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113.アダム・ロバーツ『超快速・旬の・究極の国、現代インドの休みなき発明(作り話)』Adam Roberts, Superfast Primetime, Ultimate Nation: The Relentless Invention of Modern India

無題
1.占い師はモディに希望を見出す
ビヒム・ジョシの栖みかは、デリーのゴヴィンド・プリの陋巷にあった。彼は、30年間占い師で食べてきた。インドの未来はどんなものなのか、私は聞いてみた。ナレンドラ・モディが首相になり、インドはおおいに繁栄する、とジョシは占った。…ジョシの預言は、かなりの確率ではずれる。

(インドの今の現実の風景が呼び起こされるとともに、英国風のシニカルな味わいが、随所に顔をだす。どれだけうまく理解できるか覚束ないが、ゆっくり楽しみながら読んでいこう。)

私(アダム・ロバーツ)は、テレビのトークショーでインドの将来について論じさえした。インドのこれからの繁栄を語るのは、今、もっとも好まれるテーマだからだ。
インドの潜在的な力は以前から言われていた。そして、インドに必要なのは、新しいリーダだ、と。…そういう状況においてヒンドゥー至上主義の抬頭は何を意味するのか。ナレンドラ・モディも、その基本は反エスタブリッシュメントである。強くて大衆迎合的(というより民衆に何がうけるかを知っている)な政治家が権力の座を占める、そういう世界的潮流のなかに、モディもいる。

(モディはインドに繁栄を齎すことができるのだろうか、中国のように。)

2.取り残された土地に生きる人々の最近の変化
ヒマラヤの裾野からそう遠くないインド北東部において、アッサム州はとりわけ貧しい。その貧しい土地に、美しいブラフマプトラ川が流れる。そして、今、この土地をヴィーヴェカーナンダ特急が走る。インドを見るには、鉄道に乗ることだ、と言う人がいる。しかし、鉄道の実態はみすぼらしいものだ。鉄道事業の停滞は、インドの停滞を象徴している、かのようだ。ヴィヴェック特急にのれば、インドの停滞の核心が見えてくる気がする。列車のなか、性転換したヒジュラが物乞いをしている。列車はジグザグに南に向かう。その人は、母親をより良い医療を施すために、母親をタミルナードゥの病院まで連れてゆくのだという。小水の悪臭漂うヴィヴェック特急に揺られていると、逆説的に、容易に改革できることは、実に多いと思えてくる。インドは、このような非効率をあらためようとしている。鉄道省の総裁は、鉄道の近代化をインドの経済発展のモデルとしたい、と語っていた。だが、組合は改革には強い抵抗を示す。
(インドの長距離列車に乗るには、ある覚悟が必要だ。チケットの購入が幾分改善されたとはいえ、依然、過酷なものなのだ。だが、あのインドの鉄道列車が快適なものになるとは、私は考えたことすらなかった。)

このインド北東部の孤立した5000万の人々は、50年間、苦しんできた。彼らは、ずっと自分たちをインド人とは思ってこなかった。中央政府の当地に対する補助金は略奪され続けた。だが、携帯電話と格安の航空網が、彼らを孤立から開放し、分離独立のゲリラ勢力を後退させた。出稼ぎによる収入の増大が、ゲリラによる争闘の明け暮れを遠ざけたのだ。極度の貧困の改善の兆しがここにある。


brahmaptra river
ブラフマプトラ川


3.貧困の経済から開発経済へ
インドにおける経済発展が議論される場面で、アマルティア・センが取り上げられるのは、めずらしいことではない。センは、絶望が改革の原動力になりうる、と考えているふしがある。人々の幸福を考えること、つまり絶望的な現実から人々を救いだそうとする試みは、批判に晒されにくい、というセンの計算を考えてしまう。アマルティア・センは、生活と活動の拠点をロンドンにおいて、南アジアの絶望的貧困を論じる。

経済的な豊かさに関して言えば、南インドは際立っている。カルナタカ州の生活水準は、他の東南アジアの諸国とくらべてもひけをとらない。しかし、問題は、その経済的な豊かさの中でも、例えば、乳児死亡率は極めて高いということなのだ。…グジャラートにも豊かなところがあるが、その医療体制はひどい。インドでは、ある種の繁栄を享受しているかに見える地域でも、基本的な社会サービスの欠如が明らかなのである。

スーラト(グジャラート州)は賄賂のない都市だ。スーラトの繁栄を支えているのは、ジャイナ教徒たちに支えられたのダイヤモンド産業である。スーラトの成功は、地方政府の努力によるものだ。スーラトの改革は、モディの登場とは関係ない。

ナレンドラ・モディの目論見は、グジャラート州に多くの製造業を立ち上げることだった。事業家にとって魅力的な利便性のある環境を、モディは用意した。投資家は、モディに近づき、彼は投資家のプロジェクトを後押しした。モディは事業家を遠ざけたジャワハラル・ネルーとは違ったのだ。

郊外の荒地に壮大なビル群を建てようとしている。あるいは、アーメダバードの郊外には、奇妙な名前(“リビエラ・ブルース”)の街を作り、中産階級の人々が住んでいる。
すべてがおぞましい計画というわけではない。グジャラートの事例は、インドの発展と現代化の先触れと考えてよいのか、迷うところだ。

4.会議派の後退とモディの改革
(インドの社会は、経済成長だけでは測れない振幅をもっている。どんな社会でも程度の差はあれ同じかもしれない。が、とりわけインドでは貧困が、実に豊かで様々な表情を見せる。たとえば、祝祭と信仰がそうだ。金はきわめて重要だとしても社会の本質のすべてではない。そこにインドの社会と人々の不思議な魅力がある。)

マンモハン・シンの首相時代(2004~2014)は、それ以前のどの時代よりも経済的には上手くいった。シン首相の功績のひとつは、インド中央銀行の改革だ。有力政治家と癒着した銀行の旧弊を改め、疲弊した地方銀行を立て直し、海外からの投資をよびよせたのだ。シン首相は、非効率な官僚制度を抱えながらも、統一的な税制による均質な市場を整えていった。そして経済はゆっくりと上向いていったのだ。

シン首相は、より率直に国有企業を民営化するという明確なメッセージを発するべきだった。シン首相は、インド航空を民営化したかった。彼は、改革をしくじったのではない。彼は、改革の重大な方向性を十分に理解しながらもそれに手をつけられなかったのだ。

国民会議派の党首ソニア・ガンディーが閣僚の指名や重要な方針を決定しているにもかかわらず、シン首相は、ソニアとの軋轢を、また自らの望みを、無防備に伝えてしまうところがある。

サンジャイとインディラがあいついで死亡するとラジブが四十の若さで首相となった。そのラジブもタミル独立派の自爆テロで暗殺され、ラジブの妻ソニアにところに、会議派のリーダーの役が回ってきた。ソニアは、2004年の総選挙で会議派に大勝利を齎す。が、ソニアは会議派の分裂をまねく。
ソニアは、イタリア北東部の生まれで、父親は、ムッソリーニを支持するファシストの石工だった。ソニアとラジブは、ケンブリッジ大学で知り合ったのだ。

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ソニア・ガンディー

BJP(インド人民党)も早くから経済の改革・開放に取り組んでいた。地道な成果をあげてきた。2014年、インドの人々はとうとう会議派に見切りをつけた。しかし、ナレンドラ・モディ政権の初期の経済政策は貧弱に見えた。モディは、グジャラートでの会議派との争闘と同様に、デリーでもさんざん苦々しい思いをした。自由な市場、民間活力の推進といった彼の政治的掛け声にもかかわらず、最初はうまくいかなかったのだ。独立の事業家などいやしない、みな政府とのコネで財をなしたのだ。賄賂で票を買う政治家に自由経済など関係ない。それでもモディは元気で調子が良かった。新しい政権はシン政権時代の旧弊を粘り強く断ち切ろうとした。モディの激しい行動が、ある程度、贈収賄をやりにくくした。高額紙幣の廃止は、モディの強い意志を示すとともに、政敵の資金源を断ったのだ。

5.インドの新しい産業とハイテク
インドという国が、改革に本腰を入れ始めたのは、1990年代のことだ。締め付けのあとの開放感で、経済は力強く成長した。当時の雰囲気は、十年のうちにインドはまったく生まれ変わり、米国のようになるのだと、多くの人々が信じていた。ただ、インド政府は、東アジアにおける輸出主導の成長モデルをインドが追うことには懐疑的だったようだ。それよりも、人々の生活の基本となるようなものの生産(例えば、電球を作ること)により力をかけたかった。
 
インドにはしっかりしたインフラが必要だし、ビジネスの成長のスピードを奪う規制も多い。ルノーは、インドの車市場と当地での車の製造に魅力を感じていたが、劣悪なインフラが彼らの投資を躊躇させた。フォックスコーン(台湾系、製造請負業)も、インドの豊富な労働人口に着目したが、膨大な書類仕事に嫌気をさしてしまった。

非常にうまくいっている会社もある。一例をあげれば、カジャリアKajaria陶器という会社だ。本業の陶器類の製造だが、余力でクリーンエネルギーの売電事業といった先進的な取り組みを行っているのだ。だが、その雇用はきわめて限られている。
政府主導の産業は、相変わらず、旧態依然とした装置産業が主なのだ。雇用を求める人々の数は膨大だが、雇用はごくわずかなのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが、インドで熟練工を雇うことも至難なのだ。とかくインドでの事業は簡単ではないのだ。

インドで元気な企業というと、一風変わった仕事が目立つ。ティルマラ寺院(南インドのヒンドゥー教寺院群)における毛髪の輸出ビジネスは、寺院を現に富ませている、という。
(参詣者の剃髪の残骸を輸出して儲けているのか。…こんなことが仕事になるのか、といったことで結構ビジネスが成り立っている現実がインドにはある。これらを、インドの後進性とは私はみない。)

豊かで多様な自然(タミルナードゥのバックウォーターやカシミールの雪景色)と人類の至宝ともいうべき豊かな文化遺産をもつインドだが、訪れる外国人観光客は800万人に過ぎない。インドの観光産業には二つのおおきな障害がある。一つは、名所旧跡へのアクセスの悪さ(例えばハンピ遺跡には、バンガロールからでも、特急とは名ばかりの夜行列車に一晩揺られなければ辿りつけない)、また、もう一つは、女性旅行者の安全だ。インドは、外国人女性が一人で旅するには、それなりの用心と覚悟がいまだに必要な国なのだ。

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中世ビジャヤナガル王国の都、ハンピ遺跡

ナレンドラ・モディは、科学を古代に融合させる。『ヴェーダ』には、すでに宇宙探査の記述があるとか、ガネーシャは、古代において成形手術が行われていた証拠だという話を好む。モディは、インドの多くの人々が、神秘主義よりもヒンドゥー教と新しい技術が熱狂することを良く知っている。

モディは、新しい技術が役人や政治家の腐敗を根絶する、と確信しているかのようだ。噂では、モディは、部下や政敵についてハイテクな方法でつねに追跡しているのだと噂されている。また、モディは、自らの選挙戦で3次元ホログラムを使って、素朴な人々を熱狂させたのだ。

今や、かつぎ屋さんにとって携帯電話は必需品だ。あるいは、自家用車を所有するなどという古い考え方に我々は振り回されない、と多くの人々が言う。携帯電話の普及が、弱い通信事情を劇的に改善したように、新しい技術が、弱いインフラを補い発展させる、と。

(インドでは、技術革新が、インドの今の問題を解決する、という信仰にも似た考えが流行している。役所の仕事の効率化を、政治家をめぐる贈賄の根絶を、教育機会の拡大を、技術革新が齎すと。公衆衛生も、都市の公害も、上下水道の整備も、快適に移動できる鉄道網も技術革新が解決する、と彼らは言うのだろうか。)

6.インドの民主主義におけるファミリー王国と汚職の帰結
(インドの人々は、インドにおける民主主義の伝統と価値を誇りにしている、路上生活者にも選挙権を確保しているのだ、と。だが、インドの民主主義といっても、それを長く支えてきたのは、血のつながりを重んじるファミリー王国((これは、ガンディ家による政治支配から企業まで、ひろく認められる現象だ))と、これもインドのあらゆる場面で跋扈する汚職なのだ((学校、警察機構、役所からプロのクリケット・リーグまで汚職まみれなのだ))。実際、ファミリー王国と汚職の時代が長く続いた。多くの近代国家が、ファミリーと汚職に一線を引いてきたのと対照的に、インドでは、ファミリーと汚職には、欧米諸国とは別の価値・システム・楽しみがあるようなのだ((インドでは汚職につて人々は嬉々として語りあう))。インドのファミリー王国と汚職を、欧米のそれらの常識と単純に比較して批判してはならない、と思う。だが、変化はすぐそこまでやってきている。モディの出現は、ファミリー王国と汚職にうんざりしているインドの人々に((インデラの孫ラーフルがファミリー王国の終焉を演じた))、いささか専制的であろうと、ファミリー王国や汚職とは別のダイナミズムを届けようとしている。)

rahul gandhi
ラーフル・ガンディー
インデラの孫、国政を差配するガンディーファミリー王国は、
ラーフルの代で地方政治家に後退した

7.選挙はいつまでも終わらない、だが、変化の足音がする
デリーでの挨拶は、政治の話からはじまる(アミット・チョウドリーに言わせると、カルカッタの挨拶は、食事の話から始まる)。政治の話の中心は選挙だ。ところでインドは、世界最大の民主的な選挙を実施する国でもある。選挙のサイズも興味深いが、特筆すべきは、インドにおける選挙が、インドの人々にとって一種の娯楽であることなのだ。
(私の子供時代の日本もそうだった、候補者をまるで隣人のように感じ、応援したり、非難したりしたのだ。選挙から祭の雰囲気がなくなって((それはどうしてか、金銭による振舞いがなくなったことと関係していまいか))、選挙がつまらなくなった。)

以前ほどではないとしても選挙における不正はあいかわらず続いている。村の長が、村民全員分の投票をとりまとめ、競売にかけたりするようなことが、以前は行われていた。もはや、そのような目立つ不正は姿を消したが、様々な不正が横行しているのだ。死亡者の投票権は格好の売買の対象であり、複数の候補者に賄賂を要求する者もいる。また、ダミーの候補者をたて票を分裂させる手もある。賄賂はしばしばアルコールやドラッグで供されるのだが、見返りは確かなのか候補者には分からない。不正を行う候補者は、重い負担を背負うことになるが、一体いくらかかるのか分からないのだ。
今や、多くの者が、はした金で票を売る愚かさに気付き始めている。もはやグループの投票ではなく、個人の判断で投票する時代になった。それは都市部だけの傾向ではなく、農村部においてもこの傾向は顕著なのだ。農村部の人々も、携帯電話やオートバイの利便性を享受しているからだ(つまり経済の発展を実感しつつある)。有権者の意識の変化にいち早く気付いたのがモディだった。この変化を如実にしめしたのが2014年の選挙だった。モディは、経済の発展を選挙の公約にしたのだ。自主決定する流れのなかで、都市部のみならず農村部を含めた数億人の有権者が新たに生まれた。若い有権者は、自分の将来が重要なのだ。新興の中産階級の人々は、過去の貧しさに引き戻されるかも知れない恐怖をいつも抱えている。2016年の選挙におけるBJP(インド人民党)の圧勝は、多くの人々が経済が悪くなることへの恐れに起因する。

bjp symbol
インド人民党のシンボル

7.今どきの話題;男と女(性)
北インドにおける女子の出生率は、男子のそれと比較すると100分の1なのだ(信じられないが、そう著者は書いている)。その結果、例えばハリヤナ州では、今、深刻な嫁不足に陥ってしまった。ただ、大物政治家に女(性)は多いのは、どうしてか。
男子尊重の伝統には、悪名高いドウリー(嫁の側からの嫁ぎ先への結納金)が背景にある。娘を嫁がせるには、多額のドウリーが欠かせない。また、ドウリーが発端になって嫁の虐待が始まるケースも珍しくない。ドウリーは、法律で禁じたにもかかわらず今も続いている。
数世代が同居する大家族は以前より少なくなったとはいえ、まだ数多く存在する。
姑の嫁いびりは、何もインドに限ったことではないが、姑も嘗ては嫁だった、といった昼メロは、いまでも根強く人気がある。(同じ女(性)、人間なのだという認識が、嫁・姑の現実の問題を解消するはずだという物語なのだろうか?)
今、結婚に際して、義理の母がどのような人なのかを調査する探偵業が繁盛している。家族のトラブルは、母親に問題がある場合が多いからだ。だが、嫁の理想も高く、現実の結婚生活を見ていないところがある、とその探偵社の責任者は語る。また、その探偵社は全国展開していて、仕事をもった女(性)が、その地を離れ嫁ぐことは(例えば、ボンベイからデリーへ行く)、きわめて難しい、のだとも言う。(女(性)の社会進出に伴うあらたな制約という意味で、興味深い。)
今、自立する女(性)、嫁たちの姿が確かに明らかになりつつある。経済的に自立し得る女(性)は、問題があれば、速やかにそこから退散するのだ。
インド経済における女(性)の数はまだ少ない。中国では労働生産人口の40%が女(性)であるのに、インドでは17%に過ぎないのだ。インドの女(性)がより積極的に働きだしたら、経済は60%も拡大する、と言う学者がいる。

vrindavan,widow
メナム川沿いの古都ヴリンダヴァンで
自らの死を待つ女(性)たち

嘗ての嫁の現在は厳しいものだ。アグラに近いヴリンダヴァンというところは、年老いたホームレスの女(性)が、死を迎えるためにやってくるところだ。息子は、870マイルも車を運転し母親を捨てに来た。(母親の意志なのか、あるいは、家族の決定なのか、分からない。嘗ての嫁である姑と、経済的に自立しうる女(性)との間で、インドの女(性)をめぐる環境は激変しつつある。それは、どのような未来に行きつくのか。経済の躍進とインドらしさの喪失というイメージが浮かびあがってくる。だが、問題はもう少し別のところにありそうだ。)


(つづく)





113.ナタリー・ゼーモン・デーヴィス『トリックスター・トラヴェル』 Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds  

trickster travels book2
1518年夏、フェズのスルタンに使えるアル・ワッザーンが
チュニス沖でキリスト教徒の海賊に拿捕される
アル・ワッザーンが長年怖れていたことがおきたのだ
奴隷として売り飛ばされるかわりに
アル・ワッザーンの知力が彼を救った
法王列席のもとキリスト教の洗礼をうける
ローマでの旺盛な翻訳や著述活動
たとえば『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』を作成し
『パウロ書簡』をアラビア語訳し、
『コーラン』をより正確にラテン語に訳し
また有名な『アフリカ誌』も書き上げる
そして1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪
の混乱のなかアル・ワッザーンは、
ふたたびチュニスに船で逃れるのだ
波乱万丈の生涯と言うよりは、ムスリムのジハートにも
改宗したキリスト教にも一定の距離を保ち
その両者を自由に行き来するトリックスターとしての
アル・ワッザーンにナタリー・デーヴィスは着目する


1.レオ・アフリカヌス;キリスト教に改宗したムスリムの物語!
ラテン語名、レオ・アフリカヌス、通称アフリカ人ジャン・レオン、もともとはハサン・ブン・ムハマンド・アル・ワッザーン・アッザィヤーティと言う。スペインのアンダルス地方グラナダに生まれ、15世紀後半のレコンキスタの圧力でモロッコのフェズに逃れそこで育つ。法学と修辞学を修める秀才だった。だが戦争がアル・ワッザーンの勉学を支えていた学資基金の存続を困難にした。治療院で働くかたわら、学友との交流で独学に励む。
アル・ワッザーンはよく旅をした。役人のおじにつきしたがって、北アフリカやサハラ、またチンブクまで足をのばしている。アフリカの王朝について記録するばかりでなく、その土地のゴシップも収集している(たとえば聖人のスキャンダルなど)。ところで旅は、多くの場合、ムスリム達の得意分野なのだ、ということを思い出す。
やがてフェズのスルタンの外交をになう使者となる。外交官と一言では言えない気がする。なぜなら、アトラス山脈の寒村に赴けば、判事の役も引き受けるからだ。…カイロのマムルーク朝では、正式の接待を受けられなかった。マムルーク朝の関心は、紅海とインド洋のポルトガル勢力にむいていてマグレブはさほど重要ではなかった。イスタンブールにゆくと、セリムはシリアでマムルーク朝攻撃の準備中だった。オスマントルコの高官がアル・ワッザーンを迎えた。アル・ワッザーンは、船でカイロにもどりジャニサリー(オスマントルコにおけるキリスト教徒子弟による最強近衛師団)による略奪の後を自分の目でみる。アル・ワッザーンは奇妙な、割り切れない感情に捕らわれる。
1518年夏、事件はチュニス沖の島の近くで起きる。アル・ワッザーンは、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていた。海賊に捕らわれたアル・ワッザーンは、スペインの支配するトリポリに連行された。身代金を要求できる人物なのか奴隷として売るのか、訊問をうける。アル・ワッザーンのもつ情報が重要であると、トリポリの訊問官(!)は判断する。アル・ワッザーンは奴隷として売り飛ばされる不安を感じながら多くを語り、もしかすると自分を売り込んだのかも知れない。
アル・ワッザーンは、バチカンのサンタンジェロ城に移送される。メディチ家出身の人一倍好奇心旺盛だった教皇レオ5世がアル・ワッザーンに興味をもつのだ。

2.バチカンに移送されたアル・ワッザーンがキリスト教徒に改宗する
1518年夏、アル・ワッザーンは、チュニス沖でキリスト教徒の海賊に捕らわれる。彼は、トリポリで調べをうけたあと、彼の並々ならぬ知識・情報が高く見積もられたのか、バチカンに移送されるのだ。往時のローマは、オスマントルコの圧力、ルネサンスの熱気、ルターの宗教改革に揺れていた。
アル・ワッザーンが捕らわれていたサンタンジェロ城には、ボナベントゥーラもいて、彼についての言及の証拠はないけれども、ボナベントゥーラの噂を聞いていたに違いない。著者のナタリー・デーヴィスは、その同時代性がとても気になるようだ。サンタンジェロ城におけるアル・ワッザーンの扱いは緩やかで一定の自由もあった。バチカンの大図書館のアラビア語本も借りだし読むことができた。
教皇レオ5世との謁見は印象的だ。アル・ワッザーンは、教皇の対トルコへの姿勢を見誤らなかった。レオ5世のトルコへの強硬姿勢に、アル・ワッザーンの影響があったかもしれない。
長引く勾留のなかで、アル・ワッザーンは、自分の行く末を何度も考えたに違いない。ベネチアとチュニジアとの連合で、それに自分が加わることで、自分はもう一度故国に帰れるかも知れないと思った。また、囚人のままでいるのか、奴隷となるのか、という重圧がつねにあったのだ。
1520年、アル・ワッザーンは、洗礼をうける。ソウソウたる名士が証人となった。以降、アル・ワッザーンの強力な後ろ盾となるのは枢機卿エジディオ・ダ・ヴィテルボEgidio da Vitelboだった。彼は、教皇の浪費・放蕩を可能にした財務官だった。
解放されたアル・ワッザーンは、ローマの路上にでた。ローマを歩き、自分がこれまで見知っていた街とくらべてみた。また、さまざまな言語が飛び交うローマに彼は驚き興奮した。そして、彼は翻訳の仕事に勤しんだ。外交文書の翻訳ばかりでなく、『パウロ書簡』をアラビア語訳し、より正確な『コーラン』のラテン語訳も行っている。
アリストテレス学者のアルベルト・ピオAlberto Pioの屋敷を舞台とする当時の知識人との交流が感動的だ。ルネサンス人文主義はアラビア語文献の助けを借りてギリシャの古典の再発見に至ったのだとは、よく聞く話だが、この本を読んで、その実相、具体的ディティールに初めて触れることができた。アル・ワッザーンは、イスラムにおけるイエスキリストのメシアとしての意義を説いた。ピエリオ・ヴァレリアーノPierio Valerianoとは、動物に関するシンボリズについて議論を行った。歴史家のパオロ ジョヴィオPaolo Giovioとは、オスマン朝のスルタン、セリムについての情報交換を行った。ただ、ヴァレリアーノは、アル・ワッザーンとの交流は明らかであるにも関わらず、彼への言及を行っていない。アル・ワッザーンのキリスト教への改宗には、信頼にもとるところがあると判断していたのかも知れない。知に関する同志であっても、信仰上の同志ではない、と。

reo africanus
■1483年頃のスペインのアンダルス地方で生まれ
1555年頃チュニスで没
通称レオ・アフリカヌス
ナタリー・デーヴィスはキリスト教への改宗後、
イタリアで用いていた名、アル・ワッザーンをは好んで用いている

3.アヴェロエスやマイモニデスの翻訳の手助けをする
1524年には、また異人が現れキリスト教徒とユダヤ人による反トルコ連合を提唱し、ローマの人々を騒がせた。ティルベ川の河口で、チュニジアの海賊が教皇庁の船舶を拿捕する事件なども起きた。
アル・ワッザーンは、他のムスリムと接触することは極めて危険だった。
ただ、当時のローマには元ムスリムの奴隷が数多くいた。家事を担う奴隷は、例外なくキリスト教へ改宗させられたのだ。そして、アル・ワッザーンとは異なり奴隷の洗礼は簡単なものだった。ただ、そのような改宗が制度化するのは1520年代のことになる。また、驚くべきことに(いや、当然起こりうべきことに、と言うべきか)、ローマの上流人士の中には、元ムスリムの奴隷との間に子をもうけることが少なからずあった。実際、アル・ワッザーンが住む界隈には有色人種の女主人の家が稀にあり、それは何を意味するのだろうか。
1523年、アル・ワッザーンは、ボローニャを訪れている。絹製品、工芸品が溢れる豊かな街を見て、彼は北アフリカの諸都市を思い比べた。また、アル・ワッザーンはボローニャの大学を見て感激している。伝統ある知の壮大な構築物をアル・ワッザーンは想像したのだろう。だが、ボローニャがアル・ワッザーンに特別な意味を持つのは、ユダヤ人の医師マンティーノとの出会いだ。マンティーノとは、まずペルシャ医学への興味を共有することができた。アル・ワッザーンは、ローマを超え彼のアラビア学を深く豊かにする契機を掴んだのだ。
マンティーノは医師であるとともに占星家であり、そして何よりもアリストテレス哲学を研究する哲学者だった。マンティーノは、アリストテレス理解のためにアヴェロエスやマイモニデスの著作の重要性をひしひしと感じていた。マンティーノは、アル・ワッザーン助けを借りて(アル・ワッザーンは、マラケーシュで、アベロエスの墓を訪ねている)、アヴェロエスのアラビア語で書かれたアリストテレス論を読み、ラテン語に訳したのだった。
アヴェロエスもマイモニデスもアンダルス地方コルトバ出身のユダヤ人だ。生きた時代も重なる(12世紀)。ただし、現代の史家は、二人の交流の可能性を否定する。イスラム圏で抜きんでた知を誇るユダヤ人学者が、アラビア語で著述し、それがルネサンス期のイタリアで研究される。本来はラテン語のテキストも、欧州ではその多くが失われアラビア語の翻訳でしか読めなくなっていた。今では考えにくく、私には錯綜してみえるが、実は、ダイナミックで何とも輝かしく見える。それは、この本『トリックスター・トラヴェル』の重要な主題の一つである。
マンティーノは、アル・ワッザーンを、『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』作成の仕事に招く。アル・ワッザーンは、その仕事を喜んだ。『辞書』は大変興味深いものであったが完成をみなかった、とナタリー・デーヴィスは書いている。だが、より意味深いことは、その多言語比較の研究を通じて、アル・ワッザーンが彼自身による著作(例えば、『アラブの傑出せる人物達』)を書く根本のモチーフを探しあてたことなのだ。   

4.アル・ワッザーンのアフリカ
アル・ワッザーンは、アフリカについての草稿をチュニス沖での拿捕の際にも、肌身はなさず持っていた。アル・ワッザーンのイタリア在留時代は、気の滅入るつまらない仕事も多かったが、それらをこなしながらあの偉大な『アフリカ誌』をものしていった。
アル・ワッザーンは、自ら『アフリカ誌』の原稿を書いていった。イブン・バトゥータの『大旅行記』が聞き書きであったように、イスラム世界では、長いこと、書物は筆耕による聞き書きが主流であった。1526年に彼は少なくとも2部の『アフリカ誌』をつくりあげた。
10世紀の著名な地理学者アルマスーディにとって旅は極めて重要な情報源であった。しかし、彼の関心は、言語・人々・イスラムに限られていたのだ。それとは反対に、アル・ワッザーンの『アフリカ誌』は、地誌であり、歴史書であり、旅行記であり、逸話集などによる混合物なのだった。
興味深いことに『アフリカ誌』には、西欧流の地図はついていない。場所は、ある土地からの旅程であらわされているに過ぎない。西欧の地図は、アル・ワッザーンには馴染めなかった。彼にとって旅が重要なのは、証拠だてるものではなく、彼の人生そのものであり、山と砂漠は、聖なるものと出会う場所だったからだ。
アフリカは、アラビア語でイフキリアという。本来は、チュニスのあたりを指す言葉だった。他方、マグレブは、アラビア語で西の意味だ。ある全体をアフリカと呼ぶようになったのは、ヨーロッパの側からだった。逆に、アウルーファというアラビア語はあったが、当時誰もヨーロッパとは言わなかった。ヨーロッパやアフリカと呼ばれるようになるには、16世紀になってより広い世界なるものが意識されてからなのだ。
アル・ワッザーンは、アフリカとヨーロッパという語を用いて彼の地誌を書き進めた。
彼にとってのアフリカとは、バーバリ(チュニスからアトラス山脈を含む北アフリカ)、ナンビア、リビア、そして黒の土地とを指す。エジプトの捉え方は議論のあるところのようだ(ナイル川と紅海のどちらがアフリカとアジアの境になるか、という問い)。
アル・ワッザーンは、アフリカに住む人々の特長を描く。ベルベル人の源は、地中海岸の白色人種であり、その方言にも言及する。コプト人や、エジプト人について、さらに興味深いのは、北アフリカのいたるところにいたユダヤ人についてアル・ワッザーンが言及することだ。その場合のユダヤ人とは、遥か昔にユダヤ教に改宗したベルベル人や黒いアフリカの人々も含まれる(ユダヤ人とは、ここでは血のつながりではなく同じ信仰をともにする人々の呼称になっている)。
それらアフリカの土地と人々の多様性をアル・ワッザーンは語りながら(たとえばエジプトやコプトやナンビアの乱れたアラビア語について論じる)、他方で、アフリカの統一性を主張する。彼は、それらの人々のすべてがノアの末裔だと言うのである。イタリア人の読者の前で、アフリカの人々の肌の色、隷属性をアル・ワッザーンは直截には語らない。ただ、彼らの祖先がノアであることを言うのだ。彼はアフリカの差異への関心をしめしつつ、最終的にはその統一像に向かう。
未開で野蛮な人々も預言者の教えで、文明化していった。ムスリム特有の「神の祝福がありますように」といった呼びかけや、長たらしい神への祈りを避けながら、預言者への信仰がアフリカを統一する、と言う。これは、イスラムの教えを直接もちださないで、イスラムの教えの卓越を説いてはいないだろうか。いずれにしても、アル・ワッザーンのアフリカとは、ムハマンドの教えによって結ばれた大地なのである。

5.近世初頭の北アフリカにおける宗教の閾を超える性的逸脱について
イスラム教の発生の地、西アラビアの言葉は、非アラブ圏の言葉と接触し変質していった。諸言語の混交は、必ずしもイスラムの文化を破壊しなかった。そしてアル・ワッザーンの取り上げるもうひとつの混交は、性に他ならない。ナタリー・デーヴィスは、性の混交にとりわけ注目している、ように見える。
イスラム法では性的交渉は正式の結婚、あるいは合法的な奴隷との場合を除いて罪となる。ただし、ムスリム男性は経典の民である自由民のユダヤ人女性、キリスト教徒の女性を都合4人の妻のうちにもつことができた。また、自らが所有するユダヤ人の奴隷、キリスト教徒の奴隷との性的交渉を持つことも罪には問われなかった。異教徒の奴隷との間にできたこどもは、自動的にムスリムとして育てられた。他方、ムスリムの女性は、同じムスリムの男性としか結婚できなかった。また、ムスリムの女性は、奴隷との性交渉は許されなかった。ムスリム法とは対照的に、ユダヤ人とキリスト教徒の法では、性交渉の境界は厳格に閉じられていた。ラビによる法では、結婚、および性交渉はユダヤ人に限られるのだ。キリスト教聖典および教会も、非キリスト教徒との結婚・性交渉を例外なく禁止した。
しかしながら、それらの境界は、実際には流動的なのだと、ナタリー・デーヴィスは言う。とりわけ宗教の閾を超えた性行為は、例えば、キリスト教王国であるアラゴン王国では、キリスト教徒やユダヤ教徒の男達は、マイノリティであるムスリムの女たちと交渉をもった。その女達とは、奴隷、娼婦であり、自由民もいた。さらにそこでは、自由民のキリスト教徒とユダヤ教徒の女達が、ムスリムの情夫をもつこともあったのだ。無論、この「性的逸脱」は、処罰の対象である。
アル・ワッザーンは、ムスリム統治時代のグレナダやフェズでの日々を回想する。そこでは、ムスリムの夫がキリスト教徒やユダヤ人の妻をもつことは決して珍しいことではなかった。そして、イスラム教もユダヤ教も禁止していたことだけれども、ユダヤ人の男達は、ムスリムの娼婦のところに通った。ところで、アル・ワッザーンは、北アフリカおよびイタリアにおける梅毒の感染・猖獗は、ユダヤ人の娼婦がキャリアーになっていたと見ているようだ。
ナタリー・デイヴィスは、分かりやすい結論を書いてはいない。が、シロートから言わせれば、要するに、人間の性的な営みは、宗教という枠組み・対立・掟を軽々と越えてしまう、そして、深刻な偽の宗教対立に喘ぐ現代において、人間の根源的な営みである性を歴史的に見つめなおすことは、人類の和解、寛容、再生にむけた重要な視点を提供しているはずだ、と思えてくる。

6.トリックスターとしてのアル・ワッザーン
アル・ワッザーンは、友人をむち打つ話と住みかを変えて税を免れる鳥の話を好んだ。
友人をむち打つ話というのは、ある男がむち打ち刑の判決を受けるのだが、そのむち打ち刑の執行人が実は友人で、男は友人の執行人に同情を期待する。友人の執行人は、情け容赦なくその男を打つ。男は、鞭打たれながら叫ぶ「友よ、お前は友にこのような仕打ちをするのか」と叫ぶのだ。それに対する執行人の言葉が面白い。「友よ、我慢してくれ、私は行うべき義務をはたさなければならないのだ」と答える。
また、税を免れる鳥の話はこうだ。
「昔一羽の鳥がいた。その鳥は丘でも海でも生きていけた。鳥たちの王がくるまでは、空で仲間とともに暮らしていた。王が現れ税の支払いを求められると、その鳥は即座に海に飛んでゆき、魚にこう語りかけた。『私を知ってますよね。いつも一緒だったのですから。あの怠け者の王は、税金を払えと私に言うのです。』魚は、その鳥を歓迎して受け入れた。鳥は、魚たちと快適に暮らした。すると今度は魚の王が現れて税の支払いを鳥に求めた。鳥は、すぐさま水の中から飛び出し、鳥たちのところに戻ると、同じ話を語った」
上記のふたつの寓話について、ナタリー・デーヴィスは、その変遷やルーツやらの込み入った考証をおこなっている。彼女の結論は、それこそがトリックスターとしてのアル・ワッザーンの本性を語っている、と言うのだが、少々分かりにくい。ここでは、ナタリー・デーヴィスの論を離れて、アル・ワッザーンがこのふたつの寓話を好むところを私なりに想像してみたい。第一番目のむち打ちの話は、義務は友情に優先する、と解釈できる。この場合の、義務とは、職務への義務であり、アル・ワッザーンの場合の職務は、学識の追及であるから真実を語ることへの義務と考えられる。真実を語ることが非常に重要で、それは友情にも勝るものだ、と。
税を免れる鳥の話は、土地やそこの人々に固着する義務は、二次的な義務である、ということだと考えたい。アル・ワッザーンは、『アフリカ誌』において、アフリカの人々の徳と悪徳を語る。その際、アフリカ人の悪徳については、自分はグラナダ生まれなのだといい、グラナダの人々に良からぬ点があれば、自分はそこで育ったのではないと言う、のだ。
むち打ちの寓話と税を免れる鳥の寓話のふたつを結び付けると、土地に縛られず、すなわちそこの人間関係に流されず、真実を語ることの重要性が浮かびあがってくる。土地とその人々への関与を免れながら、真実を語ってゆく、あるいは行動してゆくところにアル・ワッザーンのトリックスターとしての特性があるように思えてくるのだ。
ところで、以上のいささかこじつけに過ぎる解釈はさておき、もっと単純にその挿話を味わいたい。とすると、鳥が税を免れる話には、もっと違った面白さがある。つまり、義務を免れる弁解そのものの物語、あるいは何ものにも属さない自由の感覚がそこにはある。なんだかんだと屁理屈をいって義務を免れる輩、それはある共同体にとって敵かも知れないが、しかし、そういうものが明かす真実があり、また共同体にとっても逆説的に有意義な存在となる場合があるのだと思えるのだ。
ナタリー・デーヴィスの論に戻ると、アル・ワッザーンは、実に自由にヨーロッパと北アフリカの間を、キリスト教とイスラム教の間を行き来する。ただ、アル・ワッザーンは、どうちらの側にいても、一定の距離を保ち過渡の関与を避ける。北アフリカのスルタンに対しても、イタリアの教皇勢力にも一定の距離を保ちつづけた。彼は、反コンキスタドールの戦いに参加したことはあるが、ジハートという観念に熱狂したふしはない。そのような相対的な立場の取り方がユニークなのだ。そしてそれは何に由来するのだろうか、ということを考えてみたくなる。…ナタリー・デーヴィスは、アル・ワッザーンが義務を放棄し、相対的な位置取りをつづける彼の姿勢について、彼が三度の侵略・虐殺を目撃している、ことを強調する。一回目は、1517年、イスタンブールからの帰途カイロに敢えて立ちより、オスマントルコ帝国によるカイロ略取、とりわけジャニサリー(キリスト教徒子弟による最強近衛師団)による住民への略奪を目撃する。二回目は、1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪(こうだつ)(このどさくさの後にアル・ワッザーンは、チュニスに船で逃れる)、最後は(これは、証拠はないのだが)、1535年の神聖ローマ帝国カール5世によるチュニスの攻撃と略奪だ。
アル・ワッザーンのトリックスターとしての本性には、侵略や略奪や虐殺に結びつく深刻さがない。悪知恵や悪企み、するりと責任や義務を躱してしまう狡さはあっても、究極の惨劇には向かわない。硬直した対立や憎しみとは無縁な、ある種楽天的な駆け引きがあるのだ。

natarie zemon davis
■ナタリー・ゼーモン・デーヴィス
1928年米ミシガン州デトロイト生まれ
『帰ってきたマルタンゲール―16世紀フランスのニセ亭主騒動』
(平凡社ライブラリー)ほか

7.アル・ワッザーンの沈黙
歴史(学)は、想像するヒントを提示してもらえれば十分であって、あまり説明をしてもらいたくない、と思うことがしばしばである。そのような考えに似て、歴史(学)における沈黙が魅惑的に思える時がある。ナタリー・デーヴィスのこの本も、きわめて明確に、アル・ワッザーンの沈黙に注視する。
まず、アル・ワッザーンは、1518年夏の、キリスト教徒の海賊による身柄の拘束について沈黙する。彼は、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていたがこの事件について沈黙するのだ。ついでに言うと彼の拘束については、オスマントルコのスレイマンのところに届いていた。また、改宗・洗礼についても、すぐにベネチアに伝わった。彼が、身柄の拘束について沈黙するのは、恥辱と感じたためだろうか、あるいは身の安全のためだろうか、分かるようで良く分からない。
アル・ワッザーンは、クリスチャンとしての自身について何も語らない。彼のキリスト教信仰への沈黙が、彼の改宗が偽装であることの証左である、と言うのは容易だが、それをいくら言っても、アル・ワッザーンの実態の本質は明らかにならない。
アミン・マアルーフの小説『レオ・アフリカヌス』(服部伸六訳、リブロポート)では、ドイツ人の青年がマルチン・ルターの教説をアル・ワッザーンにぶつけ、意見を引き出そうとするが、そこでもアル・ワッザーンは、新教への興味を示しはしない。
アル・ワッザーンは、アフリカはトンブクトゥまで、東はメッカを超えて中央アジアまで、欧州ではフランスまで行っている大旅行家である。しかし、バルトロメウ・ディアスの喜望峰(1448年)の発見には沈黙する。ポルトガルがバチカンに贈ったインド象がローマの街をねり歩いたのだから、ポルトガルのインド洋侵出を知らないわけがないのだが彼は沈黙するのだ。
アル・ワッザーンは、多くの女(性)たちについて語った。白い服を着た母、アフリカの女(性)、ユダヤ人の娼婦、アトラス山地の女(性)、また、女(性)たちのつけるヴェールについても言葉を費やした。ただし、フェズに残してきた彼の妻については何も語らないのだ。
そしてアル・ワッザーンにおける最大の沈黙は、1527年のチュニスへの帰還以降のことだ。帰ってきた背教者の立場は非常に厳しいものだったことは容易に想像される。なにしろ彼は『コーラン』をラテン語に訳したのだ。つまり神の言葉を異教に売った。ナタリー・デーヴィスは、17世紀フランス人旅行者の記録を引いて、アル・ワッザーンの難しい立場を推し量っている。結論は、もしアル・ワッザーンに有力な後ろ盾がなければ、斬罪されていただろう、と。他方で、1535年、カール5世によるチュニスの攻略では、アル・ワッザーンが通訳として働いた可能性がある、とナタリー・デーヴィスは推測するが証拠はない。また、ナタリー・デーヴィスが残念がるのは、アル・ワッザーンが予告していたヨーロッパとアジアについての本はついに世に出なかった、ということだ。いずれにしてもイタリアにおける多産な知的活動と、チュニス帰還以降のアル・ワッザーンの沈黙の意味するところは極めて興味深い。
この本の終章は、アル・ワッザーンをラブレーに引き寄せて、論じている。それは、暴力によって分断された現代を、ふたたび多様性ある寛容な秩序を取り戻す探求のように見える。
2019, 5/11

#112 ニール・ムケルジー“モディのインド”(タイムズ文芸付録、2017、8月11日号)Neel Mukherjee、Midst of a whirlwind in Times Literary Supplement, August 8th, 2017

インドに行くたびに、インドが中国のような経済大国になるのは、人々が期待し騒ぎたてているのとは違って、一体いつのことだろう、と思うことが多かった。この書評を読むと、その感覚は私だけのものではなく、様々な視点から議論されているテーマなのだ、と知った。.

ニール・ムケルジーは、アダム・ロバーツの本について(Adam Roberts, Superfast, Primetime, Ultimate Nation, The relentless invention of modern India、2017)シャープだが好意的に紹介を書く。この本は、新聞や雑誌の記事にするには、きわめて複雑なインドの今について、西洋人(A. ロバーツは“エコノミスト”前南アジア特派員)が書いた本なのだ。そしてこの本のいいところは、英領インド、あるいはポスト・コロニアルといった意識とは著者が完全に切れていることなのだ、とムルケジーは言う。

アダム・ロバーツは、真正面から重苦しい現実・真実に向かいあう。たとえば、仕事の創出についていえば、新しい産業による働き口はわずかで、旧態依然たる重工長大産業が、わずかな働き口を仲間うちで分け合っている、という現実を見逃さない。調子のいい政府発表(モディの政権になってからより顕著になった)など信じない。経済の停滞の具体的証拠を―中断した建設工事、未完のプロジェクト、静まりかえった商店街、行き場の失った失業者による軍隊、未整備のインフラ等々、を数えあげていく。

モディ政権が発表する統計のウソを見抜くのはそれほど難しないが、モディはイメージ戦略にたけている。モディが2012年の選挙で大勝したのは、3次元ホログラムを用いた選挙戦術が功を奏したからだ。複数の選挙演説会場で、モディが同時進行的に自分の分身を登場させたのだ。仕掛けは単純なものだが、地方の文盲の多くの有権者を熱狂させた。モディが優れた国家指導者かどうかは別にして、インドの大衆の好みや望みを的確にとらえているのだ。

モディが掲げる市場主義経済への掛け声には反対の余地はあまりない。つまり、政府の市場への関与を極力抑え、民間の企業活動を活性化させようとするだ。だが、その市場開放はインドの現実においてどんな意味があるのか、とロバーツの本は問題にする。端的に言い切ってしまえば、巨大国家インドの足もとには、許認可をめぐる腐敗と非効率が横たわっている。
他方で、ロバーツは、インドの現実は、自由な市場、規制緩和という以前の問題を抱えている、と見る。たとえば、健康保険制度についていえば、インドでは、従来より民間の制度・ジネスのみであったのだ。その民間保険会社の補償が確かなものではないうえに、その日暮らし的なインドの国民の大多数にとって、それをさらに規制緩和して、どうしようというのか。さらに、先進国においても、規制緩和の難しい領域において、「自由市場による経済の活性化」と言っても滑稽なばかりでなく、一部の強欲な者のみを富ますのは明らかだ。

ロバーツの問題意識は、つづめて言えば、中国における経済の成功とインドにおける失敗なのだ。そこで、中国にあってインドにないものは何なのか、を彼は問う。彼は、それを一種の独裁(authoritarianism)と見る。悲劇は、インドの人々が、インドに欠落している独裁という一種の強権をモディに求めてしまった、ことなのだ。それもよりによって、つい最近までアメリカへの入国を拒まれていた人物(2002年のグジャラートにおけるモスリム虐殺へのモディの関与をアメリカ政府は問題視していた)にインドの将来をたくしてしまったのだ。

ヒンドゥー至上主義のペテン師は、人々をだますことには巧みであっても、国家経済における奇跡を起こすことはできない。
2019, 5

111.S. スブラフマニヤム『ヴァスコ・ダ・ガマ-生涯と伝説』Sanjay Subrahmanyam、The career and legend of Vasco da Gama, First published by the Press Syndicate of the University of Cambridge, New York in 1997

gamas book
いつも大きな本を読み始めるときは
その本の知力によって
自分がはじきかえされてしまう
のではないか と不安なのだ
この本もどこまで理解が届いたか
はなはだ心もとない
が その不安に抗うのも また 
本の読みがいで このように
気になったところの要約や
寸評を纏めてみると
それは何ものにも替えられない
私固有の内的な対話であり
これもまた宇宙の塵であると
観想することができるのである


問題は、ヴァスコ・ダ・ガマの伝説と生涯とのデリケートなバランスを見ることだ。

サンジャイ・スブラフマニヤムは、歴史的事実(ディティール)に分け入っていくばかりでなく、人々が想像したガマを再現しようとする。そのために、歴史家は十九世紀のオペラをとりあげる。そのオペラがガマの神話作りに大きな役割をはたしたと、考えるからだ。

そのオペラ(“アフリカの女王”、1865年パリで初演)で、ガマは誠実な英雄、恋する冒険者として描かれる。粗筋はこうだ。…ガマは、インド人の女王セリカと彼女の召使をともなってポルトガルに帰ってくる。二人を奴隷市場で買ったのだ。(ガマの奴隷を買うといいう行為に、ドイツ人作者のポルトガルへのひとつのステレオタイプを感じる。) ガマの入牢と大審院の尋問の場面が続く。ガマを陥れた人物ペドロは、ガマを助けることを交換に、ガマの恋人イネスと結婚を遂げる。ふたたび、インドに向かったペドロとガマの船団は、セリカの召使のたくらみで難破し―彼はキリスト教徒を憎んでいる―召使はペドロを殺す。難破船から救出されたセリカは、インドで女王に返り咲くが、女王の灌頂の祝祭場面で、ガマとイネスは犠牲に捧げられようとしている。女王セリカは、ガマとすでに婚約しているのだと嘘をつき、二人を助ける。が、セリカはガマとイネスのもともとの愛を知って自らの命を絶つ。ガマとイネスは結ばれポルトガルに帰還する。

このオペラがガマという人物についてのどのような神話を作りあげたのか、スブラフマニヤムは分かりやすく語ってくれない。西洋と東洋の幸福な結び付きは絶たれた、また、十九世紀のナショナリズムがガマを利用した、という解釈を歴史家はわずかに語るだけなのだ。今、私がここで言えるのは、この本(本文368頁)の全部が、このオペラが差しだしているガマなる人物像への反証・事実認定・批判的検証である、かもしれないというきわめて雑駁な結論なのである。たとえばこのオペラの題名は、奇妙なことに“アフリカンヌ”(アフリカの女[性]、あるいはアフリカの女王)なのだが、アフリカとインドが混然一体となっている。このアフリカとインドの混同は、はじめ、荒唐無稽に思えたが、この本を読み進むと、往時の欧州の人々の観念では、アフリカとインドはつながっていた、さらに、いわゆるインド航路の発見とアフリカとの関わりはきわめて深く、混然一体となっても決しておかしくないのである。

ところで、、、そもそも、、、ガマとは誰のことか。
 ここでも、スブラフマニヤムが面白いのは、ガマの遺体の漂流を語ることだ。
ガマの遺体は、コーチンで埋葬された(1524)。その後、ガマの遺骨はポルトガルに移送された。だが、ガマの末裔がガマのものだと信じられていた遺骨は、じつはガマの息子の骨だと明かす。…ヴァスコ・ダ・ガマの本当の骨はどこにあるのか。

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ヴァスコ・ダ・ガマの墓、ジェロニモス霊廟、リスボン19世紀後半の建立

(S. スブラフマニヤムは、ある人物の死とその後の遺骨や遺体の行く末にとても敏感だ。遺骨や遺体の扱いの中に、その人物に託されたその時代の意味が集中的に表現されているかのように語る。)
 ゴアに建立されたガマ像の行く末も興味深い。不可解な運命をたどるのだ。引き倒され、粉々に砕かれたあと、その破片が町中に撒き散らされたのだ、と。
(何のために、、、オペラにおける誠実で愛するガマではなく、ガマに対する憎しみが浮かびあがってくる。その憎しみは、インド東海岸に生きる人々の憎しみであるばかりでなく、ゴアのポルトガル系の人々の憎しみでもある可能性が高い。いや、、、この事件は、犠牲の肉体を切り裂き、その肉片を分かつ再生儀礼にも似ている。)

 ヴァスコ・ダ・ガマは、1469年頃、リスボンの南、シーネスに生まれた。
ガマの父、エステヴァオ・ガマは、サンティアゴ騎士団(教団)の複雑な位階秩序のなかで、明確ならざる形で力をつけていた。
この騎士団(教団)というものに注意を向けなければならない。
ホスピタル騎士団が地中海域で依然勢力を持ち続けていた一方で、テンプル騎士団は激しい弾圧にあう(おもにフランスで)。が、イベリア半島では、テンプル騎士団に対する政治的反発は極めてゆるやかであった。テンプル騎士団は、ポルトガルでは、名前をキリスト騎士団と名前を変えて存続する。そしてキリスト騎士団と勢力を分かつもうひとつがサンティアゴ騎士団であり、ガマの家系はこのサンティアゴ騎士団に深くかかわっていた。

1480年代(ジョアン2世の治世)、十代のガマはモロッコへの遠征(侵略戦争)に参加する。この参戦もサンティアゴ騎士団と無関係ではないだろう。(ガマはその時、イスラム世界と同時に遠く東方世界への広がりを肌身に感じたに違いない。)

ガマがふたたび姿を現すのは(文書に見出せるのは)、ガマが二十三歳のときだ。ガマは、リスボンで、ある夜、城塞警ら隊との間でトラブルを起こし逮捕・拘束される。ジョアン2世が援助の手を差し伸べた。王が手助けしたのは、すでにガマが王の先手となって欧州各地で情報収集の任に当たっていただろうこと(一種の政治・外交・軍事スパイか)、また、王がガマの激情と暴力的性向を評価していた(海外拡張のリーダーにふさわしい)ふしがあるからなのだ。                                                                                                                                                                                       
 
1495年、突然ガマが三度、姿を現す。ドン・ジョルジュ(コインブラ男爵、ジョアン二世の非嫡子の皇子、1481—1550)との特別な関係を示す書簡が見つかっているのだ。ドン・ジョルジュは、サンティアゴ騎士団の領袖だった。スブラフマニヤムは、通説に反して、ガマはドン・ジョルジュとの関係を継続し、すなわち新ポルトガル王ドン・マヌエル(1世、在位1495-1521)に寝返ることなく、サンティアゴ騎士団と極めて近い位置に立っていた。ここで大きな問題が持ち上がる。ドン・マヌエルが、なぜ敵対勢力(周知のように、彼の後ろ盾は、キリスト騎士団である)からヴァスコ・ダ・ガマを艦隊の指揮官に選んだのか。

ポルトガルの支配層が、海外進出について一枚岩であったわけではない、スブラフマニヤムは強調する。むしろ、宮廷エリートは、海外進出をめぐって深刻な分裂に晒されていた。ヴァスコ・ダ・ガマを理解するうえで、カスティリャ騎士団、キリスト騎士団、さらに宮廷エリートのさまざまな動き、考え方(典型的には、中央集権化や終末思想やレコンキスタ)を意識する必要がある。

西暦1497年7月8日、ガマらの艦隊(3隻と補給船、およびカラヴェル船)がテージョ川の河口を出発したのは確かなようだ。奇妙な出発だ、艦隊は何を発見すべく出帆したのか、、、

ベレン
リスボンのベレン塔、ここから艦隊はインドにむかって出発した

7月17日、艦隊は、夜間、バラバラになってしまう。が、かねての打ち合わせの通り、ヴェルデ島(アフリカ大陸最西端、セネガル)で再集結する。
11月18日か19日に喜望峰を認める。出発から4か月がたっていた。原住民とのつたないやり取りがあった。原住民を半ば強制的に船に連れてきて、ポルトガル人の服を着せ、送り返したりしている。原住民との軋轢・苛立ちからか(海岸に立てた十字架を原住民が破壊した)、ガマは威嚇砲撃を行った。補給船はここからポルトガルに戻っていった。
1498年1月10日小さな河口につき(現在のイニャリメのあたりか)、水と食料を調達する。
 かねてよりポルトガル人が訪れていた土地(“良き人々の土地”)に投錨する。彼らは、礼節や秩序というものに馴染んでいるようだ、と記録されている。
 
(この本で読んでいて実に面白いのは、アフリカの東海岸の沿岸ぞいの一筋縄ではいかないガマの航海だ。マダガスカルの対岸のアフリカ沿岸、モザンビーク、モンバサ、マリンディ等々をめぐる。冒険譚を読むように楽しい。だが、スブラフマニヤムが、とりわけ注視するのはガマの威嚇・暴力行使である。)

モザンビークでは、当初、現地のスルタンはガマの一行を、トルコ人かムーア人であると思っていた。また、ガマらも、ポルトガル人であることを隠していたふしがある。だが、じきに、実は歓迎されざるキリスト教徒であると悟られる。1498年の最後の週、ガマは、水の獲得のために住民に対する砲撃を行う。これ以降、水の獲得が容易になってゆくのだ。
ザンジバル島を通過、ガマらは大陸と見誤っている。
4月7日ついにモンバサに到着、モザンビークで雇った二人の水先案内人が逃亡、ここでは、キリスト教徒が奴隷として使役されていることを発見し衝撃を受ける。
4月14日マリンディの沖合に碇泊、ガマは用心深く、上陸をためらった。しかし、ここでインド人、それもケララからやってきたキリスト教徒の商人に出会う。9日間の滞在の後、ガマはカリカットというところを目指して出発する。スブラフマニヤムは、それはガマの思いつきではないだろう、と述べている。つまり、ガマは、いわゆるインド航路についての相当量の情報をもっていた。

ここで、オマン出身のアラブ人、イブン・マジットという水先案内が、登場することになる。ガマの艦隊は、イブン・マジットなる人物に導かれてカリカットに辿りつくのだ、と。しかし、スブラフマニヤムは、それは、はなはだ疑わしい仮説であると述べる。今世紀の初めのフランスのオリエンタリストに始まり、さらに1950と60年代におけるロシア(!?)の学者による研究(スブラフマニヤムはテクストの改竄を見ている)のポルトガル史学への奇妙な影響を認めなければならないからだ。
スブラフマニヤムによる水先案内人の同定は、非常に込み入っている。だが、スブラフマニヤムが言わんとすることを大括りで言えば、その水先案内人がグラジャート出身のムスリムだったという説も含め、水先案内人が誰かということよりも、すでにカリカットには、ポルトガル人が居住していた事実の方が、歴史的に意味があるのではないか、と言っているように思える。さらに言えば、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端部に達した時点で、インド経路の問題の大半は解決していた。ゆえに、王は、船乗りではなく(ディアスでなく)外交のできる貴族のガマに艦隊の指揮をとらせた。

マリンディからインドまでは23日を要した(これまでの10か月にもおよぶアフリカでの月日を思うと、インド洋の航海は、おまけのような気がしてくる)。
5月18日 インド東海岸の陸影を認める。案内人の勧めで沿岸を航行し、地理の確認に努める。
5月20日 カリカット北、海岸より1.5リーグ(7.2km)のところに投錨する。現地の者たちがボートでサン・ガブリエル号にやってくる。彼らが誰であるかと問うとともに、カリカットの正確は方角を示す。
5月21日 ガマは、元囚人のムーア人偵察隊をまず上陸させる。ガマは、アフリカでの経験から非常に用心深くなっていた。が偵察隊は、一応の歓待を受け船に戻ってきた。偵察隊とカリカットの役人は、アラビア語での意思疎通が可能だったのだ。
5月28日 ガマら12人が上陸する。ポルトガル人は、大きな建物(教会だと彼らは考えた)に案内された。壁にかけられた聖人像を見て奇妙だと思った(ガマらは、鼻からキリスト教徒の土地に来たと信じているのだ)。クロニクル記者は、この“東方キリスト教”についてその儀礼と特異性を注意深く記述するが、歴史家にとって、彼らがヴァイシュナヴァ派のヒンドゥー教寺院にいることは明らかだ、と言う。彼らは、非イスラム的なものをキリスト教に結びつけて理解した。ポルトガル人の一行は、祝砲が鳴るなか、王宮に向かった。
王は、一段高くなったコーチの上に横になっていた。
王は、ガマが、どんな目的でここに来たのかを尋ねる。
ガマは、世界でもっとも権勢あるポルトガル王の命で、キリスト教徒の国を発見するためにここに来たのだと言いたてる。

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中世のヒンドゥー教寺院を偲ばせる

歴史家は、アラビア語の通訳で“発見”の意味がどれだけ通じたか、疑問を呈している。(しかし、この航海、どこにいっても最後はアラビア語がものをいう。イスラムを叩く足掛かりを得るための航海で、イスラムの圧倒的な存在感に出会うのだ。)
王との接見、意見交換は夜半まで続いた。王は、最後に、夜をムーア人のところで過ごしたいか、キリスト教徒のところで過ごしたいかを尋ねた。
翌日、ガマは、王への贈りものを慣例通り整える。
お付きのムーア人が、何と貧相な贈り物かと嘲笑し、ガマはたいそう憂鬱になる。そして、ガマらは、自分らは外交使節であって商人ではないと言い訳するのだ。
翌々日、ガマらは長らく宮殿で待たされる。ようやく二人の従者だけでの接見許される。王は、前日、ガマらが接見を求めなかったことを非難した。王は、ポルトガルの特産品などを問う一方で、権勢ある王の使いがなぜ贈り物ももたずに来訪したのか、王からの親書を持参していないのか、と問い詰めるのだった。ガマらは、アラビア語に翻訳した書簡を用意していたが、その内容をガマは把握しいなかった。クロニクルの記者は、明らかに、この両者の折衝が非友好的なものだったことを伝えている。
5月31日 ガマの一行は宮殿を去る。それが、サムンドリ王(海の王)との最後となる。1500年、ガマが再度カリカットに戻ってくると、王は変わっていたのだ。…ガマは鞍のない馬に乗ることを拒み、御輿を用意させた。ガマは、艦船に戻ることは王の指示だと説明するが、同行の付き人は言を左右にして艦に戻ることを邪魔するのだった。一行への監視が強化されポルトガル人は神経質になっていた。クロニクルの無名記者は、表面は友好的だが、いつ彼らが攻撃してくるか分からない状況を強調する。だが、新たな積荷が届けれらようやく事態は好転してゆく。
ポルトガル人とカリカットの商人たちとの始まりの取引はどのようなものだったのか。用心深く、かわるがわる小舟で荷・商品をカリカットの街に運んだ。ポルトガル人が持ち込んだシャツや布の値段は驚くほど安かったが、現地の香辛料も安かった。現地の人々は、小舟で艦船まで、魚や石を売りにやってきた。
8月23日 船は、すぐに戻ってくる、と言い残して帰路につく。
船は、風をつかまえられず、進まない。ひと月がたっても、船は、ひどくゆっくりとインドの西海岸を北上するだけだった。そのような時、ベネチア方言を喋る身なりの良い男が艦に接触してくる。彼は、カリカットに現れた全身服(!)の人々の噂を聞き、追って来たのだと言う。親し気な雰囲気はすぐに疑念を引き起こし、拷問のすえに、彼がスパイであると判断する。スパイの主人は、ポルトガルの船が、帰路を見失って迷走していると考えていた。このおしゃべりな男は、実は、ユダヤ人の商人だった。ポルトガル人は、彼から、当地の商業と政治につて多くを学び、ガマの2回目の航海に同行することになる。

帰路は容易な航海ではなかった。西インド洋の横断には、3か月を要し、30人もの船員を失う。各艦でまともに働けるものは7、8人のあり様だった。このまま良い風が吹かなければ、インドに戻るしかないとガマは一度は決意する。神妙な祈りが捧げられた、とクロニクル記者は言う。
1499年1月2日、それでもアフリカの陸影を望見する。
1月7日 友好の地マリンディに着く(これにはまた別の理由がある)。王から薬物と食料の提供を受ける。
1月11日 モンバサを通り、その後、船員不足からサン・ラファエル号放棄を決断し、火をかける。
3月20日 喜望峰を回る。…ここでクロニクル記者による記録を突如途絶える。一隻は6月の初めに、ガマの乗ったサンガブリエル号は、8月にリスボンに帰還する。ガマが遅れたのは、故国の地を目前に肺炎で倒れた兄のパウロの看病と埋葬のためだった。

ヴァスコ・ダ・ガマのリスボンへの帰還後について、歴史家は、いくつかのテーマについて詳述している。マヌエル王による、ガマの偉業についてのバチカンおよびカトリック諸国への報告・吹聴(人口百数十万のポルトガルという小国の野望を感じる)、イタリア・南ドイツの商人達の危機意識(ベネチア人は、もはや魚屋になるしかないと自嘲した)、ガマへの恩賞について(領地、称号、年金など、下級貴族からの脱出のガマの姿が見えてくる)、ガマが発見した東方のキリスト教徒について(その情報は混乱と誤解を含みながらも、極めて重要な情報であったことが如実に伝わってくる)、有力な家系の娘カタリーナ・デ・アタイデとのガマの結婚(ここでもガマは出世に熱心だ)、歴史家は、一次資料に当たって、魅力あるディティールとともに時代の諸局面を描きだしている。それらの主題のなかで、良く理解できないが、非常に気になるのは、数十年後に書かれたポルトガル歴史叙事詩への言及だ。カモインスCamõnes が書いた『ルシーアダス』Lusíadas (1572完成)は、ガマをローマ建国神話における古代のアイエイネスになぞらえ、英雄としたたたえた。その主題は、キリスト教と異教との闘いなのだが、興味深いのは、ガマの遠征に対する悲観的な見方がそれに現れていることだ、と言う。かくてこのポルトガルの国に災厄がもたらされた、と。その悲観的な見方に関して様々な解釈がなされてきた。が、 スブラフマニヤムは、『ルシーアダス』の言わんとすることは、海外拡張主義への批判というよりは、英雄物語・神話にたいする批判、ポルトガルの暴力行使への批判である、と解釈する。ガマの行き過ぎた暴力行使を批判する視点を、ポルトガルは、その自身の内部にもっていた。

ガマの第二回の航海(1502年2月~1503年10月)までに、ブラジルの発見者ペドロ・アルヴァレス・カブラルの大艦隊を含む二つの艦隊がインドにむかった。そして強奪し、砦・商館をたて多量の香辛料を故国に持ち帰った。
ガマの第二回の航海を特長づけるのは、インド西海岸におけるカリカットやカナノールを相手にした威嚇的取引だが、その頂点にメッカ巡礼船への攻撃とムスリム巡礼者の虐殺がある。第一回航海にうけた“屈辱”(ガマが持参したカリカット王への贈り物を嘲笑された)に対する復讐であると考える向きもあるが、それよりも、私がこの本から受け取るのは、ガマという人間の攻撃性とムスリムへの闘いを正義と信じる十字軍的狂信だ。
1502年9月29日サンガブリエル号は、大型船を目撃し、威嚇砲撃を行う。メッカからカリカットへ戻る巡礼船だった。有力な商人アル・ファキムは、命乞いのための交渉をガマとおこなう。それが、インド洋海域における海賊に対する通常の対応だったのだろう。だが、ガマは価値あるすべてのもの(金銀の硬貨、トルコのベルベット、水銀、オピューム等々)を没収すると船を砲撃した。船上の女(性)たちは、身に着けていあた宝石をポルトガル人に差しだし命乞いをした。絶望に駆られた人達は、ポルトガル船に乗り移り砲火をかわそうとした。最後に、ガマは巡礼船に火をかける。子供を含めた300人近い人々が殺された。
 
 この後、ガマは、カナノール、カリカット、コーチンを行き来し香料取引を試みるがうまく行かず、カリカットを砲撃し、コーチンでは、ムスリムの船舶を武力拘束し、積荷を強奪する。その間、カリカットからの反撃もあったが、ポルトガル艦が大きな損害を受けることはなかった。
 かくしてガマはコーチンに商館を建て、数十人のポルトガル人を残し、ポルトガルへの帰途につく。

ガマのポルトガルへの帰還(1503年10月)から、1523年の第三回目の航海までの期間について、これまで歴史家はほとんど返り見ることがなかった、とスブラフマニヤムは言う。ガマの神話形成(国民的英雄像)にとって好都合な材料に乏しいためだろうか。これについても、スブラフマニヤムは、それらの込み入ったテーマについて詳述している。
まず、ガマについては、さまざまな争いをかいくぐっていかねばならなかった、と言いう。たとえば、王から拝領したシーネス(ガマの生誕の地でもある)の領地運営は、在来勢力の妨害で思うようにはならなかった。それらの争いの中で、ガマはさらなる爵位や領地を求め続けた。それも、マヌエル王の弱みにつけこむようなしたたかさが目につくのだ。
マヌエル王の統治は、ガマの第一回航海の帰還後、1504年頃から中央主権化にむけた改革が加速する。厳格な徴税システムが機能し始める。学校改革の成果が、それを支える能吏を養成した。スイス式と呼ばれる近世へむけた軍事改革も開始された。それら改革の王の動機についてスブラフマニヤムは、西欧のカソリック諸国の盟主たらんとする野望であり、その最大のテーマは、ムスリム勢力の一掃で、シンボルカルにはメッカの破壊蹂躙、またその作戦の要諦は、東のキリスト教勢力との同盟によるムスリム勢力の挟撃なのだ。1507年には、キリスト教国としての同盟を求めてエチオピアに正式の使節をおくっている。もちろん、そのような誇大妄想的な野望―遠くのキリスト教国やメシア思想―に冷ややか宮廷エリートのグループも存在した。問題は、マヌエル王の北アフリカへの固執なのだ。(往時のポルトガルにおける北アフリカ問題を私達は知らなすぎる、ように私は思う。コンキスタドールは、北アフリカで継続されていた。)ポルトガルはインドに次々に武装商館を建設し、インド洋の制海権を確立しつつマラッカへの進出・拠点化、フルムーズ(ホルモズ)を占領、さらに中国に商館を建てよ、とまでマヌエル王は命じた。他方、北アフリカへの軍事支出が続いたのだ。香辛料での儲けは、北アフリカ(およびバチカンへの宣伝費)に蕩尽された。スペイン、ハプスブルクからの援助も北アフリカ領の維持ためだった。北アフリカ領地問題が王権の基盤を揺るがした。そそして1515年頃には、王の中央集権化の放棄が明らかになってくる。北アフリカの重荷によるのは明らかだ。

詳細を極めるスブラフマニヤムのポルトガル領インドの統治について叙述をはなれ、ごく大雑把に捉えてみたい。
初代(インド領副王)フランシスコ・デ・アルメイダ(在位1505~09)の時代は、インド洋におけるポルトガルの海洋権確立の時代だった。アルメイダの名声と権勢は目を見張るものがあったが、ガマは、その周辺に追いやられていた。
次のアフォンソ・デ・アルブケルケ(総督、在位1509~15)は、ムスリム王国ビジャプールからゴアを奪取し、マラッカを占領した。アルブケルケについてそのことばかりが取り上げられるが、スブラフマニヤムはのインドにおける彼の使命を、自由貿易とは対立する王室による貿易の独占と考える。彼が推し進めてゆこうとした王室独占は、いささかも重商主義的ではない。資本(儲け、と言うべきか?)蓄積が王室に集中し、新興ブルジョワジーを育てない。ところでガマといえば、海軍提督というあまり実態のはっきりしない称号を活用して私的な貿易で蓄財に励んでいたところをみると、中央集権的君主の側にあるというよりは、十字軍の戦士としての封建領主に近いのではないか。
ロポ・ソアレス(総督、1515~1518)は、アルブケルケとは反対にゆるやかな統治を行った、ということ以外にあまり印象にのこらない。ただ、この本で興味を引いたのは、彼の奇妙な紅海への遠征だ。アルブケルケの統治の最終場面で(1517)、ロポ・ソアレスはゴアから艦隊を率いてアデンに向かう。そこで彼は驚くべき事態に遭遇する。アデンのスルタンと人々がポルトガル艦隊を歓迎したのだ(オスマントルコによる支配を嫌った)。それは、エジプトのマムルーク朝がオスマントルコに滅ぼされた直後であり(1517)、要港アデンを奪取する絶好のチャンスにありながらも、ロポ・ソアレスはそのままジェッダにむけて出発してしまう。ロポ・ソアレスの意図は不明であり、またロポ・ソアレスという人物も不思議な印象を残す。
ディオゴ・ロペス(総督、1518~1522)は、ふたたびアルブケルケの方針に戻したのだ、と言う。つまり、自由貿易でなく、王室による貿易の独占だ。だが、ディオゴ・ロペスがマヌエル王に忠実であったと言うためには、いささか複雑な歴史的問題を解く必要がある、とスブラフマニヤムは言う。ところで、王室による貿易の独占の実態とは何なのだろうか。一般の商人による自由貿易は許さないが、それは表向きのことで、実は、要人自身の私的取引や収賄によるの闇取引が横行していたのではないか。面白いのはガマも例外ではない。

1521年、マヌエル1世が死にジョアン3世が王位を継承する。スペイン・ハプスブルク家の血の入った、あるいは強い紐帯をもつジョアン3世は、マヌエル王よりは、遥かに現実的で、パラノイア的王国とは無縁な王だったようだ。つまり遠いキリスト教国やメシア思想を信奉していない。つまり、ジョアン3世におけるは香料貿易は、十字軍の軍事費捻出のためのではなく王制の財政立て直しのための香料貿易なのだ。そういう方向転換のために、三度、ヴァスコ・ダ・ガマが登用される。その任命が適切なものとは思えないが、それしか王に選択肢はなかった、とスブラフマニヤム言う。ガマの志向(強欲である)・思想信条(十字軍的熱狂とどこかで結びついている)がどうであれ、王は、ガマの英雄神話を利用してポルトガルの海外進出・活動の秩序回復・統制とさらなる王国の発展を試みたのだ。

gamas portrait
ヴァスコ・ダ・ガマ(?1469~1524)

D.ドアルテ・デ・メネゼス(総督1522~24)に対する本国からの罪状は、不正な私的取引とシリア・キリスト教徒への援助を怠ったこと、がおもなようだ。本国の方針・命令に寄り添う度合いが低かったかもしれないが、ドアルテは、現地の実情にあった現実的な仕事・行動をとっていたような印象がもたれる。彼はインド西海岸のムスリム、とりわけマピラ(ケララのムスリム・コミュニティ)との対立・抑圧を強めていく。そのことで彼は非常に嫌われていた。ただ、彼の重大な関心が、インド西海岸からペルシャ湾方面へ移っていたことは、情勢論的に正しく、ポルトガル領インドの統治の観点からすれば、本来はより評価されて良いように思えるのだ。弟をたびたび紅海に送りムスリム商人の商売の妨害させている。サファビー朝とのフルムーズをめぐる緊張もさることながら(1524年のシャー・イスマエルの死でその圧力から解放される)、何よりもオスマントルコの圧力を恐れていた。
D.ドアルテ・デ・メネゼスはポルトガル副王ヴァスコ・ダ・ガマの着任(1523年末)により捕らえられ本国に送還、7年の禁固刑を受ける。ドアルテの解任と送還についても、一筋縄では語れない歴史の劇があるのだが、ここでは省く。
ヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル領インドの統治を特長づけるのは何なんだろうか。
ドアルテがやったことはムスリムへの苛烈な圧迫と、ポルトガル系住民に対する鷹揚な統治である。多くのポルトガル人にとってインドで生活することは、ある種の特権と自由と成功のチャンス(破滅ととなりあわせの)に恵まれることであった。その雰囲気を良く伝えているのが、フランシスコ・ペレイラのゴアの統治だ。病院とフランシスコ会に金を使い過ぎ、弾薬は尽きていた、と。それに対して、ガマは、ポルトガル系住民に対しても、暴力的とも言えるやり方で厳格な規律を求めた。給料の支払いを厳しくチェックした(古参をないがしろにしている、という非難があがった)。ガマ自身も現地の名士・有力者からの贈り物を受け取ろうとしなかった。だが、それは現地の風習・儀礼に反することだったのだ。ポルトガル人は副王・ガマを憎んだ。別の情報では、ガマは現地の情婦に手切れ金を払っていた。

1524年11月、ガマは重篤の病に倒れる。アデンで拿捕した船からは、オスマントルコの艦隊が攻撃の準備を整えつつある情報がもたらされる。ガマの容体は回復せず、カリカットへの攻撃は難しくなった。ガマは指揮権を譲らざるを得なくなったが、誰が引き継ぐのか混乱と争いがあった。それでもガマの仕事が何名かの高官に引き継がれ、艦隊は分散し、アジアの各方面に向かって出発していったのだ。ガマは、1524年のクリスマス・イヴゥにコーチンで死ぬ。コーチンの少なからずの人々がガマの死を喜んだ。

スブラフマニヤムは、ガマの規律の回復と領有地拡張を、時代錯誤とみる。小国ポルトガル(当時の人口は百数十万人)には支えきれない海外領地を抱え込んでこんでいた。といいうことは、十字軍的夢想から離れ実利を求めたジョアン3世の修正方針も、また、同じ拡張の方向であることには変わりなかった。

スブラフマニヤムは、ガマの肖像画に言及して、醜い肖像とより醜い肖像があるだけだ、と言っている。この辛辣なもの言いは、じつはこの本の手短な案内に思える。ヴァスコ・ダ・ガマの伝説部分を丁寧にとり除いていくと、そのような、醜いガマとより醜いガマが見えてくる、と言っても過言ではないからだ。…ポルトガルの現代のある歴史家は、15・16世紀のポルトガルの海外浸出について(しばしば、ナチスのジェノサイドに近い、と非難される)、スピノザの精神にのっとり、人間の行いに関しては、笑いも、泣きも、軽蔑も必要ない、ひたすらその不思議を理解することだけだ、と宣言する。しかし、スブラフマニヤムは、そのいささか崇高すぎる宣言に楯突くように、キリスト教徒でない私は(スブラフマニヤムは少なくともキリスト教の狂信者ではない、と言っているのか)、彼らの行いがばかげていれば笑い、悲劇的な場面では涙をながし、彼らの犠牲者が彼らの非道を憎しんだように彼らの非道を憎むのだ、と結論する。

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サンジャイ・スブラフマニヤム

サンジャイ・スブラフマニヤムという歴史家は、論文のなかにユーモアのある寸言を持ち込み、辛辣に笑い、だが、多くの人々が当然と思うことがらには容易に同調しない、煮ても焼いても食えない思想する人であるところが一番の魅力なのだと思う。

<参考文献>
立石博高編『スペイン・ポルトガル史』(山川出版社2000年)
ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(山村宜子訳、白水社、原著2011年)
家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会2006)

2019,1

110. R. K. ナーラーヤン『英語教師』(1946年初版刊)、 R. K. Narayan, The English Teacher, First published in 1946, London.

imagesGTAXBXF5.jpgナーラーヤン『英語教師』を再読する
これがナーラーヤンの小説で一番好きだ
私は この小説を読みながら
生きていくことの不自由をかみしめる
他方で 人生の桎梏からの解放の感覚を
手にするのだ
あるいは 思うようにはならない日々のなかで
心の平安が訪れる
さらに言えば 超自然への凭れかかりと
近代的・実証科学的な感覚
が共存し 相克する
愛妻の若すぎる死さえも
悲しみであると同時に
自由の到来なのだ
今回 『英語教師』を再読して発見できたのは
ナーラーヤンにおけるこの両義性だった


   ナーラーヤンは、自分の書いた小説の出版を願って(『スワミと友達たち』Swami and Friends, 1935)、オックスフォードに留学する友人にその小説原稿を託す。何人かの編集者に出版を断られると、原稿をテムズ河に捨ててくれ、とナーラーヤンは友人に告げる。だが、友人は最後の賭けのつもりで、つてをたよってグレアム・グリーンのところに原稿を持ち込むのだ。数週間後、ナーラーヤンはグリーンに見出されることになる。グリーンは「ナーラーヤンの小説は自分にとって第二の故郷のようなものであり、ナーラーヤンを読むことなしにインド人を決して理解することはなかっただろう」と語る。「第二の故郷」と「インド人の真の理解」という言い方は、おそらくナーラーヤンを読むすべての外国人に共通する感覚のような気がする。そう、ナーラーヤンを読むことは、懐かしい故郷に帰ってゆくようであり、また、自分と本質においてまったく違わないインドの人に出会うことになるのだ。

   ナーラーヤンが作家としてもっとも油ののった時期に書かれた小説『英語教師』(1946)は、そのグレアム・グリーンが主幹する文学叢書の一冊としてロンドンで出版された。

   主人公は、毎朝ミルトンとシェイクスピアを読むことを日課としている英語教師だ。そして、たとえば作文の授業では、特別な準備が必要でないためか気が楽になり昔のことを思うのだ。…仲の良かったガジャパティが隣に座っていた、あの頃、この教室の先生になりたいと、強く思ったのだ。願っていたものと手にしたものの齟齬の感覚が伝わってくる。

   彼が勤めるカレッジは、他のナーラーヤンの中編小説と同様に、マルグディという架空の小さな街にある。マルグディを舞台にするナラヤンの小説については、ジュンパ・ラヒリが瀟洒なエッセイを書いているけれども、イメージは、ティルティ(南インド、ティルティラパッリとも)とマドラスの中間あたりにある鉄道駅のある街、といったイメージになるだろう、とナーラーヤンはどこかで書いていた。ただし、読者・批評家の諸君、マルグディがどこにあるかなどと詮索しないでもらいたい、ともナーラーヤンは言う。

 小説の前半は、どこにでもいる若い夫婦の日々が淡々語られてとゆく。
   たとえば、このように続く。…生まれたばかりの赤ん坊を抱いて妻が実家から帰ってくる。二等列車で帰ってきてもらいたいという主人公の懇願にも関わらず、妻は三等列車で帰ってくるのだ(インドの三等列車!これは凄まじそうだ)。妻のスシラは倹約好きなのだ。(倹約に対するナラヤンの態度は両義的だ。美風とも、また醜くも見ている。)スシラは、主人公が何故か愛着をもっている古時計を処分してしまう。主人公はひどく怒る。その夜、スシラはベッドに入ると泣いていた。(なぜ多くの妻たちは夫の愛贋物を処分したがるのか、一種の嫉妬だろうか。) 二人は暫く冷戦状態が続くのだが、主人公が学校から帰るとだしぬけに、久しぶりに映画に行こう、と言うのだ。実によくある夫婦喧嘩の終了だ。しかし、後になって振り返ると、それらの日々は何ものにも替え難い幸せな時であったのだ。

   この小説において、幸せな日々は長続きしない。自分たちの家を持とうというハッピーな企てのなさなかに不幸な出来事が始まる。二人で新開地に家を物色しに行くとき倹約家の妻が珍しく牛車で行きたい、と言った。すでにスシラの体調は良くなかった。ジャスミンのなる家を見て、クリシュナは、ここならいい詩がたくさん書けると思うのだ(クリシュナは、教師であるよりも詩人でありたい、と思っている)。妻は、新開地のバラックのトイレに入ると、青ざめて帰ってきた。トイレのドアが中から開かずひどく不潔なトイレに閉じ込められた、と言うのだ。(スシラや義母はそのトイレによって、不浄の病に感染したと捕らわれていくが、主人公のクリシュナは、少し違う見方をしている、のが興味深い。)その夜から、妻のスシラは臥せって起きられなくなった。愛想のいい医者は、クリシュナの病状説明を聞くだけで、診断もせずマラリアだから心配はいらない、と言い薬を処方するのだ。数日がすぎても、一週間たっても妻は良くならない。妻の母親は、祈祷師をつれてやってやってきた。医師の誤診だったのだ。そしてクリシュナの懸命の看護にもかかわらず、妻は息絶えた。

   この小説の圧巻は、何といっても妻の葬儀・火葬についてくだりである。読むたびに息を飲む。…近親の者たちが、死んだ妻の口もとにお別れの米(生米かご飯か?)を押し込む、妻は空を見ている。遺体を移動用の担架に縄で縛ると皆でかつぎ、自分は香をともし、その後ろにつく。街の通りにでる。人々が見送るなか、自分にはどの顔もかすんでしか見えない。川のなかを歩いて渡り、川岸の火葬場にたどり着く。まきに火が点けられ、いよいよ火葬となると、自分には特別な感情がないことに気づく。ただ、炎を見つめ、この炎こそが現実であり、この炎の他に自分が恐れ心をかきたてるものは何もない、と悟のだ。

narayan with beloved wife
Rasipuram Krishnaswamilyer Narayanaswami
1906-2001
マドラス(現チェンナイ)に生まれる
R. K. ナーラーヤンは南インドの英語作家である
写真は、作家と自由恋愛で一緒になった妻
6年間の結婚生活で、愛妻は病死する
その後、作家は再婚することがなかった

 『英語教師』という小説は、この川岸の妻の火葬の場面があまりに秀逸なので、ここで終わっても良いと思うぐらいだ。しかし、このあとも読者を飽きさせない話が続く。死んだ妻との交霊の試み(超自然的な「お告げ」を手にはするが、妻との直接対話には成功しない)、また、近所で幼児教育を行っている者との出会いがある。

   妻との交霊の試みについては、クリシュナが、超自然的なものを受け入れ身を任せようとするところと、それが機能しない現実の認知という、二面性の物語として興味深い。超自然への信仰(分かりやすくいえば迷信)と近代的な知の間で揺れているクリシュナの姿が魅力的なのだ。超自然がまだまばらに信じられている南インドの田舎町で、クリシュナはそれを声高に批判・否定することはないけれども、あるいは、受け入れようとさえするけれども、近代的な知性が超自然のほころびを見逃さない。このバランス感覚がナーラーヤンに痺れるところだ。

   また、近所の幼児教育者については、主人公のクリシュナが大学の先生でもあることと関連して、教育とは何か、教師とは何か、という問いの基調音がある。また、幼児教育者が教育について理想的であること(たとえば、子供は未来への宝である、というようなことを繰り返し言う)とひどい恐妻家であることの対照が面白く、また、この理想家が占い師による自己の終末の予告を信じきっているのもユーモラスだ。それは妻の火葬の透明な厳粛感を中和させているようだ。

   この小説は、英語教師のクリシュナが、大学を辞すところで終わる。愚かなものしか作りださない今の教育が納得できない、と言う一方で、何よりも心の平安を望んで、個人的な理由で、退職届けを出したのだともクリシュナは言う。

   この小説の最後の言葉「スシーラ、スシーラ、スシーラ、私の妻」が、やはり私は好きだ。喪失の悲しみ、という以上に、死の単一性(妻の死はひどく単純だ)と現実・日常性のユーモラスで豊かな重層性がこの小説の生命だと思うからだ。

2018, 12

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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