか……、話が盛り上がる。フェミニズム小説の序章にふさわしい導入部だ。だが、居合わせた女(性)たちのそれぞれの女の生き方は、この導入部を遥かに超えて深くて細部が豊かだ。

高齢の女性はジャナーキといった。彼女は、長いこと、夫を受け入れることができなかった、と語りだす。しかし、息子が成長し、学校でテニスの優勝杯を持ち帰ってくると、幸福を感じたのだ、と。これといった不幸もなくやってきた、と思っている。夫がたてる物音を家で四十年間ずっと聞き続けたのだ。嫁がカンに触ることもあるが、それは歳の功で荒らげずにきた。気がつけば、夫なしでは何もできない自分だった。夫は、別の車両にのっている。ジャナーキという平凡な主婦について、女流作家は否定も肯定もなく、ただ静かに眺めている感じだ。それはアニタ・ナイールという作家の知性なのだろう。

 高齢のジャナーキの隣には、可愛らしいところがあるが、鋭い目付きで人を観察する女(性)がいた。彼女、マーガレットの鋭い目付きは、ある種の人間不信をあらわしている。彼女は、高校の化学の教師で、夫がその高校の校長なのだった。夫は、はじめ魅力的で理想の伴侶に思えたのだが、実は、横暴で出世のことがすべてに優先させるような人間だったのだ。夫の生徒指導は、鞭を使った体罰ではなく、生徒が好むことを禁じる、極めて悪性なものだ、とマーガレットは見ていた。そんな彼女が妊娠する。すると夫は、いつまでも少女のようでいてくれとマーガレットに泣きつき、子供を堕ろさせたのだ。そこから、マーガレットの夫に対する復讐の劇が始まる。その復讐は、多くの女(性)にとっては、ユーモラスなはずだ。

 裕福な宝石商のマダムは、結婚式に出席するためにコッタヤムに行くところだ、と言う。彼女は、プラッバ・デヴィといった。デヴィは、水泳を習う話や(それはインドの今の中年以上の女(性)にとって、古い因習を打ち破るチャレンジなのだろう)、不倫未遂の話を語った。彼女は、裕福で精力的で奔放だ。ただ、彼女の話は、アクヒラにとって興味深くはあるが、心の琴線に触れるものではない。プラッバ・デヴィの積極性と活力を憧れはするが、アクヒラが望むものは違う。……一旦皆が寝閉まると、十四・五歳になる少女が、コンパートメントの六番目の席に着く。父が別の車両にいる、と言う。アクヒラと少女は小さな声で語りあう。少女はシーラという今風の名前だった。シーラは臨終間際の祖母に会いにいくところだった。もう一人の父方の祖母についてシーラは語りだす。祖母の生涯・願い・信条について語るのだ。誰か自分以外の人のために生きるのではなく、自分自身を生きなければならないと祖母は、考えていた。年配の女(性)たちのフェミニズを作家は手繰り寄せようとしている。病院ではなく、自宅のベットで死にたいと願っていた祖母は、退院の日、帰りの車の中で具合が悪くなった病死した、というよりは、穏やかに息子の手で殺害されたのだ(と私には読める)。祖母にとってそれは幸福な死であったはずだとシーラは言う。……高校教師のマーガレットは、自分自身のために頑張ってね、という言葉を残しコインバートルで降りていった。

 アクヒラは、夜行列車で眠られず回想を重ねる。……アングロインディアン(英国人とのハーフ)の親しい同僚に卵の味を教えられた。高位カーストに属するアクヒラにとっては、勇気のいる破戒行為だった。アクヒラは自分の殻を破って行こうとする。他方で、母とはささやかな楽しみをアクヒラは共にしたのだ。月一回の外食や、ティルムラヴァイールのシヴァ神寺院への参詣、たまにタミール映画も見にいったのだ。母と娘との行動は、なぜか心そそるものがある。ささやかな現にある幸福を、抱きしめているようかのようなのだ。この世における深い愛なのかとも思うのだ。そんな母が、サラサ・マミをバス停で見かけると見て見ぬふりをした。アクヒラは、あのように仲の良かったサラサを無視する理由を知りながら母を許せないと思うのだ。サラサの一家も、働き手の主人が亡くなると(あるところまでアクヒラの一家に起こったことと近似している)、収入の道を断たれた。アグラハム(バラモン居住区)の人々は彼らを助けることができなかった。サラサ・マミは売れるものはすべて売り尽くすと、長女を売ったのだ。自分も同じ運命を辿ったのかも知れないとアクヒラは考える。ただ、彼女は、娘を売ったことよりも、そうせざるをえなかった社会を問題視する。アニタ・ナイールのフェミニズムは、ここでは社会正義の感覚と繋がっている。

このコンパートメントに場違いと思える女(性)が一人いる。彼女は、怯えるように自分に閉じこもり、皆の会話には参加してこない。彼らの会話は、英語でなされているようなのだが、アクヒラははじめ彼女が英語を解さないのだろうと思っていた。彼女が英語を解さないように見えるのは、彼女が教育を受けていないこと、つまり下層の女(性)だということなのだろう。二人は、タミール語で語りだす。場違いな女(性)は、世間は女(性)にとって何と残酷であるか、と。その残酷さの意味とは、その中心に女(性)にとっての性があるのだ。レイプ・レズビアン・情婦・出産と子育てが絡みあう。女(性)にとって性とは、何と厄介な重荷であるのか、と私も嘆息したくなる。彼女は、深い闇の中で、女(性)性に翻弄されるとともにそのもっとも豊かな女(性)性を消し去ろうとしているようにさえ見える。だが、彼女が女(性)であることを逃れようとする分、より彼女の女(性)性が際立ってもくるのだ。

anita nair
アニタ・ナイール
1966年ケララ州に生まれる
チェンナイで高等教育(英文学科)を受ける
バンガロールで広告代理店に勤める傍ら文筆が評判を呼ぶ
彼女の長編第二作『女性専用車』は、大成功をおさめ
米国ばかりでなく、トルコ、ポーランド、ポルトガルなど
多くの国で(翻訳)出版された

 この小説の最終章は、三つの海の出会う海岸に近いリゾート地に移る。バンガローに滞在するアクヒラが、ツーリスト・スポットでぶらぶらする青年を誘惑するのだ。四十五歳になる独身の女(性)が、破廉恥な行為に走る。アクヒラが表現するフェミニズは、社会正義と結びつく一方で(女〔性〕を抑圧する社会への異議申し立てをもつ)、女(性)における性の欲望に忠実であろうとする。アクヒラは、今、性を渇望することを隠さない。だが、一夜を過ごしたあと、アクヒラは後悔するのではない。彼女が渇望した性的体験は、もう一度、女(性)と男の関係の修復へ、現にある社会規範・カーストの掟への挑戦を含みつつ、十年以上も封印してきた愛を、解き放つのだ。アクヒラは、受話器に手をかける。

 1998年、女性専用列車Ladies Coupéは廃線となった、とこの小説の最後のページにある。


103.V. S. ナイポール『小説・この世界の一つの道』、V. S. Naipaul, A Way in the World: Novel, published by Alfred A. Knopf, Inc., New York, in 1994.

a way in the world book222この小説『この世界の一つの道』が舞台とするのは
ナイポールの生まれ故郷 トリニダード
あるいは 黒人奴隷とアジア人の年季労働者による
カリブ海の植民地世界
黄金郷伝説と革命に揺れるベネズエラ
南米の北の端ガイアナ
インドとは古くから交流のあった東アフリカ
ということになる
時間軸は コロンブスの航海の時代から
ポストコロニアル状況の1970年代になるのか
それらの前景と背景における
黒人たち 革命家たち あるいは何かに憑かれた人たちが
揺籃の地をはなれ 広い世界に出ていくとき
何が起きるのかを書く
あるいは広い世界に
連れ出された人々に何が起きたのかを物語る

私たちは 自分自身のことを あまりよく知らない
私たちは 自分に対する異邦人であり
自分がどこに向かえばより安全なのか分からない
それを選択できる者は 強者であり
保護と安全を手にできる者だ
とナイポールは語る


今回この本を再読して
改めのて 本書に圧倒された
感動というよりは 恐れ 驚いたのだ
その底にあるのは 
ナイポールの生き 経験し 選択した
差別についての感覚なのだった

 ナイポールは、『読むことと書くことについての個人的な覚書』Reading and Writing: A Personal Account, 2000という小さな本のなかで、イーヴリン・ウォーが述べた「フィクションは作家の経験したことの変形でしかない」という言葉を、ある種、感慨深げに引用している。この本『小説・この世界の一つの道』もウォーの言葉そのもののような、ナイポールが実際に生きたことの変形としての小説である。どこまでがナイポールが経験したことで、どこからが創作なのか、その境界が分かるようでもあり、分かりにくくもある小説だ。ただ、実際の経験(それも記憶でしかない)とフィクションとの境界は、おそらく作家自身にとってはどうでも良いことのように見える。あらゆる経験や事実は、記憶あるいは抽出された記録である以上、本質的にフィクションに傾いてゆく、と作家は考えているからだ。

 ところで、この本は、いくつもの切り口で読むことができる。ポストコロニアル状況、カリブ海世界あるいはトリニダードの歴史と人物、革命家群像、憑かれた人々の不幸、無垢なる人々が揺籃の地を離れ大きな世界(文明)のなかに投げこまれてゆくこと、等々について考えながら中身の濃い読書ができるのだ。だが、とりわけ目立って見えるのは差別の問題だ。ナイポールは、差別についてのある感覚、あるいは考え方を実に豊かに語る。それは差別を悪として批判し排除するよりは、差別に纏わる恐怖が社会を、人々の生を活性化させ、生きる目的を明確にする(安全ということかも知れない)というように描かれる。差別という極めて捉えがたく扱いの難しい主題について、ナイポールは、自らの経験と記憶を参照しつつ極めて陰影の深い物語を織り上げるいる。

   プロローグはクイーンズ・ロイヤル・カレッジに通っていた高校生時代の回想から始まる。無論、この章も、差別について物語っているのは明らかだ。
 荒筋を追ってみよう。
五月の祭りの催しに生け花(フラワーアレンジメント)のコンペをやろう、ということになり審査員に、女性扶助協会で生け花とケーキ作りを教えているレナード・サイードさんを招くことになる。ナイポールに限りなく近い高校生の主人公が、女性扶助協会にサイードさんを訪ねてゆく。受付嬢が「サイードさんなら、道の向こうの建屋にいますよ」と教えられ、そちらへ行ってドアを開けると、高校生は驚愕するのだ。何とサイードさんは、人の死体を前に、花を飾りつけていたのだ。高校生はショックで青ざめうろたえるのだが、サイードさんは至極丁寧に高校生の相手をし、無論、審査員も引き受けてくれたのだ。高校生の驚愕には、ナイポールの差別感覚―死体を扱う穢れた者への怖れ―が隠れている、ように思える。
 次の年、高校生はふたたびサイードさんを女性扶助協会に尋ねる。今回は、ケーキ作りをサイードさんは女性たちをまえに教えていた。高校生は、その光景を見てふたたびある種のおぞましさを覚えるのだ。ねり粉をこねる毛むくじゃらの手が気になって仕方がなかったのだ。毛むくじゃらの手と白いねり粉に、作家は何か猥雑な印象を―性行為を弄ぶ者―読者に求めている気がする。
 三度目の訪問はサイードさんの自宅を訪ねたのだった。自分の家の近くセント・ジェームズにサイードさんは住んでいた。その距離の近さを高校生はどう受け入れるべきなのか分からず取り乱す。そして高校生は、三度、驚く。サイードさんは病気で臥せっていた。彼の毛深い手が、サテン地、あるいは絹のかけ物の上にあった。光沢のあるかけ物も、部屋飾りも、あの葬儀屋から、つまり棺桶の装飾品の残り物に違いないのだ、と高校生は悟りぞっとする。人の死に浸潤された生の匂いを高校生は嫌悪するのだ。
 ナイポールは、ここで差別という言葉を一切吐かないで、自己のうちにある差別感情を描いている。作家がこのプロローグを括る言葉がすごい。まず、始まりは、サイードの祖父あるいは曽祖父が、トリニダードに移民してきた、彼らはインドのシーア派ムスリムの集団に属していて、おそらく北インドのラクノウからやってきたのだ、と類推する。彼の家があるセント・ジェームズは、ラクノウ通りとも呼ばれ、ラクノウ出身者が多いので有名だからだ。だが、尋ねもしないで分かるところが差別らしい。そして、ラクノウのムスリムは大多数がシーア派なのかも知れない。(彼らがなぜシーア派でなければならないのかは分からない。ただ中世の北インドにおけるスンニ派ムスリムによるシーア派、あるいはイスマエル派への苛烈な弾圧の歴史を私は思い起こす。弾圧と抑圧が差別〔外部と交わらない固い信仰の保持と特異な伝統・文化〕を形成していった、というようなことを私は想像する。) さらにナイポールは、サイードの祖先について語る。「おそらく(perhaps)」という言葉をナイポールは繰り返しながら、サイードの出自を、ラクノウの舞踊集団で、女のような化粧をして淫らに踊る男たち、と言うのだ。サイードに纏わりついた死と性に彩られた淫らな印象は、あるカースト集団への差別感情に結びつく。ナイポールは、その差別感情を激しい嫌悪として表現している。将来を嘱望された高校生は、ここで差別の対象に深い恐怖を抱いている。

   この本における黒人(ナイポールはニグロと呼ぶ)についての描き方は、独特で具体的であり、侮蔑・拒絶の対象であるよりは理解の対象なのだ。それはあたかも差別する権利の主張であるかもしれない。差別は撤廃されなければならない、ではなく差別しあってこそ社会は生きる現実と楽しみがある、とでもいうようなニュアンスがあるのだ。

   プロローグに続く第二章、“歴史、魚の膠(にかわ)の匂い”は、主人公が難関の留学生試験に合格し、オックスフォードへ行く前の役所での臨時雇いの時代を描いている。未来のエリートは、出生証明書(これもナイポールについて回るメタファーだ)の写しを作っていた。そこにブレアーという黒人の上級管理者がいた。ナイポールは、ブレアーは苦学の人である、言う。ここでも、ナイポールは、黒人についての皮相な偏見に挑戦している。そして、ブレアーには威厳というものがあり、彼のメモ書きは、細字で几帳面なのだった。週末の給料日には仕事が引けると、職場で皆してラムを飲むのだが、彼はその輪の中に入らず、昇進試験の準備に時間をさいていた。ナイポールは、ブレアーがある特異な黒人の村(逃亡奴隷のコミューンか?)の出身者で、長く外部との交渉を持たない閉鎖社会における純粋・純朴な価値観・性格を彼は引き継いでいるのだと推論する。そして、ブレアーには野心があったのだ。ナイポールと同様、閉じた小さな社会からより大きな世界に出てゆきたい、という願望をもっていたのだ。そしてブレアーもナイポールも、トリニダードを離れ、より大きな世界の現実の中に入っていった。
 十数年、あるいは二十数年が過ぎて、二人は東アフリカの新興国で再会することになる。その新興国の大統領は、民族主義的な社会主義国家の建設を目指していた。ナイポールは、その首都の新しい大学の教授として招聘されたのだった。それは、ナイポールの小説『暗い河』(TBSブリタニカ)とほぼ同じシチュエーションだ。一方、ブレアーは、高位の行政官として大統領の顧問となるのだが、その使命は、その国からのアジア人、とりわけインド人を排斥・追放することなのだった。トリニダードにおけるアフリカ系住民とアジア系との人種的対立・緊張・差別感情が場所を変え、再演される。…ブレアーは、大統領の意図を理解した。しかし、純粋で律儀な心情・性格のブレアーは、アジア人の排斥・追放よりもより広い改革に突き進んでいった。そして、独裁国家の周辺で甘い汁を吸う人々が、ブレアーを抹殺する。トウモロコシ畑で遺棄された彼の遺体が発見されたのだ。
 ブレアーの短い生涯は、黒人エリートのある姿を描いているように思える。ナイポールのブレアーを語る筆致は、終始逆差別的である。黒人について良く言われることの逆を言っている。だが、実に興味深いのは、そのブレアーに、差別についての本音を吐かせていることなのだ。
 コンパウンド(外国人特別居留地区⁉)での夕食会の席であったか、ブレアーはナイポールとおぼしき人物に語る。「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」と。これは、ブレアーという黒人の言葉であるとともに、ナイポールの信条告白である。即座に反応する差別行動というところがミソだ。いずれにしても、ナイポールの求める文学が、道徳的な説教とは大いに異なる。

 ブレアーは、役人という国家公認の道を登り詰めようとする。他方、ラブランLubrunは、革命家なのだった。国家体制を揺さぶり転覆を企てようとする黒人だ。ラブランが仏領西インド諸島の出身者であるのは、フランツ・ファノンを想起させる。ラブランは、知的で巧みな弁舌、国際的な人脈と洗練された身のこなしを合わせ持っている。おかしいのは、革命家のラブランが、ナイポールの著作に共感し、ロシア語の雑誌にナイポールの本の書評を掲載することだ。あり得ない、と初め思い、やがてこれはジョークなのかと思い直す。カリブ海諸島の砂糖キビ労働者こそは、世界最初の賃労働者なのだというラブランの説は何か珍妙なのだが、彼のナイポールへの共感は、世界の辺境に生きる者の偏頗な喜劇性という認識、という点で一致するのかも知れない。革命のイデオロギーには収まりきらない真実への希求をナイポールはラブランに認めているのが、少し意外だ。
 ナイポールの革命家としてのラブランに対する見方はむしろ公平で率直なのだ。だが、ラブランの出自についてナイポールが言及し始めると、何やら独特なニュアンスが醸し出されてくる。ラブランの母は、黒人奴隷であったに違いない、とナイポールは類推する。なぜナイポールは、ラブランの母が奴隷であったと言わなければならないのか、と私は訝(いぶか)しく思う。ナイポールの言い方は、むしろ庶民の陰口に似ている。ナイポールが時に極めて俗なる言辞を吐くのは分かっている。だが、ナイポールは凡百の知識人が示す上品で高級な寛容を拒む。人が生きてゆくのは、そのよう上品でも寛容でもないのだ、という本能がナイポールにはあるのだ。
 
   革命家ラブランは、何度かナイポールと交錯する。クイーンズ・ロイヤル・カレッジの図書館には彼の著作が陳列されていた。どのような人がラブランの本を読むのか、ナイポールは何も言わない。それから、ニューヨークでのリベラル人士との会食やら、チェコ人の情婦との間に生まれた、扉ほどもある大女の娘やら、読者を飽きさせないストーリーが続く。だが、英国人作家フォスター・モーリスの語るラブランの逸話が、とりわけ恐ろしく、興味深い。それも陰影深い差別についての物語だ。

 1930年代、トリニダードで石油掘削・精製所で大規模なストライキが発生した。鎮圧にあたった警察官が焼き殺され、それがカリプソに歌われたりもしたのだった。本格的な文学の書き手で、トリニダード・トバゴについて、とてもいい旅行ガイドをものしているフォスター・モーリスは、その騒乱の傍らにいた。彼は、騒動の首謀者が集う会合になぜか居合わせたのだ。議論は、闘争方針やら戦術から離れ、白人への性的なレイシャル・ジョーク、つまりそこにただ一人居合わせた白人のフォスター・モーリスへの攻撃へと変わっていったのだ。そこで、フォスター・モーリスは決定的な過ちを犯したのだ、とナイポールに語る。つまり、モーリスは、ストライキの黒人指導者ラブランに向かって「悪いけど君にキスできない、君を王子様にはできないんだ」と言ってしまったのだ。その時何かが起きたかも知れないし、何も起きなかったかも知れない、とナイポールは書く。
 黒人、あるいは有色人種の白人に対してもっている差別感覚をとりあげるところがナイポールのとてもユニークなところだ。人種差別というと、白人の黒人に対する、あるいは有色人種への差別ばかりが言われるが、ナイポールのこの本では、白人への差別感がしばしば取り上げられるし、さらに有色人種同士の差別にナイポールはとりわけ着目する。その視点は、言われてみれば至極当然であり、貴重な気がする。

 航空機と飛行場は、ナイポールにとって特別な場所である。それらの場所についてとてもいい文章を残している。『インド傷ついた文明』(岩波書店)の冒頭の数ページが、私はとても好きだ。モンスーンの長引くなか、作家は深夜、雨のボンベイの空港に到着する。これから二度目(⁉)のインドの旅を始めようとするくだりだ。様々な人生の片鱗をナイポールは垣間見る。作家は到着に不安と焦燥と孤独を感じている。何度読み返しても心が動く。

 この物語は、ベネズエラのカラカスに向かう、旅客機の中から始まる。隣合わせたインド系ベネズエラ人は、トリニダードで買ってきたチャツネの瓶をもっている。彼が身につけている金の鎖は、実は、ビルの解体作業中に偶然発見した隠し金で作ったものだ、とその男、マヌエル・ソルサーノは話すのだ。シモーヌ・ボリヴァール記念金貨の隠し金とベネズエラの黄金郷伝説とがダブって見えてくる。旅の行きずりで交わした会話の中で、ナイポールはソルサーノにある差別についての物語を語らせるのだ。
 マヌエル・ソルサーノの息子は、憧れていた警官になった。ベネズエラでは、どうも警官が凛々しさと強権の象徴のようなのだ。ソルサーノの息子、アントニオは良くできた子だが、自分に似てとても内気な性格なのだ、と父親は語る。そのような息子が、どのように知り合ったのか、背の低い「小さな娘のような女」と同棲することになる。奇妙な結びつきなのだ。二年がたち、父親は二人を訪ねる。彼女は父親の前では慇懃で、慎ましく振舞うのだった。別れ際、父親は、その「小さな女の肩」に触れて戦慄する。彼女の肩はあまりに硬く、筋肉質なのだった。ソルサーノは、彼女の過酷な肉体労働の過去を確信した。肉体労働に対する侮蔑の念と、貧困への恐怖(「小さな女」は、貧困による栄養不足がもたらしたという偏見をナイポールはもっている)がないまぜになってソルサーノを捕らえた。そして、ソルサーノの衝撃は、その後の事件と不幸な屈辱の予兆でもあった。
   この後の展開は差別の話ではないのだが、ナイポールならではのリアリティ感覚が素晴らしい。……「小さな女」は、雑貨屋を営むシリア人の情婦でもあったのだ。そのことを知ったソルサーノの息子、アントニオは、「小さな女」を追い詰めリボルバーで撃ち殺そうとする。彼女は「貧しい小さな娘にとってシリア人がどんなに助けになったか貴方にはわからないでしょう」と言うと、アントニオは拳銃を打つことができなくなる。アントニオは、内気であるばかりでなく、ある種とても優しい。ナイポールは、同朋の内気と柔弱さをじっと見つめている。…彼女の言葉にアントニオの心は乱れる。今度はシリア人を撃ち殺そうとする。「小さな女」をソルサーノの息子に手引きしたのは、このシリア人なのかも知れない。シリア人を追い詰め、拳銃の引き金を引こうとしたとき、シリア人は、何か性的な侮辱の言葉をアントニオに投げる。それは人種差別の言葉ではないだろう。が、その言葉によって、アントニオはまたも発砲への怒りを挫かれてしまうのだ。殺人に至らない屈辱にまみれた物語は、これこそ生の本質である、というナイポールの呪いようでもある。

   ナイポールは、実は探検家の側面をもっている。西インド諸島を三か月旅して回る『中道』Middle Passage、1962でも、ガイドと少人数のグループでジャマイカの奥地のジャングルに入っていく。コンラッドの『闇の中』の雰囲気なのだ。私には、『闇の中』はほとんど何も理解できない難解な小説だが、ナイポールが、『闇の中』に深く魅了されている、ことは分かる。未開の自然の奥深いところへの侵入は、暴力的で反秩序的な、アーカイックな人間の自然性を呼び起こす魔力がある、のかも知れない。……この本ではインディオの案内でベネズエラの奥地へナイポールは、入っていく。作家は、ジャングルの只中で、もう自分の力だけでは文明世界にもどれない、と恐怖する。深い闇の中の野営地でナイポールは、ウィスキーを飲んでいる。ガイドのインディオの若者が、自分にもラムを飲ましてくれ、と言う。ナイポールは、これはラムではない、と拒むのだ。……ナイポールは、そして思うのだ、このインディオ達を自分が愛しいと思うのは何故なのか、と。ナイポールは、しばらく考え、この愛情はこの人々がいつまでも外の文明にふれず無垢なままでいて欲しい、という感情に他ならないのだと、納得する。ウィスキーとラムを一緒くたにしない区別と、己との違いを愛おしい、と思う感情が、ナイポールの差別についての物語の根本にあるのだろう。

naipaul.png
ヴィディアダハル・スラヤプラサド・ナイポール
癌で妻パット・ホールを亡くした二か月後、ナイポールは
パキスタン籍のナディーラ(写真左)と再婚する

   ナイポールにとって差別のない社会など考えられない。ナイポールは、差別をルールで規制すればすむ以上のこととして捉えている。そして、ナイポールは、差別を恐怖として語るとともに何か魅了されている。うまく説明できないが、ナイポールの問題提議は重大である。

   ナイポールの『小説・この世界の一つの道』はとても怖い小説だ。それは、差別の恐怖と愉悦を語るからだろう。だが、この本の非凡なところは、ナイポールが一種開放的な差別を求めていることだ。存在を抹殺する差別でなく、お互いの存在を認め合う(罵り合う)差別を排除してはならない、とナイポールは語るからだ。黒人のブレアーが言うように「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」。それを認めてこそ、この世の共同体は、生命をもつ。
 

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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