102.山中由里子『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』(名古屋大学出版会、2009年)

アレクサンドロス変相『クルアーン』“洞窟の章”における二本角
ズ・ル=カルナインが 一体誰なのか 
という錯綜した謎解きから始まる本書は
遠い初期イスラームの共同体の記憶から
様々の“書物の道”をへめぐって
中世イスラームにおける
宗教的のみならず政治的な含意をもつ
アレクサンドロス像にいたる
この大きな歴史の流れ、彷徨う表徴は
アレクサンドロスの東征にも似て
多様な諸文化の影響をとりいれながら
多元的かつ独自の文化を特長付ける
それは なにか見知らぬもうひとつの
巨大な世界の発見のような興奮をもたらす


   S. スブラフマニヤムの“テージョ河からガンジス河まで―十六世紀ユーラシアにおける千年王国信仰の交錯―”(“思想”、2002年5月号)という論文は、とても難解だが実に味わい深い。驚くべき歴史の襞、つまり見慣れた歴史の風景とは異なる歴史を想像させる。それらの記述の中で、近世初頭の千年王国信仰が、実にさまざまな思想潮流と表徴を取り入れて普遍王国を待望するという見方が興味深かった。とりわけ、イスラームの千年王国信仰にはアレクサンドロスが重要な位置をもつ。そこではアレクサンドロスが、野蛮と闘う征服者として、また、占星術をよくする予言者として現れるのだ。
   イスラームにおけるアレクサンドロスの再現前は、何とも魅力的なテーマに思える。その成り立ち、機能や広がりのことをもって知りたいと思っていた。そのような関心を気づき始めたとき『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』という本を知り、興奮をおさえながら読んでみた。
    この本を読むとアレクサンドロスは、スブラフマニヤムが触れている以上に、地域や歴史の異なる局面で実にさまざまな顔を現し変身してゆく。しかもアレクサンドロスの“変相”は、まことに雄大で歴史上の大スペクタクルをみるような感興を覚える。
 一例をあげると、本来は敵国の王であるはずのアレクサンドロスがイランの英雄になってしまうのだ。
    アレクサンドロス(ペルシャ語ではスカンダル)はペルシャ王ダレイオスを打ち破り、死にまでも追い詰めたはずなのに、ダレイオスの子となり、イランの英雄になってしまう。この“変相”をお膳立てするアレクサンドロスの出生譚が傑作なのだ。つまり、ダレイオスは、マケドニアの王フィリポスの娘を娶るのだが、彼女は強烈な悪臭の持ち主で(敵国の王の娘の獣性と少しの嘲笑を私は連想する)結婚後しばらくして国本に返される、だがその時すでに彼女は身ごもっていた、そしてその子、つまりアレクサンドロスは、フィリポスの子として育てられたのだ。だからダレイオスが重臣の裏切りで殺害されると、アレクサンドロスは瀕死のダレイオスに「王のこのような死を私は望まなかった」といい、ダレイオスの最後の言葉を聞きとげる。

  この本は、古代の英雄アレクサンドロスが、イスラーム世界で実に豊かな表徴として結実してゆく「書物の道」をたどる。その系統や結合やヴァリアントを明瞭に思い描きながら読み進むことは難しい。しかし、この種の学術書は、普段馴染みの少ない古典テクストを、断片的とはいえ、原文の雰囲気を感じなら読めるのがとても楽しいのだ。アレクサンドロスの遠征におけるインドへ向かうくだり、またインドの賢者との頓智問答などもそうである。
    二本角(アレクサンドロス)は、屍を食する賢者のいる島で宴に招かれる。宝石を盛った金・銀の器を示され「汝が求めているものはこれであろう。このために汝はこの世を彷徨っている。だがこんなものは飢えには何の役にも立たないのだ。我らから一体何を得ようというのか」。二本角はインドへと去る。
    インドの賢者との対話につながるこの導入部は、アレクサンドロスの望み、究極の目的を疑問視しているところがとてもいい。
インドの王の使者が現れると、二本角は「牛油」の入った鉢をおくる。使者は、それに無数の針を刺して返す。今度は、二本角がその針を黒い焼鍋に入れて送ると、使者はその鍋を磨いて返す。このやり取りを二本角はひとつの知恵くらべであると説くのだ。

    ところで、多くの民衆が、中世のイスラーム世界で、どうアレクサンドロスを思っていたかは分からない。そうではなく、極端な生真面目さで、書物に記されたアレクサンドロスの顔の変遷を、この本は検証してゆくのだ。例えば、七世紀のイエメンに生きたワフブの著『王冠をいただいた君主の書』には、ユダヤ系アレクサンドロス物語とムスリム遠征伝説の結合が見られる、と書く。また、十二世紀ペルシャの詩人、ニザーミーの『アレクサンドロスの書』では、アレクサンドロスは遠征から戻るとメッカに詣で預言者として再出発する。“史実”をあざ笑うかのような想像の跳梁に心躍るのだが、それらの“変相”をペルシャ・アラブの古典的テクストのうえに辿ってゆくことは、研究者ではない読者にとっては、ため息がでるほど錯綜している。それでもこの複雑な流れは、表徴としてのアレクサンドロスの豊かさであるかも知れない。
   少し込み入った話になるが、イスラーム世界におけるアレクサンドロスの驚くべき再現前は、実は、以下のような流れによるところを見ておきたい。
その源流は①古代ユダヤ教において神の国を齎すメシアとしてのアレクサンドロス、⓶イランもしくはゾロアスター教における善と極悪の両義的な存在としてのアレクサンドロス、あるいは③偽カッリステネスの「アレクサンドロス・ロマン」(アリストテレスとの交流物語もここに含めるべきか?) としてのアレクサンドロスがあげられる。それらの流れの中にある寓話のもつ興味もさることながら、やはり感動するのは、諸文化の混交あるいは錯綜の豊かな表情なのだ。初期イスラームの古い記憶は、しばしばユダヤ系の賢者との交流や対立に結びつく。あるいは、往時のローマ帝国におけるアレクサンドロスとアリストテレスとの交流の説話がイスラーム世界に還流する。少し飛躍して言うと、固い一一枚岩というようなイスラームのイメージ(私の無知)に修正をせまる多様なものの混交を強く感じる。
 
    逆の見方もあった。広くイスラーム世界で二本角(ズ・ル=カルナイン)と表現されるものが、実在のアレクサンドロスとは何の関係もない、という主張だ。イスラームで言われる二本角(ズ・ル=カルナイン)あるいはアレクサンドロスは、史実のアレクサンドロスとは無関係な、アラビア半島の民間伝承にすぎない、と。
    だからこそ『クルアーン』十八章、“洞窟の章”における記述が、つまり二本角(ズ・ル=カルナイン)がアレクサンドロスであるのかないのか、という考察が重要なのだ。
    この話も一筋縄ではいかない。粗筋をたどると二本角は、①アレクサンドロス、⓶ペルシャの王、③古代南アラビアの王、④神の僕、預言者と考えられてきた。十九世紀の終わり、この錯綜した議論に一応の終止符が打たれた。すなわち、『クルアーン』の二本角のくだりは、アレクサンドロスに関するシリア語のキリスト教伝説に酷似している、という発見があったのだ。この決定的に見えた説についても、その後、留保がつき修正されてきたが―シリア語のキリスト教伝説と『クルアーン』の“洞窟の章”は、親子関係ではなく、ユダヤ系伝承を親とする兄弟関係だとする―『クルアーン』における二本角がアレクサンドロスを指すのはほぼ間違いない、と著者は言う。

    アレクサンドロスは変相していく。変相とは何なのか。……大いなるものは、死しても、姿を変え甦る、いや、違う、少なくともアレクサンドロスの場合は、そう、アレクサンドロスの意志や事業が蘇ることはない。アレクサンドロスが変相して現れるのは、後世の者たちが、アレクサンドロスの伝承を利用・活用するためだ。利用・活用に悪や錯誤は関係がない、むしろ都合のよい変相の妙味を味わっていれば良い。真実価値深いのは、後世において様々に利用・活用されるほどにアレクサンドロスがゆたかな表徴に満ちている、ことなのだ。だが、この本は、その変相の表情よりはその根拠を求めている。



101.アキール・シャルマ『冒険と喜びの人生』、Akhil Sharma, A Life of Adventure and Delight, published W. W. Norton & Company, New York, in 2017.

a life of adventure
インドからアメリカへの越境作家
アキール・シャルマは 新しい短編集で
今まで以上に 強烈で かわいた感傷の物語を書く
矮小な人間どものむごい生存競争と
ルール破りや 制度に抗う悪の魅力を描きながら
人は重大な過ちを避けられない とも語る
インドの小説を読む楽しみを
あらためて感じた一冊だった




   アキール・シャルマは、八歳のとき、家族に連れられてアメリカに渡った。インドは、シャルマにとって遠い記憶のはずなのに、シャルマの物語はとてもインドを感じさせる。インドに住む作家以上に鮮烈なインドがある。
 
 アキール・シャルマの三冊目の本『冒険と喜びの人生』(2017)には、八編の短編小説が収められている。初出が“ニューヨーカー”や“パリ・レヴュー”などとなっているところを見ると、作家の評価がアメリカでも極めて高いのだと理解できる。

 八篇の小説について、思い出しながら粗筋・特長を書いてみよう。

コズモポリタン(COSMOPOLITAN)
 ゴパルが電信・電話会社を早期退職すると妻と娘がインドに去ってしまった。ゴパルは仕事もなく、友達もなく暇をもてあましている。ある日、ゴパルのところに燐家のショウ婦人が、芝刈り機を借りにくる。それから二人の交流が始まる。“コズモポリタン”紙を図書館で読み、恋愛についてのノウハウを仕込み彼女に迫るのだが……。エンジニアであるインド人移民とアメリカの離婚した下層中産階級の女性とのギャップが笑い話になっている。だが、この短編は無論笑い話以上のむごい生の現実を語っている。

寝たきりになって(SURROUNDED BY SLEEP) 
 兄がプールでの事故で寝たきりの植物人間になってしまうエピソードは、シャルマの二作目の小説『家族生活』Family Life, 2014でも書かれているので、おそらくシャルマの家族に実際に起きたことなのだろう。兄の事故と、それに伴って幻となって現れる神との対話も『家族生活』と同じだ。しかし、明らかにタッチが違う。『家族生活』では、主人公はあきらかに性悪である。兄が植物人間になって自分が両親を一人占めできるとむしろ喜んでいる。だが、この短編では、兄の看護に家族皆の気持ちが向いていて、自分がないがしろにされていることにすねて見せる。『家族生活』でのシャルマの毒は、この小説では完全に無化されている。このヒュウーマンなタッチは、“ニューヨーカー”紙への配慮か。私は、シャルマの小説では例外的に、好きになれなかった。

みんなヤツを嫌う(WE DON’T LIKE HIM)
 気のあらい乱暴者のマンシュを皆が嫌う。マンシュは主人公のいとこなのだが、早く父と母を亡くした。仕方なく自分=語り手の父が引き取って育てていた。マンシュは不幸な男の子なのだ。やがてマンシュは近くの寺院に通うようになり、パンディット(司祭)になってしまう。とても商売熱心でがめつい司祭なのだ。自分の方は、どうにか法科大学を卒業し、裁判所の前の通りの小屋(!)で法律相談の商売を始める。パンデイットと三百代言のこの対称が面白い。ところで、この小説のハイライトは、実に、語り手のマンシュへの復讐である。マンシュは妻の遺灰を(マシュの不幸は繰り返される)を川に流せない。躊躇するマンシュに、語り手は、半ば強制的に川に流させる。主人公は「何と残酷なことをしてしまったのか」と悔やむ。ただこの小説がユニークなのは、そのように語り手が過剰なほど悔やみつつも、葬儀から帰ってきて、通りの女たちがバケツで水を運んできて沐浴が始まると、自分はマンシュの沐浴を手伝ってやり、罪も穢れも悔恨もすべて洗い清められて、晴れ晴れしい気持ちになってしまうことなのだ。

あなたの歌を聞かせて (IF YOU SING LIKE THAT FOR YOU)
 こんな人と結婚するなんて最低、こんな人と結婚生活を続けるぐらいなら世界がなくなった方が良い、と思っていた彼女が、その男とセックスを繰り返すごとに、また彼の優しさに触れるたびに、彼の帰りが待ち遠しくなっていく。このあっけらかんとしたストレートさが面白いと思って読んでいると、父親が心臓発作で倒れ入院する。父親は、この娘への愛情を訴える。多くのインドの現代小説が繰り返すテーマがここでも現れてくる。不幸で寂しい父親と娘との親密な関係だ。母親が父親を許せないのは、幼い子供を亡くしたとき父親が冷淡だったからなのだ。優秀な妹(アメリカ渡る)と自分のありきたりの見合い結婚の対比も複雑だ。しかし、彼との愛情生活が憂鬱なことのすべてを遠くへ押しやってしまう。

冒険と喜びの人生 (A LIFE OF ADVENTURE AND DELIGHT)
 米国に留学中の二十四歳のゴータマが、警察の護送車に押し込まれるところからこの短編は始まる。シリアスな事態を予想する。が、売春に関わる取り締まりに引っかかっただけなのだ。拘置所で、ヒイスパニック系の青年は「オレの誕生日につかまるなんて」と嘆き、ゴーダマは白人の女性警官から「彼女たちは、君だけでなく多くの男とヤルのだよ、それでもいいのか」と説教を食らう。
 ゴーダマは、同じくインドからの留学生で、あまり美しくないニルマラと親しくなっていく。ありきたりの恋愛のコースをたどる。初めての二人のディナーでは、ゴーダマがただ食いを画策し、それをニルマラが見抜き、彼女も協力するのだが結局なけなしの金子を使かわなければならなくなるのがおかしい。二人は当然結婚しなければならないカップルとインド人社会から見られているのがゴーダマには鬱陶しい。彼は、またネットによるコールガール遊びを再開する。女が現れたら、画像の容姿よりかなり劣るといってタクシー代を払い追い返すそぶりをして値切ろう、と考える。だが、現れた女は予想をこえる美女で陶然となり、二人は実に他愛のない遊びに興じるのだ。

こころなんて (A HEART IS SUCH A HEAVY THING)
 アルンが、会ったことも見たこともない娘と結婚することになったのは二十四歳のときだった、とこの小説は始まる。ある結婚の後先を、歳時記風にたんたんと綴ったこの短編は、とても心をそそるものがある。結婚が決まると、アルンの兄は、もうお前もおしまいだ、とアルンを脅しからかう。父親はお祝い式で泥酔し嘗ての商売仲間を追い回し、乱暴をふるおうとし、式を滅茶滅茶にしてしまう。嫁となった娘は、慎みのない現代娘で、あんな娘は追い返せと衆議一決するが、スクータも洗濯機ももらってしまった以上は、彼らは警察沙汰にするに違いない、と煮え切らない。そんな嫁が皆にお茶をもって来て、家族のみんながなぜか和む。それやこれやの落ち着かない毎日のなかで、ようやく雨が(モンスーン)やってきたのだ。アルンの父は、バスに乗ると、無賃乗車で車掌に取り押さえられた少年が、突如、歌いだす。父も乗客も皆が、少年の歌を聞き惚れる。少年は「こころなんて (a heart is such a heavy thing)」と声を張り上げるのだ。

あなたはお幸せですか (YOU ARE HAPPY?)
 あの女の腕と足をへし折ってしまえ、それでもあの女はウィスキーの瓶の方へ這いずってゆく、とラクシマンの祖母は叫ぶのだった。母は、アルコール中毒になっていったのだ。初めはパーティの席で、少し度をすごしているようだったが、やがて部屋にこもり母は飲み続けた。吐きながら飲み続け、腎臓を壊し、リハビリ施設にも入った。施設から帰ってきたとき、両親と散歩をした(クイーンズだったか?)。不安で何か寂しいが幸せだった。父は、商売でインドにたびたび行き来する。親戚の農場に愛人がいるようだった。アメリカにいるときも、父はその愛人と連絡をとりあっていた。父は、楽しそうに話していた。
父が母の実家に相談したのだろうか、母の実家の方で、アル中の母を引き取ることを強く希望してきた。そして、母がインドに連れ戻されると、すぐに母がデング熱で亡くなった、という知らせが届いたのだ。アメリカにいる一人のおじさんが、デング熱でこんなに速く死ぬわけがない、怖ろしい一家だ、と言うと、祖母が、不謹慎なことを言うな、とたしなめた。母は、殺されたのだと思った。母がパーティで酔うと「あなたはお幸せ?」というのが口癖だった、のを思いだした。

万事快調 (WELL)
 語り手は、小説の始まりで父にピッツァを投げつけられ、小説の最後で母親に平手打ちを食らう。その理由は、いずれもとても切ない。
 語り手は、会計事務所で働いている。ブロンドで美人のビスティは、とりわけ男に愛嬌が良すぎるので女性の社員からは嫌われている。プロのフットボール選手とデートに行ってからは、男性からも嫌われるようになった。週末の飲み会で、彼女が飲みすぎると、語り手が彼女を送っていくようになったのだ。初めは、相手にもされなかったけれども(インド人だから男のうちに入っていなかった、という自己認識を語り手はもつ)、やがてキスを許すようになり(語り手は辛抱強く努力をした)、とうとうセックスをするようになる。ビスティは妊娠を恐れていた。しかし、不思議なことに、コンドームを付けずにセックスをするのだった。
 新しい生命がビスティに宿った。語り手が、結婚を申し出ると、ビスティは、他の選択肢がないと諦めた風で、結婚を承諾した。語り手は、母親と結婚祝いの宝石を買い求める。だが、いよいよ正式な結納の場面で、ビスティは、宝石を突き戻すのだ。語り手は、そのような予感をもっていた。ビスティは、語り手の付き添いを拒み、一人で病院に赴き子供を堕ろす。彼女にとって、堕胎は一度目でなかったのかも知れない。
 多くのヒンドゥー教徒の家がそうするのかどうか分からない。だが、語り手の一家は、郊外のヒンドゥー寺院に赴き、早すぎた生命の死の弔いを行うのだ。パンデイット(司祭)は、子供の名前は、と聞く。名前はないのです、と語り手は答え、思わず嗚咽する。何と自分は、身勝手で無責任であるのかと後悔する。パンデイットは、分かりました、それではその子を「赤ちゃん」と呼びましょう、と言ったのだった。

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アキール・シャルマ Akhil Sharma
1971年 デリー生まれ

   シャルマの小説の特長は一体何なんだろう。とてもインド的なものを感じるのだけれども、それはどう言葉で表せるのだろうか。シャルマの小説のさまざまな場面が頭の中を駆け巡る。セックスとアルコール飲酒が重要なのは分かるのだが、問題はその向こう側にあるインドと人間だ。シャルマの小説においては、悪が輝いて見える。悪は、甘ったるい人間の善性への信仰を打ち砕く。そして、人が生きてゆくことはむごく、怖ろしく、重大な過ちを免れない。その時、人々にとって、幸福とは一体何のことだろう。

   シャルマの小説をもっと読みたいと思うのだが、シャルマは寡作で、今のところこの短編集を含めて、三冊の本しか読めない。


100.アミット・チョウドリー『カルカッタ』、Amit Chaudhuri, Culcutta: Two years in the City, published by Alefred A Knopf 2013.

culcatta_20170805142628cb7.jpgアミット・チョウドリーの『カルカッタ』読んで
要約を作ってみた
それは 実に楽しく 感動を新たにする作業だった

物乞いの女と薬を買いにゆくチョウドリー
カルカッタの左派州政府が終わるとき
ある中産階級一家の没落
グロウバラゼイションの到来と本格料理の時代
召使たち それは盗みと若すぎる死
そしてカルカッタの魅力について考える

要約は 要約した本人にとってのみ
しばしば 発見の喜びがある
私にとって 『カルカッタ』という本は
通り一遍のインド理解のはるかむこうを
指し示す



§1.おおカルカッタ!

   父親は、1941年、カルカッタで勉学に励んでいた。父は、もう一人のチョウドリー、ニロッド・C・チョウドリーと同じ学校で勉強していた。父の小さな勉強部屋、通った安食堂を、思う。人ごみのカルカッタで父は疲れていた。日本軍がカルカッタを爆撃した。(本当か?知らなかった。)
   それから父は、会計士の資格をとるためにロンドンに渡る。あとから母が合流する。母は身ごもってカルカッタに戻ってきた。母には頼れる身内がいなかった。義理の祖母が母を見なければならなかったのだ。厳しい五月に私は生まれた。(それは酷暑の季節。)

   カルカッタ北部の嘗てのブルジョワたちの屋敷の跡を歩くのが好きだ。たとえばシャデルナゴル(カルカッタ中心部から北へ二十数キロ)はとてもフランス的な街なのだ。フランス窓がやってきたのは、デュプレックス(1697-1763)が英国と覇権を争っていた頃。あのフランス窓の残骸を手に入れられないだろうか。
3500ルピーでフランス窓と扉を買った。預ける場所も人もいないのに。

   二十世紀の初めデリーに首都が移転し、カルカッタの凋落がはっきりした。
   インドの新政府は、カルカッタの港湾特権を奪った。
   ワーラーナシーとカルカッタは似ている。死後の世界に繋がっているから。
   年老いた親たちの街、両親の晩年を共にすごし見送るために、輝かしい仕事を中断し、多くの者がカルカッタに帰ってくる。

   カルカッタは遊びと自由を可能にする街だ。詩は日常の風景を変えるもの。カルカッタは詩なのだ。それは日常からの解放を意味している。そして人々はここで憩う。憩うことについてタゴールは歌った。『自由の歌』Freedom Song, 1998のブゥハシュカールにしても、政治と芝居は切り離せない。(カルカッタの政治も詩に近い。)……私は、ずうっとカルカッタについて書いてきた。

§2.物乞いと薬を買いに

   英国から帰ってきてパーク・ストリードを再び歩いたときの感激が忘れられない。私は、カルカッタにいればそれだけで幸福なのだ、と思った。故郷でも異郷でもない、戻ってきたという感覚。
   オックスフォード書店のところに屯している女の子は、赤ん坊のときから知っている。少女は、川向うから毎日歩いてやってくるのだ。

   クリスマスの七日前、幸福そうな賑わいのなかの人々と物乞いたち。この独特なつかのまのエネルギーの横溢が好きだ。若い女がこの子に薬を買う金を恵んでくれと言う。私は、金ではなく、薬を買ってあげよう、と返答する。どうしてハウラで物乞いしないのか、などと会話をしながらジェー・ピー・メディコという薬屋に辿りつく。しわくちゃの紙切れにはとくべつな薬ではなくビタミン剤が処方されていた。彼女の名前は、ボビー・ミシュラといった。物乞いにすこしずつ気押しされつつ、私は、子供に路上のチョーミンを買ってやった。私は、路上で商いされるチョーミンを食べたことがない。

§3 カルカッタの左派州政府
 
   カルカッタをダメにしたのは、英国と左派政権(インド共産党マルクス主義派)だというステレイタイプを長いこと聞かされてきた。左派政権は、生活の質を大幅に向上できなかったとしても教育水準は確実にあがり、さらにマイノリティにもっとも寛容な社会を作りあげた。ホームレスがホームレスに食事の世話をするような街をつくったのだ。カルカッタの停滞・時代遅れには理由がある。つまり、市場主義経済への抵抗があるからなのだ。だが、大きな選挙を前にしてカルカッタの左派州政府は自らが作りあげたものにとらわれていた。

   州政府商業・経済商大臣のニルパム・センNirupam Senに、人のつてをたよって会いにゆく。センは、マルワリ(グジャラートに出自をもつベンガルで有力な商業者集団)で、彼が独身なのは、政治への献身を表している。センは、ジャーナリストにたいしては、愛国者としてふるまった。センは、イデオロギーで人を見ない。そして彼も、ベンガルにおける経済改革の必要性を感じていた。タダの大衆車ナノは、実は、センの発案だった。ナノの無残な流産が頭をよぎった。「チョウドリーさんは、社会にたいする責任以上のものを望むのですね」とセンは言った。

   2009年の州議員選挙で左翼=インド共産党マルクス主義派は後退し、2011年の選挙で決定的な敗北を、つまりベンガルの現実政治からの退場を宣告されたのだ。
選挙から半年が過ぎ、ベンガルが変わり始めた。
   毛沢東派の武装グループのリーダー、キシェンジKishenjiがカルカッタから100キロメートルの森の中で殺害された。キシェンジの母親がテレビのニューズで泣いていた。キシェンジは、ブラフマンの貧しい村の出身だった。数学と法科の学位をもっていた。

§4 ムカルジー家の没落

   私の小説『自由の歌』についての批評は散々なものだった。例外は、アニタ・ムカルジーで、彼女は、私の書くカルカッタが好きだと言ってくれた。そんな彼女から私はお茶に招かれた。彼女の顔の表情には独特のやさしさがある。彼女は、立ち上がって私たちを迎えられないことに恐縮していた。アニタは、天然痘の後遺症で立てないのだ。彼女は、自分の紅茶には手をつけない。礼節なのか、すでに紅茶を飲んでいたのか、分からない。
   アニタ・ムカルジーは、ヴィクトリア朝時代の英語を喋った。そのような古い英語が生きながらえているとは。アニタの古式な発音は、妻に、彼女のおばを思いださせ、妻は興奮し、しきりに懐かしがった。

   アニタの息子サミルダは、ケンブリッジ帰りだった。サミルダのヨーロッパは、私の知るヨーロッパと違っていた。彼の妻は英国人とのハーフだ。彼のようなカルカッタの教育のある中産階級をブゥハドゥラロクゥbhadralokと言う。彼は、英国から戻ると大手鉄鋼会社の購買部長を勤めるのだが、野望はなく、出世にはあまり関心がなかった。というより、サミルダは、“エンカウンター”紙を購読するような男だった。

   そのようなサミルダも、六十年代に入ろうとする頃、天然痘に感染する。
   初めて彼に会ったサミルダは引きこもりがちだった。が、たまにクラブに顔をだすのだとも言った。クラブについて、彼は饒舌だった。サミルダは、クラブの上客だったのだろう。しかし、クラブの階段がうとましくなっていた。サミルダは不思議な幸福感をもつ男で、リハビリには不熱心だった。

   ムカルジー家は、八十年代の後半、厄介な訴訟に巻き込まれてゆく。その訴訟を起こした慈善事業団体は、世間でいわれているほど優しくなかった。サミルダは訴訟で神経をすり減らし消耗していた。
   多くの者が「投資」に浮かれていた九十年代、サミダルは投資顧問なる者に騙される。サミダルと母にとって辛い時が続いた。彼らは、即座の救済を必要としていた。思い出の茶器が、ルイスダールの絵が、テーブルも時計も、母からの贈物だった宝石も売らなければならなかった。とうとう彼らは住み慣れたアパートから引っ越さなければならなくなった。引っ越し先のアパートからは、なかなか良い眺めが望めた。父の同僚が住んでいたので知っている。引っ越しして数か月たつと、アニタ・ムカルジーが亡くなった。

§5 本格料理の時代

   ボンベイは商売の街、デリーは政治と権力の街、とするとカルカッタは、何の街になるのだろう。カルカッタは、「夕飯を家でとりますか」の一言のために存在する。ベンガル人の立ち話は、天気の話からかならず食べ物の話になる。

   カルカッタの中産階級の人々にとって、中華料理は長いこと楽しみのひとつであった。思い出の中華料理屋の数々が思い浮かぶ。チョーリンギーにあったあの中華料理屋は何といったか。妻もその店の名前が、ここまで出かかっていて思い出せない。(記憶のなかでだけ存在する店。) 電話をかけまくって聞く。そう“南京”だったのだ。

   グロウバラゼイションとともに「本格的」な中華料理やイタリア料理がカルカッタにやってきた。しかし、インドで、外国人シェフが活躍するのは難しい。タジ・マハール・ホテルの中国人シェフは、今どこにいるのだろう。

   評判になったパン・エイジアという店にしても、最初たべた日本風の緑茶のアイスクリームに感激したが、再度訪ねると、何か味が変わっていた。パン・エイジアは、当地の人々に受け入れやすい味覚に迎合していったのだ。
   評判のイタリアン・レストラン、“カーサ・トスカーナ”の受付嬢は、聞いてみるとクロアチア出身だと言った。(これは、カルカッタのやりかたでなく、きわめてインド的なやりかただ。何か調子の狂った辻褄あわせだ。)

   インドの人々は、ローカルの食材を高級とは見做していない。彼らは、生のオリーブの実を好まない。二百年前の英国人作家の果物に関する記述が蘇る、ここの果物はみじめなものです、と。それでいて、インドの人々は、食に関して極めて保守的である。チーズすら味わおうとしない。ヒンドゥー改革派があえて肉をたべようとしたのは、遠い昔の話なのだ。

   ウイリアム・ジョーンズのアジア協会の地に、新しいホテルが建てられてゆく。それはカルカッタの変化を先取りしている。……タジ・ホテルのレストランで、品書きに生姜のプリンを見つけたのだ。懐かしい好物を発見して小躍りした。注文したのだが、それは生姜のプリンではなかった。ボーイに「これは生姜のプリンではない」と苦情を申し述べる、ボーイは「これは生姜のプリンに間違いございません」と繰り返す。とうとうシェフが現れ「もう本当の生姜のプリンを誰も望まないのです」と申し訳なさそうに言う。(愛おしいカルカッタが流失してゆく。) それを人々はニュー・インディアの到来と呼ぶ。

   ハイヤット・ホテルのイタリア人シェフ、カナツィにコーヒーショップで話を聞く。彼は、サルジニア島生まれ、トスカーナで育った。カナツィはとても困難な仕事をやりとげた男だった。彼のイタリア料理を現地化させずに常連客を獲得できたのだ。
   ミシュランのスター・シェフ、カナツィは驚くべき率直さで語る。インドとイタリアはすごく似ている、と。イタリア料理とインド料理は、別者とは思えない、と彼は続ける。ウイリアム・ジョーンズが、インド・ヨーロッパ語の同族性の根本を探りあてたのと似ている、と思った。(料理の世界で、カナツィが、食の根源を非妥協的に暴こうとしている。そうして、彼のイタリア料理は、インド化することを免れ、かつ顧客を得たのかも知れない。)
   カナツィは、別れ際に、是非ディナーを食べにきてくれ、と言った。(それは、商売の言葉というより共感の言葉だった。)

§6 召使たち

   彼らは朝早く、郊外のいろいろなところからやってくる。若いラージャは、アパートの住人の車やドア・ベルを綺麗にしてまわる。父の介護人カマラの朝も早かった。彼らは自由の気概があって威厳がある。彼らには気をつかわなければならない。季節の贈りものも必要だ。ちょっと注意したいのは、彼らをチョカールchakorとは呼ぶべきではないということだ。その意味は、使用人に近く、とるにたらぬ者、蔑みが入っている。そのようにではなく、単純に「働く者」カアジェル・ロクkaajer lokと呼ばなければならない。
   彼らは、ある日突然いなくなって、また突然帰ってくる。彼らは、彼らを居ずらくした村で自然災害や選挙があると、予定を変更して帰ってこなくなる。だが、また何かをきっかけとして、まるで何もなかったように帰ってくるのだ。

   ラキという女性の料理人は、気の利いた料理ができるだけでなく、造語の名人だった。飲み水に使う浄化水を「川岸の井戸水」と言ったりした。その彼女が遅れてやってくるようになった。他のアルバイトのためだった。そして、彼女がいなくなった。二年すると彼女が突然戻ってきた。彼女は、絶対に謝らない。今度は、金の装飾品がなくなった。母がすごく悲しんだが、警察には届けなかった。また、ずいぶん沢山の油や小麦粉がなくなる(消費される)もんだと話していたら、妻はラキが食料品を持ち出すところにでくわし、ラキを解雇しなければならなかった。私は、ラキを可愛がったし、彼女も私たちを好いていた。ラキとの関係が途絶えたかに見え彼女の存在が遠のいてゆくなか、ラキが長女の結婚式に私たちを招いてくれた。私たちは嬉しかった。私たちは、彼女の長女の結婚を喜んだ。ラキが再び私たちの料理人として働くようになってから、彼女がまた突然消えた。グトゥカ(パーン)中毒のラキのダンナがガンを患い亡くなったのだ。十日もすると、何もなかったように彼女は帰ってきた。
   ラキが小さな子供を連れてくるようになった。孫だった。末娘の夫が失踪したのだ。初め人見知りをしていた子が、次第に大胆に行動するようになった。居間に進入し居座るのだった。小さな専制君主に私は苛立ちながらも、(どこか憎めなかった。)。ラキは、孫が私の仕事の邪魔をしていることを理解していた。私は強い調子で「その子を学校に通わせなくていいのか」と彼女に迫った。実際、私もつてをたよって施設を捜したのだ。ラキは、「私ももう五十(歳)だ」と嘆息して言った。私は「とうに五十は越えている、私が四十九なのだから」と言い返し、自分自身がそのような歳になっていることに驚いた。ラキはたまたま職にあぶれていた女を自分の代わりに送りこんできた。孫の学校が見つかったのだ。

   ベンガルでは、女の子もすごく可愛がれる。インドの他のすべての地域で、男の子の誕生のみがもてはやされとしても、だ。
   シャンパルさんは、ディグハという有名な海岸リゾートでホテル(食堂)を営んでいた。母は、シャンパルさんをたよりにしていた。彼は、食堂のかたわら人の斡旋もしていたのだ。どうしても人手が必要なことをシャンパルさんにいうと、彼は自分の十五歳の娘を送ってよこした。母と妻は、そんな少女を働かせることはできず、読み書きを教えていた。彼女の良くない咳が家族には気になった。医者につれてゆくと医者の見立ては結核で、楽観できるものではなかった。父親が迎えにきて十日間で娘のシャンパは帰っていった。
   初めて私がシャンパにあったのは二年前だ。その時、やはり結核で亡くなった私の音楽の師と同じ兆候を私は感じた。妻がシャンパを医者に連れていった。医者は、治療が適切になされていない、と言った。医者の処方箋はいささか大仰に思えたが、ことの重大さを語っていた。薬代は妻が一年間支払った。父親が、地域の病院の無料医療に切り替えるまで続いた。
   結核は過去の病気のように思われがちだがそうではない。耐性菌による新手の結核は、少しでも治療を怠れば死に繋がる。……実は、シャンパの結核が十歳の自分の娘に感染していないか、私は心配していたのだ。娘は時々咳き込むことがある。杞憂だった。ただ、娘の咳がアレルギー性のものだと分かるまでに随分時間がかかったのだ。
   その後のシャンパのことを私はほとんど知らない。でも、彼女を忘れたわけではない。シャンパは本当にかわいげのある子で、年老いた母に時々電話をかけてきて母の話相手になってくれていたからだ。その娘が結婚するのだと知らせてきた。私たちは大いに喜んだ。結婚、すなわち結核の治癒を無意識に思ったからだ。
   シャンパのような気立てのよい、控えめで綺麗な庶民の娘は、将来のさまざまの可能性を軽く投げ捨て、さっと結婚してしまう。そしてすぐに子供を産み子育てに埋没する。ダンナが酒飲みでなく真面目に働けば、それなりの生活はできる。しかし、多くの場合そうではない。シャンパも水汲みの重労働をしなければならなかった。
   母がシャンパルさんに電話すると「シャンパは逝ってしまった、彼女はもういない」と告げられる。母は、唇を震わせながら私たちに繰り返した。シャンパは十九歳だった。

 
§7 ああ!カルカッタ

   それは年にほんの二度、三度のことなのだけれど、ミニ・マシにしばらく会っていないなー、と思うことがあった。ミニ・マシは母の古くからの親友だ。彼女が発作を起こし、今度ばかりはショブハバザールの介護病院に入ることになった。

   ショブハバザールは、北カルカッタのもともとはベンガル・ルネサンスの土地柄だ。つまり、いかがわしい者たちが財産を作ったところなのだ。新興成金は、そこに屋敷を建てた。それら成功者たちの息子や孫が詩人や芸術家になっていった。
ベンガル・ルネサンスのそもそもの始まりは、あの髭の肖像画のラーム・ローハン・ロイに始まる、と私は思っている。カルカッタのブラフマンの知識人は、カーリダーサの翻訳者ウイリアム・ジョーンズなどの西欧人との接触を通じて自らのアイデンティティに目覚めていったのだ。だが、ベンガル・ルネサンスもブゥハドゥラロクゥ(Bhadralokベンガルの高等遊民)も誤解されてきた。キップリングには、カルカッタの現代性を理解できなかった。

   カルカッタの現代性とは、新しさということではない。(その現代性は自由に少しばかり似ている。) ジュリアーニ市長とグロウバラゼイション以前のニューヨークでその自由を私は再体験した。そして、ベルリンのユダヤ人歴史博物館で、その現代性とは人々の平凡さであることを確認したのだ。
ベンガルのモダニストはヒンドゥーの神々をしりぞけた。宗教を持たない新しい世代の到来なのだった。(おおいなる平凡の時代がやってきた)。

   母をつれて、母の古い友人を介護病院に訪ねてゆく。開発の対象になっている北カルカッタなのだが、いまのところグロウバラゼイションの圧力は感じられない。
ミニは半分眠っているようであり、半分覚醒しているようだった。彼女は、私を認めると真実驚いたのだった。
   彼女も母と同じくシルヘット(現バングラデシュ北部の都市)からやってきたのだ。
シルヘットの人々は、今や世界中に四散して働いている。一種のコズモポリタン、根なし草だが、本好きで文化・文物を愛しむ者が多い。彼らの訛りは明瞭で、彼らのジョークはとびきり辛辣だ。タゴールの詩を替え歌にして楽しんだ。
   ミニは、私たちが訪問した四日後に亡くなった。

99.ティルパティへ

インドの結婚式に行ってきた
煌びやかなこと ゆるやかな進行
二人を祝福する 幸福の雰囲気に
心が動いた
そして この機会を利用して
数年あたためてきた
ティルパティ詣でを実行する
天上のヴェンカテーシュヴァラ寺院における
信仰の姿 そしてさまざまの消費を
また ヴィジャヤナガル王国の末路を 思った
慌ただしく 心が騒ぎ 切なく 
愚かな失敗もあった
駆け足の旅であった


    四月、インドの知人から結婚式の招待状が舞い込んだ。今の、インドの、結婚式を見たいと思った。インドの小説は結婚式と葬儀を好んで描く。しかし、実際に肌身に感じる結婚式は、小説とは違うはずだ。バンガロールに飛んだ。

    実際の式に参列してみると、私の気持ちに変化が起こった。式への興味は萎(しぼ)み、式への、結婚する二人への祝福へと変化していった。式に参列している人々の幸福感が貴重に思えたのだ。


はじまりccc

    ヒジュラ(半陰陽)の闖入があった。人々はそのヒジュラを排斥するでもなく、見て見ぬふりをしているようだった。じきにそのヒジュラはいなくなった。……ヒジュラを、異物として排除しない、疎ましく思いながらも彼らの生存権を認めているように見えるインドを私は正しいと思う。

    二日にわたる式は緩やかに進む。型にはまらない穏やかな秩序がいい。受付もなければ、頃合いをみて式を抜け、また戻る人もいる。三々五々、供された食事をとりにゆく。豪奢なサリーを着飾る者もいれば、ほとんど普段着の者もいる。ラッパやヴァイオリンによる賑々しい音曲は、厳かというより、エネルギ―に充ち、力強い。この音楽は、旋律であるよりも音である。

    二人への贈物を何にするか迷った。一日目のリセプションと呼んでいる式では、二人に贈物を渡す場面が設定されていて、多くの人が贈物を渡していた。なかに封筒を渡している者が少数いる。お金なのか。一昔前は、お金を包むのが一般的だったが、今は流行らないのだ、とあとで聞く。

    緩やかに進行する式。それには物語があるようだ。両家による新郎・新婦の受け入れ、初めて新郎と新婦が対面する場面、両親たちが一時、神々に昇華する、その神々の前で新郎・新婦は人間としての契りを結ぶ、そして二人は、社会的な存在として認知される、その間、何度も米や穀類が参列者の方から、二人に投げられる。

    式を司るパンディットも時に冗談を言いながら、サンスクリットの経典を朗誦し、サンダルウッドを燃やす。

    ふたりの結婚は、家と家との関係の上に成り立つ。つまり恋愛結婚ではない。ただし、強制的では無論ない。いろいろ面倒をみてくれたM君にしても、恋愛結婚は考えられない、と言う(ついでに言うと彼はジャイナ教徒、しかしそれほど厳格な菜食主義ではないと言う)。

きらきらbbb

    小説家R. K. ナーラーヤンの恋愛結婚を想う。1930年代におけるは、恋愛結婚は(幸い家柄は同じであった)、相当に過激な、言ってみれば反社会的な行為であったのだろう。……そのナーラーヤンが、美しい見合いのための旅を書いた。列車と牛車を乗り継いで、南インドの農村地帯を父と息子は旅する。父は、自分のことを回想しているのだ。だが『菓子屋』The Vendor of Sweets (1967)という小説は、父親が息子に裏切られる小説である。アメリカに留学した息子は、アメリカ人と朝鮮人のハーフの恋人を連れて故郷に戻ってくる。物語作成マシーンなる珍妙なものを商売にしようとし(AIの時代、その珍妙なアイディアが現実化しつつある)、ウィスキーの不法所持で逮捕されるのだ。若いナーラーヤンは反逆を試みた。しかしそのナーラーヤンが反逆は見苦しい、と悔恨を語っているのだろうか。美は、伝統と秩序の側にあると言っているのだろうか。

煙のなかbbb

舞台の二人bbb

    フォーレンスィックと叫ぶおそらく新郎の仲間(これが年貢の納め時、というように聞こえる)、二人の結婚の役所への登記で式は締められる。

                                                                ***

    翌日、冷房ききすぎのヴォルヴォのバスで、ティルパティへ、向かう。
バンガロールの街から出ると、南インドの、煉瓦色の土地が帰ってくる。懐かしい、と思う。二年ぶりのインドは、優しさとは違う表情で私を迎えてくれる。通り過ぎる、小さな街のただ住まい、人々の姿に眼を凝らす。命、命、命が通り過ぎる。

ブルカbbb

    前回、2015年11月にハンピにビジャヤナガル王国の遺跡・廃墟を訪ねてからティルパティのことが気になりだしていた。ティルパティパは、ビジャヤナガル王国にとって特別なところだからだ。ティルパティは、王国にとって、わが国でいうところの菩提寺である。そしてまた、王国は、この地に落ち延びた。(実際の王国滅亡は身を寄せていたタンジャーヴールの陥落1649年)

    ティルパティパ寺院群は、ティルヴェンガダムの岩山の上にある。

岩山の上bbb

    ティルパティの、ティルヴェンガダムの丘への道行が素晴らしい。岩山を、つつじの類、夾竹桃、しゃくなげの類の花々が覆う。花々と光とその影に魂が浄化されてゆくようだ。神々への道と呼ぶのにふさわしい。

bbbバスから

    ティルパティの麓から歩いている人は見受けられない。ほとんどの人々が、バスや乗り合いタクシーを利用しているように見えた。バスの運行は壮絶なものがある。深夜も、夜明けもバスがひっきりなしに走る。……帰路バスの車上より気付いたのだが、丘の上部に参道があり、日除けの並木がつづく。その石の道を多くの人が歩いていた。再訪する機会があればあの道を歩きたい。

    ティルパティの人気は凄まじい。より正確にはティルパティより十数キロ離れたティルマラにあるヴェンカテーシュヴァラ寺院には、毎年数百万人の参拝者が訪れるという。ティルパティ・ティルマラは、歴史遺産を誇る観光地ではなく、現に生きる人々の信仰の山・寺院なのだ。近代は観光と巡礼を引き裂いた。ティルパティは人々のそれとない信仰の上にたつ。

丘の上の街bbb
△丘の上の街ティルマラのたたずまい

    丘の上の門前町は、避暑の別荘地の趣だ。多くのコッテージがあって、参詣の人々に宿を提供しているようだった。それらの多くがコンクリート製で、清潔そうだがあまり風情がない。数百年まえのその姿を想像してみなければならない。

  「わたしはトリピティ(ティルパティ)の町に二日滞在した。無数の売春婦や踊り子が、見たこともないくらいふしだらに、偶像の前で休むことなく踊るが、その目的はすべて享楽にあった」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    信仰は、そしてとりわけ巡礼は享楽と結びつく。

    ガイドブックによると、外国人専用の窓口にいって“許可書”を取得すべきだとある。そうでないと、神像をひと目見るためにとても長い時間待たされる、と。郵便局の職員は丁寧に道を教えてくれた。が、土地勘がないので迷う。それでも剃髪のための散髪屋の並ぶ道を過ぎ(敬虔なヒンドゥーの人々は、男も女も子供も乳飲み子も剃髪して「頭をひりひりさせながら」参詣する、ちなみにその数は、5,6人に一人ぐらいの割合か)、何度か道を尋ね、Joint Executive Officeに辿りつく。土曜日だからなのか門は閉じられている。何かのレターを手にしたインドの人々が数人、何かを待っている。守衛に外国人用の“許可書”をここで発行していると聞いたのだけどと掛けあうが、まるで相手にされず、それでも食い下がると「入り口でパスポートを見せれば通れる」と躱される。“許可書”取得は諦め、外国人特権を潔く放棄し、参詣の人々の流れに紛れ込む。それからは、説明するのもバカバカしいドタバタ劇。それでも寺院付きの親切なヴォランティアに助けられ(「チケットを失くしたと言え」というアドヴァイスまでもらう)、待機室に辿りつく。

    ヴィジャヤナガルの王たちは、自らの正当性をヴェンカテーシュヴァラ寺院に求めた。即位灌頂(パッタービシェーカ)の儀礼をここで行ったのだ。簒奪によって王となったサールヴァ・ナラスィンハ(在位1486-91)は寺院に対してとりわけ気前が良かった。王の側近、カンダーダイ・ラーマーヌジャ・アイヤンガールは、ヴィシュヌ信仰の教派指導者だった。そして、王国の最盛期、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509-29)は、先例以上にティルパティに入れ込む。一面にヴェンカテーシュヴァラ像を、もう一面に自らの名前をデザインした金貨を発行した。

    主神像を拝顔するために長い時間を(数時間)、鉄格子の入った部厚いコンクリートの部屋で待機しなければならなかった。写真撮影の禁止は厳格そうだ。寺院の境内に対し、段差がついている大部屋は、監獄というイメージではない。寺院の大宿坊に近い。多くの人が、横になって居眠りしながら待つ。
その間、丘とはいえ(標高は700mぐらいか)、湿度は低いが37度近い気温、ペットボトルの水も取り上げられ、喉がかわきそれが辛い。うまそうな水が蛇口から飲めるのだが、生水は避けた。大きなビデオモニターが置かれていて、寺院の様子やある種の儀礼を繰り返し流していた。

    前方で人々がざわめき、いよいよ入場かと思っていると、食事の供与だった。紙皿に盛られて炊き込みご飯が配られる。塩と香料で味付けされ、具は入っていない。この食事は、待っているあいだ二度供された。少しだけ食べた。

    その人は、タミルナードゥ州のティルプルという街からやってきた。夜行列車で朝到着しそのまま来たのだと言う。驚くべきことに、毎月来るのだと言う。「どうしてそんなにここに来るのがいいのですか」と聞くと、ただにっこり微笑むだけ。ここにお参りするのが生きる喜びなのだ、と。奥さんとは、年に一回一緒にくるけれども、いつもはひとりなのだ、そうだ。職業は、300人働く縫製工場のエンジニアだという。だが、その風貌は現場監督だった。

    ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、王のための寺院であったとともに庶民のための寺院だったのだ。ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、13世紀のヴィシュヌ派の改革者ラーマヌージャに深く結びつく一方で、ヴァクチの信仰とも、当然のこととして結びつく。祝祭のなか、山車の車輪の下に我が身を投じる者、寺院の前で自殺するもの、鉤吊り自殺(「木につけた鉄鉤に肋骨をかけ、短剣で肉を裂いて、矢の先端につけてから矢を放ち、…自らの命を絶つ」)、見物人は犠牲者の肉片を持ち帰り、遺物として保存したのだと言う(無名のポルトガル人画家による記録、16世紀中ごろ)。

  「ゴーヴィンダ」と主神の別名を斉唱しながら、人々は、幼子から年老いたものまでが折り重なるようにして、狭い通路や階段を少しずつ進む。やたらと待たされるが、事故防止のためにやむを得ない。これもまた、ティルパティ繁栄の理由なのだろう。……寺院の回廊に入るところでまた長いこと待たされる。「ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ」という斉唱が繰り返される。

    人をかき分け、再度セキュリティチェックがあり、それからようやく、暗い寺院の奥深いとろろにシュリー・ヴェンカテーシュヴァラ神を、ほんの十数秒、望見する。奥行6~7mの闇のなかに、微かな光と輝くものが認められた。

    主神がどのようなものなのか、古い記録・記述をみてみよう。

  「そこで崇拝されている偶像は、高さ約七フィート[二m]の石の立像で腕が四本ある。それはヴィシュヌを擬人化したものであり、その二本の腕にはヴィシュヌの象徴が握られている。右手のひとつにあるチャクラ、つまり戦闘用棍棒と、左手のひとつにあるシャンカ、つまり聖なる法螺貝である。もうひとつの右手は、偶像が立つ丘の聖なる起源を明示して大地を指し、もうひとつの左手は、蓮をもつ」(ジョージ・ストラットンの記述、1803年)

  「その建物[寺院]の中には金属製の偶像があった。その両目は銀でできていて、その内側部分は鏡のように反射するある種のガラスであった。多くの宝石で豪華に飾られており、ダイヤモンドとルビーを取り付けた腰帯をまとっていた。また像の胴体部分には高価なダイヤモンドがあり、バラモンたちによればその価格は一二万パゴダだという」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    主神像を拝顔して、そのあとに賽銭所があった。開いた傘をひっくり返したような形の白い布の受けに、人々は気前よく布施をしている。なかには、二センチもあるような紙幣の紙包みを、大切そうに置く者もいた。

    ティルパティ寺院群の最大の特長は、その豊かな財力である。その巨万の財力にはたくさんの物語がついてまわる。その膨大な物語をかいつまんで書いてみよう。①長いこと寺院は、一大地主組織であるとともに定期市や縁日による税収を得ていた、②寺院は(先にも述べたように)歴代のビジャヤナガル王から莫大な寄進を得ていた、③インドに進出した西欧人たちは、ティルパティを「異教徒(ジェンダイル)のローマ」と呼び、その寺院の豊かな財宝をよく知っていた。彼らはティルパティを東洋の黄金郷(エルドラド)であると考え、さらに寺院の財宝略奪を目的とした遠征も企てた(未遂)、④寺院は、勢いの衰えた後期ヴィジャヤナガルの諸王に融資を行った、⑤この豊かさの伝統は現在までひきつがれている、寺院は豊かな財源をもとにコテージ、結婚式場、団地、学校も経営している、と言う。
    ティルパティの豊かな財力は、独特な集金システムと、ある種の消費・蕩尽の姿を、ゆるやかに演じているように見える。これを経済活動とは、呼びたくない気がする。

    翌日、チャンドラギリに向かう。

    ガイドブックには、ティルパティの列車駅からバスが出ているとあるが、列車駅にいってみるとバス・ターミナルからだと車掌達はいう(二人に確認)、バス・ターミナルに行ってみると、ターミナルではなく、メイン・ロードに止まるという(二人に確認)、それらしきところで待っているが一向にチャンドラギリ行きのバスはこない、しかたなくオートリクソウを拾う。ローカルバスに揺られて、村々をめぐるツアーを思っていたが、インドの旅はそう簡単には思うようにならない。

夜bbb
△ティルパティの夜

    ビジャヤナガル王国は、その誕生のときから(1336年)から滅亡まで、周囲のムスリム諸王国との緊張・対立・戦争のなかにあった。一時も戦時体制を解くことができなかった。ビジャヤナガル王国は、強大なヒンドゥー軍事国家なのだ(がその精鋭部隊はムスリムだった、という歴史弁証法が興味深い)王国の最盛期を統治したクリシュナデーヴァラーヤが没すると、王国は内紛を繰り返し不安定な時代が続いた。1550年代と1560年代前半、ヴィジャヤナガル王国は、アーラヴィードゥー家(簒奪による第四王朝)に繋がるラーマ・ラージャのもとで軍事大国として息を吹き返す。
    ラーマ・ラージャはポルトガル人を脅し、ビージャープルへの軍馬の供給を停止させ、ビージャープルを打ち破る。そして今度は、ビージャープルと同盟しゴールコンダとアフマドナガルを攻撃し打ち破る。が、これら三ムスリム王国は連合し、1565年クリシュナー川北岸のラークシャシ・タンガティ(ターリーコータ)でヴィジャヤナガルに決定的な勝利をおさめる。ラーマ・ラージャは包囲され、捕われ、即座に処刑された。王都ヴィジャヤナガルは、徹底的に破壊される(その破壊は六か月、あるいは一年を要した、と言われる)。

    壊滅的な敗北を喫したヴィジャヤナガルは、それでもあと百年生きながらえる。ラーマ・ラージャの弟、ティルマラはサダーシヴァを擁して南のペヌコンダ(バンガロールの北100km)に落ち延びる。

    幹線道路から、入り組んだ細道にはいり村やらスラムやらを通り過ぎてゆくと、花崗岩の岩山を背にしたチャンドラギリ城址に辿りつく。城址は、今は、博物館を擁する公園になっていて、恋人たちや、近隣の家族の人たちが散策を楽しんでいる。博物館になっているかっての屋敷は、そのごく一部がオリジナルで、あとは近年再建されたものだ。花崗岩の岩山が見事に聳え、城壁の残骸が残る。池の水は、藻の繁殖で緑色に変色していた。そこで侘しい貸ボートが営業していた。

池と岩bbb
△チャンドラギリ城址の岩山

    アーラヴィンド・ヴェンカタパティ・ラーヤ(在位1586-1614)が、1594年首都をペヌゴンダからチャンドラギリに移した。ハンピのヒンドゥーの楽園を失ってから三十年、ヴィジャヤナガルが、ビージャープルやゴールコンダの軍事圧力につねに晒されなら過ごした日々はどのようなものであったのか、と思う。一時勢力を盛り返すこともあった。しかし、王国の弱体化はあきらかであり、諸侯・ナーヤカの反乱・独立があいつぎ、また北には、ムスリム諸国があった……というような旅の感傷に耽っていると、公園の柵をよじ登ってさきほどのリキソウ・ワラが何かを叫んでいる。早く戻ってこいと言っているようだった。チャンドラギリについて二時間が経過していたのだ。滞在時間を制約されたくないのでバスで来たかったのだと思いだす。

公園と屋敷bbb
△チャンドラギリの城址・遺跡博物館

    帰りは、チェンナイ (何故かチェンナイだけは、マドラスでなくナショナリズムの新地名が自然にでてくる)からの便をとった。

クーム川bbb

    チェンナイの市街を流れるクーム川のほとりを歩く。メタンガスの悪臭が漂うこのスラムもまたインドの今。悲しみというような感傷をこばむ迫力がある。ティルパティの天上の聖なる楽園をこの汚辱が支えている。わたしは、その両方が気にかかるのだ。

<参照した本>
S. スブラフマニヤム『接続されて歴史 インドとヨーロッパ』(三田昌彦・太田信宏訳、名古屋大学出版会、原著2001年、2005年刊)
辛島昇編『世界歴史大系 南アジア3 南インド』(山川出版社2007年刊)
サティーシュ・チャンドラ『中世インドの歴史』(小名康之・長島弘訳、山川出版社、原著1978年刊)


98.アミット・チョウドリー『海を渡ったオデュッセウス』、Amit Chaudhuri, Odysseus Abroad, published by Alefred A Knopf 2014, originally in India 2014.

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『海を渡ったオデュッセウス』は
ジョイスの『ユリシーズ』に似て
ある一日の物語である
異邦の地に彷徨う インド人の若者の
初夏の ロンドンのその一日を
特長付けるのは主に三つ場面である
主人公のアーナンドがウォーレン通りの
フラットで目覚め
マレット通りの学部で教授と面接し
それからベルサイズ・パークに住む伯父さんに
会いにゆくことなのだ
この小説に事件はなく ありきたりの生と
そこから派生する想念・記憶・観察が
小説の時間をつくる
アミット・チョウドリーの文章の力と
詩的想像力が読者を飽きさせない
読者がこの本から最終的に受け取るものは
存在の静謐な影
間違って現代に紛れ込んだ英雄の
無残な姿 あるいは
見えない神に近づいて行こう
とする足音 であるのかも知れない
 
   アミット・チョウドリーは、1962年生まれのインドの小説家で、英語で書いている。カルカッタとボンベイで育った。高等教育は英国のロンドン大学やオックスフォードで学んだ。ずいぶんいろいろな文学賞をとっているけれども、2002年には、サーヒティヤ・アカデミー賞を『新世界』A New World (2000)で受賞している。
チョウドリーの小説は、二通りあるように思う。ひとつは『新世界』のように、どちらかというと物語性に富む小説、もうひとつは『午後のラーグ』Afternoon Raag (1993)のように日々の生活のなかのささやかな出来事、また自らの存在をじっと見つめ語っていく作品群とに分かれるのだ。チョウドリーの2013年発表の『海を渡ったオデュッセウス』は、その両者の中間をゆくように見える。あるいは存在への凝視・気付きと劇的なもの・物語性との総合の試みのように見える。別の言い方をすると、これは詩と物語の融合であるかも知れない。
   ところで『海を渡ったオデュッセウス』はとても難解な小説だ。ジョイスの『ユリシーズ』ほどではないとしても、チョウドリーの他の小説にくらべてもとりわけ難しい。あまり自信はないのだけれども、大雑把な輪郭と気になったディティールを辿ってみたい。

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■『新世界』A New World (2000)
主人公のジャヨジットが、アメリカから父母の住むカルカッタに里帰りする物語だ。
妻と離婚し、小学生の一人息子を連れ、格安航空のビーマン機を乗り継ぎ、
一線を引退した父母のフラットに辿りつく。
…2か月のカルカッタでの休暇のあいだとありたてて言うほどの事件はおこらない。
最終章で、両親はカルカッタ空港へ見送りにでむくのだが
、ロビーでは、ハワイアン・ギターに合わせてタゴールの歌が流れていて、
それは何とも言えない寂しさを湛えている。

   アーナンドはベッドで眼をさます。爽やかな目覚めではない。ロンドンのどこかのフラットなのだろう(ウォーレン通り)。ふと、数日前にテレビでみたチャリティコンサートの記憶が蘇る。飢えたエチオピアの子供たちとウェンブリー・スタジアムで踊る人々の映像が、アーナンドにとってはひどく居心地が悪かった。飢餓という厳しい現実とロックミュージックに体を揺らす平穏そうな人々との対照は残酷なものである。このテレビ番組について、障害をもつマークと大学の食堂で話をした。マークは、素晴らしいイベントだと言うのだった。意見はまるでかみ合わなかった。入学当時の記憶が重なってゆく。反戦・反核デモがあったのだ。巡航ミサイルについての報道に恐怖した。アーナンドは死を身近に想像した。彼のおじさんロドゥヘシは、核兵器は予兆にすぎない、どんな破滅が待っていようと予兆を怖がってはならない、とアーナンドを宥(なだ)めたのだった。伯父さんの言葉には知性の輝きがある。
   フラットの部屋の重い木枠の窓。初夏なのだろうか。いつもと同じ風景。
   階上の住人は遅くまで寝ている。彼らの足音について。
   昨晩は良く眠れなかった。胃酸過多のせいでもある。階上の住人、パテルや彼の恋人のシンシアは、夜中の三時、または明け方になってやっと寝入るのだ。シンシアは、キリスト教へ改宗したベンガル人の娘だ。新しいタイプの女なのだ、と思う。新しい女とは、自由恋愛する者の意味だ。ヴィヴェク・パテルの父親は、西アフリカ・タンザニアで商売をしていた。その父親がヴィヴェックをロンドンのビジネス・スクールに送り込んできた。彼らの商売にアメリカ流のマネージメントが必要なのだろうか。そんなはずはない、とするとヴィヴェクはロンドンに何をしにきたのだろう、とアーナンドは思うのだ。
(アーナンド自身の不確かなロンドン滞在の目的が対象化され、批評されている)。
   アーナンドの夕食の定番はシンガポール・ヌードルか焼き飯だ。そのユーストン通りの中華料理屋の店員は無愛想だ。言葉が分からないからかも知れない……。
           
   というような観念とも想念ともいうべきことがらが次々に繰り出されてゆく。
ところで『海を渡ったオデュッセウス』は、ジョイスの『ユリシーズ』と同じように、アーナンドのある一日を軸に展開してゆく。(同じ六月の一日)。アーナンドの「青春」の、ロンドンにおけるある一日に、彼の回想・観察・洞察・感想・意見を接ぎ木する。それはジョイスの「意識の流れ」というよりは、海を渡ったオデュッセウスの、異邦の風景と体験についての詩的なモノローグ・エッセイに近い。

   階級!アーナンドは英国にくるまでそれを考えてみることすらなかった。階級と呼べるものがインドにはまるでないからだ。


   あるいは、父親・母親についての回想。彼の両親は、アーナンドに先行してロンドンでの移民生活を試み、そして故国に帰った者達なのだ。ついでに言うと、アーナンドにとってはタゴールもまた学位をとりそこねて故国に帰った者だ。ただ、かれの伯父さんは(母親の兄)、ロンドンで一度もホームシックになったことがない、と強がりを言うのだがアーナンドはそれをウソだと思っている。

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■『午後のラーグ』Afternoon Raag (1993)
この小説は、アミット・チョウドリーにおける英国のオックスフォードとボンベイの二都物語である。
オックスフォードの雨や街、風変わりな学友、インドからの留学生との交流等々が、
静かだが力強い文章で描かれてゆく。
他方で、エクスタラバガンサを楽しむボンベイの音楽一家が回想される。
それはボンベイの旧市街にある小さな寺院に家族が集まり、
一家の精神的よりどころであるグル(師)を偲んで、
夕刻から早朝まで、入れ替わり立ち代わり歌曲が歌われ、演奏されてゆくのだ。     

   朝の九時頃起きて、フラットの隣人のことやら、家族のことやらが細かく描かれたあと、アーナンドが向かうのは指導教授との少し憂ウツな面談だ。……何人かの指導教授の回想があり、今の指導教授とのやり取りが述べられる。要約がほとんど無意味と言いたくなるディティールにつぐディティールの連続なのだが、そしてそれは、アミット・チョウドリーの文章の力によるのか、一見退屈だが丁寧に読み込んでゆくととても味わい深い。そのような文章の紡ぎのなかでも、記憶にのこるのは、ある女性教授の回想だ。

   教授は中世古典文学の専門家だった。クリステヴァの本に感銘をうけたフェミニストでもある。教授は、チョーサーを詩人として捉えているが、アーナンドにとってチョーサーは詩人ではない。バートン博士は、アーナンドに中世古典文学を情熱的に語った。しかし、アーナンドは別の種類の、つまり男と女の緊張を感じ始めるのだった。アーナンドは、教授が性的な関係を欲しているのではないかと感じた。それは確かなようにアーナンドには思えた。しかし、アーナンドは、彼女とのセックスを自分も欲している反面、なにかしっくりいかないものを感じていた。

   それだけのことなのだ。が、この小説を読む者は、現代に紛れ込んだオデュッセウスの性への夢想の矮小さを思わずにいられない。この小説の一つのテーマは、アーナンドの両義的な性についての物語なのだろう。ポルノグラフィーへの偏愛とマスターベーション、同性愛への親近感と異性愛への齟齬の感覚、近親愛の誘惑、手を変え品をかえアーナンドの不安定でとらえどころのない性のありようが顔をだす。

   アーナンドはマレット通りの学部に指導教授を、気が進まないまま訪問する。教授は暖かいのにジャケットを着ている。何故だ。デーヴィッド教授は、少し名の売れた作家でもある。教授は文学の研究者ではなく小説家なのだ。リトアニア生まれのユダヤ人で英国人とは違う喋り方をする。アーナンドの課題エッセイについて品評が始まる。「楽しめた(退屈しなかった)」というデーヴィッド教授の言葉にアーナンドは引っかかる。二人の間の微妙な違和がアーナンドの文学についてのこだわりを暗示している。アーナンドは人間が生きていくうえでのある種の痛みについて書き、小説家のデーヴィッドはそのような痛みの感覚を相対化するスタイルを得意としているようなのだ。アーナンドの書いた「川を渡る」という詩行について、それは二年前なかば強制的に別れさせられた「いとこ」との愛と無関係ではない。T・S・エリオットやフィリップ・ラーキンの詩を模して書いた詩ではない。むしろカーリダーサの詩作における核心となる観念ヴィラハ(viraha、別離)との親和性をもつ。二人のやりとりとアーナンドの回想は錯綜し、飛躍し、断片的で込み入っている。数週間前に読んだシェークスピアのソネット集にオーデンが序文を書いていて、オーデンはハンナ・アーレントを引き合いにだし、とても説明しにくいことを書いていた、というような語りが続く。あるいは、“エンカウンター”紙にこの詩を投稿し没となったこと、返送されてきた原稿に付けられた心のこもった手紙はアーナンドにとって宝なのだ、とも言う。アーナンドは謝絶なかに自分への理解を見出す。……教授は、アーナンドの文学的センスを一流であると認める一方で、「君は詩ばかりを読んできたんだね」とアーナンドの文学的性向の偏りをつく。その通りなのだとアーナンドは思い、小説というものをほとんど読んでこなかった、と納得する。小説と言えるようなものは『西部戦線異状なし』と『武器よさらば』ぐらいしか読んだことがなかった。それでも『ユリシーズ』はどうにか最後まで読んだが、何も理解できなかった。文頭の大文字のSがなぜか記憶に残るだけなのだ、と。……教授はもっと小説を読むべきだといくつかの本を推薦する。例えばスウィフトの『ガリヴァー旅行記』。アーナンドは、教授がアーナンドに罰を、つまり学校の地道で退屈な勉強に戻れ、という罰を与えようとしているのだ、と感じる。

   デーヴィッド教授のところを辞したあと、アーナンドは伯父さんのところに向かう。この小説は、伯父さんの存在を抜きにしては成り立たない。伯父さんは事件を起こすのではない。ありきたりの日常の生活の風景と、それを少しく彩るウソの寄せ集めが特長といえば特長なのだ。しかし、アーナンドが、そのちょっと風変わりで寂しさのつきまとう伯父さんのことを好いている。何故だかはっきりはしないが、この伯父さんには、下品な生活の匂いと、非常に高貴な魂が混在していて、それはアーナンドのいささか詩的でとらえどころのない存在を慰め勇気づけているように見える。アーナンドはこの伯父さんと一緒にいると安心できるのだろう。インドにいたらそうはならない、故郷喪失者同士の強い引き付けあう関係だ。

   学部をあとにアーナンドは、何を昼食に食べようか、というようなことを考えながら“タイムズ”をキオスクで買い、アジア書店を覗き、グージ通り駅近くでフライドチキンを食べようかと迷う。しかしおなかが空いているのではない、と気づく。エッジウェア行きの地下鉄に乗り、列車はモーニントン・クレシェント駅を通過し、ベルサイズ・パークへと走る。
   地下鉄を降りると、通りの角の花屋では、誰かがもらうことになるだろうブーケを作っている。陽が通りの向こうに落ちようとするとき、北欧風のアパートが立ち並ぶところを通り過ぎるとベルサイズ・パークに到る。ベルサイズ・パークNW3番地、ここには嘗てアーナンドの両親が住んでいた。緑のドアの23号室があって、くり色の扉の24号室が伯父さんの棲家だ。…アーナンドの父親は、ここで会計士試験の勉強をしていた。紆余曲折があったのだが、父親は最終的に会計士の試験に合格する。アーナンドはそのため金の苦労をしたことがない。
   扉をあけると伯父さんが立っている。中にはいると、伯父さん特有のいつもの儀式が始まるのだ。「アーナンド、今朝私が何を食べたか当ててごらん」と伯父さんは言うのだ。アーナンドは知らないふりをしなければならない。「砂糖を一杯いれたコーヒー、蜂蜜、一かけらのパン、それに水を二十杯」と、さもそれが理想の朝食のように言うのだ。

   ロドゥヘシ(伯父)は、孤独な一人の王国の住人だ。王国を存続するために、風変わりな物語をロドゥヘシは作り、語る。アーナンドは、そのような話に飽きているはずなのに、伯父さんの冗談・語りを受け入れる。アーナンドを特長付けるのは、育ちの良さを感じさせる受動性と、詩人としての固執だ。

   伯父さんはシティで働いていた。伯父さんが、フィッリップ・ブラザースで(総合商社?)なぜ重役になれなかったのか、その理由をアーナンドに繰り返し語る。伯父さんは、アーナンドの父が近年重役になったことが引っかかっているのだ。伯父さんが語るその理由はバカげている。トイレ時間が長すぎたからだ、と。(インド人は、排便についてじつに色々と意味づけをする人々だ)。……ジルベルタはトイレの清掃をしていた(この小説において清掃に携わる者たちへの視線もまた独特である。区別しつつ平等なのだ)。ポルトガル人の娘で、伯父さんはその娘に恋をしてしまった。彼女もまた感応した。ある日、伯父さんは、ジルベルタにタマをぐっと握られてしまったのだと言う。だが、ジルベルタは、同じ事務所で働く下らない男にさらわれてしまった。伯父さんは生涯童貞なのだ。

   伯父さんとアーナンドは、ベルサイズ・パークのフラットをあとに街にでる。といって二人に特に行き先があるわけではない。行き先も用事もない外出、その雰囲気がとても独特だ。家のまわりをひと歩きする散歩とも違う。恋人どうしの時間に近いだろうか。二人の時間をもつために、二人の会話をもつために、外にでる。その時、街の風景は歌における季語のようなものになる。

   有名人も多く住むハムステッド街。今日は、金曜日。二人はティーショップに入る。二人はお茶を飲んでいる。伯父さんは気分がいいのか、タゴールの詩を歌いだす。隣の席の英国の人は聞こえないふりをする。伯父さんはタゴールの信奉者なのだ。「若いころ、故郷のシロン(アッサム州の旧州都)では、皆詩に親しみ詩を書いた。君のお父さんもいい詩を書いた。兄貴も素晴らしい詩を書いたんだ」と伯父さんは語る。その故郷にいる兄に、伯父さんは今でも金をせびられている。伯父さんは、アーナンドにマフィンを食べろとしきりに勧める。アーナンドは、本当に腹をへらしているのは伯父さんなのだということを知っている。「伯父さんも詩をかいた?」とアーナンドは尋ねる。伯父さんの父親が交通事故で突然亡くなったのはロドゥヘシが三歳のときだった。家計は一挙に苦しくなったのだ。伯父さんは学業優秀な生徒だったが高校を出ると、中古車のセールスマンをやって一家を支えたのだ。シルヘット(現バングラディッシュの北東の街)からシロンへ、そしてロンドンに家族のために働き場を変えていった。…伯父さんは、自分の父親を別の世界の人、つまりタゴールが生きた時代・世界の人だと語った。……ウェイトレスは勘定書きをテーブルに置くとさっと立ち去っていった。伯父さんは、軽口の一つ二つを交わしたかったのかも知れない。伯父さんは、チップをどれだけおいたらいいのか悩み、アーナンドに相談するのだ。モップとバケツをもったシークの女が、まるで結婚披露宴の主役であるかのように、テーブルの間を飛び回ってゆく。

   伯父さんが語りかけてくるのは、ある種のステレオタイプと化したインドの人に近い。節約につぐ節約、大言壮語、儀礼化した日常、ウソを楽しむ心理、等々。予想できなかったのは伯父さんの詩への感受性、タゴールの信奉者だということだ。そして、詩は、伯父さんとアーナンドの数少ない共通の関心事でもある。伯父さんは、詩をもつ超俗的な魂と家族を支えていかなければならない世俗の苦労との両方のなかにある。だから、伯父さんは、チップをいくらおくかでいつも大いに悩む。アーナンドはその場合、助言者に徹する。だが、アーナンドは、そのような伯父さんを好いていて、伯父さんも、アーナンドが自分の理解者だと思っている。

   二人は外にでる。トラスト・ハウス・フォルト・ホテルを通り、王立自由病院もすぎ、動物園のアナグマについて語り……あの頃、キーツが心の支えだった、とアーナンドは回想する。愛していた姪と別れロンドンに来たのだった。キーツの病と悲恋を思ったのだ。
バスに乗ると、階上に席をとる。二人は当てもなく、行き先も決めず、ただロンドンの金曜日の夜を楽しむのだ。バスは、キーツの家を過ぎる。それから地下鉄でキングス・クロスへ。伯父さんのフラットの机の上にあった“サン”紙とスティーブン・キング。伯父さんは、知識階級が読む“タイムズ”や“ガーディアン”は読む気がしない、と言う。しかし、それでも伯父さんはロビ・タクゥル(タゴール)の声を聞く。
本屋を覗き、インドの菓子を扱う店にたちより、ウォーレン通りに向かう。アーナンドは、伯父さんが「アブナイ、ここの女たちは良くない」といったキングス・クロスの愛想のいい女たちを思い出す。本当に悪い女たちなのか、とアーナンドは考えはじめる。アーナンドは、17歳の頃、好きな女の子にも欲望を感じなかった。そのことで悩んだのだった。数か月悩んで娼家のところに「相談」に行った。「夢精という言葉を知ってる?」とアーナンドは伯父さんに聞く。伯父さんは、少し怒って「私はまったくノーマル」と言う。伯父さんに、女友達がいないわけではない。教養あるベンガル人や英国人と出歩き、「詩」について語るのだ。

   アーナンドのフラットに戻る。隣の住人の部屋に灯りはついていない。部屋の窓をあけると、夏の夜のにぎわいが、部屋に入ってくる。ミルトンやシェリーの詩の話の続き。“ラングランド”という詩集を伯父さんは本棚からとりだし、「こういう英語は分からん」と呟く。「ベンガル語は分かるのかい」と伯父さんはアーナンドに問いかける。「まぁまぁ」。「ベンガル文学は途轍もない、日々の出来事を宇宙の運行と同じレベルで語るんだ」と言う。人は、自らの死を認識できない、と伯父さんは話を続ける。アーナンドは、死後の世界についてどんな観念ももっていない。伯父さんは、足を掻く。血が流れる。「ベトネベート軟膏はあるかい」。
「フィッツロイ・スクエアーのインディアンYMCAにご飯を食べにいく?」と伯父さんが聞く。アーナンドは、あのボリュームある料理には気がすすまない。アーナンドは母の料理を思い出す。母を失ったのは、母の料理を失った、ということなのだとあらためて思うのだ。

   『海を渡ったオデュッセウス』という小説は、食べ物についての記述が豊かだ。ユーストン通りにある中華料理店のシンガポール・ヌードル(焼きそばの類?)に始まって、アメリカンスタイルのフライドチキン、ティー・ショップで食べるマフィン、本物のインドの菓子、等々。それらは、何か時々顔をだすポルノグラフィーへの言及とワン・セットのような気がする。図式的に過ぎるかも知れないが、食物はかなり性欲の代理物のような趣なのだ。アーナンドは、街を彷徨い、いつも食べ物のことを考えている。しかし、それはしばしば抑制される。一方、伯父さんは、いつも腹を空かしているが、少ししか食べない。アーナンドが街で認めるのは、娼婦・ポルノそして詩人の声だ。

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■アミット・チョウドリー
1962年カルカッタ生まれ、ボンベイで育つ、高等教育を英国で受ける。
小説・詩・評論を書き(英語)、欧米の大学で文学を講義する一方
マニアという以上の音楽家である。
「甲高い声のヒンドゥー歌謡がインド音楽のすべてではない」と言う。

   迷った挙句、結局“グルカ・タンドリ”という店の階段を降りていく。猛々しくも時代錯誤な名前、とアーナンドは思う。故郷の訛り(シルヘット)のウェイターに席に案内される。アーナンドは一度もシルヘットを訪ねたことはない。近くのテーブルで賑やかに食事をする人々は幸福そうだ。何故?彼らがインド人だからだ。英国で暮らすインドの人々は、インド料理屋では幸せなのだ。パパダムの皿がやってくる。数か月前、伯父さんは母を電話で激しくなじった。母のやらかしたミスが原因だった。伯父さんは、母にはきつくあたる。母は気にしていない、と言った。母は歌の名手、伯父さんは母を芸術家なのだと言い放つ。…ウェイターは、イクバルという。(ムスリムか?異郷においてのみ同朋なのだ)。シルヘットに話がおよび、何か打ち解けた気分になってゆく。伯父さんは、騒がしい客をさして「彼らは一体どういう連中なんだ」とイクバルに聞く。ウェイターは「金曜の晩は毎週あんな連中がやってくる。彼らは飲み過ぎだ」と。英国において飲酒の批判はしてはならない、とアーナンドは思う。

   満腹してアーナンドのフラットに戻る。伯父さんは、アーナンドにテレビのチャンネルを変えてくれと頼む、騒がしい番組は疲れる、と。伯父さんの好みは、悲しい番組、それと野生動物をあつかったドキュメンタリーなのだ。嘗て、伯父さんと一緒に暮らそうかと思った時があった。そうしなかったのは賢明であった、と今では思う。大鼻と生殖能力について、話が続く。アーナンドにとってはどうでもいい話なのだが、ふと、インディアンYMCAのホールに掛かっているイエス・キリストの絵を思い出す。その像のキリストの鼻は大きいが、その表情は、生殖能力とは無縁で、まるで中産階級のみじめで彷徨える学生、何をなすべきかを迷う自分のようだった、と。

   この本の最後の数頁が素晴らしい。飛躍があり、込み入っていてひどく難解だが、分かるような気がする。それは、アミット・チョウドリーのいささか逆説的で詩的想像力に任せたカースト論なのである。すべての外国人が、インド人に、カースト問題を聞きたがる。ならば、答えよう、とチョウドリーは宣言しているかのようだ。その語り口は、この本の終章にまことにふさわしい。

   伯父さんは、トイレからもどるとぽつりと言う「アーナンダ・シャンカール・ライAnnada Shankar Rayは皆が有名になる時代がくる、と預言したんだ」。これはアーナンドの隠された望み、詩人としての成功についての伯父さんの寸評なのか、と思う。だが有名になったとしても、それは詩人のせいではなく時代のせいだとアーナンドは思う。また、詩人としての成功は、アーナンドにとって、有名になることに重きがあるわけではない。伯父さんが続ける「シュードラの時代、とヴィーヴェ・カーナンダは言ったんだ」。順応と隷属の支配する時代だと、アーナンドは恐怖する。ただ伯父さんが言っているのは、現に存在する社会的グループとしてのシュードラではない。時代の退化・退廃にむかう堕落のメタファーなのだ。終末論の雰囲気がある。…ブラフマーは、禁欲の賢者が導く精神の時代、クシャトリアは、王や高貴な人たちが、崇高さの価値を示した時代、ヴァイシャは、商人の時代、ちょうどイギリスが凡庸で退屈な帝国を築いたようなもの、最後に路上の人々が力をもつシュードラの時代が来たのだ。アメリカの金儲けと通俗文化の時代、皆が有名になる時代……。

   伯父さんは、姿を変えて現代=シュードラの時代を生き延びる賢者、というメーセージが聞こえてくるような気がする。そして、アーナンドが詩人であるなら、真に大いなるもの・価値を讃えるものでなければならない、と。しかし、それでもなお、シュードラの時代に生きる賢者の物語はとても苦い味がするのだ。

   午後の11時過ぎ、地下鉄が終わるまえに帰ろうか、と伯父さんが言う。さよならの言葉はなく、ただ「じゃ、行くよ」と言うだけ。アーナンドは頷き「送ろう」と答える。ロンドンは夏、凍えることはない。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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