104.アニタ・ナイール『女性専用車』(2001年刊)、Anita Nair, Ladies Coupé, published by Penguin Books India in 2001.

ladies coupeバンガロールからカニアクマリに向かう
女性専用車両で
そこに居合わせた女(性)たちが
それぞれの半生を語り合う
平凡な主婦は 夫なしでは何もできないと嘆く
横暴な夫に復讐する高校の化学教師
リッチで活力ある宝石商の妻
祖母の生き方と事件的な死を語る少女
下働きの労働を続けるなかで
性に翻弄された下層出身の女(性)
語り手アクヒラはそこに様々な回想を織り交ぜる
父親の突然の死があり 
家族のために犠牲となったのだ
封印したはずの年少者との恋愛が
再び激しい欲望となって現れる
これは質の高い娯楽性と
社会的抗議をあわせ持つ 問題提議の小説である
このような小説をむさぼり読む
インドの娘達・女(性)達の顔が 目にうかぶ


小説は、主人公のアクヒラがバンガロール・カントメント駅に立っているところから始まる。駅の雰囲気を伝える描写とディテールがいい。暑さは髪にさしたジャスミンまで汗ばむようだと、言う(異形の徴か)。駅舎は多くの人でごった返し、こんなに大勢の人が列車に乗れるのだろうか、と彼女は不安に思う。暇な警官が大型スクリーンのTVを見ている、走りまわる子供たち、線路に散乱するごみ、トイレの悪臭、赤いターバンのポーター、等々、インドの鉄道駅の光景が伝わってくる。家族に見送られる男、きっと男はボンベイへ出てそこから中近東方面の国に出稼ぎに行くのだ、そして、家族の期待と重圧をアクヒラは思う。家族の幸福のすべてが、この男の出稼ぎにかかっている、のだと。

 アニタ・ナイール『女性専用列車』は、バンガロールからカニアクマリ(コモリン岬に近い)に向かう列車のコンパートメントにたまたまで乗り合わせた六人の女性が、それぞれの半生を語り合い、それによって女の生き方、あるいは女の存在とはどのようなものかを問う、フェミニズム小説だ。ただ、アニタ・ナイールのフェミニズムは、出来上がったイデオロギー臭さが些かもなく、素朴な手つきで女の生き方を本気で考えているところが、好感がもてる。乗り合わせた女に半生を語らせる小説の枠組みは、初め古臭くも思えたが、語りは、インドならでは女(性)のおかれた諸相を、自然かつ秀逸に描き、引き込まれるようにして読んだ。

 物語の始まりは、父が突然亡くなった、ことなのだ。そのとき語り手のアクヒラは大学進学の準備をしていた。学業優秀で、一族のうちで初めて高等教育を受ける者になるはずだったのだ。アクヒラは、父の事故死が自死であると確信するにおよんで、アクヒラの悲しみは怒りへと変わっていった。三人の弟と妹はまだ幼なかったのだ。アクヒラは、葬儀では少しも泣けなかった。母は、人の目を気にして、泣いてくれ、とアクヒラに懇願するのだった。……父は、税務署に勤める堅物だった。賄賂を受け取らないので有名だったのだ。それでも、母とアクヒラは父の昇進をずっと待ち続けた。その父が母と四人の子供を残して、すべての重荷から逃れるように、突然、逝ってしまったのだ。ただ、父を煙たがった役所は、父を殉職とし、アクヒラを税務署の事務係に採用した。最後に、役所は温情を示したのだ。

 賄賂を拒む清廉潔癖な人物を、インドの現代小説が好んで描く。たとえば、ウダイ・プラカーシの“そして最後に祈りを”(『ウダイ・プラカーシ選集』大同生命国際文化基金ん)などが印象的だ。彼らは、正しいことをしているが組織では孤立している。そのような人物像は、現実には存在しえない極めて理想的なヒーローなのか、あるいは、実際にそのような清廉潔癖な人がインドの諸組織には少なからずいて、その報われない不幸が作家たちを惹きつけ救済を試みさせるのか、私には、よく分からない。この小説におけるアクヒラは、理想を貫き得なかった父、大胆に現実に処することができなかった父に対し批判的だ。だが、アクヒラが家族を飢えと路頭に迷わせないのために高等教育も、愛も、結婚も、職業もすべてを諦め、弟と妹を育て上げたとき父について何を思ったか、かなり複雑なものがある。ここに、アニタ・ナイールによるフェミニズムについての真摯な問いがある、と思う。家父長制の色濃いインドの社会いおいて、その弊害を事上げするだけではなく、その重い責任を引き継がなければならなくなったとき、フェミニズムはどのようなことが起こるのか、を問い考えているからだ。

 コンパートメントの自分の席にどうにか落ちつくと、アクヒラは、様々なことを脈絡もなく回想する。父親にまったく従順で家事に勤しむ母や、つましい生活のこと、愛し合う夫婦の子はそれほど幸せではない、というようなことを思うのだ。そうこうしているうちに、列車は、カニアクマリを目指しバンガロールを発っていく。
 ほぼ席がうまったコンパートメントで、話の口火を切ったのはアクヒラだった。アクヒラが未婚であることが知れると、一同は驚き、女は一人で生きていけないとか、仕事をしているのか、とか、いいえ、男に頼らない生き方こそ価値があるとか……、話が盛り上がる。フェミニズム小説の序章にふさわしい導入部だ。だが、居合わせた女(性)たちのそれぞれの女の生き方は、この導入部を遥かに超えて深くて細部が豊かだ。

高齢の女性はジャナーキといった。彼女は、長いこと、夫を受け入れることができなかった、と語りだす。しかし、息子が成長し、学校でテニスの優勝杯を持ち帰ってくると、幸福を感じたのだ、と。これといった不幸もなくやってきた、と思っている。夫がたてる物音を家で四十年間ずっと聞き続けたのだ。嫁がカンに触ることもあるが、それは歳の功で荒らげずにきた。気がつけば、夫なしでは何もできない自分だった。夫は、別の車両にのっている。ジャナーキという平凡な主婦について、女流作家は否定も肯定もなく、ただ静かに眺めている感じだ。それはアニタ・ナイールという作家の知性なのだろう。

 高齢のジャナーキの隣には、可愛らしいところがあるが、鋭い目付きで人を観察する女(性)がいた。彼女、マーガレットの鋭い目付きは、ある種の人間不信をあらわしている。彼女は、高校の化学の教師で、夫がその高校の校長なのだった。夫は、はじめ魅力的で理想の伴侶に思えたのだが、実は、横暴で出世のことがすべてに優先させるような人間だったのだ。夫の生徒指導は、鞭を使った体罰ではなく、生徒が好むことを禁じる、極めて悪性なものだ、とマーガレットは見ていた。そんな彼女が妊娠する。すると夫は、いつまでも少女のようでいてくれとマーガレットに泣きつき、子供を堕ろさせたのだ。そこから、マーガレットの夫に対する復讐の劇が始まる。その復讐は、多くの女(性)にとっては、ユーモラスなはずだ。

 裕福な宝石商のマダムは、結婚式に出席するためにコッタヤムに行くところだ、と言う。彼女は、プラッバ・デヴィといった。デヴィは、水泳を習う話や(それはインドの今の中年以上の女(性)にとって、古い因習を打ち破るチャレンジなのだろう)、不倫未遂の話を語った。彼女は、裕福で精力的で奔放だ。ただ、彼女の話は、アクヒラにとって興味深くはあるが、心の琴線に触れるものではない。プラッバ・デヴィの積極性と活力を憧れはするが、アクヒラが望むものは違う。……一旦皆が寝閉まると、十四・五歳になる少女が、コンパートメントの六番目の席に着く。父が別の車両にいる、と言う。アクヒラと少女は小さな声で語りあう。少女はシーラという今風の名前だった。シーラは臨終間際の祖母に会いにいくところだった。もう一人の父方の祖母についてシーラは語りだす。祖母の生涯・願い・信条について語るのだ。誰か自分以外の人のために生きるのではなく、自分自身を生きなければならないと祖母は、考えていた。年配の女(性)たちのフェミニズを作家は手繰り寄せようとしている。病院ではなく、自宅のベットで死にたいと願っていた祖母は、退院の日、帰りの車の中で具合が悪くなった病死した、というよりは、穏やかに息子の手で殺害されたのだ(と私には読める)。祖母にとってそれは幸福な死であったはずだとシーラは言う。……高校教師のマーガレットは、自分自身のために頑張ってね、という言葉を残しコインバートルで降りていった。

 アクヒラは、夜行列車で眠られず回想を重ねる。……アングロインディアン(英国人とのハーフ)の親しい同僚に卵の味を教えられた。高位カーストに属するアクヒラにとっては、勇気のいる破戒行為だった。アクヒラは自分の殻を破って行こうとする。他方で、母とはささやかな楽しみをアクヒラは共にしたのだ。月一回の外食や、ティルムラヴァイールのシヴァ神寺院への参詣、たまにタミール映画も見にいったのだ。母と娘との行動は、なぜか心そそるものがある。ささやかな現にある幸福を、抱きしめているようかのようなのだ。この世における深い愛なのかとも思うのだ。そんな母が、サラサ・マミをバス停で見かけると見て見ぬふりをした。アクヒラは、あのように仲の良かったサラサを無視する理由を知りながら母を許せないと思うのだ。サラサの一家も、働き手の主人が亡くなると(あるところまでアクヒラの一家に起こったことと近似している)、収入の道を断たれた。アグラハム(バラモン居住区)の人々は彼らを助けることができなかった。サラサ・マミは売れるものはすべて売り尽くすと、長女を売ったのだ。自分も同じ運命を辿ったのかも知れないとアクヒラは考える。ただ、彼女は、娘を売ったことよりも、そうせざるをえなかった社会を問題視する。アニタ・ナイールのフェミニズムは、ここでは社会正義の感覚と繋がっている。

このコンパートメントに場違いと思える女(性)が一人いる。彼女は、怯えるように自分に閉じこもり、皆の会話には参加してこない。彼らの会話は、英語でなされているようなのだが、アクヒラははじめ彼女が英語を解さないのだろうと思っていた。彼女が英語を解さないように見えるのは、彼女が教育を受けていないこと、つまり下層の女(性)だということなのだろう。二人は、タミール語で語りだす。場違いな女(性)は、世間は女(性)にとって何と残酷であるか、と。その残酷さの意味とは、その中心に女(性)にとっての性があるのだ。レイプ・レズビアン・情婦・出産と子育てが絡みあう。女(性)にとって性とは、何と厄介な重荷であるのか、と私も嘆息したくなる。彼女は、深い闇の中で、女(性)性に翻弄されるとともにそのもっとも豊かな女(性)性を消し去ろうとしているようにさえ見える。だが、彼女が女(性)であることを逃れようとする分、より彼女の女(性)性が際立ってもくるのだ。

anita nair
アニタ・ナイール
1966年ケララ州に生まれる
チェンナイで高等教育(英文学科)を受ける
バンガロールで広告代理店に勤める傍ら文筆が評判を呼ぶ
彼女の長編第二作『女性専用車』は、大成功をおさめ
米国ばかりでなく、トルコ、ポーランド、ポルトガルなど
多くの国で(翻訳)出版された

 この小説の最終章は、三つの海の出会う海岸に近いリゾート地に移る。バンガローに滞在するアクヒラが、ツーリスト・スポットでぶらぶらする青年を誘惑するのだ。四十五歳になる独身の女(性)が、破廉恥な行為に走る。アクヒラが表現するフェミニズは、社会正義と結びつく一方で(女〔性〕を抑圧する社会への異議申し立てをもつ)、女(性)における性の欲望に忠実であろうとする。アクヒラは、今、性を渇望することを隠さない。だが、一夜を過ごしたあと、アクヒラは後悔するのではない。彼女が渇望した性的体験は、もう一度、女(性)と男の関係の修復へ、現にある社会規範・カーストの掟への挑戦を含みつつ、十年以上も封印してきた愛を、解き放つのだ。アクヒラは、受話器に手をかける。

 1998年、女性専用列車Ladies Coupéは廃線となった、とこの小説の最後のページにある。


103.V. S. ナイポール『小説・この世界の一つの道』、V. S. Naipaul, A Way in the World: Novel, published by Alfred A. Knopf, Inc., New York, in 1994.

a way in the world book222この小説『この世界の一つの道』が舞台とするのは
ナイポールの生まれ故郷 トリニダード
あるいは 黒人奴隷とアジア人の年季労働者による
カリブ海の植民地世界
黄金郷伝説と革命に揺れるベネズエラ
南米の北の端ガイアナ
インドとは古くから交流のあった東アフリカ
ということになる
時間軸は コロンブスの航海の時代から
ポストコロニアル状況の1970年代になるのか
それらの前景と背景における
黒人たち 革命家たち あるいは何かに憑かれた人たちが
揺籃の地をはなれ 広い世界に出ていくとき
何が起きるのかを書く
あるいは広い世界に
連れ出された人々に何が起きたのかを物語る

私たちは 自分自身のことを あまりよく知らない
私たちは 自分に対する異邦人であり
自分がどこに向かえばより安全なのか分からない
それを選択できる者は 強者であり
保護と安全を手にできる者だ
とナイポールは語る


今回この本を再読して
改めのて 本書に圧倒された
感動というよりは 恐れ 驚いたのだ
その底にあるのは 
ナイポールの生き 経験し 選択した
差別についての感覚なのだった

 ナイポールは、『読むことと書くことについての個人的な覚書』Reading and Writing: A Personal Account, 2000という小さな本のなかで、イーヴリン・ウォーが述べた「フィクションは作家の経験したことの変形でしかない」という言葉を、ある種、感慨深げに引用している。この本『小説・この世界の一つの道』もウォーの言葉そのもののような、ナイポールが実際に生きたことの変形としての小説である。どこまでがナイポールが経験したことで、どこからが創作なのか、その境界が分かるようでもあり、分かりにくくもある小説だ。ただ、実際の経験(それも記憶でしかない)とフィクションとの境界は、おそらく作家自身にとってはどうでも良いことのように見える。あらゆる経験や事実は、記憶あるいは抽出された記録である以上、本質的にフィクションに傾いてゆく、と作家は考えているからだ。

 ところで、この本は、いくつもの切り口で読むことができる。ポストコロニアル状況、カリブ海世界あるいはトリニダードの歴史と人物、革命家群像、憑かれた人々の不幸、無垢なる人々が揺籃の地を離れ大きな世界(文明)のなかに投げこまれてゆくこと、等々について考えながら中身の濃い読書ができるのだ。だが、とりわけ目立って見えるのは差別の問題だ。ナイポールは、差別についてのある感覚、あるいは考え方を実に豊かに語る。それは差別を悪として批判し排除するよりは、差別に纏わる恐怖が社会を、人々の生を活性化させ、生きる目的を明確にする(安全ということかも知れない)というように描かれる。差別という極めて捉えがたく扱いの難しい主題について、ナイポールは、自らの経験と記憶を参照しつつ極めて陰影の深い物語を織り上げるいる。

   プロローグはクイーンズ・ロイヤル・カレッジに通っていた高校生時代の回想から始まる。無論、この章も、差別について物語っているのは明らかだ。
 荒筋を追ってみよう。
五月の祭りの催しに生け花(フラワーアレンジメント)のコンペをやろう、ということになり審査員に、女性扶助協会で生け花とケーキ作りを教えているレナード・サイードさんを招くことになる。ナイポールに限りなく近い高校生の主人公が、女性扶助協会にサイードさんを訪ねてゆく。受付嬢が「サイードさんなら、道の向こうの建屋にいますよ」と教えられ、そちらへ行ってドアを開けると、高校生は驚愕するのだ。何とサイードさんは、人の死体を前に、花を飾りつけていたのだ。高校生はショックで青ざめうろたえるのだが、サイードさんは至極丁寧に高校生の相手をし、無論、審査員も引き受けてくれたのだ。高校生の驚愕には、ナイポールの差別感覚―死体を扱う穢れた者への怖れ―が隠れている、ように思える。
 次の年、高校生はふたたびサイードさんを女性扶助協会に尋ねる。今回は、ケーキ作りをサイードさんは女性たちをまえに教えていた。高校生は、その光景を見てふたたびある種のおぞましさを覚えるのだ。ねり粉をこねる毛むくじゃらの手が気になって仕方がなかったのだ。毛むくじゃらの手と白いねり粉に、作家は何か猥雑な印象を―性行為を弄ぶ者―読者に求めている気がする。
 三度目の訪問はサイードさんの自宅を訪ねたのだった。自分の家の近くセント・ジェームズにサイードさんは住んでいた。その距離の近さを高校生はどう受け入れるべきなのか分からず取り乱す。そして高校生は、三度、驚く。サイードさんは病気で臥せっていた。彼の毛深い手が、サテン地、あるいは絹のかけ物の上にあった。光沢のあるかけ物も、部屋飾りも、あの葬儀屋から、つまり棺桶の装飾品の残り物に違いないのだ、と高校生は悟りぞっとする。人の死に浸潤された生の匂いを高校生は嫌悪するのだ。
 ナイポールは、ここで差別という言葉を一切吐かないで、自己のうちにある差別感情を描いている。作家がこのプロローグを括る言葉がすごい。まず、始まりは、サイードの祖父あるいは曽祖父が、トリニダードに移民してきた、彼らはインドのシーア派ムスリムの集団に属していて、おそらく北インドのラクノウからやってきたのだ、と類推する。彼の家があるセント・ジェームズは、ラクノウ通りとも呼ばれ、ラクノウ出身者が多いので有名だからだ。だが、尋ねもしないで分かるところが差別らしい。そして、ラクノウのムスリムは大多数がシーア派なのかも知れない。(彼らがなぜシーア派でなければならないのかは分からない。ただ中世の北インドにおけるスンニ派ムスリムによるシーア派、あるいはイスマエル派への苛烈な弾圧の歴史を私は思い起こす。弾圧と抑圧が差別〔外部と交わらない固い信仰の保持と特異な伝統・文化〕を形成していった、というようなことを私は想像する。) さらにナイポールは、サイードの祖先について語る。「おそらく(perhaps)」という言葉をナイポールは繰り返しながら、サイードの出自を、ラクノウの舞踊集団で、女のような化粧をして淫らに踊る男たち、と言うのだ。サイードに纏わりついた死と性に彩られた淫らな印象は、あるカースト集団への差別感情に結びつく。ナイポールは、その差別感情を激しい嫌悪として表現している。将来を嘱望された高校生は、ここで差別の対象に深い恐怖を抱いている。

   この本における黒人(ナイポールはニグロと呼ぶ)についての描き方は、独特で具体的であり、侮蔑・拒絶の対象であるよりは理解の対象なのだ。それはあたかも差別する権利の主張であるかもしれない。差別は撤廃されなければならない、ではなく差別しあってこそ社会は生きる現実と楽しみがある、とでもいうようなニュアンスがあるのだ。

   プロローグに続く第二章、“歴史、魚の膠(にかわ)の匂い”は、主人公が難関の留学生試験に合格し、オックスフォードへ行く前の役所での臨時雇いの時代を描いている。未来のエリートは、出生証明書(これもナイポールについて回るメタファーだ)の写しを作っていた。そこにブレアーという黒人の上級管理者がいた。ナイポールは、ブレアーは苦学の人である、言う。ここでも、ナイポールは、黒人についての皮相な偏見に挑戦している。そして、ブレアーには威厳というものがあり、彼のメモ書きは、細字で几帳面なのだった。週末の給料日には仕事が引けると、職場で皆してラムを飲むのだが、彼はその輪の中に入らず、昇進試験の準備に時間をさいていた。ナイポールは、ブレアーがある特異な黒人の村(逃亡奴隷のコミューンか?)の出身者で、長く外部との交渉を持たない閉鎖社会における純粋・純朴な価値観・性格を彼は引き継いでいるのだと推論する。そして、ブレアーには野心があったのだ。ナイポールと同様、閉じた小さな社会からより大きな世界に出てゆきたい、という願望をもっていたのだ。そしてブレアーもナイポールも、トリニダードを離れ、より大きな世界の現実の中に入っていった。
 十数年、あるいは二十数年が過ぎて、二人は東アフリカの新興国で再会することになる。その新興国の大統領は、民族主義的な社会主義国家の建設を目指していた。ナイポールは、その首都の新しい大学の教授として招聘されたのだった。それは、ナイポールの小説『暗い河』(TBSブリタニカ)とほぼ同じシチュエーションだ。一方、ブレアーは、高位の行政官として大統領の顧問となるのだが、その使命は、その国からのアジア人、とりわけインド人を排斥・追放することなのだった。トリニダードにおけるアフリカ系住民とアジア系との人種的対立・緊張・差別感情が場所を変え、再演される。…ブレアーは、大統領の意図を理解した。しかし、純粋で律儀な心情・性格のブレアーは、アジア人の排斥・追放よりもより広い改革に突き進んでいった。そして、独裁国家の周辺で甘い汁を吸う人々が、ブレアーを抹殺する。トウモロコシ畑で遺棄された彼の遺体が発見されたのだ。
 ブレアーの短い生涯は、黒人エリートのある姿を描いているように思える。ナイポールのブレアーを語る筆致は、終始逆差別的である。黒人について良く言われることの逆を言っている。だが、実に興味深いのは、そのブレアーに、差別についての本音を吐かせていることなのだ。
 コンパウンド(外国人特別居留地区⁉)での夕食会の席であったか、ブレアーはナイポールとおぼしき人物に語る。「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」と。これは、ブレアーという黒人の言葉であるとともに、ナイポールの信条告白である。即座に反応する差別行動というところがミソだ。いずれにしても、ナイポールの求める文学が、道徳的な説教とは大いに異なる。

 ブレアーは、役人という国家公認の道を登り詰めようとする。他方、ラブランLubrunは、革命家なのだった。国家体制を揺さぶり転覆を企てようとする黒人だ。ラブランが仏領西インド諸島の出身者であるのは、フランツ・ファノンを想起させる。ラブランは、知的で巧みな弁舌、国際的な人脈と洗練された身のこなしを合わせ持っている。おかしいのは、革命家のラブランが、ナイポールの著作に共感し、ロシア語の雑誌にナイポールの本の書評を掲載することだ。あり得ない、と初め思い、やがてこれはジョークなのかと思い直す。カリブ海諸島の砂糖キビ労働者こそは、世界最初の賃労働者なのだというラブランの説は何か珍妙なのだが、彼のナイポールへの共感は、世界の辺境に生きる者の偏頗な喜劇性という認識、という点で一致するのかも知れない。革命のイデオロギーには収まりきらない真実への希求をナイポールはラブランに認めているのが、少し意外だ。
 ナイポールの革命家としてのラブランに対する見方はむしろ公平で率直なのだ。だが、ラブランの出自についてナイポールが言及し始めると、何やら独特なニュアンスが醸し出されてくる。ラブランの母は、黒人奴隷であったに違いない、とナイポールは類推する。なぜナイポールは、ラブランの母が奴隷であったと言わなければならないのか、と私は訝(いぶか)しく思う。ナイポールの言い方は、むしろ庶民の陰口に似ている。ナイポールが時に極めて俗なる言辞を吐くのは分かっている。だが、ナイポールは凡百の知識人が示す上品で高級な寛容を拒む。人が生きてゆくのは、そのよう上品でも寛容でもないのだ、という本能がナイポールにはあるのだ。
 
   革命家ラブランは、何度かナイポールと交錯する。クイーンズ・ロイヤル・カレッジの図書館には彼の著作が陳列されていた。どのような人がラブランの本を読むのか、ナイポールは何も言わない。それから、ニューヨークでのリベラル人士との会食やら、チェコ人の情婦との間に生まれた、扉ほどもある大女の娘やら、読者を飽きさせないストーリーが続く。だが、英国人作家フォスター・モーリスの語るラブランの逸話が、とりわけ恐ろしく、興味深い。それも陰影深い差別についての物語だ。

 1930年代、トリニダードで石油掘削・精製所で大規模なストライキが発生した。鎮圧にあたった警察官が焼き殺され、それがカリプソに歌われたりもしたのだった。本格的な文学の書き手で、トリニダード・トバゴについて、とてもいい旅行ガイドをものしているフォスター・モーリスは、その騒乱の傍らにいた。彼は、騒動の首謀者が集う会合になぜか居合わせたのだ。議論は、闘争方針やら戦術から離れ、白人への性的なレイシャル・ジョーク、つまりそこにただ一人居合わせた白人のフォスター・モーリスへの攻撃へと変わっていったのだ。そこで、フォスター・モーリスは決定的な過ちを犯したのだ、とナイポールに語る。つまり、モーリスは、ストライキの黒人指導者ラブランに向かって「悪いけど君にキスできない、君を王子様にはできないんだ」と言ってしまったのだ。その時何かが起きたかも知れないし、何も起きなかったかも知れない、とナイポールは書く。
 黒人、あるいは有色人種の白人に対してもっている差別感覚をとりあげるところがナイポールのとてもユニークなところだ。人種差別というと、白人の黒人に対する、あるいは有色人種への差別ばかりが言われるが、ナイポールのこの本では、白人への差別感がしばしば取り上げられるし、さらに有色人種同士の差別にナイポールはとりわけ着目する。その視点は、言われてみれば至極当然であり、貴重な気がする。

 航空機と飛行場は、ナイポールにとって特別な場所である。それらの場所についてとてもいい文章を残している。『インド傷ついた文明』(岩波書店)の冒頭の数ページが、私はとても好きだ。モンスーンの長引くなか、作家は深夜、雨のボンベイの空港に到着する。これから二度目(⁉)のインドの旅を始めようとするくだりだ。様々な人生の片鱗をナイポールは垣間見る。作家は到着に不安と焦燥と孤独を感じている。何度読み返しても心が動く。

 この物語は、ベネズエラのカラカスに向かう、旅客機の中から始まる。隣合わせたインド系ベネズエラ人は、トリニダードで買ってきたチャツネの瓶をもっている。彼が身につけている金の鎖は、実は、ビルの解体作業中に偶然発見した隠し金で作ったものだ、とその男、マヌエル・ソルサーノは話すのだ。シモーヌ・ボリヴァール記念金貨の隠し金とベネズエラの黄金郷伝説とがダブって見えてくる。旅の行きずりで交わした会話の中で、ナイポールはソルサーノにある差別についての物語を語らせるのだ。
 マヌエル・ソルサーノの息子は、憧れていた警官になった。ベネズエラでは、どうも警官が凛々しさと強権の象徴のようなのだ。ソルサーノの息子、アントニオは良くできた子だが、自分に似てとても内気な性格なのだ、と父親は語る。そのような息子が、どのように知り合ったのか、背の低い「小さな娘のような女」と同棲することになる。奇妙な結びつきなのだ。二年がたち、父親は二人を訪ねる。彼女は父親の前では慇懃で、慎ましく振舞うのだった。別れ際、父親は、その「小さな女の肩」に触れて戦慄する。彼女の肩はあまりに硬く、筋肉質なのだった。ソルサーノは、彼女の過酷な肉体労働の過去を確信した。肉体労働に対する侮蔑の念と、貧困への恐怖(「小さな女」は、貧困による栄養不足がもたらしたという偏見をナイポールはもっている)がないまぜになってソルサーノを捕らえた。そして、ソルサーノの衝撃は、その後の事件と不幸な屈辱の予兆でもあった。
   この後の展開は差別の話ではないのだが、ナイポールならではのリアリティ感覚が素晴らしい。……「小さな女」は、雑貨屋を営むシリア人の情婦でもあったのだ。そのことを知ったソルサーノの息子、アントニオは、「小さな女」を追い詰めリボルバーで撃ち殺そうとする。彼女は「貧しい小さな娘にとってシリア人がどんなに助けになったか貴方にはわからないでしょう」と言うと、アントニオは拳銃を打つことができなくなる。アントニオは、内気であるばかりでなく、ある種とても優しい。ナイポールは、同朋の内気と柔弱さをじっと見つめている。…彼女の言葉にアントニオの心は乱れる。今度はシリア人を撃ち殺そうとする。「小さな女」をソルサーノの息子に手引きしたのは、このシリア人なのかも知れない。シリア人を追い詰め、拳銃の引き金を引こうとしたとき、シリア人は、何か性的な侮辱の言葉をアントニオに投げる。それは人種差別の言葉ではないだろう。が、その言葉によって、アントニオはまたも発砲への怒りを挫かれてしまうのだ。殺人に至らない屈辱にまみれた物語は、これこそ生の本質である、というナイポールの呪いようでもある。

   ナイポールは、実は探検家の側面をもっている。西インド諸島を三か月旅して回る『中道』Middle Passage、1962でも、ガイドと少人数のグループでジャマイカの奥地のジャングルに入っていく。コンラッドの『闇の中』の雰囲気なのだ。私には、『闇の中』はほとんど何も理解できない難解な小説だが、ナイポールが、『闇の中』に深く魅了されている、ことは分かる。未開の自然の奥深いところへの侵入は、暴力的で反秩序的な、アーカイックな人間の自然性を呼び起こす魔力がある、のかも知れない。……この本ではインディオの案内でベネズエラの奥地へナイポールは、入っていく。作家は、ジャングルの只中で、もう自分の力だけでは文明世界にもどれない、と恐怖する。深い闇の中の野営地でナイポールは、ウィスキーを飲んでいる。ガイドのインディオの若者が、自分にもラムを飲ましてくれ、と言う。ナイポールは、これはラムではない、と拒むのだ。……ナイポールは、そして思うのだ、このインディオ達を自分が愛しいと思うのは何故なのか、と。ナイポールは、しばらく考え、この愛情はこの人々がいつまでも外の文明にふれず無垢なままでいて欲しい、という感情に他ならないのだと、納得する。ウィスキーとラムを一緒くたにしない区別と、己との違いを愛おしい、と思う感情が、ナイポールの差別についての物語の根本にあるのだろう。

naipaul.png
ヴィディアダハル・スラヤプラサド・ナイポール
癌で妻パット・ホールを亡くした二か月後、ナイポールは
パキスタン籍のナディーラ(写真左)と再婚する

   ナイポールにとって差別のない社会など考えられない。ナイポールは、差別をルールで規制すればすむ以上のこととして捉えている。そして、ナイポールは、差別を恐怖として語るとともに何か魅了されている。うまく説明できないが、ナイポールの問題提議は重大である。

   ナイポールの『小説・この世界の一つの道』はとても怖い小説だ。それは、差別の恐怖と愉悦を語るからだろう。だが、この本の非凡なところは、ナイポールが一種開放的な差別を求めていることだ。存在を抹殺する差別でなく、お互いの存在を認め合う(罵り合う)差別を排除してはならない、とナイポールは語るからだ。黒人のブレアーが言うように「我々は皆、部族民で人種差別主義者だ。そして何よりも、すぐにそのような行動をとる者なのだ」。それを認めてこそ、この世の共同体は、生命をもつ。
 

102.山中由里子『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』(名古屋大学出版会、2009年)

アレクサンドロス変相『クルアーン』“洞窟の章”における二本角
ズ・ル=カルナインが 一体誰なのか 
という錯綜した謎解きから始まる本書は
遠い初期イスラームの共同体の記憶から
様々の“書物の道”をへめぐって
中世イスラームにおける
宗教的のみならず政治的な含意をもつ
アレクサンドロス像にいたる
この大きな歴史の流れ、彷徨う表徴は
アレクサンドロスの東征にも似て
多様な諸文化の影響をとりいれながら
多元的かつ独自の文化を特長付ける
それは なにか見知らぬもうひとつの
巨大な世界の発見のような興奮をもたらす


   S. スブラフマニヤムの“テージョ河からガンジス河まで―十六世紀ユーラシアにおける千年王国信仰の交錯―”(“思想”、2002年5月号)という論文は、とても難解だが実に味わい深い。驚くべき歴史の襞、つまり見慣れた歴史の風景とは異なる歴史を想像させる。それらの記述の中で、近世初頭の千年王国信仰が、実にさまざまな思想潮流と表徴を取り入れて普遍王国を待望するという見方が興味深かった。とりわけ、イスラームの千年王国信仰にはアレクサンドロスが重要な位置をもつ。そこではアレクサンドロスが、野蛮と闘う征服者として、また、占星術をよくする予言者として現れるのだ。
   イスラームにおけるアレクサンドロスの再現前は、何とも魅力的なテーマに思える。その成り立ち、機能や広がりのことをもって知りたいと思っていた。そのような関心を気づき始めたとき『アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ』という本を知り、興奮をおさえながら読んでみた。
    この本を読むとアレクサンドロスは、スブラフマニヤムが触れている以上に、地域や歴史の異なる局面で実にさまざまな顔を現し変身してゆく。しかもアレクサンドロスの“変相”は、まことに雄大で歴史上の大スペクタクルをみるような感興を覚える。
 一例をあげると、本来は敵国の王であるはずのアレクサンドロスがイランの英雄になってしまうのだ。
    アレクサンドロス(ペルシャ語ではスカンダル)はペルシャ王ダレイオスを打ち破り、死にまでも追い詰めたはずなのに、ダレイオスの子となり、イランの英雄になってしまう。この“変相”をお膳立てするアレクサンドロスの出生譚が傑作なのだ。つまり、ダレイオスは、マケドニアの王フィリポスの娘を娶るのだが、彼女は強烈な悪臭の持ち主で(敵国の王の娘の獣性と少しの嘲笑を私は連想する)結婚後しばらくして国本に返される、だがその時すでに彼女は身ごもっていた、そしてその子、つまりアレクサンドロスは、フィリポスの子として育てられたのだ。だからダレイオスが重臣の裏切りで殺害されると、アレクサンドロスは瀕死のダレイオスに「王のこのような死を私は望まなかった」といい、ダレイオスの最後の言葉を聞きとげる。

  この本は、古代の英雄アレクサンドロスが、イスラーム世界で実に豊かな表徴として結実してゆく「書物の道」をたどる。その系統や結合やヴァリアントを明瞭に思い描きながら読み進むことは難しい。しかし、この種の学術書は、普段馴染みの少ない古典テクストを、断片的とはいえ、原文の雰囲気を感じなら読めるのがとても楽しいのだ。アレクサンドロスの遠征におけるインドへ向かうくだり、またインドの賢者との頓智問答などもそうである。
    二本角(アレクサンドロス)は、屍を食する賢者のいる島で宴に招かれる。宝石を盛った金・銀の器を示され「汝が求めているものはこれであろう。このために汝はこの世を彷徨っている。だがこんなものは飢えには何の役にも立たないのだ。我らから一体何を得ようというのか」。二本角はインドへと去る。
    インドの賢者との対話につながるこの導入部は、アレクサンドロスの望み、究極の目的を疑問視しているところがとてもいい。
インドの王の使者が現れると、二本角は「牛油」の入った鉢をおくる。使者は、それに無数の針を刺して返す。今度は、二本角がその針を黒い焼鍋に入れて送ると、使者はその鍋を磨いて返す。このやり取りを二本角はひとつの知恵くらべであると説くのだ。

    ところで、多くの民衆が、中世のイスラーム世界で、どうアレクサンドロスを思っていたかは分からない。そうではなく、極端な生真面目さで、書物に記されたアレクサンドロスの顔の変遷を、この本は検証してゆくのだ。例えば、七世紀のイエメンに生きたワフブの著『王冠をいただいた君主の書』には、ユダヤ系アレクサンドロス物語とムスリム遠征伝説の結合が見られる、と書く。また、十二世紀ペルシャの詩人、ニザーミーの『アレクサンドロスの書』では、アレクサンドロスは遠征から戻るとメッカに詣で預言者として再出発する。“史実”をあざ笑うかのような想像の跳梁に心躍るのだが、それらの“変相”をペルシャ・アラブの古典的テクストのうえに辿ってゆくことは、研究者ではない読者にとっては、ため息がでるほど錯綜している。それでもこの複雑な流れは、表徴としてのアレクサンドロスの豊かさであるかも知れない。
   少し込み入った話になるが、イスラーム世界におけるアレクサンドロスの驚くべき再現前は、実は、以下のような流れによるところを見ておきたい。
その源流は①古代ユダヤ教において神の国を齎すメシアとしてのアレクサンドロス、⓶イランもしくはゾロアスター教における善と極悪の両義的な存在としてのアレクサンドロス、あるいは③偽カッリステネスの「アレクサンドロス・ロマン」(アリストテレスとの交流物語もここに含めるべきか?) としてのアレクサンドロスがあげられる。それらの流れの中にある寓話のもつ興味もさることながら、やはり感動するのは、諸文化の混交あるいは錯綜の豊かな表情なのだ。初期イスラームの古い記憶は、しばしばユダヤ系の賢者との交流や対立に結びつく。あるいは、往時のローマ帝国におけるアレクサンドロスとアリストテレスとの交流の説話がイスラーム世界に還流する。少し飛躍して言うと、固い一一枚岩というようなイスラームのイメージ(私の無知)に修正をせまる多様なものの混交を強く感じる。
 
    逆の見方もあった。広くイスラーム世界で二本角(ズ・ル=カルナイン)と表現されるものが、実在のアレクサンドロスとは何の関係もない、という主張だ。イスラームで言われる二本角(ズ・ル=カルナイン)あるいはアレクサンドロスは、史実のアレクサンドロスとは無関係な、アラビア半島の民間伝承にすぎない、と。
    だからこそ『クルアーン』十八章、“洞窟の章”における記述が、つまり二本角(ズ・ル=カルナイン)がアレクサンドロスであるのかないのか、という考察が重要なのだ。
    この話も一筋縄ではいかない。粗筋をたどると二本角は、①アレクサンドロス、⓶ペルシャの王、③古代南アラビアの王、④神の僕、預言者と考えられてきた。十九世紀の終わり、この錯綜した議論に一応の終止符が打たれた。すなわち、『クルアーン』の二本角のくだりは、アレクサンドロスに関するシリア語のキリスト教伝説に酷似している、という発見があったのだ。この決定的に見えた説についても、その後、留保がつき修正されてきたが―シリア語のキリスト教伝説と『クルアーン』の“洞窟の章”は、親子関係ではなく、ユダヤ系伝承を親とする兄弟関係だとする―『クルアーン』における二本角がアレクサンドロスを指すのはほぼ間違いない、と著者は言う。

    アレクサンドロスは変相していく。変相とは何なのか。……大いなるものは、死しても、姿を変え甦る、いや、違う、少なくともアレクサンドロスの場合は、そう、アレクサンドロスの意志や事業が蘇ることはない。アレクサンドロスが変相して現れるのは、後世の者たちが、アレクサンドロスの伝承を利用・活用するためだ。利用・活用に悪や錯誤は関係がない、むしろ都合のよい変相の妙味を味わっていれば良い。真実価値深いのは、後世において様々に利用・活用されるほどにアレクサンドロスがゆたかな表徴に満ちている、ことなのだ。だが、この本は、その変相の表情よりはその根拠を求めている。



101.アキール・シャルマ『冒険と喜びの人生』、Akhil Sharma, A Life of Adventure and Delight, published W. W. Norton & Company, New York, in 2017.

a life of adventure
インドからアメリカへの越境作家
アキール・シャルマは 新しい短編集で
今まで以上に 強烈で かわいた感傷の物語を書く
矮小な人間どものむごい生存競争と
ルール破りや 制度に抗う悪の魅力を描きながら
人は重大な過ちを避けられない とも語る
インドの小説を読む楽しみを
あらためて感じた一冊だった




   アキール・シャルマは、八歳のとき、家族に連れられてアメリカに渡った。インドは、シャルマにとって遠い記憶のはずなのに、シャルマの物語はとてもインドを感じさせる。インドに住む作家以上に鮮烈なインドがある。
 
 アキール・シャルマの三冊目の本『冒険と喜びの人生』(2017)には、八編の短編小説が収められている。初出が“ニューヨーカー”や“パリ・レヴュー”などとなっているところを見ると、作家の評価がアメリカでも極めて高いのだと理解できる。

 八篇の小説について、思い出しながら粗筋・特長を書いてみよう。

コズモポリタン(COSMOPOLITAN)
 ゴパルが電信・電話会社を早期退職すると妻と娘がインドに去ってしまった。ゴパルは仕事もなく、友達もなく暇をもてあましている。ある日、ゴパルのところに燐家のショウ婦人が、芝刈り機を借りにくる。それから二人の交流が始まる。“コズモポリタン”紙を図書館で読み、恋愛についてのノウハウを仕込み彼女に迫るのだが……。エンジニアであるインド人移民とアメリカの離婚した下層中産階級の女性とのギャップが笑い話になっている。だが、この短編は無論笑い話以上のむごい生の現実を語っている。

寝たきりになって(SURROUNDED BY SLEEP) 
 兄がプールでの事故で寝たきりの植物人間になってしまうエピソードは、シャルマの二作目の小説『家族生活』Family Life, 2014でも書かれているので、おそらくシャルマの家族に実際に起きたことなのだろう。兄の事故と、それに伴って幻となって現れる神との対話も『家族生活』と同じだ。しかし、明らかにタッチが違う。『家族生活』では、主人公はあきらかに性悪である。兄が植物人間になって自分が両親を一人占めできるとむしろ喜んでいる。だが、この短編では、兄の看護に家族皆の気持ちが向いていて、自分がないがしろにされていることにすねて見せる。『家族生活』でのシャルマの毒は、この小説では完全に無化されている。このヒュウーマンなタッチは、“ニューヨーカー”紙への配慮か。私は、シャルマの小説では例外的に、好きになれなかった。

みんなヤツを嫌う(WE DON’T LIKE HIM)
 気のあらい乱暴者のマンシュを皆が嫌う。マンシュは主人公のいとこなのだが、早く父と母を亡くした。仕方なく自分=語り手の父が引き取って育てていた。マンシュは不幸な男の子なのだ。やがてマンシュは近くの寺院に通うようになり、パンディット(司祭)になってしまう。とても商売熱心でがめつい司祭なのだ。自分の方は、どうにか法科大学を卒業し、裁判所の前の通りの小屋(!)で法律相談の商売を始める。パンデイットと三百代言のこの対称が面白い。ところで、この小説のハイライトは、実に、語り手のマンシュへの復讐である。マンシュは妻の遺灰を(マシュの不幸は繰り返される)を川に流せない。躊躇するマンシュに、語り手は、半ば強制的に川に流させる。主人公は「何と残酷なことをしてしまったのか」と悔やむ。ただこの小説がユニークなのは、そのように語り手が過剰なほど悔やみつつも、葬儀から帰ってきて、通りの女たちがバケツで水を運んできて沐浴が始まると、自分はマンシュの沐浴を手伝ってやり、罪も穢れも悔恨もすべて洗い清められて、晴れ晴れしい気持ちになってしまうことなのだ。

あなたの歌を聞かせて (IF YOU SING LIKE THAT FOR YOU)
 こんな人と結婚するなんて最低、こんな人と結婚生活を続けるぐらいなら世界がなくなった方が良い、と思っていた彼女が、その男とセックスを繰り返すごとに、また彼の優しさに触れるたびに、彼の帰りが待ち遠しくなっていく。このあっけらかんとしたストレートさが面白いと思って読んでいると、父親が心臓発作で倒れ入院する。父親は、この娘への愛情を訴える。多くのインドの現代小説が繰り返すテーマがここでも現れてくる。不幸で寂しい父親と娘との親密な関係だ。母親が父親を許せないのは、幼い子供を亡くしたとき父親が冷淡だったからなのだ。優秀な妹(アメリカ渡る)と自分のありきたりの見合い結婚の対比も複雑だ。しかし、彼との愛情生活が憂鬱なことのすべてを遠くへ押しやってしまう。

冒険と喜びの人生 (A LIFE OF ADVENTURE AND DELIGHT)
 米国に留学中の二十四歳のゴータマが、警察の護送車に押し込まれるところからこの短編は始まる。シリアスな事態を予想する。が、売春に関わる取り締まりに引っかかっただけなのだ。拘置所で、ヒイスパニック系の青年は「オレの誕生日につかまるなんて」と嘆き、ゴーダマは白人の女性警官から「彼女たちは、君だけでなく多くの男とヤルのだよ、それでもいいのか」と説教を食らう。
 ゴーダマは、同じくインドからの留学生で、あまり美しくないニルマラと親しくなっていく。ありきたりの恋愛のコースをたどる。初めての二人のディナーでは、ゴーダマがただ食いを画策し、それをニルマラが見抜き、彼女も協力するのだが結局なけなしの金子を使かわなければならなくなるのがおかしい。二人は当然結婚しなければならないカップルとインド人社会から見られているのがゴーダマには鬱陶しい。彼は、またネットによるコールガール遊びを再開する。女が現れたら、画像の容姿よりかなり劣るといってタクシー代を払い追い返すそぶりをして値切ろう、と考える。だが、現れた女は予想をこえる美女で陶然となり、二人は実に他愛のない遊びに興じるのだ。

こころなんて (A HEART IS SUCH A HEAVY THING)
 アルンが、会ったことも見たこともない娘と結婚することになったのは二十四歳のときだった、とこの小説は始まる。ある結婚の後先を、歳時記風にたんたんと綴ったこの短編は、とても心をそそるものがある。結婚が決まると、アルンの兄は、もうお前もおしまいだ、とアルンを脅しからかう。父親はお祝い式で泥酔し嘗ての商売仲間を追い回し、乱暴をふるおうとし、式を滅茶滅茶にしてしまう。嫁となった娘は、慎みのない現代娘で、あんな娘は追い返せと衆議一決するが、スクータも洗濯機ももらってしまった以上は、彼らは警察沙汰にするに違いない、と煮え切らない。そんな嫁が皆にお茶をもって来て、家族のみんながなぜか和む。それやこれやの落ち着かない毎日のなかで、ようやく雨が(モンスーン)やってきたのだ。アルンの父は、バスに乗ると、無賃乗車で車掌に取り押さえられた少年が、突如、歌いだす。父も乗客も皆が、少年の歌を聞き惚れる。少年は「こころなんて (a heart is such a heavy thing)」と声を張り上げるのだ。

あなたはお幸せですか (YOU ARE HAPPY?)
 あの女の腕と足をへし折ってしまえ、それでもあの女はウィスキーの瓶の方へ這いずってゆく、とラクシマンの祖母は叫ぶのだった。母は、アルコール中毒になっていったのだ。初めはパーティの席で、少し度をすごしているようだったが、やがて部屋にこもり母は飲み続けた。吐きながら飲み続け、腎臓を壊し、リハビリ施設にも入った。施設から帰ってきたとき、両親と散歩をした(クイーンズだったか?)。不安で何か寂しいが幸せだった。父は、商売でインドにたびたび行き来する。親戚の農場に愛人がいるようだった。アメリカにいるときも、父はその愛人と連絡をとりあっていた。父は、楽しそうに話していた。
父が母の実家に相談したのだろうか、母の実家の方で、アル中の母を引き取ることを強く希望してきた。そして、母がインドに連れ戻されると、すぐに母がデング熱で亡くなった、という知らせが届いたのだ。アメリカにいる一人のおじさんが、デング熱でこんなに速く死ぬわけがない、怖ろしい一家だ、と言うと、祖母が、不謹慎なことを言うな、とたしなめた。母は、殺されたのだと思った。母がパーティで酔うと「あなたはお幸せ?」というのが口癖だった、のを思いだした。

万事快調 (WELL)
 語り手は、小説の始まりで父にピッツァを投げつけられ、小説の最後で母親に平手打ちを食らう。その理由は、いずれもとても切ない。
 語り手は、会計事務所で働いている。ブロンドで美人のビスティは、とりわけ男に愛嬌が良すぎるので女性の社員からは嫌われている。プロのフットボール選手とデートに行ってからは、男性からも嫌われるようになった。週末の飲み会で、彼女が飲みすぎると、語り手が彼女を送っていくようになったのだ。初めは、相手にもされなかったけれども(インド人だから男のうちに入っていなかった、という自己認識を語り手はもつ)、やがてキスを許すようになり(語り手は辛抱強く努力をした)、とうとうセックスをするようになる。ビスティは妊娠を恐れていた。しかし、不思議なことに、コンドームを付けずにセックスをするのだった。
 新しい生命がビスティに宿った。語り手が、結婚を申し出ると、ビスティは、他の選択肢がないと諦めた風で、結婚を承諾した。語り手は、母親と結婚祝いの宝石を買い求める。だが、いよいよ正式な結納の場面で、ビスティは、宝石を突き戻すのだ。語り手は、そのような予感をもっていた。ビスティは、語り手の付き添いを拒み、一人で病院に赴き子供を堕ろす。彼女にとって、堕胎は一度目でなかったのかも知れない。
 多くのヒンドゥー教徒の家がそうするのかどうか分からない。だが、語り手の一家は、郊外のヒンドゥー寺院に赴き、早すぎた生命の死の弔いを行うのだ。パンデイット(司祭)は、子供の名前は、と聞く。名前はないのです、と語り手は答え、思わず嗚咽する。何と自分は、身勝手で無責任であるのかと後悔する。パンデイットは、分かりました、それではその子を「赤ちゃん」と呼びましょう、と言ったのだった。

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アキール・シャルマ Akhil Sharma
1971年 デリー生まれ

   シャルマの小説の特長は一体何なんだろう。とてもインド的なものを感じるのだけれども、それはどう言葉で表せるのだろうか。シャルマの小説のさまざまな場面が頭の中を駆け巡る。セックスとアルコール飲酒が重要なのは分かるのだが、問題はその向こう側にあるインドと人間だ。シャルマの小説においては、悪が輝いて見える。悪は、甘ったるい人間の善性への信仰を打ち砕く。そして、人が生きてゆくことはむごく、怖ろしく、重大な過ちを免れない。その時、人々にとって、幸福とは一体何のことだろう。

   シャルマの小説をもっと読みたいと思うのだが、シャルマは寡作で、今のところこの短編集を含めて、三冊の本しか読めない。


100.アミット・チョウドリー『カルカッタ』、Amit Chaudhuri, Culcutta: Two years in the City, published by Alefred A Knopf 2013.

culcatta_20170805142628cb7.jpgアミット・チョウドリーの『カルカッタ』読んで
要約を作ってみた
それは 実に楽しく 感動を新たにする作業だった

物乞いの女と薬を買いにゆくチョウドリー
カルカッタの左派州政府が終わるとき
ある中産階級一家の没落
グロウバラゼイションの到来と本格料理の時代
召使たち それは盗みと若すぎる死
そしてカルカッタの魅力について考える

要約は 要約した本人にとってのみ
しばしば 発見の喜びがある
私にとって 『カルカッタ』という本は
通り一遍のインド理解のはるかむこうを
指し示す



§1.おおカルカッタ!

   父親は、1941年、カルカッタで勉学に励んでいた。父は、もう一人のチョウドリー、ニロッド・C・チョウドリーと同じ学校で勉強していた。父の小さな勉強部屋、通った安食堂を、思う。人ごみのカルカッタで父は疲れていた。日本軍がカルカッタを爆撃した。(本当か?知らなかった。)
   それから父は、会計士の資格をとるためにロンドンに渡る。あとから母が合流する。母は身ごもってカルカッタに戻ってきた。母には頼れる身内がいなかった。義理の祖母が母を見なければならなかったのだ。厳しい五月に私は生まれた。(それは酷暑の季節。)

   カルカッタ北部の嘗てのブルジョワたちの屋敷の跡を歩くのが好きだ。たとえばシャデルナゴル(カルカッタ中心部から北へ二十数キロ)はとてもフランス的な街なのだ。フランス窓がやってきたのは、デュプレックス(1697-1763)が英国と覇権を争っていた頃。あのフランス窓の残骸を手に入れられないだろうか。
3500ルピーでフランス窓と扉を買った。預ける場所も人もいないのに。

   二十世紀の初めデリーに首都が移転し、カルカッタの凋落がはっきりした。
   インドの新政府は、カルカッタの港湾特権を奪った。
   ワーラーナシーとカルカッタは似ている。死後の世界に繋がっているから。
   年老いた親たちの街、両親の晩年を共にすごし見送るために、輝かしい仕事を中断し、多くの者がカルカッタに帰ってくる。

   カルカッタは遊びと自由を可能にする街だ。詩は日常の風景を変えるもの。カルカッタは詩なのだ。それは日常からの解放を意味している。そして人々はここで憩う。憩うことについてタゴールは歌った。『自由の歌』Freedom Song, 1998のブゥハシュカールにしても、政治と芝居は切り離せない。(カルカッタの政治も詩に近い。)……私は、ずうっとカルカッタについて書いてきた。

§2.物乞いと薬を買いに

   英国から帰ってきてパーク・ストリードを再び歩いたときの感激が忘れられない。私は、カルカッタにいればそれだけで幸福なのだ、と思った。故郷でも異郷でもない、戻ってきたという感覚。
   オックスフォード書店のところに屯している女の子は、赤ん坊のときから知っている。少女は、川向うから毎日歩いてやってくるのだ。

   クリスマスの七日前、幸福そうな賑わいのなかの人々と物乞いたち。この独特なつかのまのエネルギーの横溢が好きだ。若い女がこの子に薬を買う金を恵んでくれと言う。私は、金ではなく、薬を買ってあげよう、と返答する。どうしてハウラで物乞いしないのか、などと会話をしながらジェー・ピー・メディコという薬屋に辿りつく。しわくちゃの紙切れにはとくべつな薬ではなくビタミン剤が処方されていた。彼女の名前は、ボビー・ミシュラといった。物乞いにすこしずつ気押しされつつ、私は、子供に路上のチョーミンを買ってやった。私は、路上で商いされるチョーミンを食べたことがない。

§3 カルカッタの左派州政府
 
   カルカッタをダメにしたのは、英国と左派政権(インド共産党マルクス主義派)だというステレイタイプを長いこと聞かされてきた。左派政権は、生活の質を大幅に向上できなかったとしても教育水準は確実にあがり、さらにマイノリティにもっとも寛容な社会を作りあげた。ホームレスがホームレスに食事の世話をするような街をつくったのだ。カルカッタの停滞・時代遅れには理由がある。つまり、市場主義経済への抵抗があるからなのだ。だが、大きな選挙を前にしてカルカッタの左派州政府は自らが作りあげたものにとらわれていた。

   州政府商業・経済商大臣のニルパム・センNirupam Senに、人のつてをたよって会いにゆく。センは、マルワリ(グジャラートに出自をもつベンガルで有力な商業者集団)で、彼が独身なのは、政治への献身を表している。センは、ジャーナリストにたいしては、愛国者としてふるまった。センは、イデオロギーで人を見ない。そして彼も、ベンガルにおける経済改革の必要性を感じていた。タダの大衆車ナノは、実は、センの発案だった。ナノの無残な流産が頭をよぎった。「チョウドリーさんは、社会にたいする責任以上のものを望むのですね」とセンは言った。

   2009年の州議員選挙で左翼=インド共産党マルクス主義派は後退し、2011年の選挙で決定的な敗北を、つまりベンガルの現実政治からの退場を宣告されたのだ。
選挙から半年が過ぎ、ベンガルが変わり始めた。
   毛沢東派の武装グループのリーダー、キシェンジKishenjiがカルカッタから100キロメートルの森の中で殺害された。キシェンジの母親がテレビのニューズで泣いていた。キシェンジは、ブラフマンの貧しい村の出身だった。数学と法科の学位をもっていた。

§4 ムカルジー家の没落

   私の小説『自由の歌』についての批評は散々なものだった。例外は、アニタ・ムカルジーで、彼女は、私の書くカルカッタが好きだと言ってくれた。そんな彼女から私はお茶に招かれた。彼女の顔の表情には独特のやさしさがある。彼女は、立ち上がって私たちを迎えられないことに恐縮していた。アニタは、天然痘の後遺症で立てないのだ。彼女は、自分の紅茶には手をつけない。礼節なのか、すでに紅茶を飲んでいたのか、分からない。
   アニタ・ムカルジーは、ヴィクトリア朝時代の英語を喋った。そのような古い英語が生きながらえているとは。アニタの古式な発音は、妻に、彼女のおばを思いださせ、妻は興奮し、しきりに懐かしがった。

   アニタの息子サミルダは、ケンブリッジ帰りだった。サミルダのヨーロッパは、私の知るヨーロッパと違っていた。彼の妻は英国人とのハーフだ。彼のようなカルカッタの教育のある中産階級をブゥハドゥラロクゥbhadralokと言う。彼は、英国から戻ると大手鉄鋼会社の購買部長を勤めるのだが、野望はなく、出世にはあまり関心がなかった。というより、サミルダは、“エンカウンター”紙を購読するような男だった。

   そのようなサミルダも、六十年代に入ろうとする頃、天然痘に感染する。
   初めて彼に会ったサミルダは引きこもりがちだった。が、たまにクラブに顔をだすのだとも言った。クラブについて、彼は饒舌だった。サミルダは、クラブの上客だったのだろう。しかし、クラブの階段がうとましくなっていた。サミルダは不思議な幸福感をもつ男で、リハビリには不熱心だった。

   ムカルジー家は、八十年代の後半、厄介な訴訟に巻き込まれてゆく。その訴訟を起こした慈善事業団体は、世間でいわれているほど優しくなかった。サミルダは訴訟で神経をすり減らし消耗していた。
   多くの者が「投資」に浮かれていた九十年代、サミダルは投資顧問なる者に騙される。サミダルと母にとって辛い時が続いた。彼らは、即座の救済を必要としていた。思い出の茶器が、ルイスダールの絵が、テーブルも時計も、母からの贈物だった宝石も売らなければならなかった。とうとう彼らは住み慣れたアパートから引っ越さなければならなくなった。引っ越し先のアパートからは、なかなか良い眺めが望めた。父の同僚が住んでいたので知っている。引っ越しして数か月たつと、アニタ・ムカルジーが亡くなった。

§5 本格料理の時代

   ボンベイは商売の街、デリーは政治と権力の街、とするとカルカッタは、何の街になるのだろう。カルカッタは、「夕飯を家でとりますか」の一言のために存在する。ベンガル人の立ち話は、天気の話からかならず食べ物の話になる。

   カルカッタの中産階級の人々にとって、中華料理は長いこと楽しみのひとつであった。思い出の中華料理屋の数々が思い浮かぶ。チョーリンギーにあったあの中華料理屋は何といったか。妻もその店の名前が、ここまで出かかっていて思い出せない。(記憶のなかでだけ存在する店。) 電話をかけまくって聞く。そう“南京”だったのだ。

   グロウバラゼイションとともに「本格的」な中華料理やイタリア料理がカルカッタにやってきた。しかし、インドで、外国人シェフが活躍するのは難しい。タジ・マハール・ホテルの中国人シェフは、今どこにいるのだろう。

   評判になったパン・エイジアという店にしても、最初たべた日本風の緑茶のアイスクリームに感激したが、再度訪ねると、何か味が変わっていた。パン・エイジアは、当地の人々に受け入れやすい味覚に迎合していったのだ。
   評判のイタリアン・レストラン、“カーサ・トスカーナ”の受付嬢は、聞いてみるとクロアチア出身だと言った。(これは、カルカッタのやりかたでなく、きわめてインド的なやりかただ。何か調子の狂った辻褄あわせだ。)

   インドの人々は、ローカルの食材を高級とは見做していない。彼らは、生のオリーブの実を好まない。二百年前の英国人作家の果物に関する記述が蘇る、ここの果物はみじめなものです、と。それでいて、インドの人々は、食に関して極めて保守的である。チーズすら味わおうとしない。ヒンドゥー改革派があえて肉をたべようとしたのは、遠い昔の話なのだ。

   ウイリアム・ジョーンズのアジア協会の地に、新しいホテルが建てられてゆく。それはカルカッタの変化を先取りしている。……タジ・ホテルのレストランで、品書きに生姜のプリンを見つけたのだ。懐かしい好物を発見して小躍りした。注文したのだが、それは生姜のプリンではなかった。ボーイに「これは生姜のプリンではない」と苦情を申し述べる、ボーイは「これは生姜のプリンに間違いございません」と繰り返す。とうとうシェフが現れ「もう本当の生姜のプリンを誰も望まないのです」と申し訳なさそうに言う。(愛おしいカルカッタが流失してゆく。) それを人々はニュー・インディアの到来と呼ぶ。

   ハイヤット・ホテルのイタリア人シェフ、カナツィにコーヒーショップで話を聞く。彼は、サルジニア島生まれ、トスカーナで育った。カナツィはとても困難な仕事をやりとげた男だった。彼のイタリア料理を現地化させずに常連客を獲得できたのだ。
   ミシュランのスター・シェフ、カナツィは驚くべき率直さで語る。インドとイタリアはすごく似ている、と。イタリア料理とインド料理は、別者とは思えない、と彼は続ける。ウイリアム・ジョーンズが、インド・ヨーロッパ語の同族性の根本を探りあてたのと似ている、と思った。(料理の世界で、カナツィが、食の根源を非妥協的に暴こうとしている。そうして、彼のイタリア料理は、インド化することを免れ、かつ顧客を得たのかも知れない。)
   カナツィは、別れ際に、是非ディナーを食べにきてくれ、と言った。(それは、商売の言葉というより共感の言葉だった。)

§6 召使たち

   彼らは朝早く、郊外のいろいろなところからやってくる。若いラージャは、アパートの住人の車やドア・ベルを綺麗にしてまわる。父の介護人カマラの朝も早かった。彼らは自由の気概があって威厳がある。彼らには気をつかわなければならない。季節の贈りものも必要だ。ちょっと注意したいのは、彼らをチョカールchakorとは呼ぶべきではないということだ。その意味は、使用人に近く、とるにたらぬ者、蔑みが入っている。そのようにではなく、単純に「働く者」カアジェル・ロクkaajer lokと呼ばなければならない。
   彼らは、ある日突然いなくなって、また突然帰ってくる。彼らは、彼らを居ずらくした村で自然災害や選挙があると、予定を変更して帰ってこなくなる。だが、また何かをきっかけとして、まるで何もなかったように帰ってくるのだ。

   ラキという女性の料理人は、気の利いた料理ができるだけでなく、造語の名人だった。飲み水に使う浄化水を「川岸の井戸水」と言ったりした。その彼女が遅れてやってくるようになった。他のアルバイトのためだった。そして、彼女がいなくなった。二年すると彼女が突然戻ってきた。彼女は、絶対に謝らない。今度は、金の装飾品がなくなった。母がすごく悲しんだが、警察には届けなかった。また、ずいぶん沢山の油や小麦粉がなくなる(消費される)もんだと話していたら、妻はラキが食料品を持ち出すところにでくわし、ラキを解雇しなければならなかった。私は、ラキを可愛がったし、彼女も私たちを好いていた。ラキとの関係が途絶えたかに見え彼女の存在が遠のいてゆくなか、ラキが長女の結婚式に私たちを招いてくれた。私たちは嬉しかった。私たちは、彼女の長女の結婚を喜んだ。ラキが再び私たちの料理人として働くようになってから、彼女がまた突然消えた。グトゥカ(パーン)中毒のラキのダンナがガンを患い亡くなったのだ。十日もすると、何もなかったように彼女は帰ってきた。
   ラキが小さな子供を連れてくるようになった。孫だった。末娘の夫が失踪したのだ。初め人見知りをしていた子が、次第に大胆に行動するようになった。居間に進入し居座るのだった。小さな専制君主に私は苛立ちながらも、(どこか憎めなかった。)。ラキは、孫が私の仕事の邪魔をしていることを理解していた。私は強い調子で「その子を学校に通わせなくていいのか」と彼女に迫った。実際、私もつてをたよって施設を捜したのだ。ラキは、「私ももう五十(歳)だ」と嘆息して言った。私は「とうに五十は越えている、私が四十九なのだから」と言い返し、自分自身がそのような歳になっていることに驚いた。ラキはたまたま職にあぶれていた女を自分の代わりに送りこんできた。孫の学校が見つかったのだ。

   ベンガルでは、女の子もすごく可愛がれる。インドの他のすべての地域で、男の子の誕生のみがもてはやされとしても、だ。
   シャンパルさんは、ディグハという有名な海岸リゾートでホテル(食堂)を営んでいた。母は、シャンパルさんをたよりにしていた。彼は、食堂のかたわら人の斡旋もしていたのだ。どうしても人手が必要なことをシャンパルさんにいうと、彼は自分の十五歳の娘を送ってよこした。母と妻は、そんな少女を働かせることはできず、読み書きを教えていた。彼女の良くない咳が家族には気になった。医者につれてゆくと医者の見立ては結核で、楽観できるものではなかった。父親が迎えにきて十日間で娘のシャンパは帰っていった。
   初めて私がシャンパにあったのは二年前だ。その時、やはり結核で亡くなった私の音楽の師と同じ兆候を私は感じた。妻がシャンパを医者に連れていった。医者は、治療が適切になされていない、と言った。医者の処方箋はいささか大仰に思えたが、ことの重大さを語っていた。薬代は妻が一年間支払った。父親が、地域の病院の無料医療に切り替えるまで続いた。
   結核は過去の病気のように思われがちだがそうではない。耐性菌による新手の結核は、少しでも治療を怠れば死に繋がる。……実は、シャンパの結核が十歳の自分の娘に感染していないか、私は心配していたのだ。娘は時々咳き込むことがある。杞憂だった。ただ、娘の咳がアレルギー性のものだと分かるまでに随分時間がかかったのだ。
   その後のシャンパのことを私はほとんど知らない。でも、彼女を忘れたわけではない。シャンパは本当にかわいげのある子で、年老いた母に時々電話をかけてきて母の話相手になってくれていたからだ。その娘が結婚するのだと知らせてきた。私たちは大いに喜んだ。結婚、すなわち結核の治癒を無意識に思ったからだ。
   シャンパのような気立てのよい、控えめで綺麗な庶民の娘は、将来のさまざまの可能性を軽く投げ捨て、さっと結婚してしまう。そしてすぐに子供を産み子育てに埋没する。ダンナが酒飲みでなく真面目に働けば、それなりの生活はできる。しかし、多くの場合そうではない。シャンパも水汲みの重労働をしなければならなかった。
   母がシャンパルさんに電話すると「シャンパは逝ってしまった、彼女はもういない」と告げられる。母は、唇を震わせながら私たちに繰り返した。シャンパは十九歳だった。

 
§7 ああ!カルカッタ

   それは年にほんの二度、三度のことなのだけれど、ミニ・マシにしばらく会っていないなー、と思うことがあった。ミニ・マシは母の古くからの親友だ。彼女が発作を起こし、今度ばかりはショブハバザールの介護病院に入ることになった。

   ショブハバザールは、北カルカッタのもともとはベンガル・ルネサンスの土地柄だ。つまり、いかがわしい者たちが財産を作ったところなのだ。新興成金は、そこに屋敷を建てた。それら成功者たちの息子や孫が詩人や芸術家になっていった。
ベンガル・ルネサンスのそもそもの始まりは、あの髭の肖像画のラーム・ローハン・ロイに始まる、と私は思っている。カルカッタのブラフマンの知識人は、カーリダーサの翻訳者ウイリアム・ジョーンズなどの西欧人との接触を通じて自らのアイデンティティに目覚めていったのだ。だが、ベンガル・ルネサンスもブゥハドゥラロクゥ(Bhadralokベンガルの高等遊民)も誤解されてきた。キップリングには、カルカッタの現代性を理解できなかった。

   カルカッタの現代性とは、新しさということではない。(その現代性は自由に少しばかり似ている。) ジュリアーニ市長とグロウバラゼイション以前のニューヨークでその自由を私は再体験した。そして、ベルリンのユダヤ人歴史博物館で、その現代性とは人々の平凡さであることを確認したのだ。
ベンガルのモダニストはヒンドゥーの神々をしりぞけた。宗教を持たない新しい世代の到来なのだった。(おおいなる平凡の時代がやってきた)。

   母をつれて、母の古い友人を介護病院に訪ねてゆく。開発の対象になっている北カルカッタなのだが、いまのところグロウバラゼイションの圧力は感じられない。
ミニは半分眠っているようであり、半分覚醒しているようだった。彼女は、私を認めると真実驚いたのだった。
   彼女も母と同じくシルヘット(現バングラデシュ北部の都市)からやってきたのだ。
シルヘットの人々は、今や世界中に四散して働いている。一種のコズモポリタン、根なし草だが、本好きで文化・文物を愛しむ者が多い。彼らの訛りは明瞭で、彼らのジョークはとびきり辛辣だ。タゴールの詩を替え歌にして楽しんだ。
   ミニは、私たちが訪問した四日後に亡くなった。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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